軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話

北西の沼地までは、馬車で二時間ほどの道のりだった。

街道を外れて未舗装の道に入ると、景色は一変した。針葉樹の森を抜けた先に、広大な湿原が広がっていた。秋とは思えぬ生暖かい風が吹き、どこか淀んだ匂いが鼻を突いた。

アンジェリカは、馬車を降りると、一歩踏み出してゆっくりと深呼吸をした。

そして、眉をひそめた。

「……この匂い」

「どうした」

「閣下、お分かりになりますか。この、甘ったるいような、腐敗に似た——」

ディルクハルトも、鼻をひくつかせた。

「確かに、妙な匂いだな」

「菌類の繁殖時に発する特有の揮発性物質ですわ。これほど広範囲に漂っているということは——」

アンジェリカの翡翠色の瞳が、鋭く光った。

彼女は地面にしゃがみ込み、沼のほとりの泥をそっと掬った。革手袋をしているのは、用心のためだった。

泥の中に、銀色の糸のようなものが混じっている。

「……やはり」

彼女は、小瓶にその泥を採取した。次に、沼の縁に生えている枯れ草を何本か抜き、根の部分に目を凝らす。細い銀色の菌糸が、根を絡め取るように広がっていた。

「閣下。これをご覧くださいませ」

差し出された枯れ草を、ディルクハルトは覗き込んだ。

「この細い糸のようなものが、菌糸です。このまま放っておけば、胞子を飛ばします」

「……胞子が、風に乗って、村まで運ばれていると?」

「おそらく」

アンジェリカは、さらに沼地を歩き回った。

彼女は膝を泥に汚しながら、菌糸の分布、枯れた植物の種類、沼の水の色と匂いを、一つひとつ記録していく。ディルクハルトは、少し離れた場所から彼女を見守り、時折、護衛の騎士に目配せをして周囲の警戒を促していた。

半刻ほど調査を続けた頃、アンジェリカは顔を上げた。

額に泥がついていた。頬にも、襟元にも。だが、その翡翠色の瞳は、かつてないほど輝いていた。

「閣下、分かりましたわ」

「何が分かった」

「正体です」

彼女は、採取した銀糸の入った小瓶を掲げた。

「これは、おそらく『銀糸菌』という、北方の湿地にまれに発生する菌類でございます。通常は深い沼の底に生息し、地上には出てこないのですが——今年の春の洪水で、沼の底泥が撹拌され、菌糸が湿地全体に広がってしまったのですわ」

ディルクハルトは、しばらく黙って彼女の説明を聞いていた。

「秋の乾いた風に乗って、胞子が周辺の村々へと飛んだ。それを吸い込んだ住民が、肺に菌糸を宿し、高熱を発する——これが、疫病の正体でございます」

「……対処法は」

「あります」

アンジェリカは、きっぱりと答えた。

「銀糸菌の特効薬は、古い薬草書に記載がございますの。胞子の毒を中和し、体内の菌糸を無害化する薬草——」

彼女は、そこで、一瞬、言葉を詰まらせた。

ディルクハルトが、それに気づいた。

「どうした」

「……薬草の名は、月光草と申します」

「月光草」

「銀色の花を咲かせる、月光を浴びてのみ開花する、希少な薬草ですわ」

ディルクハルトの顔が、わずかに険しくなった。

彼は、その花の名を知っていた。

「——竜の背骨山脈にしか、自生せん」

「はい」

アンジェリカは、静かに頷いた。

竜の背骨山脈。グレイウルフ領の北端、国境沿いに聳える険しい山脈である。その名の通り、龍の背骨のようにぎざぎざと連なる尾根は、真夏でも雪を戴き、冬が近づけば踏破は命懸けとなる。

「満月の夜にしか咲かない花でもございます」

アンジェリカは続けた。

「次の満月は、十日後。それまでに山に入り、開花のその夜に採取しなければ、薬効は著しく落ちます」

ディルクハルトは、遠く北の空を見つめた。

冬はすぐそこまで来ていた。山には、すでに初雪が降り始めているだろう。

「——行く」

短く、彼は言った。

「俺が、直接、騎士団を率いて採取に行く」

「閣下」

「お前は城で待っていろ。山の険しさは、貴族令嬢が耐えられるものではない」

アンジェリカは、彼の顔を真っ直ぐに見上げた。

灰青色の瞳に、強い決意が宿っていた。領民を救うためなら、自らの身を危険に晒すことを厭わない——そういう瞳だった。

だが、彼女も一歩も引かなかった。

「いいえ、閣下」

「なんだ」

「わたくしも、同行いたしますわ」

ディルクハルトの眉が、跳ね上がった。

「正気か」

「正気でございます」

「雪山だぞ。お前の体力では——」

「閣下、お聞きくださいませ」

アンジェリカは、泥で汚れた手で、小瓶をしっかりと握りしめた。

「月光草は、採取のタイミングが全てでございますの。花弁が満月を受けて完全に開いた瞬間から、月が頂点を過ぎるまでの、わずか二刻。その時間内に、鮮度を保ったまま摘み取らねば、薬効は激減いたします」

「それを、俺の部下に教えればよい」

「いいえ。見極められる者は、限られております。花の状態、月の角度、気温、湿度——それらを総合的に判断して、最適な一輪を選ぶのは、薬草学を修めた者でなければ難しゅうございます」

彼女は、一歩、彼に近づいた。

「それに——」

「それに?」

「現物を自分の目で見ずに、特効薬は調合できません。薬草は、生きている植物ですわ。同じ種でも、個体によって成分が違います。現地で確認しなければ、責任を持って薬を作ることはできませんの」

ディルクハルトは、長く、彼女を見つめていた。

秋風が、二人の間を吹き抜け、アンジェリカの髪を揺らした。彼女の頬の泥が、風に乾いてぽろりと落ちる。だが、その瞳は、一瞬たりとも揺らがなかった。

やがて、彼は深く息を吐いた。

「……分かった」

「閣下」

「ただし、絶対に、俺の傍を離れるな」

それは、命令だった。

だが、同時に、請願のようにも聞こえた。

アンジェリカは、ゆっくりと頷いた。

「お約束いたしますわ」

遠く北の空に、青灰色の雲が、ゆっくりと集まり始めていた。

冬は、もう、すぐそこまで、来ていた。