軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話

王立ローゼンタール学園、卒業パーティーの夜。

大広間は眩いシャンデリアの光に満ち、着飾った令嬢たちの宝石が星屑のように煌めいていた。楽団は優雅な円舞曲を奏で、給仕たちは銀の盆に載せた発泡酒を音もなく運んでいる。

アンジェリカ・ローゼンベルク侯爵令嬢は、壁際に立ってその光景を眺めていた。

薄紅色のドレスに身を包んだ彼女の蜂蜜色の髪には、母から贈られた真珠の髪飾りが控えめに光っている。大人しげな装いだが、翡翠色の瞳の奥には、この三年間ずっと隠し続けてきた倦怠の色があった。

早く、終わってほしい。

ただ、それだけを願っていた。

三年前、十四歳の誕生日に王太子ユリウスとの婚約が正式に決まってから、彼女の生活は一変した。朝から晩まで続く王妃教育、社交界での立ち居振る舞い、他国の外交官との会話訓練、ダンスの稽古——どれもこれも、彼女の好きな薬草学や自然科学から遠く離れたものばかりだった。

図書館の奥で古い薬草書に埋もれて過ごしていた日々は、もう遠い。

それでも、義務だからと歯を食いしばって耐えてきた。侯爵家の名誉のため、国のため、父の期待のため。

「アンジェリカ嬢」

低く、よく通る声が広間に響いた。

顔を上げると、金髪碧眼の王太子ユリウスが壇上に立っていた。隣には、桃色の髪をした小柄な令嬢——男爵令嬢ミレーヌ・ファルケが身を寄せている。その距離は、婚約者がいる身としては明らかに近すぎた。

広間の喧騒がすっと静まる。

アンジェリカは静かに前に進み出た。胸の奥で、ある予感が静かに形を成していく。

「アンジェリカ・ローゼンベルク。貴様との婚約を、この場をもって破棄する」

ユリウスの声が、高らかに広間に響き渡った。

周囲の令嬢たちが息を呑む音、扇子で口元を隠して囁き交わす衣擦れ、困惑して顔を見合わせる紳士たち。誰もが事態を飲み込めずにいた。

「貴様は王太子妃に相応しくない。このミレーヌを日頃から虐げ、冷遇してきた。そのような女を、余は妃として迎えることはできぬ」

ユリウスは勝ち誇った顔で続けた。ミレーヌはその腕に縋りつき、大きな目に涙を浮かべてアンジェリカを見上げている。

「アンジェリカ様……私、何も悪いことなど……」

震える声で呟くミレーヌ。その仕草は、三流の舞台女優のように計算されていた。

アンジェリカは、しばらく黙ってその光景を見つめていた。

広間の人々は、今にも彼女が泣き崩れるか、あるいは激昂して叫ぶかと固唾を呑んでいた。侯爵令嬢にとって、衆人環視の中での婚約破棄は、社交界での死を意味する。

だが。

アンジェリカの顔に、ゆっくりと——花が綻ぶような笑みが広がっていった。

「まあ——本当ですか、殿下」

弾むような声に、広間がざわついた。

「婚約を、破棄してくださると?」

「な……何を」

ユリウスが怪訝な顔をする。彼が想定していた反応と、あまりに違った。

アンジェリカはドレスの裾を優雅に摘み、膝を折って深々と礼をした。その所作は王妃教育の賜物で、完璧なまでに美しかった。

「ありがとうございます、殿下。心より、御礼申し上げますわ」

「……は?」

「このような晴れやかな場で、このような素晴らしいお申し出をいただけるなんて——わたくし、感無量でございます」

顔を上げたアンジェリカの翡翠色の瞳は、本気で輝いていた。演技ではない。この三年間、ずっと胸に閉じ込めていた光が、ようやく外に出てきたのだ。

ミレーヌが、狼狽えた顔でアンジェリカを見た。

「あ、アンジェリカ様……?」

「ミレーヌ様、おめでとうございます。殿下のお心をこれほど強く捉えるなんて、素晴らしいことですわ。どうか、殿下のこと、くれぐれもよろしくお願い申し上げます」

心からの祝福だった。そのことが、かえって場の空気を奇妙なものにしていた。

ユリウスの顔が赤く染まる。怒りか、羞恥か、あるいはその両方か。

「……お前は、自分が何を言われているか、分かっているのか」

「ええ、よく」

アンジェリカはにっこりと微笑んだ。

「わたくしは婚約者の地位を失い、王妃となる未来を失い、社交界での居場所を失いました。それは、理解しております」

「ならば——」

「殿下」

静かに、けれどはっきりと、彼女は遮った。

「わたくしは、自由を得ました」

その一言に、ユリウスは言葉を失った。

広間の誰もが、何かとても大切なものを見ている気がして、息を呑んだ。アンジェリカ・ローゼンベルクという少女の、本当の姿を——彼女が三年間隠し続けていた魂の輪郭を。

楽団の指揮者が、戸惑いながらも手を振り下ろす。再び円舞曲が流れ始めた。

アンジェリカは、もう一度美しく礼をすると、軽やかな足取りで広間を後にした。

夜風が頬を撫でる。見上げた空には、澄んだ星々が瞬いていた。

——これで、わたくしはやっと、わたくしに戻れるのだわ。

彼女は、声を立てずに笑った。人生でいちばん、幸福な夜だった。