作品タイトル不明
第三十九話 婚約破棄
王宮の広間の一つに、賓客を出迎えるためのささやかなものがある。
入れるのはせいぜい十数人程度の広さで、窓はなく、出入り口は二つあり、それぞれ隣室を挟んで廊下に繋がるなど、まるで客を腫れ物のように扱い、誰とも話させずに帰すようにしているかのような、少し特殊な用途で使われる広間だ。
そこに、ニリュフェルは招かれた。エントランスから最短距離で連れてこられ、スンビュルは傍に、私は国王や大臣とともに壁際で見守っている。
ニリュフェルを出迎えたのは、いつの間にか青年となったドニー王子だ。アルバートの言葉どおり覇気はなく、若者らしくない陰鬱な空気を帯びていた。
その後ろにいるヴァルタル国王は、冷ややかに二人の会話を見下ろしていた。何せ、これから始まるのは、自分の息子が婚約を破棄する茶番なのだから、そうもなる。
ドニー王子は、自分よりも五つは年下の敵国の姫へ、声をかけた。
「姫」
ニリュフェルは顔を上げ、澄ました表情を取り繕う。
「足労をかけた」
「いえ。ドンナー王子におかれましては、ご加減がよろしゅうございませんか?」
「気にしなくていい」
「左様ですか」
社交辞令のやりとりさえも、二人の間を取り持つことはできなかった。
これ以上の言葉は不要——そう判断したのか、ドニー王子はとうとう、自ら切り出す。
「さて——ニリュフェル・シリン・ベグム姫。あなたとの婚約は、破棄する」
簡単明瞭な宣言は、仮にも王子の公式発言となる。
婚約の発覚、婚約の破棄、それらに付随する政治的外交的意味合い、それらを精算しようするドニー王子の意思が示された。
「理由を伺っても?」
「我が国側の手続きの不備が見つかった。これにより、年内の再度の婚約は難しく、結婚は見通しが立たない。ゆえに、ここにある婚約は破棄だ」
「でも、二度はないのでしょう?」
ニリュフェルはそれを望んでいたとしても、一応は食い下がる。不名誉をそのまま受け入れはしない、仮にも彼女も姫だからだ。
それに、一言くらい、言い返したっていい。
ニリュフェルは今まで溜まっていた鬱憤を晴らすように——ドニー王子が主犯でないと知っていても——叫び、吐き捨てた。
「私だって、あなたのような顔色の悪い、男らしくない殿方と結婚なんてしたくないわ。王子だなんて嘘みたい、飲み物に毒でも入れられているのではなくって!?」
広間にはざわめきすら生まれない。婚約破棄された姫の 癇癪(かんしゃく) くらいは、と静かに受け入れられた。
その本心を知るのは、ごく少数でいい。
ニリュフェルは踵を返す。
「さようなら。二度とお会いすることはないわ」
鈍い足音が響き、私の前で止まる。
ニリュフェルと目が合った。私はわずかに会釈して、彼女が通り過ぎるのを待つ。
ニリュフェルの目は、潤んでいた。何もかも分かっていても、大勢の前で婚約を破棄されるという場面を受け入れられるわけではない。
誰もが、上手く演技し通せるわけではないのだ。
それはドニー王子も同じで、立ちすくみ、俯いていた。
内心は定かではないが、ニリュフェルが立ち去ったあと、国王はドニー王子を労った。
「さて、よく宣言できたな、ドニー。こればかりはお前の責任にせねばならなかった」
その言葉は、この場にいる大臣たちへ向けられているのは自明だ。
ただし、国王はドニー王子に責任を取らせ、大臣たちをはっきりと責めたわけではない。それが落とし所だからだ。
それに、不服そうなドニー王子の様子を見ていれば分かる。
あれは、操られたくせして、自分の責任になったことに納得がいっていない顔だ。
「父上。俺はもう退室してもよろしいでしょうか」
「まだだ。お前の不始末はまだ終わっていない」
「不始末?」
「まあ、最後まで聞いていけ。そこの椅子に座っていろ」
「……承知しました」
国王は広間の壁際の椅子を指差し、ドニー王子は渋々と足をむけた。
国王は大臣たちへ、短く訓令する。
「では、このことはのちに発表するゆえ、それまで口外無用だ。よいな」
大臣たちの承諾の短い声が、重なった。
ニリュフェルが去った扉が再び開かれ、大臣たちを押し流していく。
最後の一人が去ったところで、私は廊下との間にある隣室にも誰も残っていないことを確認し、廊下の衛兵に誰も入れぬよう伝えてから広間へ戻ってきた。
「人払いは済みましたわ」
「うむ。では、もうよいぞ、 メ(・) リ(・) ザ(・) ン(・) ド(・) 」
国王の呼びかけに応じ、もう一つの出入り口が開く。
現れたのは、王妃マルタによく似てきた麗しい風貌の淑女——第一王女メリザンドだ。
もう随分と会っていないが、少し痩せたほかは王女らしさを微塵も失わず、三年も表舞台に出てこなかったはずなのに今すぐにでも会議に出て世紀の演説をしてしまえるような、荘厳な雰囲気を持ち合わせている。
太陽のような彼女を前にしては、ドニー王子も小さな星くずの一つにすぎない。この場においては、国王だけが並び立てるだろう。
そんな彼女は、家族よりも先に、私のもとへとやってきた。
かつての天真爛漫な少女の面影を残した微笑みで、私をそっと抱きしめる。
「久しぶりね、トリッシュ。一段と麗しい貴婦人になって、感激したわ」
「お久しゅうございます。王宮を騒がせたことにつきましては、後ほどお叱りを受けますわ」
「そうしてちょうだい。あなたはお母様のお説教を聞きながら、たっぷり砂糖菓子を食べさせられるという罰を受けなくちゃならないのよ」
「まあ怖い」
くすくす、と第一王女メリザンドは笑おうとしたが、小さく咳き込んだ。
長い間、それさえも慎んできたからなのか、まだ久々の外の空気には馴染んでいないようだ。
私から離れ、第一王女メリザンドは国王の前で 膝折礼(コーツィ) をしてみせた。
「メリザンド、大丈夫か?」
「ええ。それで、私がここへ呼ばれたということは、何年振りかの仕事があるということでしょう? お父様にも心配をおかけしましたもの、何なりとお申し付けくださいまし」
彼女は分かっている。自分の価値も、置かれた境遇も、外の情勢も、何もかも。
彼女は 倦(う) まず病まず、静かに、表舞台で必要とされるときを待っていたのだ。そのときが、ありとあらゆるしがらみや怨恨を永遠に消し去るのだと信じて、舞台の外でずっと研鑽を積んできた。
だから、舞台に上がった瞬間、第一王女メリザンドは日の目を浴びることとなる。
「お前には、海を渡ってもらう。大陸領総督として、東の大陸にある我が国の軍が獲得した土地のすべてを正式に我が国へと編入し、本国と変わらぬ統治を敷くこと。これがお前の、終生の大仕事となるだろう」
第一王女メリザンドの栄達の道が開けたその瞬間、私は気付いた。
椅子に座り込んだドニー王子はもはや、舞台袖の、出番が終わった端役程度の存在感しかなく、本人はもう舞台へ目を向けることはなかったのだ。
残酷な現実というのは、必ずしも派手ではない。
このときが明確に、二人の姉弟の明暗を分けた——それは、紛れもない現実だった。