軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

初めての家族旅行 3

――あろうことか、脱衣所には人影があった。

「エミラ?」

しかも、その人影は私の名を呼んだ――つまり、旦那様である。

湯上がりなのだろう、濡れた髪が額に貼り付いて妙に色気がある。

そして、旦那様は上半身を露わにしていた。

五年前よりも鍛えられた体は、戦場で剣を振い続けていたからだろう。

「……アンナか」

旦那様はため息をついて、上衣を羽織った。

もちろん、旦那様の色気ある上半身に照れなかったわけではない。

けれど、それ以上に看過できないものを見てしまった私は、旦那様に駆け寄った。

――それは、五年前にはなかった無数の傷だ。

中でも、左肩から右脇腹にかけて胸を斜めに走る傷はとても深いものに見えた。

「旦那様」

「あまり見て、気分のいいものではないだろう……すまなかっ……」

ドンッと音が立つほどの勢いで旦那様に抱きついてしまった。

上衣を羽織ったとはいえ、旦那様の胸元ははだけたままだ。

素肌に頬が触れる。傷は数年経っているだろうが、今も痛々しい。

出征から三年経ったころ、旦那様が消息不明になったことがある。

幸い三日ほどで見つかったらしいが、そのときの怪我であろうか。

「痛かった……でしょう」

子どもみたいなことしか言えない自分が、本当に情けない。

痛かったのは旦那様なのに、泣いてしまっていることも……。

「痛くなかったといえば嘘になるが……」

涙ですっかり曇ってしまった視界では、旦那様の表情は見えない。

けれど、その声は戸惑い、私を気遣っている。

だからきっと、困ったように眉根を寄せて笑っているに違いない。

まぶたを強く閉じて、もう一度目を開けば、旦那様は予想に違わぬ表情を浮かべていた。

「これだけの傷なら、通常は一旦帰還になるはずです」

辺境伯領でもそうだった。重傷を負った騎士は、治療をして移動が可能になれば王都に帰還し、復帰するとしても傷が癒えてからだった。

魔獣との南端の戦場である辺境伯領は、それでもまだ治療のための施設が十分ある。

しかし、旦那様が向かった北端の戦場は、栄えている街がない。未だ、人が開発しきれていない地域なのだ。

「――北端に現れた魔獣は、知性があり王都を目指しているように見えた」

「え……?」

魔獣は野生の動物の一種であると考えられている。

人間にも魔力を持つ者と持たない者がいるように、魔獣と野生動物は根本的には同じなのだ。

「レイブランドが言っていた……一千年の間には数回、そのような魔獣が現れ、人を危機に陥れたと」

「……それは」

知性を持った魔獣については初めて聞いた。

だが、辺境伯家に伝わる書物にも、数百年に一度とても強い魔獣が現れ、たくさんの人々が悲劇に見舞われたと書かれていた。

「あれとまともに戦えるのは、俺しかいなかった」

「……だから、帰ってこなかったのですか」

「王都には君たちがいる」

旦那様は、ポツリとつぶやいたあと、言うつもりがなかったことを言ってしまった、というような顔をした。

「……泣かないでくれ。君が泣くと、どうしていいかわからなくなる」

「はい、旦那様」

返事だけはかろうじてできても、涙を抑えるのは難しい。

それでも、旦那様を見つめ笑みを浮かべる。

「……君たちは、この五年、俺にとって帰る場所だった」

これからもそうなのだ、と伝えようとしたが、唇が塞がれて言葉を発することはできなかった。

少し塩辛い口付けだ。そして、長くて濃厚だ。

―――ガッターン!

そのとき、何かが勢いよく倒れる音がした。

慌てて私たちは距離を取る。

倒れたのは魔剣だった。

魔剣の宝石は、顔を真っ赤にしているかの如く赤い。

いや、元々赤い宝石だった……そのはずだが、やっぱりいつもよりも赤い気がする。

改めて見れば、旦那様の上衣ははだけたままで、端正な筋肉が露わになっている。

我に返れば、それはもう、ものすごく恥ずかしい。

「俺は先に部屋に戻る。子どもたちが心配だ」

「え、ええ……!」

旦那様は魔剣を手にすると、足早に脱衣所から去っていった。

一人残された私は、火照る頬を両手で押さえるのだった。