作品タイトル不明
第21話 境に、5年分の借りを持つ人が来た
姉が辺境に来ると知ったのは、門が開いたあとだった。
朝の空気はまだ冷たく、門番が外套の襟を指で押さえながら来訪名簿を読み上げていた。薬草の納品馬車か、王都からの書簡か、そのどちらかだと思っていた。だから、ヘルダ伯爵家の紋章が入った馬車の横から、白い手袋の女が降りてきたとき、すぐには誰だか分からなかった。
分からなかったのに、胸だけが先に知ってしまった。
マリエル姉様だった。
3年前から療養のため領地に下がり、私より先に社交界からも宮廷からも消えたはずの姉が、辺境の朝の門前に立っていた。王都の花の香りではなく、長旅の乾いた匂いをまとって。相変わらず綺麗だった。綺麗なのに、前より少しだけ薄く見えた。肌の色も、息の置き方も、以前よりずっと人間のものに近い。
ベルタが、私の半歩前に出た。
「お嬢様」
たしなめるより先に、姉様がこちらを見た。その目が私を通り過ぎなかったことに、少しだけ腹が立つ。今さら、と胸のどこかが言った。
「……ミラベル」
正しく呼ばれて、私は返事が遅れた。
返せなかった理由は、声ではなく、その手にあった。姉様は白い封筒を持っていた。余計な飾りのない、ただの手紙用の薄い封。けれど、そこに書かれた宛名だけが妙に鮮やかだった。
ミラベル・ヘルダ様。
私の名前だった。正しく、ひと文字も違わず。見慣れているはずの自分の名前が、他人の手でそう書かれているのを見るだけで、喉が狭くなることがあるらしい。しかも、その封筒には、一度だけ書き損じたような薄い跡が残っていた。削ったわけではない。けれど、最初の一画を置く前に躊躇した人の迷いだけが、紙に滲んでいる。
知らなかった人の手つきでは、ない気がした。
門の外では、馬が軽くいなないた。屋敷の中では、朝の乾燥棚を運ぶ音がしている。辺境の日常はもう動き始めているのに、私の時間だけが門前で止まったままだった。
姉様は封筒を握り直し、静かに言った。
「父の命で来たの。でも、それだけではないわ」
そのそれだけではないを、私はまだ信じる気になれなかった。
応接室に通した理由は、礼儀のためだった。追い返す理由は幾つもあった。父の名を借りた来訪であること、事前の連絡もなかったこと、辺境での私の居場所に家の空気を持ち込まれたくなかったこと。それでも追い返せなかったのは、あの封筒の宛名を見てしまったからだと思う。正しい名前が、たとえ遅くても、そこに在った。それだけのことが、足を止めた。
「あなたがお嬢様の苦しみの元凶ですね」
ベルタが、茶を置きながら言った。笑顔のまま言ったのが余計に効いたのか、姉様は唇を引き結んで、しばらく何も言えなかった。
「……その通りかもしれないわ」
ベルタは「当然です」とだけ言って引っ込んだ。入口の陰で待機しているのは分かっている。廊下の外側にカイもいるはずだ。同席の要否を聞かれたとき、私は「要りません」と答えた。「でも、屋敷にはいてください」と付け加えたのは、うまく説明できないが、そうしないと落ち着かなかったからだ。
姉様は手袋を膝の上で揃えたまま、外してはいない。謝る人の手ではなく、まだ訪問する令嬢の手のまま、ここへ来たということだと思う。それが自覚的なのかそうでないのか、私には分からなかった。
「父が、こちらへの根回しを頼んできたの。……ミラベルに直接言えばいいのに、いつも誰かを通す人だから」
「左様でございますか」
「そうじゃないとも言えないの。だから正直に言うわ。父の使いとして来たのは本当。でも、それと別に、私自身がここへ来なければいけないと思っていたの」
私は姉様を見た。疲れている顔だ。宮廷の灯りの下では見たことのない、長い旅のあとの、少しだけ等身大の人の顔だった。
「信じてもらえなくても、来るべきだと思ったの」
その一文が、胸の中でしばらく転がった。信じてもらえなくても来る——それは誠意なのか、それとも謝罪が通らないと半分分かっていながらも来るしかなかった人の言葉なのか。
判断が出るまでに、少し間が空いた。
「……なぜ、今なのですか」
「療養が明けたから、というだけじゃ遅すぎると分かっているの」
「では」
「ずっと、先に来ることができなかったの。来ようとすると、何かが見えそうになって。見えると、知らなかったふりができなくなる気がして。……それが卑怯だったと、今は分かるわ」
胸の底で、何かが少しだけ動いた。怒りなのか、悲しみなのか、そのどちらでもない別の感触なのか、名前はまだつけられない。
「見ないふりをされていた、と言うべきなのですね」
姉様の目が揺れた。否定しなかった。
廊下に出たのは、一度空気を変えたかったからだ。
冬支度を始めた裏庭の木立が、ガラスの向こうで揺れている。辺境の季節の変わり目は早い。葉の薄くなった木を見ていると、時間は止まらないのだとただそれだけを思った。
「……大丈夫ですか」
カイが、廊下の壁際に立っていた。扉から2間ほど離れた場所で、通行の邪魔にならない位置を選んでいる。入る気はないが、遠くへは行かない、そういう立ち方だった。
「大丈夫ではないかもしれません」
正直に言ったら、カイは何も言わなかった。責めもせず、励ましもせず、ただこちらを見ていた。その静けさが、応接室よりも少しだけ息をしやすかった。
「……なぜ、入ってこなかったのですか」
「あなたが一人で話すと言ったから」
「それだけですか」
カイは少しだけ間を置いた。視線を廊下の床に落としてから、戻す。
「今は、あなたの言葉が先です」
その言い方を、私は咀嚼するのに少し時間がかかった。命じない。先を決めない。けれど、いなくなりもしない。そういう距離の取り方が、家族とも宮廷とも違う。違うから、受け取り方が分からなくて、少し困った。
「……姉様が、明日も話したいと言っています」
「そうですか」
「私は、まだ何も決めていません」
「それでいいと思います」
それだけだった。廊下の冷気が、ガラスの白い曇りを少し濃くした。
そのとき、ベルタが奥から戻ってきた。前掛けのポケットを手で押さえながら、私を見てからカイを見た。
「お嬢様。お姉様がもう一度だけと言っています。何かお持ちしたいものがあると」
「……何を、ですか」
「紙、だそうです。古い控えを、何枚か」
私の指先が、一瞬止まった。
控え。発注書の控えなら、差出人欄がある。差出人欄には名前がある。誰の名前が書かれているかは——私の字を見れば分かる。
「知らなかった」と、姉は言った。けれど、知らなかった人の封筒に、あんな書き直し跡が残るだろうか。