軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

18 はじめての

「アルベルト様、そちらの御方はどなたでしょう?」

イザベラに鋭い視線を向けられ、レティシアは慌ててスカートの裾を摘み、背筋を正した。

「レ、レティシア・リューベルクと申します」

咄嗟にそう答えてからハッとする。いや、正しい名乗りなのだけれど、リューベルクの名を名乗るのが、ちょっとむず痒い気持ちになってしまった。

「私の妻だ」

アルベルトの鐘の音のようなその一言に、頬が熱くなる。イザベラの睫毛が一瞬だけ揺れ、すぐに整った微笑に戻った。

「まあ。ご機嫌よう、レティシア様。たいへん興味深い方と伺っておりますわ。見識が広く、虫にも動じないとか。さすが隣国の姫君ですわね」

穏やかな口調ではあるけれど、何か棘のようなものを感じた気がする。だが、姉たちと比べたらどうということもない。誰からその話を聞いたのかだけが気になりつつも、レティシアはにっこりと笑ってみせた。

「ちょっとだけ間違いがあります。わたしには苦手な虫もいますよ。例えば蜂に刺されたら命の危険がありますし。イザベラ様もお気をつけてくださいませ」

花の蜜を集めるような愛らしい蜂ならまだしも、大きくて鋭い目つきの蜂は危険だ。庭仕事や畑仕事を自由にやらせてもらってはいるけれど、怪我には気をつけている。

レティシアが頷きながら答えると、イザベラの目が丸くなった。

「……そうでございますのね。気をつけますわ」

イザベラの微笑がわずかに深くなる。そこへ侍女が駆け寄り、耳打ちをした。

「車軸が完全に折れております。すぐの修理は難しいそうです」

「そう。わかったわ」

「御者に代わりの馬車を探させてはいますが……」

あんなに立派な馬車なのに、すっかり使い物にならないようだ。むしろその状況で誰も怪我をすることなく済んだことは奇跡だとさえ思う。

(そうだ、あれだけの衝撃だったのだもの。きっとお辛いに違いないわ)

目の前のイザベラは何事もなかったかのように淑女然としているが、実際はすぐに休息を取って方がいい状況に思えた。

イザベラが小さく息をついたところで、レティシアは思わず一歩前に出た。

「旦那さま。わたしたちの馬車をお使いいただくことはできませんか? 衝撃でどこか痛めているかもしれません。早くお医者さまに見ていただいた方が安心です」

アルベルトがこちらを見て、その紫の瞳をやわらげた。

「そうだな。すぐ手配しよう」

彼は御者に合図を送り、低く簡潔に命じる。

「このままエルツベルク侯爵家へ向かう。イザベラの侍女たちは後から来てくれるか」

「はい、かしこまりました」

段取りが整うのを確かめ、アルベルトはイザベラへ向き直る。

「レティシアの言う通り、すぐに侯爵家に向かおう」

「ご配慮、ありがたく存じますわ」

イザベラは小さく会釈し、それからレティシアに目を向ける。

「レティシア様も先ほどのご提案、助かりました。恩に着ます」

「いえ。お怪我がないのが一番ですから」

礼が交わされる間に馬車の扉が開く。アルベルトがまずイザベラを、次いでレティシアを支えて乗り込ませた。通りには、軋んだ車輪の跡と乾いた埃の匂いがまだ残っている。

アルベルトがレティシアの隣に座り、それだけで安心してしまった。

扉が閉まり、車体がそっと動き出す。揺れはたしかに小さい。三人の間に、安堵と緊張が混じる静けさが落ちた。御者の手腕か、車体は驚くほど静かだ。

「イザベラ、揺れは大丈夫か」

アルベルトが穏やかに問い、イザベラは小さく頷く。

「あら、アルベルト様。お気遣いありがとうございます。問題ありませんわ」

やはり先ほどまで辛かったのだろう。イザベラの表情が和らいだのを見て、レティシアも安堵する。

ふと気付くと、レティシアは膝の上の本を、ぎゅっと抱きしめていた。

いつ、こんなに強く握りしめていたのだろう。

慌てて力を緩めようとするけれど、なぜか指先がなかなか言うことを聞いてくれない。

(……あら、わたし、どうしたのでしょう)

二人には面識があり、アルベルトがイザベラを気遣うのは当然のことなのに、どうして胸の奥がざわざわするのだろう。レティシアは自分の感情の小さな波が、なかなか収まらないのを、戸惑いながら足元を見つめる。

窓辺の光が強まると、アルベルトがさりげなくカーテンを少し引いた。小石を踏んで車体がふわりと揺れたときも、彼の手が自然にレティシアの肩へ添えられる。礼を言うと、彼は目元だけで小さく笑う。

そのやり取りを、イザベラは静かに見ていた。氷のような眼差しが、わずかに溶ける。

「……どうやら、杞憂だったみたいですわね」

彼女が何か呟いたけれど、よく聞き取れなかった。

首を傾げると、イザベラは背筋を伸ばす。とても美しい。

「先ほどはレティシア様に対して、余計な言い回しがございました。ご無礼をお許しくださいませ」

思いがけない言葉に、レティシアは瞬きをする。

「い、いえ。お気になさらないでください。わたしの方こそ、出過ぎた真似を」

「いいえ。あの場で最も速やかに正しい提案をなさったのは、あなた様でございます。ジークフリート殿下の仰る通り、興味深い方だと存じましたが、それだけでなくとてもお優しいのですね」

表情は相変わらず凛としているが、声の角が取れている。

「イザベラ。やはりあの物言いはわざとだったのか」

「あら、アルベルト様にはお分かりにならないでしょうけれど、女には色々ございますの。殿下があのように楽しげに女性のお話をしているのは初めてでしたもの」

アルベルトの言葉に、イザベラがツンとそっぽを向いてしまう。

はあ、と大きくため息をついているアルベルトの事をレティシアがそっと見上げると、柔らかな笑みが降りてきた。

最近、こうして自然に微笑みかけてくれることが増えたように思う。そうすると、レティシアの口角も自然に上がってしまうのだ。

(殿下とは、どなたのことでしょう)

はあ、と大きくため息をついているアルベルトの事をそっと見上げると、柔らかな笑みが降りてきた。

最近、こうして自然に微笑みかけてくれることが増えたように思う。そうすると、レティシアの口角も自然に上がってしまうのだ。

「レティシア。イザベラは、ジークフリート殿下の婚約者なんだ」

「そうなんですね、王太子殿下の」

「それに俺たち……いや私たちは昔から幼なじみでもある」

「おさななじみ」

王太子の婚約者で、幼なじみ。

その事実を知ったレティシアは大きく瞬きをする。どうしてだろう、先ほどよりもずっと、心が軽くなった気がする。

そっとイザベラの方を見ると、穏やかな表情だった。

「ええ、そうですの。わたくしたちは五つの時から知っていますわ。もちろんアルベルト様の小さな頃も。知りたいですか?」

イザベラの楽しげな声音に、レティシアは思わず身を乗り出す。

「はい! ぜひ、教えてください」

「だめだ、イザベラ。その話は――」

「まあ、止めても無駄でございますわ」

イザベラは涼やかに続ける。

「勉学がたいへん厳しかった折、アルベルト様は時刻を告げる廊下の振り子時計を、いつの間にか少しだけ進めてしまわれた事がありましたわ。授業が早く終わるように」

「……覚えていないな」

「覚えておいででしょう。ジーク様も共謀していて、その後、お二人はこってり怒られていましたもの」

小さなアルベルトが王太子と並んで叱られている様子を想像したレティシアの口元は、思わず笑みにほどけた。

今の姿からはまるで想像出来ないけれど、考えたら楽しくなってくる。

「まあ、なんて可愛らしい」

「可愛らしくはないだろう……」

「他にもございますわ。勉強を抜け出して殿下と噴水に落ちたりもしていましたわね」

「イザベラ、その辺で勘弁してくれないか。昔話は十分だ」

アルベルトが珍しく咳払いをし、視線を窓へ逃がす。耳の先がわずかに赤い。レティシアは胸の前で本を抱き直し、そっと彼を見上げた。

かわいいと、思ってしまうのはなぜだろう。

イザベラとの兄妹のようなやり取りを聞いて、安心してしまうのはなぜだろう。

ぎゅうぎゅうとかわいそうな位に本を抱きしめながら、馬車は侯爵家へと到着する。

出迎えた侯爵家の家令に起きたことを簡潔に説明した後、アルベルトはまた馬車に戻ってきた。

先ほどのやり取りなどを聞いていたら、モヤモヤした気持ちはすっかり霧散した。レティシアはにこにことアルベルトを迎える。

「すまなかった。予定を潰してしまって」

イザベラを送り届けたことで、お出かけは中断となってしまった。そのことを申し訳なく思っているらしく、アルベルトの眉尻が下がってしまっている。

確かに、これからまた王都に戻るのも大変だろう。

「いえ! イザベラ様に大事がなくて良かったです。わたしはもう十分楽しみましたし」

文具屋に行って、本屋にも行けた。自由に買い物が出来るだけで、とても満ち足りた気持ちだ。

レティシアの本心だったのだが、アルベルトの表情は晴れない。

「……今度、やり直しをさせてくれ」

「やり直しですか?」

「ああ。また君と出かけたい」

真っ直ぐな瞳に射抜かれて、レティシアはこくりと頷く。

「はい、わたしもまた旦那様とお出かけしたいです!」

それは紛れもなく、レティシアの心からの言葉で。こんな風に何度でも一緒に出かけられたらいいなと思ってしまった。