作品タイトル不明
第39話 聖女レイナ13歳編 薔薇の香りのワルツ
レイナが13歳になった春、城の温室が薔薇の香りに包まれる頃、アメリア王太子妃が彼女の部屋を訪れた。
「レイナ、もしよければ、ダンスの練習をしてみないかしら?」
王太子妃は優しい笑みを浮かべながら、編み物に没頭するレイナの隣に腰を下ろした。
王太子妃の声に、レイナは針を置いて顔を上げた。
「ダンス……ですか?」
こうして、午後の時間がダンスの練習時間となった。
「ええ。2ヶ月後に、小さな舞踏会が開かれるの。宮廷の人々が集まる、かしこまったものではないけれど、あなたもそろそろ、そういった場に慣れておく年頃でしょう?」
実はこの話、数日前から動いていた。
アメリア王太子妃とレイナの母エラがお茶会をした時、舞踏会でのダンスの話になり、エラは「レイナにもそろそろ社交の場を経験させたい」と了承していたのだ。
アメリアは「私が教えましょう」と申し出て、こうして今日の訪問となったのである。
レイナの頭には、外交の場で見た優雅なワルツの光景が浮かんだ。
あの流れるような動きは、まるで魔法のようだった。
でも、自分の足で踊るとなると……話は別だ。
「はい、喜んで!」
そう答えた彼女の声には、少しだけ勇気を込めた。
広いサロンで、アメリア王太子妃が優雅にステップを踏んで見せる。
「一、二、三。一、二、三。ワルツは流れるような円を描くのよ。まるで……編み物の糸が紡がれていくようにね」
その比喩に、レイナは思わず笑みを浮かべた。
針と糸なら、少しは理解できる気がした。
最初はぎこちなかった。
右足を出すべきところで左足を出し、回るべき方向と反対に進んで、王太子妃の優雅な靴を踏みそうになることさえあった。
「大丈夫、焦らないで」
アメリア王太子妃は優しく手を取った。
「ダンスも、一歩一歩の積み重ねよ。ちょうどあなたの編み物のようにね」
その言葉を聞いて、レイナは少し落ち着いた。確かに、最初の編み目は歪で、刺繍の針は指を刺した。ダンスも同じなのだろう。時間をかけて、一歩ずつ。
練習が始まって一週間ほど経ったある日、サロンの入口に人影が見えた。
「おや、クリス。見学に来たの?」
18歳になったばかりのクリス王子が立っていた。
クリスとはたまに庭を散歩したり、読んだ本の話をしたりしていた。
「母上が熱心に教えていると聞いて」
クリスは少し照れくさそうに言った。
「邪魔なら、すぐに……」
「いいえ、ぜひ見ていってください」
レイナが言った。
「私のぎこちない足捌きを笑ってください」
「笑ったりしないよ」
クリスは真面目な顔で言い、部屋の隅の椅子に腰かけた。
それからというもの、クリスは時折練習を見に来るようになった。
最初はただ静かに見ているだけだったが、次第に助言をくれるようになった。
「レイナ、もう少し背筋を伸ばしたほうがいい。そう、その調子」
「その回転、もう少しゆっくりにしてみたら? 急ぐとバランスを崩すよ」
ある日、レイナが何度も同じステップでつまずいた時、クリスが立ち上がり、王太子妃に向かって言った。
「母上、よければ、私が少し手伝いましょうか?」
アメリア王太子妃は嬉しそうにうなずき、クリスがレイナの前に立った。
「さあ、手をどうぞ」
レイナは少し緊張しながら手を差し出した。
クリスの手は、彼女の手よりもずっと大きく、温かかった。
「心配しないで。僕について来て。一、二、三……」
クリスのリードは、アメリア王太子妃のように優雅ではなかったが、確かで力強かった。
レイナは自然にその流れに身を任せることができた。
「ほら、できているよ」
レイナがふと顔を上げると、クリスが微笑んでいた。その笑顔に、彼女も思わず笑みを返した。
それからの練習は、以前よりも楽しくなった。
クリスが来る日は、レイナのステップが少し軽やかになったような気がした。
二ヶ月の月日は、あっという間に過ぎていった。
舞踏会の夜がやってきた。
城の一室がキャンドルの灯りで柔らかく照らされ、小さな楽団が優雅なワルツを奏でていた。
レイナは淡いラベンダー色のドレスを身にまとい、少し緊張しながら部屋の隅に立っていた。
「レイナ」
すると、クリスの声がした。
彼は紺の正装に身を包み、少し改まった様子で立っていた。
「最初のダンス、僕と踊ってくれないか?」
レイナはうなずき、手を差し出した。
楽団が新しいワルツを奏で始めた。
クリスが手を取ると、レイナは自然にそのリズムに身を任せた。
練習で何度も踏んだステップが、今はまるで違って感じられた。
キャンドルの灯りがゆらめき、ドレスの裾が優雅に広がる。
「上手になったね」
クリスがささやいた。
「最初の日は、母上の靴を踏みそうだったのに」
「アメリア様とあなたが教えてくれたおかげです」
「いや、君自身が努力したからだよ。編み物を覚えた時と同じようにね」
2人は静かに回転した。
レイナは、編み物の針を握ったあの日を思い出していた。
糸が絡まり、指を刺し、何度もほどきながら少しずつ形を作ったあの時間が、今このダンスに繋がっているのだと思った。
魔法は一瞬で光を生み、外交は言葉で道を拓く。
編み物は時間をかけて温もりを紡ぎ、ダンスは一歩一歩で調和を作り出す。
すべては違うけれど、すべては「積み重ね」なのだ。
曲が終わりに近づいた時、クリスが静かに言った。
「レイナ、君はこれからも、いろんなことを学んでいくんだろうね。魔法も、外交も、編み物も、ダンスも。でも、一つだけ覚えていてほしい」
「何ですか?」
「君が一針一針で誰かの笑顔を紡いだように、一歩一歩で誰かと調和を創り出すように……どんな小さなことでも、君のその真剣な眼差しが、周りを変えていくんだ」
音楽が静かに止まった。
2人の動きも止まり、周りから軽やかな拍手が聞こえた。
レイナはクリスに礼をすると、窓の外を見た。
そこには、彼女が編み始めたばかりの、新しい命の春が広がっていた。
机の上の歪なハンカチ、そして今夜のこのダンス。
すべては小さな一歩から始まり、やがて確かな道へと繋がっていく。
13歳の春、レイナはまた一つ、優しさの形を学んだのだった。
それはアメリア王太子妃の手ほどきであり、クリスの温かい励ましであり、母エラの見守りでもあった。
そして何より、自分自身の一歩一歩の勇気だった。