軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第26話 父が呼んだ、正しく——だから余計に腹が立つ

朝から空気が違った。

使用人の歩調が2分早く、廊下を行き来する視線が全部、門の方向へ偏っていた。昨夜の帰り道、門番の声を思い出す。伯爵家の紋章旗が見えた、と。リュゼリカの蕾が風に揺れる中で聞いた言葉は、夜の間も消えなかった。

温室の乾燥棚を確かめながら、窓の外へ目をやった。

石畳の向こうに、もう旗が見えていた。

金地に赤の縁取り。ヘルダ伯爵家の紋章だ。馬車が2台続いている。護衛の数が少ない。少ないほうが、逃げ場がなくなる。父はそういう計算を、無意識にする人だ。宮廷で20年やってきた人間の、体に染み付いた論理だった。

私は薬草束を棚に戻した。今日は届け物の日ではない。

「お嬢様」

振り向くと、ベルタが後ろに来ていた。手に薬草の束を持っている。山ヒルガオと辺境ハーブを丁寧に束ねたものだ。乾燥が均一で、色が落ちていない。昨日私が整えたものだった。

「持っていってください」

「……何に使うの」

「正装です」

私はベルタを見た。本気の目だった。

「辺境では、実績が正装になります。お花より重みがあります。まずそれをご理解いただかなければならない相手には、これが一番です。お嬢様が5年間かけて積んだ仕事の証明です。手の染みはその次に見ていただければ」

笑いそうになって、止めた。止めながら、少し楽になった。こういう理屈を真顔で差し出せるのはベルタだけで、それが今朝には必要だった。

「持っていくわ」

束を受け取った瞬間、外で馬蹄が石畳を踏む音が止まった。門が開く気配があった。

父は静かに入ってきた。

濃紺の外套、金の縁取り、一切の無駄がない身のこなし。宮廷の人間は歩き方からして違う。無駄な動きをしない。視線が場所を査定しながら動く。父の目が庭を1度流れて、使用人の配置を確かめて、それから私のところで止まった。

私の隣に、カイが来て立った。気づかなかった。声をかけてきたわけでもなく、いつからそこにいたのか分からないまま、ただ横に立っていた。

父が私を見た。

「ミラベル」

足が止まった。

正しい名前だった。「マリエル」でも「娘よ」でもなく、「ミラベル・ヘルダ」の前半部分を、1音も違えずに。

おかしいと思った。

おかしいと思うことの方がおかしかった。父が娘の名を知っているのは当然だ。当然のはずなのに、今その「当然」が、何か別のものに見えた。

5年間。宮廷で私は誰にも正しく呼ばれなかった。文官も侍女も薬務官も殿下も、誰も。父が見送りに来たときに何と言ったか、今は思い出せない。伯爵家から届いた手紙の宛名は「娘へ」と書いてあった。個人名がなかった。

――つまり、知っていたのだ。

正しく呼べる名前を、ずっと持っていた。それなのに使わなかった。使わないことで私が「マリエルの代わり」として収まることを、分かっていた。

怒りかと思ったが、違った。もっと静かで、もっと冷えたものが、胸の底に沈んだ。名前を正しく呼ばれた瞬間に喜べないことが、何より残酷だった。

「ご機嫌よう、お父様」

礼を崩さずに答えた。崩したら負けだ。この5年で学んだことの1つだ。怒りは声に出した瞬間に道具を取られる。

父の視線が、私の手元に落ちた。薬草の束に、1秒だけ止まった。何も言わなかった。査定の沈黙だ。

カイも何も言わなかった。ただそこにいた。それが今日、いちばん助かることだった。

父が居室へ案内されるまでの廊下を、私は3歩後ろで歩いた。

父の背中は変わっていなかった。1度も背筋が曲がらない。この背中を見て育った、と今さら思う。宮廷でも、領地でも、食卓でも、この人の背中はいつも同じ角度だった。感情を削ぎ落としたあとの姿勢だ。

客間の扉の前で、父が振り返った。

「条件がある。書面で届けてある」

「承知いたしております」

「10日、待つ」

それだけ言って、父は中へ入った。扉が閉まる音がした。

廊下に残ったのは私とカイだけだった。しばらく誰も動かなかった。

「条件書は」とカイが静かに言った。

「今朝届いていると聞きました。まだ開いていません」

カイが頷いた。少し間があって、懐に手を当てた。そこで止まった。

何かを言おうとして、やめた。そういう止まり方だった。

私は見ていたが、聞かなかった。

条件書は白かった。

折り目が丁寧で、余白が不自然なほど大きく取られていた。3項目。1行ずつ、感情を排した言葉だけが並んでいる。

第1条、顧問職の家名義化。

第2条、婚約申請の家窓口化。

第3条、記録・報告書類の家帰属。

3条、全部が同じ方向を向いていた。「名前を家の後ろへ戻せ」。方法だけが違う、1つの命令だ。

宛名が目に入った。「ミラベル・ヘルダ殿」と書いてある。父の手紙には個人名がなかったのに、条件書には正確に入っている。使いたいときだけ、使う。そういうことだ。

窓の外で木立が揺れた。辺境の夕方の風は、王都より少し低い音がする。

私はもう1度、最初から読んだ。読みながら思った。これは感情で返すものではない。感情で返せば、父に「感情的だ」と処理される。根拠が要る。1条ずつ、「なぜ呑めないか」を言葉にしなければならない。

廊下に出ると、カイがいた。書類を持っていた。

「読みましたか」

「読みました」

「1つ、確認したいことがあります」

懐に手を当てた。また止まった。今度は1秒より少し長く。

聞こうとした。持っているのは何ですか、と。

聞けなかった。

答えを知るのが、少しだけ怖かった。