軽量なろうリーダー

政略結婚した継母ですが、怯えていた子供が最近笑顔を見せてくれるようになりました

作者: セトガワ トウ

本文

「あなたには、母親の役目は期待していない」

それを言われたのは婚礼の夜だった。

夫となった公爵ルロンド・アビスはなんの感情もなさそうな表情をしていて、それが強く印象に残る。

場所は彼の書斎。重厚な執務机を挟む。その机はまるで互いの心の壁を表しているようだ。

彼はサラサラの銀髪にサファイアブルーの瞳で、その端正な顔立ちから女性のファンも多い。

ただ性格は極めてクール……悪く言えば冷血で、影では無感情公爵などと揶揄されることもある。

母親の役目は期待しない…… ?

正直、ホッとしている自分がいる。

「ええ、承知しております」

私……ルミネ・フォートは小さく頭を下げる。

私と彼の結婚は、家同士の事情で決まったよくある政略結婚だ。

実家の伯爵家は王都での発言力を欲し、アビス公爵家は内外に向けて家庭が安定しているという形を欲した。

ようは、恋愛ではない。

だからこそ、話が早くて助かるけれど。

「私に求められているのは、公爵夫人として屋敷を管理し、対外的な体裁を整えること。そして、前妻のお子様の最低限の後見をすること。そう理解しております」

ルロンド公爵の片眉が、ピクリと動いた。

「……後見、か」

「はい。どう頑張っても実の母にはなれませんので」

ここはきっぱりと言い切っておく方がいい。

「血の繋がりも、積み重ねた時間もない女が、突然母親だと名乗ったところで、子供にとっても迷惑でしょう。ですから私はその子が自立できるまで、衣食住と教育だけは保証いたします」

愛情を注ぐとは口にしない。

実際、愛しているふりをするつもりもない。

子供は大人が思うよりずっと敏感だと思う。

嘘の優しさや、自己満足の慈愛など、いずれ見抜く。

それなら最初から、必要なものだけを渡せばいい。

まず清潔な寝床と温かい食事。

年齢に見合った教育も大事だ。

そして不当な扱いを受けない環境も。

それだけあれば、子供は少なくとも一人で立つ準備ができるだろう。

「ずいぶん冷静だな」

「情で動いて失敗するよりは、よろしいかと」

ルロンド公爵は、しばらく私を見つめた。

やがて彼は、机上に置かれていた一枚の書類をこちらへ手渡す。

「息子の名はロア。七歳だ。前妻は、あの子を捨てた」

捨てた、のところだけ少し声が低くなった。

「理由をお聞きしても?」

「アビス家に代々現れるはずの魔力紋が、ロアにはなかった」

魔力紋……この国の貴族にとって、それは血筋と才能の証だ。

なかでもアビス公爵家は、古代魔法を扱う名門として知られている。

その家に生まれた子に魔力紋がないとなれば、確かに社交界では格好の噂になるだろう。

「前妻は、ロアを無能と呼んだ。そして自分の経歴に傷がつくと言い、別の男のもとへ行った」

「……そうでしたか」

正直なところ、それだけが理由ではない気もする。

きっとルロンドの愛情が感じられないこともあったのではないか?

当然、私はそれは口にせずに書類に視線を落とす。

そこには、ロア・アビスについての報告が並んでいた。

魔力測定……反応なし。

魔法発動……不可。

家系特有の古代魔法……兆候なし。

性格……内向的。

言葉数……少ない。

食事量……少ない。

補足……夜間に泣くことあり。

最後の一文だけ、妙に胸に残る。

夜間に泣くことあり、か。

七歳の子供が、夜にひとりで泣いている。

それを補足として報告書に記す屋敷の空気は、あまり良いものではなさそうだった。

「公爵閣下」

「ルロンドでいい。夫婦という体裁は必要だ」

「では、ルロンド様。ロア様の生活環境を、私の裁量で整えても?」

「好きにするといい。必要な予算は出す」

「ありがとうございます。もう一つ。ルロンド様は、ロア様にどのように向かい合っておりますか?」

この質問に、ルロンドはすぐには答えない。いや、答えられないといった様子だ。

無言で一度視線を床に落とし、ようやく口を開く。

「一般的な父親と同じだ」

「承知しました」

これだけ確認できればもう十分だった。

私としても、おそらく彼と同じようになるだろう。

ただ彼よりは上手くやりたい。

愛せと言われるより、よほどやりやすい。

私はこの家で、母親ごっこをするつもりはない。

ただ、子供が子供として扱われない環境は、見過ごすつもりもないけれど。

ロアに初めて会ったのは、翌朝のことだった。

屋敷の東棟にある日当たりが悪く、使用人部屋に近い小さな一室だ。

これが本当に公爵家の嫡男が住む部屋?

そう疑問が出るほど、そこは粗末だった。

家具は古いしカーテンは色褪せている。

暖炉の灰は片づけられておらず、室内には埃の匂いが充満している。

そして部屋の隅っこに、体の細い少年が不安そうに立っていた。

透き通るような金髪に父親譲りの大きな碧眼。

服は上質ではあるが、明らかにサイズが合っていない。

彼は私を見ると、びくっと肩を跳ねさせた。

「ロア様ですね」

声をかけると、少年は小さく頷く。

「今日からこの屋敷の管理を任された、ルミネです」

「……お、お母様、ですか」

絞り出したような声だった。

私は少しだけ考えてから、首を横に振る。

「いいえ。母ではありません」

ロアの瞳がブレた。

失望なのか怯えなのか。

あるいは、また拒絶されると思ったのだろうか。

正直、子供の気持ちはわからない。

けれど、ここで嘘はつかない方がいい。

「私は、あなたの実の母親ではありません。ですから、無理に母と呼ぶ必要はありません」

「……」

「ただし、今日からあなたの生活と教育については、私が責任を持ちます」

ロアはぽかんと口を開け、私を見上げた。

「生活……?」

「まず、この部屋は変えましょう。日当たりが悪すぎます。寝具も古い。服も合っていません。食事量が少ないと聞いていますが、体調を見ながら改善します」

「え、あの……」

「勉強についても確認します。読み書き、計算、歴史、礼法。それから、魔法以外の適性も調べましょう」

「ぼ、僕は……魔法が、使えません」

ロアはそこで、ぎゅっと両手を握った。

まるで、それを言った瞬間に罰を受けると思っているように。

「知っています」

私が答えると、ロアの顔がさらに青くなった。

「でも、僕、ちゃんと練習します。怒らないでください。ごめんなさい。僕が無能だから……」

「ロア様」

彼の言葉を敢えて遮るよう、私は強めに名前を呼んだ。

「魔法が使えないことと、無能であることは同義ではありませんよ」

「……え?」

「たとえば、剣が苦手な人間が全員無能なら、文官は全員無能です。計算が苦手な騎士を無能とクビにしたら、国境は守れません。人には役割と適性があります」

ロアは、理解できないものを見るような顔をする。

その表情を見て、私はひとつ確信した。

この子は今まで、そんな当たり前のことすら言われてこなかったのだ。

「あなたに魔力紋がないことは、事実なのでしょう。ですが、それだけであなたの価値は決まりません」

「……僕の価値」

「そうです」

私は部屋を見回した。

あまりに愛情のない部屋だった。

「まずは環境を整えます。評価はそのあとです」

するとロアは、なぜか泣きそうな顔になった。

「……怒らないんですか」

「怒る理由がありません」

「僕が、できなくても?」

「できない理由を確認します。怒るのは、そのあとでも遅くありません」

「……怒るんですね」

「努力を放棄して、他人に責任を押しつけた場合は、そうしましょう」

ロアは、きょとんとする。

それからほんの少しだけ、口元を緩めた。

それは笑顔というにはだいぶ小さかったけれど。

それでも、この部屋に入ってから初めて見た子供らしい表情ではあった。

ロアの部屋は、その日のうちに南向きの客室へ移した。

もちろん使用人たちは渋りまくった。

前妻の時代から屋敷にいる古参の侍女などは、露骨に眉をひそめていたほどだ。

「ですが奥様、ロア様は魔法の才がございませんし……あまり過分に扱いますと、ご本人のためにも」

「本人のため?」

私はその侍女を睨みつける。

「サイズの合わない服を着せ、寒い部屋で寝かせ、食事も満足に取れていない状態を放置することが、本人のためだと?」

「い、いえ、そういう意味では……」

「では、どういう意味かしら。それのどこが本人のためなのか、私にわかりやすく教えて」

侍女はうつむいて黙り込む。

私は淡々と命じる。

「今後、ロア様に関する待遇を魔法の有無で判断することを禁じます。彼は公爵家の嫡男。最低限、それに見合う扱いをなさい」

「……承知いたしました」

「それと、今日からロア様の食事内容を記録して。体調、睡眠時間、学習時間もです。報告は毎朝、私へ」

侍女たちは顔を見合わせた。

面倒な仕事が増えたと思っているのが、よく伝わってくる。

でも構わない。

屋敷を管理するとは、そういうことだ。

私は別に侍女や執事に好かれるためにこの家にいるわけでもない。

そして子供は感情で抱きしめるより、まずは環境を変える。

寒さで震える子に、可哀想と涙する暇があるなら、暖炉に薪をくべたほうがいいに決まっている。

三日が過ぎても、ロアはまだ私に怯えていた。

ただし、以前とは少し違う。

私が部屋に入るとすぐに立ち上がる。

話しかけるとちゃんと返事をする。

食事は半分ほど食べられるようになった。

小さな進歩だが、悪くない。

「今日は適性確認をします」

私は机の上に、いくつかの道具を並べた。

魔石、薬草、金属片、古代文字の写本。

さらに精霊反応を見るための透明な水晶板もだ。

ロアは不安そうにそれらを見つめる。

「また、魔法の検査ですか」

「いいえ。魔法だけではありません。観察力、記憶力、分類能力、反応の違いを見ます」

「……失敗したら?」

「記録します」

「怒らないんですか?」

「怒りません。検査とは、失敗を含めて情報を得るためのものです」

ロアは、また不思議そうな顔をした。

本当に、この子の世界には怒られない検査というものがなかったらしい。過剰な反応を見れば嫌でもわからされる。

私が最初に渡したのは、五種類の薬草だった。

「この中で、ひとつだけ状態が違うものがあります。わかりますか?」

ロアはおずおずと薬草を覗き込んだ。

しばらくして、一番右の葉を指さす。

「これ……」

「理由は?」

「葉の端が、少しだけ黒いです。でも腐っているんじゃなくて、内側に魔力が溜まっている感じがします」

私は手元の記録紙に視線を落とす。

正解だった。

その薬草は、特殊な環境下で魔力を吸収しすぎたものだ。

普通、外見だけで見分けるのはとても難しい。

「よくわかりましたね」

そう言うと、ロアはぱっと顔を上げた。

「……よく?」

「はい。とてもよく観察できています」

ロアの頬が、ほんのり赤くなる。

次に私は、金属片を三つ出す。

「この中で、錬成に向かないものは?」

「錬成……?」

「金属を加工したり、薬品と反応させたりする技術です。難しく考えず、違和感があるものを選んでください」

ロアは真ん中の金属片を手に取った。

そして、すぐに顔をしかめる。

「これ、すごく嫌です」

「嫌というのは?」

「表面は銀だけど、中が違います。混ざり方が汚いです」

私は思わず手を止めてしまう。

それは、意図的に不純物を混ぜた試験用の合金だった。

魔法の才を見る検査ではない。

宮廷錬金術師が弟子の適性を見る時に使うものだ。

うそでしょう……七歳の子供が、見ただけで内部の不純物を感じ取ったの?

「ロア様、これは、どのように見えていますか」

「えっと……」

ロアは困ったように金属片を見つめた。

「線が、ぐちゃぐちゃです」

「線……?」

「はい。物の中に、細い線みたいなのがあります。綺麗なものは線がまっすぐで光っています。でもこれは途中で濁っていて……だから、気持ち悪いです」

私は無言で水晶板を取り出す。

精霊反応を見るための道具だ。

通常、精霊と契約できる者が触れると、水晶板には淡い光が灯る。

上級者であれば色が変わる。

天才であれば、模様が浮かぶ。

だがロアは、魔力紋がない。

魔法が使えない──そのはずだった。

「これに触れてください」

ロアはためらいながら、水晶板に指を置いた。

次の瞬間、水晶板の中に強烈な金色の光が走った。

それは光というより、文字だ。

幾何学模様、古代文字、もしくは失われた錬成式。

いくつもの式が透明な板の内側に浮かび上がり、重なっては組み替わっていく。

私は息を呑んだ。

違う……。

魔力紋がないのではない。

この子の力は、皮膚に紋として現れるような単純なものではなかったのだ……!

物質の構造を視る眼や魔力の流れを読む感覚が異常に鋭い。

そしておそらくは――失われた古代錬金術への適性だ。

規格外。

その言葉が、頭に浮かんだ。

「……奥様?」

ロアが不安そうに私を見上げる。

私が驚きで声が出ないでいると、彼は両手のひとさし指を何度も合わせ、心を落ち着かせようとする。

「ぼ、僕、また変なことをしましたか」

その声に、私は我に返る。

そうだ、ここで驚きすぎてはいけない。

騒げば、この子はまた異常として扱われるだろう。

私は記録紙を伏せ、できるだけ静かに返事をする。

「いいえ。ただ……」

私は彼の前に膝をつく。

目線を合わせるためだ。

子供にはこういうのが大事だと知識として知っているから。

「ロア様、あなたは無能ではありません」

ロアの瞳が、出会ってから一番大きく揺れた。

「あなたには、他の人には見えないものが見えています。それは欠点ではありません。才能です」

「……才能」

「はい」

私は水晶板に浮かんだ金色の文字を見た。

まだ光は消えていない。

むしろロアの感情に反応するように、ゆっくりと輝きを増していた。

「これから、その使い方を学びましょう」

「僕が……学んでもいいんですか?

「もちろんです。あなたこそ学ぶべきです」

「失敗しても?」

「記録します」

ロアは、少し吹き出すように笑う。

今度は、はっきりと笑顔だった。

「奥様は、変です」

「それは、よく言われますね」

「でも……なんだろう……」

ロアは水晶板から手を離し、もじもじしながら小さな声で言う。

「怖くないです」

その言葉が、どういうわけか私の胸の奥にスッと入り込んでしまった。

私は母親ではない。

この子を愛しているわけでもない。

ただ、環境を整え、適性を見つけ、必要な教育を与える。

それは子供のために見えるが、実際のところは私のためだ。

だからメイドが掃除がするように、料理人が調理をするように、私も淡々と事を行う。

それだけのつもりだった。

けれどその日から、ロアは毎朝、私の執務室の前で待つようになった。

最初は報告のためだ。

次は、昨日読んだ本の内容を話すため。

その次は、自分で作った小さな錬成石を見せるため。

どんどん、話題は増えていく。

正直、報告の必要があるかな? というものまで中にはあった。

そして一ヶ月後には、私の姿を見るなり、ぱたぱたと駆け寄ってきては、こう言うようになった。

「奥様! 今日は、どんな記録を取りますか?」

その期待に満ちた瞳を前にすると、なんとも妙な気分に襲われる。

私はいつも通り、冷静に評価するつもりだった。

つもりだったのに。

「……ええ。あなたのために、記録を取りましょうねロア様」

試しに頭を撫でてあげると、ロアは口端を大きく上げて笑った。

その笑顔は、あまりにも無防備で。

そうか……これが本当の子供なんだと思った。

私は初めて、自分の判断が少しだけ狂い始めていることに気づく。

この子が自立できるまでと思っていた。

本物の母親になるつもりなんて毛頭ない。

ただ、虐待は嫌いだ。

だからこの子に必要なものだけを与えて、私はいつだって透明な壁の向こうに立つ。

そう思っていたけれど。

ピキッ……と。

その壁に、ほんのわずかなヒビが入った。

そんな気がした。