軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第23話 慣れてしまった自分が嫌だったと、ようやく声に出した日

私は5年間、怒らないほうが楽だと思っていた。

怒れば疲れる。問い詰めれば、説明しなければならない。説明したところで、宮廷の誰もが私を姉の代わりとして見ていた事実は変わらない。ならば薬が届くことだけ考えたほうがましだ。そうやって、怒りを後回しにし続けた。後回しにしているうちに、怒りがなくなったのだと、たぶん思い込んでいた。

けれど、なくなっていたのではなかったらしい。

乾燥室の棚を見上げる。朝の光が斜めに差し込み、束ねた薬草の影を長く落としている。昨日の続きで在庫を数えているのに、数字が頭に入ってこない。手は動く。結ぶ。揃える。書く。そういうことは体が覚えている。だから余計に腹が立つ。5年間、こうして働いてきた。誰が何も見ていなくても、私はずっと動いてきた。その5年間を、今さら封筒一通で向き合いに来ましたと言われて、はいそうですかと受け取れるほど、私は綺麗に出来ていない。

棚から一束下ろしたとき、指先が少し強く茎を折った。乾いた音がした。私はその小さな音に驚いた。怒っている人の手つきだと思った。

そのとき、背後から足音がした。振り返ると、姉様が入口に立っていた。白い手袋は今日はしていない。素手の指先が、少しだけ赤い。寒いのか、緊張しているのか、その両方か。

「ここにいたのね」

「ええ」

それだけで済ませるつもりだった。済ませたかった。けれど、姉様が一歩だけ近づいて、何かを言う前の顔をした瞬間、5年間の少しだけ嫌だったが、一気に形を持ってしまった。

「姉様は知っていたのですか」

自分でも、驚くほど静かな声だった。

「あなたが消えても、誰も正しい名前で呼ばなかったことを。姉様がいなくなって3年も経っていたのに、私はずっと姉様のままだったことを。……それでも、見ないふりをしていられたのですか」

姉様の顔が白くなった。泣かれるかもしれないと思った。でも、その予感より先に、私はもう止まれなかった。

「私は、慣れてしまった自分が嫌だったんです。少しだけ。ずっと、少しだけ。でも今日だけは、その少しで済ませたくありません」

言い切った瞬間、膝が少しだけ遅れて震えた。

ようやく私は、自分が怒っていたのだと知った。

姉様は出ていかなかった。

それがいちばん予想と違った。泣かれると思っていた。あるいは、静かに詫びを言い置いて引くと思っていた。だから、姉様がそこに立ったまま、私の言葉を腹の中へおさめているのが、むしろ困った。怒りは、ぶつけた先が崩れることで少し楽になるものだと思っていた。姉様は崩れなかった。

長い沈黙があった。乾燥室の棚が、隙間風で低い音を立てた。

「……知っていたの」

姉様が口を開いた。謝罪でも言い訳でもなく、確かめるような一言だった。

「あなたの名前が消えていたことを、知っていたわ。薄々。——だから来られなかったの。来れば全部見えてしまうから」

私は答えなかった。代わりに手が動いて、棚の束を一つ手に取った。手を動かしていないと、目の奥が怪しくなりそうだった。

「見ないふりをしていた姉に、怒る権利はないのかもしれない。それでも——」

姉様が懐に手を入れた。取り出したのは、折り畳まれた一枚の紙だった。

「これを、あなたに返したかったの」

受け取る前から分かった。紙の色、折り目の入り方、角の擦れ方。私が何度も扱ってきた類の紙だ。手が先に知っていた。

発注書だった。差出人欄に姉様の名が入っているのに、本文の字は私のものだった。癖のある、少し急いだ字。備考欄の細かい補足。数字の揃え方。どれも、姉様の書き方ではない。

「一目で分かったわ、誰が書いたか」

声がかすかに揺れた。

「これを見たとき、もう知らないふりはできないと思ったの。でも、見なければよかったと思わなかったとも言えない。そのことが、いちばん卑怯だと自分でも分かっている」

正直だった。その正直さが、思ったより深く刺さった。

怒りを言葉にしたら楽になると思っていた。楽にはなっていない。怒りに形がついた分だけ、持ち運ぶのが違う重さになっただけだ。棚の薬草が静かに揺れた。乾いた葉の匂いが、いつもより濃く感じた。

私は紙を受け取った。自分の字が、自分の手の中に戻ってきた。返ってきたのか、渡されたのか、あるいは証拠を手渡されただけなのか——名前はまだつけられなかった。

姉様が少し体重を移した。出る気配だった。

「父が来る前に、もう一度だけ話せる?」

「……考えます」

それだけ言えた。拒絶でも、受け入れでもない。姉様は小さく頷いて、乾燥室を出ていった。

扉が閉まった。

私は発注書を握ったまま、しばらく動けなかった。怒りを言葉にすれば何かが終わると思っていた。終わらなかった。ただ、怒りが自分のものとして在る——ということだけが、今は分かった。最初からそうだったのに、認めるまでに5年かかったのだ。

そこへ、入口で足音がした。

「……カイ殿」

「外にいました。入りませんでした」

短い答えだった。それ以上でも以下でもない。カイは扉の枠に手をついたまま、中へは踏み込まなかった。私の顔を一度見て、次に手の中の発注書を見た。何も聞かなかった。

「聞こえていましたか」

「少し」

その「少し」の重さを、測りかねた。全部ではない。けれど何も聞いていないわけでもない。その曖昧さは逃げではないと分かる。ちょうどよい距離を、この人は計れる。

「……怒りは」

静かな声だった。

「余計ではありません」

喉の奥で何かがつかえた。ありがとう、と言おうとして、それが違う気がした。ありがとうと言うには、まだうまく受け取れていなかった。でも、聞こえた。それだけは確かだった。

一拍置いてから、私は口を開いた。

「……この書類を、正式に保管しなければならないとしたら、どうすればいいですか」

カイの視線が変わった。視線を落として、また上げる。その一拍に何かがある。

「よければ、今日のうちに私に預けていただけますか。正式な保管先へ移します」

正式な、という言葉を選んだ。感情ではなく、制度の言葉として。この人が「正式」と言うとき、ただ片づけたいわけではないことは知っている。

私は発注書を差し出した。カイはそれを受け取り、手帳に挟んだ。

押し花の隣に、私の字が入った。

カイが去ったあと、私はしばらく乾燥室に立っていた。棚の薬草の束が、数えるときとは違う目に映る。誰も見ていなかった5年間。それは、今日姉様に返してもらったのではなく、最初から私のものだった。ただ私が、ずっと手放したふりをしていただけだった。

夕刻、温室の前を通ったとき、ガラスの向こうに光が残っていた。

入る用はなかった。それでも足が止まった。怒りが言葉になったあとに残るものが、こんなに重いとは知らなかった。誰かの隣を少しだけ欲しがってもいい夜もある、と思った。

その言葉を、まだ声にはしていなかった。