国民的アイドルになった幼馴染は、テレビで俺を婚約者と呼んだ翌日に裏切った ~復縁はしない。奪った男を社会的に終わらせる~
作者: 作者不明
本文
俺の名前は上中里拓也、別になんの取り柄もない普通の大学生だ。
普通という言葉を盾みたいに使っているだけで、本当は自分でもわかっている。俺は目立たない。人の輪の中心に立つこともない。就活では面接官に「堅実そうですね」と言われ、褒められているのか薄められているのかわからない笑顔を返す。大学では講義に出て、図書館でバイトをして、帰りに駅前のスーパーで割引の弁当を買う。そんな生活だ。
幼馴染の滝野川渚は、今じゃ国民的アイドルになってしまった。
家は隣だ。玄関から玄関まで十歩もない。小さい頃は勝手に窓を開けて「たっくん、遊ぼ」と呼ばれていた距離だ。それなのに最近じゃ、同じ町に住んでいることすら嘘みたいに、見かけることが少ない。渚はテレビの中にいて、雑誌の表紙にいて、街頭ビジョンの上で笑っている。隣の家の二階のカーテンが閉まっているのを見るたび、俺はそこに人が住んでいることを忘れそうになる。
ほら、テレビを見たら今日も出てる。
「現代の二十代恋愛事情ねぇ」
俺はコンビニ弁当の蓋を開けながら、なんとなくリモコンを置いた。画面の中では、アナウンサーが渚に質問しているところだった。柔らかい照明。笑う共演者。渚は白いワンピースを着て、昔から変わらない癖で、困ったときだけ右の耳たぶに触れている。
「滝野川さんは、恋愛についてどうお考えですか?」
画面の端に「国民的アイドル、初めて語る恋愛観」と煽りの文字が出ていた。
渚は一瞬だけ視線を落とし、それからまっすぐカメラを見た。
「私には、婚約者がいるんです」
へぇ、そんなやつがいるのか。
箸で掴んだ唐揚げが、宙で止まった。
俺には話してくれなかったな。
そう思った次の瞬間、渚は少し照れたように笑った。
「幼稚園の時、結婚の約束をしました」
ん。
ん???
それ、俺か?
いや、まさかな。
でもあいつが小学校までの間で、俺以外の男とほとんど話していなかったのは知っている。中学になったら芸能事務所に入って、周りに大人が増えて、いつの間にか俺は「幼馴染」ではなく「隣の家の人」みたいになった。けれど幼稚園の頃、砂場で指輪の代わりにシロツメクサを結んで、渚が「たっくんのおよめさんになる」と言ったのは覚えている。
画面の向こうでアナウンサーが食いつく。
「それは今も有効なんですか?」
「はい。私の中では」
共演者たちがきゃあ、と声を上げた。渚は笑っている。けれどその笑顔は、テレビ用に作ったものの隙間から、昔の渚が少しだけ顔を出しているように見えた。
「でも、十七年も手を出してこないような男ですけどね」
冗談めかしてそう言った渚が、小さい男の子の写真を披露した。
画面いっぱいに映ったのは、泥だらけの頬で笑っている俺だった。
いや、あれ俺じゃん。
箸から唐揚げが落ちた。ソースがこたつ布団についた。俺はそれを拭くことも忘れて、テレビを見ていた。画面の中の俺は、今の俺よりずっと幸せそうに笑っていた。隣には、小さな渚がいた。両手を繋いで、なぜか誇らしげに胸を張っている。
アナウンサーが「これはもう純愛ですね」と言い、スタジオが拍手に包まれる。渚は照れたように笑いながら、もう一度だけカメラを見た。
その視線が俺に向けられているような気がして、俺は呼吸を忘れた。
スマホを手に取った。連絡先にはまだ「渚」とだけ登録されている。最後のメッセージは半年以上前、俺が「おばさんから煮物預かった」と送って、渚が「ありがとう、あとで取りに行く」と返したものだった。そのあと渚は取りに来なかった。渚のお母さんが代わりに受け取りに来た。
文字を打つ。
見たよ。
消す。
あの約束、覚えてたのか。
消す。
俺も。
そこで指が止まった。
俺も、なんだ。
俺も覚えてる。俺も好きだった。俺もずっと、お前のことを。
打てなかった。国民的アイドルに向かって、普通の大学生が何を言っているんだと思った。テレビの言葉なんて番組を盛り上げるための話かもしれない。写真だって、懐かしいネタとして出しただけかもしれない。俺だけが真に受けて、十七年分の勘違いを抱えて走り出すなんて、滑稽すぎる。
結局、俺はスマホを伏せた。
その沈黙が、後で全部を壊す最初のひびになるなんて、その時の俺は思っていなかった。
その夜、渚は収録終わりの控室で何度もスマホを見ていたらしい。これは後から知ったことだ。メイクを落とされながら、マネージャーに明日の予定を告げられながら、彼女は通知欄を開いては閉じた。ファンからの反応はすごかった。ネットニュースはすぐに「滝野川渚、幼馴染の婚約者を告白」と見出しをつけた。祝福、嫉妬、考察、炎上まがいの騒ぎ。世界中が騒いでいるように見えたのに、渚が一番欲しかった一件だけは来なかった。
拓也からの連絡はなかった。
渚は笑顔でスタッフに頭を下げた。楽屋を出る時も、廊下ですれ違う共演者に「見たよ、すごいね」とからかわれて「恥ずかしいです」と笑った。けれど車に乗った瞬間、スマホを膝に置き、画面が暗くなるたびに指で点け直した。
俺はその頃、布団に入っても眠れず、天井を見ていた。
渚はその頃、車の窓に映る自分の顔を見ていた。
俺たちは隣同士の家に帰るはずなのに、その夜だけ、信じられないほど遠くにいた。
翌日、渚は大型音楽番組のリハーサルに入った。局の廊下は派手な衣装のタレントと、黒い服のスタッフでごった返していた。その中で、誰もが自然に道を開ける男がいた。
西ヶ原レオン。
二十二歳。俳優、モデル、歌手、なんでもやる。顔がいい。背が高い。笑う時に相手だけを見ているような目をする。芸能界でも有名なチャラ男で、浮名の数だけ仕事が増えるような男だった。悪い噂も多かったが、決定的なものは出ない。いつも誰かが傷ついて、いつもレオンだけが笑って残る。
「渚ちゃん」
廊下の角で呼び止められ、渚は振り返った。
レオンは缶コーヒーを二本持っていた。片方を差し出す仕草が自然すぎて、断る方が不自然に見える。
「昨日の番組、見たよ。婚約者、いるんだって?」
渚は少し身構えた。
「はい。幼馴染です」
「へえ。いいね、そういうの。純愛ってやつ?」
レオンは笑った。優しい笑い方だった。けれど目の奥だけが、相手の傷を探すように動いていた。
「でもさ、連絡来た?」
その一言で、渚の指が缶の縁を強く握った。
「それは……忙しい人じゃないので、たぶん、見てないだけです」
「国民的アイドルが全国放送で婚約者って言ったんだよ。見てない方が難しくない?」
「拓也は、そういうの疎いから」
「名前、拓也っていうんだ」
レオンは笑みを深くした。
「渚ちゃん、かわいいね。まだ守ってるんだ。相手が守ってくれてるかどうかもわからない約束を」
「そんな言い方しないでください」
「ごめんごめん。でも本当のことじゃない?」
渚は黙った。
レオンは声を落とした。周りには人がいるのに、二人だけの密室を作るみたいな声だった。
「もし俺がその拓也くんなら、昨日の放送が終わった瞬間に連絡するよ。今どこにいる、会いたい、ずっと好きだったって。だって、十七年だろ? 十七年待たせた女の子が、テレビであんなふうに言ってくれたんだ。普通、走るよ」
渚の唇が震えた。
「拓也は、そういう人じゃないんです。不器用で、優しくて、考えすぎるだけで」
「じゃあ今、電話してみなよ」
レオンは軽く言った。
「出るよ。婚約者なら」
渚はスマホを取り出さなかった。
「ほら。怖いんだろ」
「違います」
「違わないよ。渚ちゃんはもうわかってる。相手は覚えてないか、覚えてても面倒くさがってる。幼稚園の約束なんて、普通は忘れる。君だけが大事にして、君だけが宝箱に入れて、君だけが十七年も抱えてた」
「やめて」
「やめない。だって誰も言ってくれなかったんだろ。君は国民的アイドルで、みんな君を褒める。かわいい、清楚、健気、純愛。けど誰も、君が置き去りにされてるって言ってくれない」
渚の目に涙が浮かんだ。
レオンはそこで初めて、缶コーヒーを近くの台に置いた。
「泣かせたいわけじゃない」
嘘だ、と後で俺は思った。あいつは泣くところまで計算していた。泣いた人間は、差し出された手の温度を間違えやすい。
「渚ちゃん。今を生きなよ。子どもの頃の約束に、自分の人生を縛らせるなよ」
「でも、私には婚約者が」
「向こうはそう思ってない」
「そんなこと」
「じゃあなぜ連絡しない?」
沈黙が落ちた。
たまたまその時、渚のスマホが震えた。画面を見た渚の顔が、一瞬だけ明るくなり、すぐに暗くなった。マネージャーからの業務連絡だった。
レオンはそれを見逃さなかった。
「ほら。期待して、違って、傷ついた。そんなのをこの先も続けるの?」
渚の涙がこぼれた。
「私、ずっと……ずっと待ってたのに」
「うん」
「たっくんが、いつか言ってくれるって」
「うん」
「でも、昨日も来なかった」
「うん」
レオンは頷く。優しい相槌だけを重ねて、渚が自分で崩れるのを待つ。
「本当はわかってるんだろ?」
レオンの声が、最後の鍵を回した。
「俺なら忘れさせてやる」
その夜、渚は仕事終わりの食事会に顔を出した。帰るつもりだった。帰って、隣の家の明かりを見て、もし点いていたら、玄関の前で一度だけ深呼吸して、俺に会うつもりだった。けれどレオンは席を外すたびに彼女の隣に戻り、彼女のグラスが空になる前に次を頼み、彼女が「帰ります」と言うたびに「送るよ」と当たり前みたいに立ち上がった。
車の中で、レオンは拓也の名前を出さなかった。それが逆に優しさに見えたと、渚は後で言った。何も言わずに隣にいてくれる人。今、自分を選んでくれる人。昨日の放送を見ても沈黙した男ではなく、今夜ここにいる男。
ホテルのロビーは静かだった。芸能人が使うには慣れすぎた静けさだった。フロントの人間は目を上げず、エレベーターは鏡みたいに二人を映した。渚はその鏡の中で、自分がひどく知らない女に見えたらしい。
「無理なら帰ろう」
レオンは言った。
逃げ道の形をした誘導だった。帰ると言えば、きっと帰れた。けれど帰れば、また俺の隣の家に戻る。昨日から一件も来ない通知欄の前に戻る。十七年分の期待を抱えたまま、誰にも選ばれなかった夜に戻る。
渚は首を横に振らなかった。
扉が閉まった。
その先で何があったのかを、俺は全部は知らない。知りたくもない。ただ、朝の部屋には、昨夜までの渚がいなかった。カーテンの隙間から薄い光が入り、テーブルの上には飲み残した水と、レオンが置き忘れた銀色のライターがあった。渚のスマホには通知がいくつも溜まっていた。仕事の連絡。マネージャーからの確認。ネットニュースの更新。そして俺からは、まだ何もなかった。
渚はシャワーを浴びた。熱い湯を浴びても、何かが落ちるわけではなかった。肌に移った香水の匂いが消えても、耳の奥に残った言葉は消えなかった。
向こうは覚えてない。
今を生きなよ。
俺なら忘れさせてやる。
ベッドの端に座ったレオンは、スマホを見ながら笑っていた。
「少し寝たら? 顔、ひどいよ」
渚は答えなかった。
「大丈夫。昨日のことは誰にも言わない。俺、そういうのちゃんとしてるから」
その言い方が、ひどく慣れていた。
渚はその時になって、自分が特別な場所に連れてこられたのではなく、使い古された部屋に案内されただけなのだと気づいた。レオンの優しさは、誰にでも合うように作られた服だった。自分のために仕立てられたものではなかった。
それでも、もう戻れなかった。
その日の夕方、俺は渚に会った。
隣の家の前だった。俺は大学から帰ってきたところで、渚は事務所の車から降りたところだった。帽子を目深に被り、マスクをしていたが、俺にはすぐわかった。小さい頃から、渚は疲れると右肩が少し下がる。
「渚」
呼ぶと、彼女はびくりとした。
「……たっくん」
その呼び方を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。テレビの中の「滝野川渚」ではない。砂場で俺の手を引いていた渚が、そこにいた。
俺は昨日から何度も練習した言葉を、ようやく口にした。
「あの番組、見た」
渚の目が揺れた。
「そう」
「ごめん」
俺は頭を下げた。
「お前の気持ちに、気づかないふりしてた。ずっと、俺なんかが言ったら迷惑だと思ってた。渚はもう遠い人だから、昔の約束なんて持ち出したら困るだろうって」
渚は何も言わなかった。
「でも、違ったんだよな。お前、覚えてたんだよな」
俺は笑おうとした。たぶん、うまく笑えていなかった。
「俺もずっと好きだった」
その言葉は、十七年分の遠回りをして、ようやく渚に届いた。
届いたはずだった。
けれど渚の顔から、血の気が引いていった。
喜ぶでも、泣くでも、怒るでもない。壊れた時計みたいに、表情が止まった。彼女は俺を見ているのに、俺の後ろにある昨日を見ているようだった。
「渚?」
「そう……」
それだけ言って、渚は家に入った。
扉が閉まる音が、やけに重かった。
俺はその場に立ち尽くした。告白の返事としては、あまりに薄い言葉だった。けれど彼女の背中にあった怯えの理由を、その時の俺はまだ知らなかった。
渚は玄関に入った瞬間、膝から崩れた。
声を出して泣くことすらできなかったらしい。喉が締まり、息だけが漏れた。母親に気づかれないように靴を脱ぎ、壁に手をつきながら階段を上がり、自室に入って鍵をかけた。
ベッドに倒れ込む。昨日の朝まで、あの部屋は安全な場所だった。幼い頃の写真、ファンからの手紙、初めてのライブの衣装の一部、そして机の引き出しの奥にしまった、シロツメクサの指輪の代わりに俺が折り紙で作った指輪。全部が彼女を責めていた。
拓也が好きだと言った。
ずっと好きだったと言った。
昨日、言ってくれなかったからではない。昨日、私が待てなかったからだ。あと一日だけ待てばよかった。あと一晩だけ、自分を信じればよかった。テレビで言った言葉の重さを、自分で裏切らなければよかった。
渚はスマホを握りしめた。俺に何か送ろうとして、画面に映った自分の顔を見て、手が止まった。
ごめん。
違う。
聞いて。
昨日、私は。
どの言葉も、送った瞬間に俺を殺す刃物になる気がした。言わなければ隠し事になる。言えば壊れる。沈黙しても地獄、告白しても地獄。その真ん中で、渚はただ震えることしかできなかった。
シャワーを浴びても、服を替えても、鏡の中の自分は変わらなかった。国民的アイドル。純愛の象徴。幼馴染の婚約者を十七年待った女。そのラベルの裏に、たった一晩で別の名前が貼りついた。
裏切り者。
渚はテレビの録画を再生した。画面の中の自分が笑って言う。
「私には、婚約者がいるんです」
その声を聞いた瞬間、渚はリモコンを投げた。電池が床に転がり、画面は止まらない。画面の中の自分は幸せそうに、幼稚園の写真を出している。隣にいる小さな俺は、何も知らずに笑っている。
「ごめんなさい」
渚は画面に向かって謝った。
「ごめんなさい、たっくん」
けれど謝る相手は画面の中にはいない。隣の家にいる。さっき、自分に好きだと言ってくれた。いちばん欲しかった言葉を、いちばん遅く、けれど間に合うはずだったタイミングでくれた。
間に合わなくしたのは、渚自身だった。
スマホが震えた。
レオンからだった。
昨日は大丈夫だった? 婚約者くんには言った? まあ、俺との夜で少しは忘れられただろ。
渚は吐き気を覚えた。
その文面の軽さが、昨夜の自分の価値を決めつけていた。十七年の恋も、一晩の迷いも、俺の告白も、全部がレオンにとっては笑い話だった。渚はスマホを投げようとして、できなかった。これを消せば、なかったことにしたくなる。なかったことにしようとした瞬間、自分は本当に終わる気がした。
彼女はそのメッセージを消さなかった。
翌日、俺は渚の様子がおかしいことが気になっていた。隣の家の前で会えないかと、情けないほど何度も窓の外を見た。夕方、渚が玄関から出てきた。帽子もマスクもしていない。顔色が悪く、目元が腫れていた。
「たっくん」
「渚、大丈夫か?」
渚は何かを言おうとした。その瞬間、手からスマホが滑り落ちた。俺は反射的に拾った。画面が上を向いたまま点灯した。
そこに、レオンのメッセージが表示されていた。
婚約者くんには言った? 俺との夜で少しは忘れられただろ。
時間が止まった。
読もうとしたわけじゃない。けれど読めてしまった。読んだ瞬間、頭の中で何かが静かに割れた。怒鳴り声ではなかった。悲鳴でもなかった。ただ、十七年かけて積み上げたものが、音もなく床に落ちた。
「……これ、何」
渚は顔を真っ白にした。
「違うの」
その言葉は、何も違わない人間が最初に言う言葉だった。
「誰」
「たっくん、聞いて」
「誰」
俺の声は、自分でも驚くほど冷たかった。
渚は唇を噛み、涙を浮かべた。
「西ヶ原、レオン」
有名な名前だった。テレビの中で笑う男。誰とでも噂になり、誰も捕まえられない男。
「いつ」
渚は答えなかった。
「俺が好きだって言う前? 後?」
渚の涙が落ちた。
「前……」
俺は笑った。
笑うしかなかった。
「じゃあ俺は、間に合わなかったんじゃないんだな」
「違う、そうじゃない」
「俺が謝るために言葉を探してた間に、お前はもう終わらせてたんだ」
「たっくん」
「テレビで俺を婚約者って言った次の日に?」
渚は崩れるように頭を下げた。
「ごめんなさい」
謝罪は短い。裏切りは長い。たった一言で終わるものではないのに、謝る側はいつも一言目を差し出すしかない。
俺はスマホを返した。
指先が触れそうになって、渚が震えた。俺は触れなかった。
「わかった」
「待って。お願い、話を」
「わかったって言ったんだ」
「何がわかったの?」
俺は渚を見た。
十七年好きだった女が、目の前で泣いていた。俺がずっと守りたかった泣き顔だった。小さい頃、転んで泣いた渚を背負って帰ったことがある。中学のオーディションに落ちて泣いた渚に、俺はコンビニのプリンを買って渡した。高校の頃、彼女が週刊誌に変な噂を書かれて泣いた夜、隣のベランダ越しに「俺は信じてる」と言った。
今、その全部が、俺を縛ろうとしていた。
だから俺は、わざとゆっくり言った。
「もう、お前を信じなくていいってことが」
渚は声にならない声を漏らした。
俺は家に入った。扉を閉める直前、渚が俺の名前を呼んだ。聞こえなかったことにした。
そこからの俺は、自分でも気味が悪いほど静かだった。
怒りはあった。胸を焼くような怒りが。けれどそれ以上に、冷たいものが腹の底に溜まっていた。泣き叫べば楽になれたかもしれない。渚を責め立てれば、少しは自分が被害者だと確認できたかもしれない。けれど俺が欲しかったのは慰めではなかった。
終わらせたかった。
渚を壊した男を。渚自身が壊した約束を。俺を滑稽な婚約者にした茶番を。
俺には特別な力なんてない。金もない。コネもない。喧嘩も強くない。だけど図書館でバイトをしているせいか、昔から記録を集めるのだけは苦にならなかった。人が残した小さな痕跡を追うのが得意だった。誰かの嘘は、必ずどこかで日付を間違える。誰かの作った物語は、必ず別の物語と食い違う。
西ヶ原レオンは、派手な男だった。
派手な男は、痕跡も派手に残す。
俺はまず、レオンの過去の発言を集めた。番組、雑誌、配信、インタビュー、SNS。彼はいつも「恋愛は誠実に」「相手を泣かせる男はダサい」と言っていた。その同じ口で、裏では女を泣かせていた。そう思うと吐き気がした。
次に、噂を集めた。匿名掲示板の書き込みはそのままでは使えない。だが、同じ時期、同じ店、同じ言い回しが何度も出てくる。婚約者がいる女に近づいた話。彼氏持ちのタレントを「今を生きろ」と口説いた話。泣くまで不安を煽り、弱ったところで「俺なら忘れさせる」と囁く話。
台本だ、と思った。
あいつは恋をしているのではない。攻略しているだけだ。相手の大切なものを見つけ、それを疑わせ、孤立させ、自分だけが救いに見える位置に立つ。使い古された手口。けれど傷ついている人間には、それが救命ロープに見える。
俺は大学のゼミの先輩に連絡した。梶原百合。今は週刊誌の記者をしている人だ。学生時代からデータと証言を突き合わせるのが異様にうまい人で、教授から「人間嘘発見器」と呼ばれていた。
事情を全部は話さなかった。ただ、レオンに関する不自然な証言が複数あること、同じ手口を示す公開情報があること、被害を受けた可能性のある人に繋がれるかもしれないことを伝えた。
梶原さんは電話口で少し黙ったあと、言った。
「私怨?」
「はい」
「私怨は悪くない。雑だと記事が死ぬだけ。証拠を持ってきて」
その日から、俺は証拠だけを集めた。
渚には連絡しなかった。渚からは毎日メッセージが来た。謝罪、説明、後悔、会いたい、話したい、全部。俺は読まなかった。読めば揺れる。揺れれば許してしまうかもしれない。許してしまえば、俺は自分の傷をなかったことにするために、渚の裏切りを飲み込むことになる。
それだけは嫌だった。
三日後、渚が俺の家の前で待っていた。
雨が降っていた。傘を差していなかった。髪が濡れ、白い頬に張りついていた。俺が玄関を開けると、彼女は縋るように一歩近づいた。
「たっくん、お願い。少しだけ話を聞いて」
「レオンのことなら、もう知ってる」
「知ってるって、何を」
「お前以外にも同じことをしてる」
渚の目が見開かれた。
「同じ、こと?」
「彼氏がいる女。婚約者がいる女。仕事で弱ってる女。相手の不安を煽って、泣かせて、自分が救いだと思わせる。決まり文句まで同じだ」
渚は震えた。
「俺なら忘れさせてやる」
俺がそう言うと、渚は両手で口を覆った。
あの夜、自分だけに向けられたと思った言葉が、誰にでも配られる紙切れだったと知った顔だった。ざまあみろ、と思った。思った瞬間、自分の胸も痛んだ。俺はまだ渚が傷つくと痛かった。そのことが一番腹立たしかった。
「協力しろ」
俺は言った。
渚は雨の中で俺を見上げた。
「何に?」
「レオンを終わらせる」
その言葉に、渚の瞳が揺れた。
「私が証言したら、たっくんは……」
「戻らない」
俺は先に言った。
渚の期待を潰すために。
「お前が何をしても、俺は戻らない。協力したから許すとか、正直に話したからやり直すとか、そういう話じゃない」
渚は唇を噛んだ。
「じゃあ、私に何が残るの」
「後悔」
我ながらひどい言葉だった。
けれど渚は泣かなかった。もう泣く水分も残っていないような顔で、ただ頷いた。
「わかった」
「本当にわかってるのか。記事になれば、お前の名前も出るかもしれない。純愛のイメージは終わる。ファンも離れる。仕事も減る」
「うん」
「俺は助けないぞ」
「うん」
渚は雨に濡れながら言った。
「それでも、あの人が同じことをまた誰かにするのは嫌」
その言葉が本心なのか、俺に少しでも許されたいだけなのか、俺にはわからなかった。たぶん両方だった。人間はそんなに綺麗に一つの動機だけで動けない。
渚はレオンからのメッセージを提出した。消さずに残していたやり取り。日時。仕事のスケジュール。食事会の参加者。ホテルのロビーに入った時間。レオンが送ってきた軽薄な文面。
それは渚自身を刺す証拠でもあった。
梶原さんは慎重だった。渚以外の証言者を探し、裏を取り、店の予約記録やタクシーの乗降履歴、公開イベントの時間と照合した。レオンの元マネージャーにも接触した。その人は最初、何も話さなかったらしい。けれど梶原さんが同じ言い回しのメッセージを複数提示すると、黙って一枚の写真を出した。
レオンの楽屋に貼られていたメモの写真だった。
不安を言語化させる。
相手の男を否定しすぎない。自分で疑わせる。
泣いたら勝ち。
最後は「忘れさせる」。
吐き気がした。
恋愛の言葉ではない。営業マニュアルだった。人の心を壊すための手順書だった。
さらに出てきたのは、スポンサー向けの清廉なイメージを裏切る数々の行動だった。複数の相手に同時に真剣交際を匂わせ、口外しないよう事務所の名前をちらつかせる。飲食店での迷惑行為をスタッフに揉み消させる。チャリティー企画での寄付額を実際より大きく見せるための演出。ファン向け配信では「恋愛経験が少ない」と笑い、裏では相手の弱みを笑い話にする録音。
どれも一つなら揉み消せたかもしれない。だが積み上がると、山になる。山になれば、影ができる。その影の中に、レオンが今まで踏みつけてきた人たちが立っていた。
記事が出たのは、渚がテレビで婚約者発言をしてから二週間後だった。
朝、コンビニに並んだ週刊誌の表紙を見て、俺はしばらく動けなかった。
西ヶ原レオン、純愛破壊の口説き台本。
泣かせて奪う男の素顔。
国民的アイドル婚約者発言の翌夜に何があったか。
見出しは下品だった。週刊誌らしい、血の匂いを嗅ぎつけた文字だった。けれど記事の中身は逃げ道を塞ぐように丁寧だった。証言者は複数。日時は一致。メッセージの文面は同じ。元スタッフの証言。スポンサーへの虚偽報告。番組で語った誠実な恋愛観との矛盾。
レオンの事務所は最初、「事実無根」とコメントした。
その三時間後、第二弾の予告が出た。
レオン本人の音声あり。
夕方には、事務所のコメントが「確認中」に変わった。
夜には、出演予定だった番組の公式サイトからレオンの名前が消えた。
次の日、CM動画が非公開になった。ブランドの公式アカウントが「契約内容に関わる重大な懸念」と投稿した。ファンは分裂した。信じない、捏造だ、相手の女が悪い。そんな声もあった。けれど第二弾で音声が出た瞬間、流れは決まった。
録音の中のレオンは笑っていた。
「泣いたらだいたい落ちるんだよ。忘れさせてやるって言えばいい。女って、自分を救ってくれる男に弱いから」
その声が全国に流れた。
テレビは一斉に手のひらを返した。昨日までレオンを持ち上げていたコメンテーターが、深刻な顔で「これは許されませんね」と言った。バラエティ番組では、レオンが過去に語った恋愛名言集が皮肉交じりに引用された。ネットでは「忘れさせてやる」が嘲笑の言葉になった。
レオンが女を口説こうとすれば、その言葉が先に来る。
レオンが笑えば、その録音の笑いが重なる。
レオンが誠実を語れば、楽屋のメモが貼られる。
男としての武勇伝は、全部ただの手口になった。色気はマニュアルになり、優しさは罠になり、余裕は加害者の鈍さになった。あいつが誇っていたものは、世間に照らされた瞬間、みっともない部品に分解された。
会見が開かれた。
レオンは黒いスーツで現れた。顔は青白く、いつもの余裕はなかった。記者に「泣いたら勝ち、というメモはあなたのものですか」と聞かれ、彼は「文脈が違う」と答えた。「複数の女性に同じ言葉を使ったのは事実ですか」と聞かれ、「記憶が曖昧」と答えた。「滝野川渚さんの婚約者発言を知った上で接近したのですか」と聞かれ、沈黙した。
その沈黙が、答えだった。
会見後、レオンの所属事務所は契約解除を発表した。活動休止ではなく、契約解除。切り捨てる時の業界は早い。彼に群がっていた人間たちは、潮が引くようにいなくなった。連絡先を消し、写真を消し、過去の共演をなかったことにした。
数日後、俺のスマホに知らない番号から電話が来た。
出ると、レオンだった。
「会えよ」
声は荒れていた。
俺は断らなかった。
駅前の立体駐車場。人目は少ないが、完全にないわけではない場所を選んだ。梶原さんに言うと、「録音だけはしときな」と笑われた。俺はスマホの録音を入れ、ポケットに入れた。
レオンは帽子を被っていた。以前テレビで見た時より小さく見えた。人間はライトを失うと、こんなに縮むのかと思った。
「お前か」
第一声がそれだった。
「何が」
「記事だよ。お前が焚きつけたんだろ」
「事実を並べただけだ」
「ふざけんなよ。俺が何したっていうんだよ。大人同士だろ。渚だって自分で来た」
その言葉を聞いた瞬間、腹の底の冷たいものが少しだけ熱くなった。
「ああ、自分で行ったんだろうな」
俺は言った。
「だから俺は渚も許さない」
レオンは一瞬だけ笑った。
「じゃあお前、何のためにここまでやったんだよ。女を取り返すためじゃないのか?」
「違う」
「じゃあ嫉妬か。だせえな。結局、俺に取られたのが悔しいだけだろ」
「お前は取ってない」
レオンの顔が歪んだ。
「は?」
「取るっていうのは、価値をわかってるやつが使う言葉だ。お前は壊しただけだ。相手の大事なものを疑わせて、弱ったところに自分を置いた。泥棒というより、放火魔だな」
「きれいごと言ってんじゃねえよ。渚は俺を選んだんだよ」
「選ばせるために泣かせた」
俺は一歩近づいた。
「だからお前の恋愛は、恋愛じゃなくて手口になった。口説き文句は証拠品になった。笑顔は録音の前置きになった。これから誰かを見ても、相手はお前の顔じゃなくて記事の見出しを見る」
レオンの拳が震えていた。
「黙れ」
「もう遅い。お前が女を忘れさせる男だったことは、世間が忘れない」
レオンは殴りかかりそうになった。けれど駐車場の防犯カメラに気づいたのか、踏みとどまった。その臆病さが、最後に残った彼の理性だった。
俺は背を向けた。
「おめでとう」
振り返らずに言った。
「これからは誰かを口説くたびに、相手が先に笑ってくれる。よかったな。有名人で」
背中に罵声が飛んだ。負け犬の声だった。俺は振り返らなかった。
レオンが終わっても、渚の時間は戻らなかった。
むしろ本当の地獄はそこからだった。
記事の第三弾で、渚は匿名ではなくなった。本人の同意があった。事務所は止めたらしい。マネージャーも泣いて止めたらしい。けれど渚は「自分の言葉で話したい」と言い、短いコメントを出した。
幼い頃から大切にしていた人がいました。
私はその人を裏切りました。
弱さを言い訳にするつもりはありません。
傷つけた相手に許されることは望みません。
同じような手口で傷つく人がこれ以上出ないことを願い、証言しました。
コメントは燃えた。
同情もあった。レオンに怒る声もあった。けれど渚を責める声も当然あった。純愛を売っていたくせに。婚約者がいると言った翌日に。清楚ぶって。裏切り者。そんな言葉が、画面いっぱいに並んだ。
俺はそれを見ていた。
ざまあみろと思う自分がいた。
もうやめてやれと思う自分もいた。
どちらも本当で、どちらも醜かった。
渚は仕事を休止した。表向きは体調不良。実際、彼女はステージに立てなくなっていた。マイクを握ると手が震え、恋の歌を歌おうとすると声が詰まる。ファンの前で笑おうとすると、自分が嘘の塊に思えて吐きそうになる。事務所は復帰の時期を探ったが、渚自身が首を縦に振らなかった。
隣の家のカーテンは閉まったままだった。
ある日、俺の部屋の前に小さな箱が置かれていた。
中には、折り紙の指輪が入っていた。色は褪せ、角は丸くなっている。幼稚園の頃、俺が渚に渡したものだった。横には手紙があった。
返せません。
捨てられません。
でも私が持っている資格もありません。
ごめんなさい。
それだけだった。
俺は箱を持って、隣の家のチャイムを押した。渚が出てきた。痩せていた。髪は整えられていない。テレビの中の光を全部剥がされた顔だった。
俺は箱を差し出した。
「持ってろ」
渚の目が揺れた。
「いいの?」
「俺はいらない」
その言葉で、渚の顔が歪んだ。
俺は続けた。
「捨てるならお前が捨てろ。持って苦しむならお前が苦しめ。俺に返して楽になろうとするな」
渚は箱を胸に抱いた。
「楽になんて、なれない」
「ならよかった」
ひどい言葉だった。
でも本心だった。
渚は玄関先で膝をつきそうになり、扉の枠を掴んだ。
「たっくん、私、一生かけて償うから」
「いらない」
「お願い。何でもする。もう二度と嘘つかない。誰にも近づかない。仕事も辞める。たっくんが望むなら、全部」
「いらない」
俺は同じ言葉を繰り返した。
「お前の一生を差し出されても、俺の昨日は戻らない」
渚は泣いた。
「好きなの」
「知ってる」
「ずっと好きだったの」
「知ってる」
「じゃあ、どうして」
俺は少しだけ目を閉じた。
どうしてだろうな。
俺も、まだ好きだった。好きだったからこそ、許せなかった。どうでもいい相手なら、傷つきもしない。十七年の約束に価値があったから、その裏切りは一晩では済まなかった。
「好きだったことと、許せることは別だ」
渚は声を失った。
その日から、渚は毎朝、俺の家の前を掃除するようになった。頼んでいない。意味もない。近所から見れば奇妙だっただろう。国民的アイドルだった女が、帽子を深く被り、隣家の前を黙って掃く。俺が出てきても何も言わない。ただ頭を下げる。雨の日も、風の日も。
罪滅ぼしのつもりなのか、罰を受けているつもりなのか、俺にはわからなかった。
ある朝、俺は言った。
「やめろ」
渚は箒を持ったまま固まった。
「迷惑だから」
彼女は小さく頷いた。
次の日から、彼女は掃除をしなくなった。
その代わり、毎日手紙が届くようになった。返事はしなかった。封も開けなかった。開けずに箱へ入れた。箱はすぐいっぱいになった。謝罪。後悔。思い出。もし戻れるなら。あの日待っていれば。たっくんの言葉を聞く前に、自分を壊してしまった。そんな言葉が書かれているのだろうと、読まなくてもわかった。
読まないことが復讐だった。
渚にとって、俺が何を思っているかわからないことが一番の罰だった。怒鳴られれば謝れる。責められれば泣ける。条件を出されれば従える。けれど俺は何も与えなかった。許しも、怒りも、罰の終わりも。
渚は宙吊りにされたまま、毎日自分の後悔だけを噛むことになった。
レオンはさらに落ちた。
契約解除後、彼は一度だけ配信をした。自分は嵌められた、相手も望んでいた、週刊誌は偏っている。そんな言い訳を並べた。けれどコメント欄は「忘れさせてやる」で埋まった。誰も彼の弁明を聞いていなかった。彼の声は、もう言葉として届かない。全部が手口の一部に見える。
配信は二十分で切れた。
その後、彼を見た者は少ない。地方の小さなイベントに名前が出ては抗議で消え、舞台の噂が流れては共演者側から否定される。芸能界のチャラ男は、芸能界にいなければただの痛い男だった。派手な服も、甘い言葉も、相手が羨望の目で見てくれなければ成立しない。
あいつの武器は、全部観客を必要とするものだった。
観客が笑わなくなった時、レオンは終わった。
俺は就職を決めた。東京から少し離れた街の、調査会社の内定だった。笑える話だ。人の嘘を集めていたら、それが仕事になった。普通の大学生だった俺は、普通に壊れて、普通とは少し違う道に進むことになった。
引っ越しの日、隣の家の窓が開いた。
渚がいた。
久しぶりに見る彼女は、髪を短く切っていた。化粧は薄く、服も地味だった。テレビの中の滝野川渚はもうどこにもいない。そこにいたのは、幼馴染の渚だった。けれど、俺が取り戻したかった渚でもなかった。
「行くの?」
「うん」
「どこに?」
「少し遠く」
「帰ってくる?」
「たぶん」
渚は頷いた。
それから、窓辺に置いていた小さな箱を抱えた。あの折り紙の指輪が入った箱だとすぐにわかった。
「私、まだ持ってる」
「そう」
「捨てられない」
「そう」
「たっくんは、もう私のこと嫌い?」
俺は答えるのに少し時間がかかった。
嫌いと言えれば楽だった。好きと言えばもっと地獄だった。だから本当のことを言った。
「嫌いになれたらよかった」
渚の目に涙が溜まった。
「それ、いちばんきついよ」
「だろうな」
「私、どうしたらいい?」
「知らない」
「私、ずっと後悔してる。朝起きるたびに、あの日に戻れたらって思う。テレビのあと、たっくんから連絡が来なかった夜に戻って、スマホを握って、ちゃんと待って、ちゃんと信じて、次の日の夕方に好きって言われて、泣いて、抱きついて、そうしたら全部違ったのにって」
俺は黙って聞いていた。
「でも戻れない」
渚は笑った。笑顔というより、ひび割れだった。
「戻れないんだね」
「うん」
「幼稚園からやり直せないかな」
「無理だよ」
「だよね」
渚は箱を抱く力を強めた。
「私、たっくんのこと、今でも好き」
「俺もだった」
だった。
その一言で、渚の表情が崩れた。
俺は鞄を持ち直した。引っ越し業者のトラックが、エンジンをかけたまま待っている。母親が玄関で泣いている。渚の母親が隣で頭を下げている。十七年分の町が、春の薄い光の中でやけに静かだった。
渚は最後に言った。
「ごめんなさい」
俺は頷いた。
許したわけじゃない。けれど、その言葉を聞くのはこれで最後にしようと思った。
俺は歩き出した。背中に渚の視線を感じた。振り返れば、まだ泣いているのだろう。昔みたいに俺の名前を呼ぶのだろう。けれど俺は振り返らなかった。
門を出る前に、一度だけ空を見上げた。
幼稚園の砂場。シロツメクサの指輪。テレビの中の笑顔。閉じたホテルの扉。雨の玄関。週刊誌の見出し。泣いた渚。終わったレオン。全部が混ざって、胸の奥に沈んでいく。
俺は小さく呟いた。
「裏切らなきゃ誰も不幸にならなかったのにな」