軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

【16】雪猪

ヒュッターが花を摘みに行って少し経った頃、少し離れた場所の計測をしていた調査室の魔術師が、駆け足でこちらに戻ってきて言った。

「すみません、皆さん……少し、気になる足跡が」

ティアは一瞬ドキッとして自分の足元を見た。

鳥の足じゃない。ブーツを履いた人間の足だ。

「猪の足跡に似ているのですが……不自然に大きいのです」

調査室の魔術師の言葉に、護衛役のオットーが険しい顔をする。

「猪の魔物……何回か見たことありますぜ。ただし、ここよりずっと北の方、〈水晶領域〉寄りの場所でだ」

オットーの言葉が、ティアには少し意外だった。

オットーは守護室の人間で、門番だ。

守護室の人間は、〈楔の塔〉の守り担当。〈水晶領域〉付近に赴くことはあまりないと聞く。

「オットーさんは、魔物を見たことあるの?」

「……昔、討伐室にいたこともあるんで」

ティアが訊ねると、オットーは少し苦い顔をした。あまり触れて欲しくない雰囲気だ。

調査室の魔術師三人の中で、最も年配の男がオットーに提案した。

「我々はここで、足跡の調査を続けます。ヒュッター指導員がお戻りになられたら、オットーさんは見習いの方々を連れて〈楔の塔〉に戻ってください」

調査室の魔術師達は、セビルの安全を優先したいのだろう。

ただ、自分達も一緒に〈楔の塔〉に戻るとは言わない。彼らは自分の仕事を全うするつもりなのだ。

(……あれ?)

不意に、ティアは冷たい風を感じた。

風の流れに違和感はない。ただ、そこに氷の魔力が含まれているのを感じる。

(……風上に、強い魔力を持った生き物がいる?)

ティアがそのことで注意を促すより早く、獰猛な獣の声がした。

ブフォォォォォ、と空気を震わせる鳴き声は、なるほど猪に似ている。

木々の合間から姿を現したのは、異様な巨体の猪が一体。

大きさは雄牛より更に大きいぐらいだろうか。試験の時に遭遇した黒い人狼も大きかったが、こちらは猪らしい重量感がある。

特筆すべきは、その白い毛並みと鋭い牙。

下顎から生える牙は長く、緩やかにカーブしていて、シルエットだけ見たら角が生えているのだと錯覚しそうだ。

(雪猪だ!)

ティアはその異形の獣を、〈水晶領域〉近辺の山で見かけたことがある。基本的に寒い場所を好む魔物──人間の分類で言うところの、下位種の魔獣だ。

その巨体から繰り出される突進と、鋭い牙の攻撃が凶悪なのだが、それだけでなく、氷を操ることもできる。

ブフォ、ブフォ、と白い猪が息を吐く度に、白い呼気が漏れる──まだ秋先で、吐く息が白くなるほど寒くはないのにだ。

異形の猪が、白い息を吐きながら突進してくる。その口元から漏れる白い呼気の中で、キラキラと氷の粒が煌めいていた。あれが、あの魔物の力だ。

氷の吐息で獲物を凍らせ、巨体で粉々に打ち砕く、異形の猪。

「防御結界展開!」

調査室の魔術師二人が詠唱をして、前方に透明な壁を二枚作り出す。

彼らは決して未熟ではないし、結界はそれなりの強度があるものだった。

だが、異形の猪が白い吐息を吹きつけると、防御結界が白く曇る……凍りついているのだ。そこに牙を叩きつけると、パリンと乾いた音がして、防御結界が一枚砕けた。二枚目が砕けるのも時間の問題だ。

「皆さん、こちらへ!」

調査室の魔術師は三人。内二人が防御結界に徹し、もう一人がティア達見習いを逃すために誘導してくれた。

セビルは曲刀の柄に手を添えていたが、正面からぶつかるのは無謀だと理解しているらしい。素直に誘導に従う。

だが、方向転換したティア達はすぐに身動きが取れなくなった。

背後から、もう一体の異形の猪が近づいていたからだ。

(あれ? 今、雪猪のお腹の辺りで……何か光った?)

ティアは目を凝らして観察したが、毛皮で隠れてよく見えない。氷の粒が光って見えただけだろうか?

「皆さん、ここは俺が……」

守護室のオットーが、腰の剣を抜いて詠唱を始めた。するとその刃が赤みを帯びて輝く──剣に魔力付与する、魔法剣と呼ばれる技術だ。ティアは共通授業で習ったことを思い出す。

赤く輝く剣を構え、オットーは冷静に指示を出した。

「一体ぐらいなら、なんとか凌ぎますんで……その隙に、小さい二人を連れて逃げてください、アデルハイト殿下」

小さい二人──ティアとレンのことだ。

一人で逃げろと言われたら、セビルが首を縦に振らないだろうと察して、オットーはティアとレンを連れて逃げろと言ったのだ。策士だ。

オットーが「しぃっ」と鋭く息を吐きながら、魔法剣で異形の猪に切り掛かる。熱を帯びた剣と、冷気を帯びた牙がぶつかり合い、ジュウジュウと音を立てた。

「ティア、レン、行くぞっ」

セビルが曲刀に手をかけたまま、ティアとレンを先導するように走りだす。

三人は、異形の猪とオットーの横を通り抜けて、〈楔の塔〉のある方角を目指して走った。

〈楔の塔〉までは、ゆっくり歩いて一、二時間。走ってすぐに着くような距離ではない。

レンが息を切らしながら、喚く。

「くっそ、〈楔の塔〉に非常事態を知らせる手段はないのかよっ!」

「調査室の人間なら持っていたであろうな! わたくしは持っていない!」

レンに怒鳴り返したセビルが、「止まれ」と鋭く命じた。

前方の木々の間から、誰かが駆け寄ってくる。〈楔の塔〉の魔術師ではない。銀髪の小柄な少年だ。

「助けて、あっちに大きな猪が!」

少年はその目に涙の粒を溜めて、恐怖に顔を歪めていた。

セビルが曲刀の切先を下げ、幾らか柔らかな声で子どもに話しかける。

「近隣住民か?」

「そう、そうなの。助けて……っ」

少年は一番近くにいたレンに抱き着いた。

レンは「うぉ」と声をあげてよろけつつも、少年をしっかりと抱き止める。

よほど怖かったのだろう。幼い少年は肩を震わせて泣きじゃくっている。その背中をポンポンと叩きつつ、レンは不思議そうに呟いた。

「……この近辺に、人里なんてあったっけ? いや、あるにはあるけど、子どもが遊びに来る距離じゃねーだろ。もしかして、大人と一緒に遠出したのか?」

「ううん、ボク一人」

フルフルと首を振った拍子に、少年の目から涙の雫がポロリと落ちる──その雫が氷の粒に変わるのを見た瞬間、ティアは叫んだ。

「レン、離れてっ!!」

えっ、と驚きの声をあげたレンの体を、キラキラと煌めく氷の粒が覆う。

パキン、と音がしてレンの体の表面を、薄い氷が覆った。

「ぎゃっ、冷た……っ」

異変に気づいたセビルが、レンの体から銀髪の少年を引っぺがす。そのセビルの手もまた、表面が氷の膜で覆われた。

「なんだ、これはっ!?」

「うふふ……あったかぁい」

少年はスルリとセビルの懐に入り込み、両腕を広げて抱擁をしようとする──その前に、ティアがセビルに体当たりをした。

「ふんっ!」

セビルの体を下敷きに、ティアは地面に倒れ込む。

銀髪の少年は、それに巻き込まれることなく、軽やかな動きでセビルとティアから離れた。

「ふふ、うふふ……」

少年の足元で、ピキパキと音がした。地面を白い霜が覆っていく。霜はどんどん広がり、やがて秋色の森を冬の色に染めていった。

抱擁を求めるかのように広げられた袖からは、透明な何かが垂れている──あれは、ツララだ。

「やっぱり、人の熱って素敵……ボク、あったかい子、だぁいすき」

ツララの垂れた袖から白い、白い指を伸ばして、少年の姿をした魔物はうっとり微笑む。

「ねぇ、ギュッてさせて?」