軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第16話

冬が、本格的にやってきた。

グレイウルフ領は、白い雪に覆われた。だが、城下町に漂う空気は、以前とはまるで違っていた。疫病の影は完全に去り、市場は活気を取り戻し、子どもたちが雪合戦をする声が、広場に響いていた。

アンジェリカは、朝の薬草園を見回っていた。

温室の中で、月光草の株が、順調に葉を伸ばしている。彼女が山から持ち帰った数株を、特別な条件下で増殖させているのだった。春になれば、自分たちで採取せずとも、ここで採れる目処が立つかもしれない。

毛皮の襟巻きに身を包み、白い息を吐きながら、彼女は一株一株を丁寧に見て回った。

ふと、視線を感じて、顔を上げた。

温室の入り口に、ディルクハルトが立っていた。

彼は最近、こうして時折、彼女の様子を見に来るようになっていた。何か話すわけでもない。ただ、黙って、少し離れた場所から、彼女の仕事ぶりを眺めている。

アンジェリカは、くすりと笑った。

「閣下、何か御用でしょうか」

「……いや」

そう言いながら、彼は入ってきた。

背の高い彼が入ると、温室の中が、急に狭く感じられた。

「少し、話がある」

「はい」

「隣国のヴァルドハイム公国から、使者が来ている」

アンジェリカは、目を瞬かせた。

「ヴァルドハイムと申しますと——我が国の北西に位置する、あの」

「そうだ。彼の国でも、銀糸病に似た熱病が広がり始めているらしい」

「まあ」

「特効薬を、分けてほしいと言ってきた」

アンジェリカは、すぐに表情を引き締めた。

「もちろん、お分けいたしますわ。人命に関わることです」

「その件で、お前の意見を聞きたい」

彼は、温室の中央にある木製の椅子を示した。二人はそこに並んで腰を下ろした。

「ヴァルドハイムは、決して豊かな国ではない。だが、銀山を持っており、銀の産出量は大陸随一だ」

「銀でございますか」

「特効薬の調合には、銀製の器具が欠かせんだろう。月光草の採取用の鋏も、蒸留器の一部も」

アンジェリカは、小さく頷いた。

「その通りでございます」

「ならば、薬と銀の、交換条件で取引しようと思う」

「——まあ」

「薬を大量に供給する代わりに、グレイウルフ領への銀の安定供給と、優先的な交易権を得る。これは、同時に我が領の発展にも繋がる」

「素晴らしいお考えですわ」

アンジェリカの目が、輝いた。

ディルクハルトは、少し視線を外した。

「……ただ」

「はい?」

「薬の製造には、お前の知識が欠かせん。増産するとなれば、お前の負担が増える。倒れられても困る」

気遣いの、ぎこちない表現だった。

彼は、正面切って「お前が心配だ」とは言わない。そう言う代わりに、常に業務上の理屈をつけて、彼女の体を気遣おうとする。そんな不器用さが、アンジェリカには、何故か愛おしく感じられた。

「ご心配には及びませんわ」

彼女は、にっこりと微笑んだ。

「実は、製造工程を分業化する案を、考えておりますの」

「分業化?」

「はい。特効薬は、十二の工程で作られます。そのうち、熟練を要する工程は四つ。残り八つは、丁寧に指導すれば、城下の薬師や助手でも担当できますわ」

アンジェリカは、手元の帳面を広げて見せた。

そこには、彼女がここ数週間で作り上げた、製造手順書が、細かい字でびっしりと書かれていた。各工程の担当者、使用する器具、注意事項、失敗例まで——既に体系化されていた。

「わたくしは、重要工程の監修と、最終品質検査のみを担当すればよろしいかと」

「いつの間に、こんなものを」

「閣下が、遠くを見つめてお考えになっておいでの間に、ですわ」

ディルクハルトは、微かに苦笑した。

「お前は——」

「はい?」

「本当に、周りを驚かせるのが、好きだな」

「そんなことはございませんわ」

「いや」

彼は、帳面をぱらぱらとめくりながら、続けた。

「初めて会った時から、そうだ。森で毒牙を解毒し、沼地で原因を突き止め、雪山で花を摘み、城で薬を作り——次は何をするのかと、毎日、楽しみに見ている」

アンジェリカの頬が、わずかに染まった。

それは、最大限の褒め言葉だった。この不器用な男が、精一杯に絞り出した、褒め言葉だった。

「……ありがとうございます」

ヴァルドハイム公国との交渉は、ディルクハルトが直々に行った。

彼は使者を居城に招き、数日間の協議の末、包括的な協定を結んだ。薬の供給量、銀の輸入量、交易路の整備、関税の取り決め——全てが、グレイウルフ領に有利な条件で調印された。

取引は即座に始まった。

城下町の薬師たちを総動員して、製造体制が構築された。アンジェリカの手順書に従って、三十人ほどの助手が分業で働く。最終検査だけは彼女が行うが、それ以外の工程は、専属の担当者たちが着実にこなしていった。

一ヶ月後、最初の百箱分の薬が、ヴァルドハイムへと出荷された。

対価として、大量の銀塊が、城の宝物庫に運び込まれた。

ヴァルドハイムへの輸出が成功すると、他国からも次々と問い合わせが来るようになった。

南の商業国イシュタリア、東の山岳国ベルフォール、大陸南端の海洋国家アルメリア——どの国でも、銀糸病に類似した疫病が、程度の差こそあれ発生していた。グレイウルフ領の特効薬は、大陸全土で求められる「希少品」となっていた。

辺境の領地が、一夜にして、大陸の薬品供給の中心地となった。

金が、流れ込んできた。

それも、膨大な額が。

ある冬の夜、ディルクハルトは執務室で、ヨハンと向き合っていた。

「今月の収支報告でございます」

ヨハンが、報告書を恭しく差し出した。

ディルクハルトはそれを受け取り、数字に目を通した。そして、わずかに目を見張った。

「——これは」

「はい。昨年同月比の、八倍でございます」

「八倍」

「このままですと、年間で領地の税収を、一つの商会分が上回ることになります」

ディルクハルトは、長い間、報告書を見つめていた。

「これ全て、アンジェリカのおかげか」

「左様でございます」

ヨハンは、穏やかに微笑んだ。

「それから——これは、閣下だけの耳に入れておきたいのですが」

「なんだ」

「この一ヶ月で、城下町に新たに開業した薬師工房が、五軒。ヴァルドハイムから移住してきた薬師の家族が、三十世帯」

「三十」

「皆、ローゼンベルク様の下で働きたいと、希望して参ったそうでございます」

ヨハンは、深く頭を下げた。

「閣下。あの方は——もはや、辺境の『一訪問者』では、ございません」

ディルクハルトは、椅子に深く沈み込んだ。

ヨハンの言葉は、単に事実を告げているだけだった。だが、その奥には、主への静かな忠告が含まれていた。

アンジェリカは、もう、グレイウルフ領の中心に立っている。

彼女なしでは、この領地は回らない。

そして——彼女を失えば、この繁栄も、一瞬で消える。

ディルクハルトは、ゆっくりと立ち上がり、窓に歩み寄った。

窓の外、雪の降る夜の庭園に、誰かが立っていた。月明かりに照らされて、毛皮の外套を纏ったその姿は、すぐにアンジェリカだと分かった。

彼女は、温室の様子を、最後に見に来たのだろう。

寒いだろうに。

彼は、執務机から外套を取り、部屋を出た。