軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

〇。豆話 ソコジャナイバッカスのぽかぽかなおうち

バッカス氏は憤慨していた。

「今帰った」

「まああなた、ご無事で何よりです」

「湯に入る」

「今準備いたしますわ。お座りになっていて」

色白の顔をパッと明るくして迎え入れる妻に、バッカス氏は外套と帽子を渡す。

彼女はニコニコとそれらを受け取って、使用人に声をかけた。

いらいらいら、とバッカス氏はブーツに包まれた足を揺すった。

『あなたは全てがズレています。基礎練習は何十年怠っておいでですか』

人をモノのように見ながら言い切ったあの男の無機質な顔と淡々とした声が蘇る。

『基礎練習? そんなものは新人の、教科書の1頁目に載っている初歩的なものだ。どうしてわたし程の者がそんな練習をしなくてはならないのかね』

『何か勘違いなさっているようだ。大切なことだからこそ教科書の1頁目に載っているのです。基礎を欠いたうえに何を重ねようと無駄なだけです』

『言ってくれるな。そういう君はもちろん毎日続けているのだろうな、クルト=オズホーン3級癒師』

『朝晩5回ずつ計10回。今のところ一日も欠かしたことはありません』

『……』

『それでは』

そう言って表情を変えないまま

バッカスを責めることも罵ることもなく、淡々と消えた。

バッカスは銀級、4級癒師である。

この気候の安定した穏やかな避暑地で、内臓にできものを作った貴族向けの癒院で、日々診療を行う立派な癒師である。

貴族の常識を備え、流行を知るバッカスは、彼らによく頼られる。

バッカス師バッカス師と引っ張りだこで、何十年も、何百人もの人々をこの地で癒してきた。

多少の失敗程度であの生意気な若造に、そんなことを言われなければならない立場の人間ではないのだ。

「……」

バッカスは机の引き出しから、手のひら程度の小さな箱を取り出した。

木でできた、小さな迷路である。

すっかり古び、底の端は黒ずんでいる。

テーブルにそれを置き、バッカスは手のひらを翳した。

「こんなもの」

小さな光を空に浮かべ入り口に差し入れる。

いきなり穴からずれ、光はパチンと消えた。

「……久しぶりだからな、手元が狂った」

誰もいないのにバッカスは言い訳をした。

きょろきょろとあたりを見回し、今度はさっきよりも慎重に、前かがみになって光を差し込む。

「よし!」

言った瞬間に迷路の壁にぶつかり、光はまたパチンと消えた。

「……」

身を乗り出し、次はそーっと球をゆっくり動かす。

動かすことに集中しすぎて道を間違え、戻ろうとした球がまたパチンと消えた。

「……」

バッカスは呆然とした。

昔はこんなもの、5秒もあればできたのだ。

迷路が手元になくても小さな球を自由自在に動かして、障害物を置いた机の上で、同級生と速さ正確さを競ってみたりしたものだった。

何十年も高度な癒術を続けてきたのだ。こんなもの簡単なはずだった。

『あなたは全てがズレています』

「私はズレてなどいない!」

「あなた、湯の用意ができましてよ。あら」

呼びに来た妻がテーブルの上を見てニコニコ笑う。

「なんて懐かしい。昔はよくやってらっしゃいましたねえ」

「……やってただろうか」

「ええ、子供の遊びみたいだからからかったらあなた、『教科書の1頁目に載っている大切なことだ。笑うんじゃない』とおっしゃいました。真剣なお顔がとっても素敵でした」

「……」

バッカスは呆然と妻を見た。

ぴちょん

ぴちょん

ぴちょん

湯につかりながら、バッカスは自分の手のひらを見た。

いつもよりしわしわの、滑らかさを失いつつある男の手だった。

「……ズレてる……?」

バッカスは考える。

そういえばバッカスが引っ張りだこだったのは、少し昔の話ではなかっただろうか。

バッカスの知る貴族の常識と、流行は、若い貴族たちとはかみ合っていなかったのではなかっただろうか。

どこの任務に行っても、誰かに感謝されたことがなかったのではないだろうか。

混乱しながら体を拭き

服を着て、顔を合わせた妻にバッカスは聞いた。

「なあ」

「はい」

「私はズレているだろうか」

いつもニコニコしていた妻の顔からスン、と表情が消え

「ええ。今頃お気づきになられましたの?」

冷たい声が言い捨てた。