軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話 祖父の遺言と、召喚プログラム

スマートフォンが硬質なバイブレーションを響かせるたび、みぞおちのあたりがギュッと締め付けられるような鈍い吐き気を覚える。

その条件反射的な恐怖が薄れるまで、退職届を叩きつけてから優に二週間の時間を要した。

御門悠真(みかどゆうま) は、築四十年の古びたアパートの天井に浮かぶ木目の染みをぼんやりと見つめながら、ひたすらに無為な時間を貪っていた。

システムインテグレーターという聞こえの良い肩書きの裏側にある、実態はただの過酷な人月商売とデスマーチの温床である企業から逃げ出したのは先月のことだ。

「仕様が固まっていない状態で、とにかくアジャイルで実装を進めてください」

「あの機能、やっぱりクライアントの要望で来週のリリースに間に合わせましょう。土日を使えばできますよね」

「なぜ深夜にサーバーが落ちたのか、今すぐ原因を特定して始末書と再発防止策をまとめて」

鼓膜にこびりついたプロジェクトマネージャーのヒステリックな怒声も、ようやく遠のきつつある。

だが、失われた気力はそう簡単には戻ってこない。

三十歳を手前にして、完全な無職。

口座にはいくらかの貯金があるため数ヶ月は糊口をしのげるが、履歴書を書き直す気力も、転職エージェントの担当者と愛想笑いを浮かべて面談をする気力も、今の悠真には微塵も残っていなかった。

心身のバッテリーは完全にゼロ、あるいはマイナスを指している。

今はただ、静かに呼吸をして、腹が減ったら適当な流動食を胃に流し込むだけの、意思を持たない有機物になりたかった。

だから、枕元で鳴り響いた着信音に、反射的に舌打ちをしたのは無理もないことだっただろう。

画面に表示されたのは『祖父』の二文字。

しばらく無視を決め込んでいたが、コールは執拗に鳴り続ける。

アラートを放置してインシデントを拡大させるよりは、さっさと一次対応をしてクローズさせた方が結果的に自分のためになる。

エンジニアとして骨の髄まで染み込んだ悲しい習性が働き、悠真は重い腕を持ち上げて通話ボタンをスワイプした。

「……もしもし。じいさん、どういう風の吹き回しだよ。こっちはようやく、泥のように眠る権利を獲得したところなんだけど」

『悠真か。息災そうだな』

電話の向こうから聞こえてきたのは、ひどく掠れた、しかし妙に芯のある低い声だった。

「息災っていうか、無職になった。会社辞めたばっかで暇は暇だけどさ。あんまり面倒事は持ち込まないでくれよ」

『……一度、顔を見せに来い』

いつもの、少し人を食ったような軽口はなかった。

『少しだけ、話しておきたいことがある。今のうちにな』

それだけを言い残し、通話は一方的に切断された。

ツー、ツーという無機質な電子音を聞きながら、悠真は眉をひそめた。

祖父である御門宗一郎は、親戚筋からも「骨董とオカルトに取り憑かれた変わり者」として煙たがられている老人だ。

市街地から離れた古い屋敷に一人で住み、得体の知れないガラクタを収集しては巨大な蔵に溜め込んでいる。

子供の頃はあの薄暗い屋敷がダンジョンのようで面白く、よく遊びに行っていたが、大人になってからは盆や正月にすら顔を出さなくなり、すっかり疎遠になっていた。

気まぐれな呼び出しなら無視して二度寝を決め込むところだが、声のトーンが妙に耳にこびりついて離れなかった。

――アラートレベルで言えば、クリティカル。

直感がそう告げていた。

悠真は重い腰を上げ、数日ぶりに外出着へと袖を通した。

祖父の住む御門家の本邸は、山際を切り開いたような少し不便な土地にある。

黒ずんだ板塀と、現代の住宅街には不釣り合いなほど無駄に立派な門構え。

手入れの行き届いていない庭には初夏の雑草が生い茂り、むせ返るような緑の匂いを放っていた。

案内された奥座敷は、昼間だというのに薄暗く、線香と古い紙が混ざったような独特の匂いが立ち込めていた。

部屋のど真ん中に敷かれた万年床。

そこに、宗一郎は静かに横たわっていた。

「……じいさん、なんだよその顔色。病院行けよ」

悠真の口から、思わず素の言葉が漏れた。

数年ぶりに見る祖父の姿は、ひどく痩せこけていた。

頬は深くこけ、皮膚は生気を失った土気色に変色している。

誰の目にも、死期が近いことは明らかだった。

だが、布団から覗く双眸だけは、妙な熱を帯びて爛々と輝いている。

痴呆の類ではない。

極めて理知的な、正気の光だ。

「医者ならとうに見放したわい。老衰じゃよ、ただのな」

宗一郎は乾いた笑いを漏らし、ゆっくりと身を起こそうとした。

悠真が慌てて歩み寄り、その骨ばった背中を支える。

「急に呼び出して悪かったな。じゃが、どうしても儂の口から伝えておかねばならんことがあってな」

「遺言なら親父や叔母さんたちに言えよ。俺に言われても困るぞ」

「あいつらに話しても、どうせ耄碌したと笑われるか、気味悪がられるだけじゃ。お前なら、あるいは……いや、ただの儂の自己満足かもしれんな」

宗一郎は一呼吸置き、まっすぐに悠真を見据えた。

「御門家が、ただの古い家ではないことは、お前もうっすらと知っておるじゃろう」

「まあ、妙な古文書とか変な骨董品を溜め込んでる、重度の歴史オタクの家系だとは思ってたけど」

「違う。御門はな、召喚師の家系じゃ」

悠真は思わず沈黙した。

そして、目の前の老人の顔をじっと観察した。

冗談を言っている顔ではない。

熱で譫言を言っているようにも見えない。

本気だ。

本気で自分たちは召喚師の一族だと言っている。

「……じいさん、悪いけど、だいぶファンタジーな話だぞ、それ」

「知っとる。じゃから誰にも言わなんだ。だが事実じゃ。かつての御門は、神も悪魔も、妖も精霊も、死者の影すら呼ぶ術を持っておった。召喚術を起こした始祖の血を引く、万能召喚術の本家本元じゃった」

宗一郎の言葉は、熱を帯びていく。

「召喚術とはな、ただ漫然と怪異を呼ぶものではない。火が要るなら火の精霊を呼び、水が要るなら水神を呼ぶ。情報が要るなら影に潜むものを呼び、戦が要るなら鬼を呼ぶ。本来の召喚師とは、そうしてあらゆる状況に対し、無限の手札から最適解を引き出し対応する者のことを指したのじゃ」

悠真はため息をつきたくなるのを堪えた。

要するに、先祖代々伝わる中二病の末期症状というやつだろう。

死期を悟った人間が、一族の妄想を現実だと思い込みたがっている。

だが、死にかけの老人の最後の言葉を真っ向から否定するほど、悠真も無慈悲ではない。

「……へえ。万能ってやつか。大したもんだな」

「その通り。始祖の代においては、疑いようもなく最強の術式じゃった。手札が無限にあるのじゃからな」

そこで、宗一郎の顔に深い影が落ちた。

「だが、それが一番の問題じゃった」

「問題?」

「万能であるがゆえに、あまりにも複雑すぎたのじゃ」

宗一郎は咳き込みながら、痛切な声で語り始めた。

呼ぶ対象が違えば、すべてが違う。

火の精霊を呼ぶための魔法陣と、水神を呼ぶための陣は構造からして全く異なる。

捧げるべき供物、契約を縛るための言語、禁忌、呼び出すのに適した時刻、方角、月の満ち欠け。

それら無数のパラメーターが対象ごとに存在し、一つでも間違えれば術は発動しないか、最悪の場合、術者自身が代償として喰われる。

「膨大すぎる知識と手順じゃ。人間の脳で処理できる限界をとうに超えておった。じゃから、多くの分家は、早々に万能性を捨てたのじゃ」

火だけを扱う家。

水神だけを祀る家。

鬼だけを使役する家。

式神だけを作る家。

悪魔契約だけに特化した家。

そうやって対象を単一のものに絞り込むことで、彼らは技術を現代まで存続させた。

「一方、本家本元である御門だけは違った。『召喚師とは万能であれ』『呼べるものを狭めた時点で、それは召喚術ではなくなる』。その思想をどうしても捨てられなかった。万能の召喚術こそが至高であると、固執したのじゃ」

「……嫌な予感がするな。その結果はどうなったんだ?」

「愚かな話じゃよ」

宗一郎は自嘲するように、乾いた唇を歪めた。

「すべてを守ろうとして、何一つ満足に呼べなくなったのじゃ。知識の海で溺れ、複雑怪奇な手順に縛られ、本家の人間は誰一人としてまともな召喚を成功させられなくなった。火だけを継いだ家は今も火を呼べる。鬼だけを継いだ家は今も鬼を使える。だが、すべてを継ごうとした御門は……何も継げなんだ。万能の器は、ただの空箱に成り下がった」

悠真は黙って聞いていた。

魔法やオカルトを信じているわけではない。

だが、宗一郎の語る「没落の理由」は、システムエンジニアである悠真にとって、あまりにも生々しい既視感があった。

――要するに、肥大化しすぎたレガシーシステムだ。

機能要件を際限なく詰め込みすぎ、パッチを当て続けた結果、ソースコードはスパゲッティ化し、誰も全容を把握できなくなる。

機能を削る 決断(リファクタリング) ができず、「万能」という仕様に固執した結果、システム全体が運用不能に陥る。

ITの現場で腐るほど見てきた、巨大プロジェクトの失敗例そのものではないか。

「儂で、この家は終わりじゃ」

宗一郎の静かな言葉が、線香の香る部屋に落ちた。

「お前に継げとは言わん。むしろ、こんな危険で役に立たない呪いを背負わせる気はない。召喚師など、今の世に居場所はないからの」

「……」

「じゃが……最後に、お前にだけでも知っておいてほしかったんじゃ。御門は、ただの時代遅れの旧家ではなかった。かつては、狂気じみた情熱で、本当に神や悪魔を支配しようとした者たちがいた。そして、それに人生を賭けた馬鹿な男がいた。その事実だけをな」

疲れ果てたように目を閉じる祖父を見下ろしながら、悠真は言葉を失っていた。

信じる、信じないの話ではない。

一人の人間が、人生のすべてを賭け、そして敗北した。

その事実の重さが、オカルトという荒唐無稽な外枠を突き破って、悠真の胸に迫っていた。

返す言葉が見つからない。

だが、祖父が嘘をついているわけではないことだけは、その声の響きから痛いほどに伝わってきた。

それから数日後、御門宗一郎は静かに息を引き取った。

葬儀は滞りなく終わった。

集まった親族たちの顔に、深い悲しみは見られなかった。

皆、表面上は神妙な顔を作りながら、裏では「厄介払い」の算段に忙殺されていた。

「お義兄さん、この本家、どうします? 維持費だけでも馬鹿にならないでしょう。固定資産税だって相当な額ですよ」

「取り壊して土地を売るにしても、あの巨大な蔵の中身を処分するだけでいくらかかるか……。業者を呼んだら数百万単位で吹っ掛けられますよ」

「市の文化財とかで引き取ってくれないかしら。歴史的価値があるって言い張ればワンチャンス……」

誰もが、宗一郎が遺した古い屋敷と蔵を、巨大な負債として扱っていた。

召喚術だのなんだのという歴史を知る者は誰もおらず、仮に知っていたとしても「カビの生えた迷信」と一蹴しただろう。

話し合いが紛糾し、責任の押し付け合いがピークに達したとき、悠真は口を開いた。

「俺が相続しますよ。どうせ今、無職で時間だけは腐るほどあるんで。屋敷の管理も、蔵の整理も、当面は俺がやります」

親族たちは一瞬驚いた顔をした後、あからさまに安堵の息をついた。

面倒事をすべて被ってくれるという奇特な若者の提案を、彼らが拒む理由はなかった。

――勢いで言ってはみたものの、現実は甘くなかった。

葬儀の翌日から、悠真の果てしない戦いが始まった。

固定資産税の計算、水道光熱費の名義変更、親族間での遺産放棄手続き。

何より厄介だったのは、屋敷全体の掃除と、湿気で腐りかけた床板の補修だ。

「無職を満喫するはずが、なんで築何十年の物件の管理人なんてやってるんだ、俺は……」

首に巻いたタオルで汗を拭いながら、悠真は何度目かの愚痴をこぼした。

人生、どうしてこう極端な方向にばかり転がるのだろうか。

物理的な手続きと事務作業が一段落した頃、悠真はようやく問題の「蔵」の鍵を開けた。

重い扉を軋ませながら押し開けると、冷たく、カビ臭い空気が鼻を突いた。

中は、まさにカオスだった。

天井まで届きそうな木製の棚には、和紙の束、木箱、得体の知れない金属器、古い札、布に包まれた何かが無造作に詰め込まれている。

床には、色褪せた墨で奇妙な幾何学模様――おそらく魔法陣の類――が幾重にも描かれていた。

「こりゃあ、確かに業者に頼んだら数百万飛ぶな……」

悠真は溜息をつきながら、手近にあった木箱を開けた。

中には古文書が入っていた。

凄まじい崩し字で書かれており、素人には解読不能だ。

隣の巻物を開くと、今度は何語かもわからない異国の文字がびっしりと書き込まれていた。

普通の人間なら、意味不明なオカルト資料にしか見えない。

「いや、無理だろこれ。そもそも読めないし。古文書解読スキルなんて持ってないんだけど」

すべてがゴミに見える。

だが、その中に一つだけ、異質なものがあった。

棚の奥に隠すように置かれていた、大学ノートの束だ。

表紙には『御門宗一郎』という署名と、年代が記されている。

中を開くと、古文書とは打って変わり、見慣れた現代語のボールペン字で、びっしりとメモが書き込まれていた。

『供物の対応表・改訂版』

『真名不一致時の術式暴走事故例について』

『契約不履行時の反動と霊的ダメージの相関』

『火霊召喚時の禁則事項一覧』

『水神契約に必要な清めのプロセス』

『悪魔召喚時、文言の曖昧さ厳禁。言語的脆弱性を突かれる危険性あり』

それは、若き日の祖父が、複雑怪奇な召喚術をなんとか体系化・整理しようと悪戦苦闘した痕跡だった。

悠真は、埃っぽい蔵の床に腰を下ろし、ランタンの灯りを頼りにノートを読み進めた。

最初は、ただのオカルトマニアの妄想録として読んでいた。

だが、ページを捲るごとに、悠真の中の「システムエンジニアとしての脳」が、激しく反応し始めた。

「……ん?」

悠真の指が止まる。

「これ、ただのオカルトじゃ、ない……?」

祖父の残した記録は、失敗とエラーの連続だった。

だが、そのエラーには明確な「法則性」が存在していた。

魔法陣。

これはただの神秘的な絵ではない。

召喚対象を現実に実体化させるための『 実行環境(ランタイム) 』だ。

真名。

対象の本当の名前というより、対象を特定し呼び出すための『一意識別子(ID)』であり『認証キー』。

供物。

神仏への贈り物という建前だが、実態は『接続要求に対する対価(リソース支払い)』。

呪文。

祈りの言葉ではない。

対象に命令を割り込ませるための、手順化された『コマンド』。

契約文。

使役するための『 権限制御(パーミッション) 』。

結界。

外部からの干渉を防ぎ、対象の暴走を隔離する『サンドボックス』。

封印。

異常終了時の『隔離処理』。

悠真は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

「なるほど……召喚術と言われると意味不明だけど、これは要するに、存在ごとの約束事とルールを決めて縛る仕組みだ」

呼び出す対象を識別する。

供物で接続条件を満たす。

契約で行動権限を制限する。

結界で実行範囲を限定する。

構造自体は、現代のコンピュータシステムと驚くほど酷似している。

祖父のノートの端に、始祖の言葉としてこんな一文が書き残されていた。

『召喚師とは、強きものを呼ぶ者にあらず。必要な時に、必要な存在と契約できる者なり。』

悠真は息を呑んだ。

まさに、APIを叩いて必要なサービスを呼び出す思想そのものではないか。

ただ、そのインターフェースが呪文や魔法陣というアナログ極まりない手段に依存しているだけだ。

人間が手作業で一つ一つのコマンドを入力し、エラーチェックを自己責任で行っているから、少しのミスで致命的なバグを引き起こす。

悠真は立ち上がった。

頭の中に、一つの狂ったアイデアが閃いていた。

「……これ、呪文の一部をプログラムで代行できないか?」

人間が手作業で行うには複雑すぎる条件分岐も、コンピュータに処理させれば一瞬だ。

曖昧な言語による契約の抜け穴も、厳密なコードに落とし込めば塞ぐことができる。

オカルトとIT。

絶対に交わらないはずの二つの領域が、悠真の頭の中で急速に結びついていく。

その日の午後、悠真は母屋から愛用のノートPCを蔵に持ち込んだ。

折りたたみ式の作業机を広げ、モバイルWi-Fiルーターを設置する。

傍らには、祖父のノートと古文書の山。

「さて、どこまで論理化できるか……」

最初は、遊び半分に近い気持ちだった。

「どうせ動かないだろうけど、構造整理のトレーニングにはなる」くらいの感覚だ。

無職の不安から目を背けるための、現実逃避のプログラミング。

だが、キーボードを叩き始めると、エンジニアとしての本能が完全に目を覚ました。

悠真は、祖父のノートから「召喚術の共通処理」を抽出し、プログラムのモジュールとして落とし込んでいった。

まず実装したのは『対象認識モジュール』。

PCのWebカメラの映像、マイクが拾う音声、周囲の温度変化。

それらの環境データと、祖父の資料にある「霊的特徴」のデータベースを照合し、召喚対象らしき存在のパラメーターを識別する機能。

次に『契約テンプレート生成機能』。

祖父が残した古い契約の文言を現代語に翻訳し、さらに法務文書のような厳密な「条項」に分解した。

「……この契約文、例外処理が甘すぎる」

カタカタとキーを叩きながら、悠真は呆れたように呟いた。

「『我に仇なすべからず』って、定義が広すぎるだろ。精神的苦痛は含まれるのか? 間接的な物理干渉はどうなる? 悪魔じゃなくても悪用するぞ、こんなの。先祖、強かったのかもしれないけど運用設計は雑だな……」

曖昧な仕様を排除し、明確な『権限制御』として定義し直す。

攻撃禁止、移動範囲制限、召喚者への直接・間接的干渉禁止などを細かく設定する。

そして要となるのが『拘束式の起動プロトコル』。

これはゼロから作るのは不可能だった。

そこで悠真は、蔵に残された古い結界と召喚陣を利用することにした。

プログラムの実行トリガーに合わせて、対象を一時的に縛る。

強制帰還機能や、細かい供物の設定ロジックは、まだ実装できていない。

現時点での召喚プログラムは、決して万能ではない。

蔵に残っている古い召喚陣と結界を利用して、かろうじて動く試作品に過ぎない。

ノートPCひとつで世界中どこでも悪魔を支配できるわけではないのだ。

夜の帳が下りる頃、画面に簡素なUIが完成した。

『Summon Runtime Prototype』

あるいは日本語で『召喚式代行プログラム 試作版』。

コンソール画面には、緑色のフォントで現在のステータスが表示されている。

【対象認識:未検出】

【契約式:標準拘束テンプレート読み込み完了】

【実行環境:御門家蔵内結界】

【供物:未設定】

【権限制御:召喚者保護優先】

【緊急停止:未検証】

悠真は、エンターキーの上で指を止め、深く息を吐き出した。

「よし、できた。これで、理屈の上では召喚術の一部をプログラムで代行できるはず……!」

一人で達成感を覚えたのも束の間、悠真はすぐに冷静になった。

「いや、待てよ。そもそも悪魔も精霊も神様も見たことないんだよな、俺。これ、動作確認どうするんだ?」

相手は神仏や悪魔だ。

テストデータが存在しない。

ここで、急速に現実に引き戻される。

祖父は死んだ。

屋敷は相続した。

仕事は辞めたまま。

こんなことをしている場合なのか、という強烈な不安が胸をよぎる。

「あー……正直、こんなことしてる場合じゃない気もするな。再就職、どうするかな。祖父の家も、このまま放置ってわけにはいかないし」

召喚プログラムを作ったはいいが、試す相手がいない。

悠真は少しだけ馬鹿馬鹿しくなった。

祖父の遺言に引きずられて、深夜にカビ臭い蔵の中で、オカルト資料を読みながら変なプログラムを作っている。

普通に客観視すれば、かなり危ない無職である。

夜が更けていく。

屋敷は古い。

風の音、木の軋む音、雨戸の震える音が、静寂の中で異様に響く。

悠真は一度、母屋に戻って休もうと立ち上がった。

そのとき、蔵の奥の方から物音がした。

がたん。

何かが倒れたような、重い音。

悠真の足が止まる。

「……猫か? タヌキか何か入ったか?」

祖父の家は古いので、野生動物が入り込んでもおかしくはない。

悠真はスマートフォンを取り出し、ライトを点灯させて蔵の奥へ向かった。

ノートPCは作業机に置いたまま。

画面はスリープ寸前の薄暗い状態になっている。

奥へ進むにつれ、空気が妙に冷たくなっていくのを感じた。

真夏だというのに、息が白く濁りそうなほどの冷気だ。

ライトの光が、奥の棚を照らし出す。

割れた木箱。

散乱した古いお札。

黒い染みのような影。

その影が、動いた。

人間の子供くらいの大きさ。

黒くひび割れた皮膚。

針金のように細い手足。

濁った黄色い双眸が、ぎょろりと悠真を見据える。

口だけが異様に耳まで裂けており、そこから腐った肉のような異臭が漏れ出していた。

低級悪魔が、そこに姿を現した。

悠真の全身が硬直する。

心臓が早鐘のように打ち始めた。

今まで見たことのない、本物の異界存在。

悪魔の第一声は、意外なほど流暢な人間の言葉だった。

「……なんだ? 宗一郎の家だと思ったが、お前は誰だよ?」

悠真は恐怖で声が震えるのを抑えきれず、必死に答えた。

「俺は……宗一郎の孫だ。祖父は、死んだ。あんたは、何なんだ?」

その言葉を聞いた瞬間、悪魔は耳障りな声でゲラゲラと笑い出した。

「なんだ、死んだのかよ、あのジジイ! じゃあ契約は無効だな。縛りも薄い。封もすっかり緩んでる。おいおい、最高じゃねえか」

悪魔の態度が、露骨に変わる。

悠真は無意識に一歩下がる。

悪魔は悠真を見て、長い舌で裂けた唇を舐めずり回した。

「で、お前が次の御門か? 弱そうだな。霊力も薄い。術も知らねえ。ただの人間じゃねえか。けど、血は美味そうだ」

悪魔の爪が、ジャキリと伸びる。

「とりあえず魂、食わせろ。大丈夫だ。全部は食わねえよ。半年寝込むくらいで済ませてやるからよぉ!」

悪魔が床を蹴った。

完全にホラーから戦闘へと切り替わった瞬間だった。

悠真は戦えない。

術も知らない。

護符も使えない。

霊力もない。

できることは、逃げるだけだ。

「うわぁっ!?」

蔵の棚が倒れる。

古い札が舞う。

スマートフォンのライトが手から滑り落ち、床を転がる。

悪魔の爪が、悠真の真横の柱を抉り取った。

悠真は必死に逃げながら、パニックになりそうな頭をフル回転させる。

さっき作ったプログラム。

召喚式代行プログラム。

蔵内結界。

対象認識。

拘束テンプレート。

未検証。

動く保証なし。

でも、他に手段がない。

(ふざけるな。本当にいたのかよ。悪魔なんて、本当にいたのかよ!)

悠真の内心で絶叫が響く。

(なら。なら、さっきのプログラムも、理屈だけは間違ってないはずだ!)

悠真は母屋へ逃げるルートを捨て、作業机のある場所へ向かって転がるように飛び込んだ。

ノートPCの場所へ。

背後から悪魔が跳躍する。

悠真は机にすがりつき、ノートPCのキーボードを叩いた。

スリープ解除。

悪魔の爪が迫る。

悠真は震える手で、エンターキーを強く押し込んだ。

「起動しろ……! 召喚式代行プログラム、実行!」

PCのWebカメラがオンになり、緑色のランプが点灯する。

画面に警告ポップアップが表示される。

『対象未登録の異界存在を検出しました。御門家蔵内結界と接続しますか?』

悠真は迷わず実行をクリックした。

カメラのレンズが、宙を跳ぶ悪魔の姿を捉える。

画面に激しいノイズが走り、悪魔の輪郭に赤いターゲッティングの線が走った。

祖父の資料から抽出した拘束式が、蔵の床に残っていた古い召喚陣と同期する。

現実とプログラムが接続された瞬間だった。

画面の中の魔法陣のグラフィックが回転を始める。

それと同時に、蔵の床に薄く残っていた墨の線が、青白い光を放って明滅した。

散乱していた古い札が一斉に震え、空気が物理的な重さを持った。

コンソール画面に文字列が流れる。

【対象認識:低位悪魔種】

【真名:不明】

【霊的署名:御門家旧契約記録と部分一致】

【契約状態:旧契約失効】

【敵対行動:検出】

【召喚者保護条項:発動】

【拘束式:実行】

「なっ……!?」

空中で襲いかかろうとしていた悪魔が、驚愕の声を上げた。

「なんだこれ! 捕縛トラップかよ!」

蔵の床から、実体を持った光の鎖のようなものが無数に撃ち出され、悪魔の手足に絡みついた。

完全拘束ではない。

鎖は明滅しており、悪魔が暴れるたびに火花を散らしている。

だが、その動きを空中で止めるには十分な力だった。

悠真は、腰を抜かして床にへたり込みながらも、食い入るように画面を見つめた。

自分が作ったプログラムが、本当に動いている。

「……動いた。マジで、動いた……」

悪魔は鎖を引きちぎろうと暴れ狂う。

「ふざけんな! なんだこの術式は! 御門の術式は、もっと古臭くて、穴だらけで、力任せだったはずだ! なんだよこれは!」

悪魔は理解不能な状況に叫び声を上げる。

「縛りが細かい! 抜け道がない! 悪魔に優しくない! 契約文が細かすぎるんだよ!」

恐怖のどん底にありながらも、悠真はエンジニアとしての 性(さが) で思わずツッコミを入れてしまった。

「いや、契約文は細かくするだろ。曖昧な仕様で本番運用する方がおかしい」

「悪魔相手に仕様とか言うな!」

悪魔がキレ気味に吠える。

悠真は画面のステータスを確認した。

まだ強制帰還の機能は未完成だ。

供物設定もない。

真名も分からない。

今できるのは、拘束と、一時的な契約条件の提示だけ。

悠真は悪魔を見据え、努めて冷静な声を取り繕って言った。

「動くな。俺に危害を加えるな。この家の人間の魂を食うな。それを守るなら、今すぐ消滅させるつもりはない」

悪魔は鼻で笑った。

「消滅させる? ハッ、お前にできるのかよ。魔力もねえ人間風情が」

悠真は画面を見る。

当然、できない。

だが、ハッタリをかける。

「……試してみるか?」

「あ?」

「俺もこのプログラムがどこまで動くか、まだ分かってないんだ。お前で実験してもいいんだぞ」

悪魔が少し、黙った。

相手は弱い人間だ。

だが、何をしているかまったく分からない。

しかも御門家の術式を、今まで見たことのない、緻密で抜け穴のない形で使っている。

悪魔の目に、明らかな警戒の色が浮かんだ。

ここで、悠真の勝ちが決まった。

圧倒的な力ではなく、未知のシステムと厳密な契約ロジックで、悪魔の思考を止めたのだ。

現時点では悪魔を完全使役まではしない。

あくまで一時拘束。

仮契約。

「次に契約交渉するまで蔵から出るな」という制限をかけるに留まる。

【仮拘束契約:成立】

【対象の行動権限を制限しました。】

画面に緑色の文字が表示されたのを確認し、悠真は全身の力を抜いて床に仰向けに倒れ込んだ。

悪魔は鎖に巻かれたまま、忌々しそうに舌打ちをする。

「……クソが。宗一郎の孫、か。面白えじゃねえか」

悠真は、荒い息を吐きながら、震える声で返した。

「……面白くねえよ。こっちは死ぬかと、思ったんだぞ……」

この時点の御門悠真は、自分が何を成し遂げたのか、その意味をまったく分かっていなかった。

ただ、祖父の遺した古文書を読み、エンジニア特有の癖で情報を構造化し、偶然現れた低級悪魔を必死に縛り上げただけ。

しかし後の時代、この出来事は特別な意味を持つことになる。

始祖以来、誰も完全には扱えなかった万能召喚術。

属性に分かれ、専門化し、衰退の一途を辿った召喚術。

その本家本元で、失われたはずの術式が、全く新しい言語によって再び動いた瞬間だったのだ。

それは、神秘をコードで再起動した最初の夜だった。

後に、御門悠真は裏の世界でこう呼ばれることになる。

始祖の再来。

万能召喚術を現代に蘇らせた者。

神も悪魔も契約式の中に組み込んだ、史上最強の召喚師、と。

だが、その伝説の始まりの召喚は、決して華々しいものではなかった。

埃まみれの祖父の蔵で、低級悪魔に襲われ、半泣きでノートPCにしがみつき、未完成の召喚プログラムを叩き起こしただけ。

それが、すべての始まりだった。

暗い蔵の中で、ノートPCのディスプレイだけが青白く光っている。

画面の隅で、一行のシステムメッセージが静かに点滅していた。

『召喚プログラム、起動成功』