作品タイトル不明
第四十一話「ロザリンド・ロックハート」
トリア暦三〇一七年七月二十一日の早朝。
姓が変わってから初めて迎える朝。
昨日まではラズウェル、今日からはロックハート……
そして、愛する男性の腕の中で目覚めた初めての朝。
「おはようござ……おはよう。ロザリー」
私の夫、ロドリック・ロックハートは既に目覚めていたようです。まだ、慣れていないのか、時々敬語になり、その度に顔を赤らめています。今は夜明け前でよく判りませんが、きっとこの瞬間も顔を赤くしていることでしょう。
しかし、これは仕方がないと思っています。長く主家の娘と騎士という間柄だったのですから、いきなり変えることは難しいと思います。少しずつ慣れてもらうしかありません。
私は頭の片隅でそんなことを思っていましたが、すぐに体を彼のほうに向け、
「おはようございます。あなた」
そう挨拶を返しました。
夫は何も言わず、優しく抱きしめ、口づけをしてくれます。
私は突然のことに驚きましたが、これが愛し合う夫婦が迎える朝なのだと胸が熱くなりました。
「まだ夜明け前のようだよ。もう少し眠ったら」
夫の優しい声に頷きそうになりましたが、
「よろしいのかしら? 毎日の鍛錬に行かなくても」
「うん。いや、今日は止めておこうと……君と一緒にいたいから」
夫は優しい言葉を掛けてくれます。
私は一瞬、天にも昇りそうな気持ちになりましたが、僅かに疑問も覚えました。この人は女性に対してこのような甘い言葉を言えるような人だっただろうかと。
義理の弟になったザカライアス卿、いえ、ザックさんなら判らないでもないですが、この人は騎士団の中でも最も真面目な方。その夫がこのように言ってくれたことが意外でした。決して嫌なわけではありません。むしろ、とても幸せな気分にさせてくれたのですが、少し違和感を覚えたのです。
「意外でしたわ。あなたがこんなに女性の気持ちを分かっているなんて」
私は少しからかうようにそう言いました。
彼の表情は見えませんが、小さくため息をついていました。
「やっぱり分かるんだね」
私が疑問を口にすると、私が感じた違和感の理由を説明し始めました。
「昨日の夜、弟に、ザックに言われたんだ……」
話を聞くとザックさんが夫にいろいろとアドバイスをしたそうです。その一つが今日の朝は私が目覚めたときに優しくすることというものだったのです。アドバイスはもう少し具体的で、他にもいろいろあったそうですけど、それ以上は教えてくれませんでした。
私はそれを聞いて少し安心するとともに、さすがはザックさんだと笑いそうになりました。
「でも、良かったですわ、あなたが思っていた通りの方で」
夫はそれに答える代わりに、もう一度私を抱きしめてくれました。
結局、そのまま起床し、ロックハート家の訓練に参加することにしました。私も少しは剣を使えるので参加するつもりだったのですが、夫はあまり乗り気ではありません。
「私もロックハートの女になるのです。領地を守るために剣の腕を上げなければならないのではありませんか」
夫は 頭(かぶり) を振り、
「いや、そんなことはないよ。現に母上は剣を持たないし、従士の妻たちも誰も訓練には参加しないから」
私はどうやら思い違いをしていたようです。
ロックハート家の女性と言えば、 お義母様(おかあさま) 、義理の妹のセラフィーヌさんとソフィアちゃん、そして、ザックさんと一緒にいるリディアーヌさんたちしか知りません。お義母様以外、ソフィアちゃんですら剣を持っていましたし、騎士団長であるマンフレッド・ブレイスフォード男爵がリディアーヌさんたちのことを“あの四人はいずれも一騎当千の 強者(つわもの) ”とおっしゃっておられたので、ロックハート家では女性でも戦うのが当たり前だと思っていたのです。
とりあえず、今日は様子を見るということで動きやすい乗馬服に着替え、夫と彼の従者であるシム・マーロン、私の侍女であるアンジーこと、アンジェリカ・コールリッジとともにロックハート家が訓練を行っている城の北東部分――騎士たちの詰め所がある近く――に向かいました。
城の外は既に夜が明け始め、空は藍色から青色に変わり始めていました。
訓練場所にはロックハート家の方たちが全員揃っていました。既に体を温めるためか、変わった運動を行っていました。後で夫に聞くと、ロックハート家で準備運動として行われる“ストレッチ”というものだそうです。
「おはようございます。 お義父様(おとうさま) 、 お義母様(おかあさま) 」
まず、義父になられたマサイアス卿とターニャ様に挨拶をし、他の方たちにも挨拶を行っていきました。
少し緊張したのですが、皆さん私のことを快く受け入れて下さっているようで、明るい声で挨拶を返してくれます。
唯一人、ザックさんだけが少し微妙な顔をしていました。それは私に対してではなく、夫、ロドリックに対してでした。ザックさんは私たちに挨拶を返した後、夫の腕を引き、少し離れていきます。僅かに聞こえる会話の内容から、今日の訓練は参加しないようにアドバイスしたのになぜなのかということを話しているようでした。
私たちの後にブレイスフォード男爵と二人の若い騎士が訓練に加わりました。突然の参加にお義父様を始め、全員が驚いていましたが、男爵がお義父様に何やら説明し、同じように訓練を行うことになったようです。
挨拶を終え、夫に教えてもらいながら準備運動を行いました。十分ほど行った後、従士であるガイ・ジェークスの号令で素振りが始まりました。
十分ほど素振りを続けるのですが、私にはそれだけでも厳しく、既に腕が上がらなくなっていました。アンジーも私とともに剣を振るっているのですが、やはり苦しそうな顔をしています。
私は五年前、十一歳頃から剣術を習い始めました。
剣術を習い始めたのには理由があります。
私には嫡男であったパトリック兄さまを含め、三人の兄がいたのです。お二人は私が生まれる前に他界され、パトリック兄さまも五年前に亡くなられました。お兄さまが亡くなられた時、私は十一歳になっていたのですが、その時思ったのです。このままでは私も死んでしまうのではないか、そして、愛する家族、お父様、義姉上であるコーデリア様、甥のフランシスも死んでしまうのではないかと。
そのために何かできることはないか、必死になって考えました。その結果が騎士団と出来るだけ行動を共にするということでした。
今となって思えば、浅はかな考えだったのでしょう。騎士たちを味方に付けるだけで解決するはずはないのですから。ですが、その当時はまだ幼く、そこまで考えが至らなかったのです。もしかしたら、お兄さまたちを守れなかったお父様に対する不信感のようなものがあったのかもしれません。
そのため、剣術を習い、更にはお父様に無理やりお願いして騎士団の演習にも積極的に参加するようになりました。
十一歳から始めた割には、そして、領主の娘という理由で手加減された割には剣術の腕は上がっていきました。十四歳の時には、始めてから僅か三年間という短い期間でしたが、剣術レベルが十四になっていました。既に模擬戦なら騎士団の従士たちと互角に戦えるほどになっていたのです。
私はそこで増長したようです。
出来るだけ若い騎士や従士たちを相手に手合わせをするようにしたのです。もちろん、始めた理由はあります。
私が女騎士として名を上げ、常に騎士団と共にあれば、騎士たちも味方に付いてくれるのではないか。優秀な、そして、誠実な騎士と出会えるかもしれないのではないかと考えたのです。今思えば、とても利己的な理由だと思います。
もう一つの目的は私に求婚してくる貴公子たちを退けるためです。私は自らの命や家族を守るため、私たちを守ってくれる騎士を求めていたのです。ですから、上級貴族のご子息ではもの足りないと思っていました。
今思えば、武術だけが力ではありませんから、力のある貴族のご子息でも私の目的に適ったはずです。ですが、その頃の私は力と言えば武力しか頭になかったのです。
しかし、私の望みは叶いました。
夫ロドリックは私を守ってくれると約束してくれましたし、ロックハート家の方々が味方に付いてくれたことでラズウェル家が平穏になるのですから。
私とアンジーは素振りだけで座り込んでしまいました。
僅か十分とはいえ、ジェークスの号令に合わせて剣を振り続けなくてはいけないからです。私たちも普通の素振りだけなら十分程度は続けられます。ですが、この家の素振りは全く違ったのです。どう言っていいのでしょうか。一振り一振りに魂を込めて振り続けるのです。
私たちにはありませんでしたが、少しでも気を抜いた振りをすると、ジェークスとバイロン・シードルフから叱責の声が飛ぶのです。自分たちへの叱責ではないと判っていても、その声に圧倒されていたのです。
恐らく、私たちが途中で休憩しても誰も何も言わなかったでしょう。ですが、私もロックハート家に嫁いだ身。初日から投げ出すわけにはいかないと意地になって剣を振り続けました。恥ずかしい話ですが、それだけで体力を使い切ってしまいました。ロックハート家の方々にとって体を温めるだけの準備運動に過ぎないにもかかわらず。
その後は見学していただけですが、ロックハート家の訓練を見て、驚きの連続でした。
私と同じくらいの歳であるザックさんたちは元より、僅か十歳のセオフィラスさん、セラフィーヌさんたちですら、手加減なしの模擬戦を繰り広げていたからです。
更に領主であるお義父様も巨漢の従士バイロン・シードルフに叩きのめされ、罵声を浴びていました。他の家ではあり得ない光景です。主君に対し、手加減なしの打ち込みをし、更に立ち上がるよう罵声まで浴びせかけるのですから。
私はこの家で剣を持つということがどのような意味を持つか、はっきりと理解しました。そして、私は剣を持つことができるのか、その選択を迫られるだろうことも。
訓練が終わると、私とアンジー、お義母様以外は皆、泥だらけになっていました。
朝食前の訓練だというのに。
私は汗を流すための湯を頼もうと、アンジーに命じようとしました。
「あら、大丈夫ですよ。うちのザックたちが何とかしてくれますから」
お義母様は笑顔でそうおっしゃるのですが、なぜザックさんたちが関係してくるのか判りませんでした。
ここウェルバーン城には十人ほどが入れる大きな浴場が二つ、小さめの浴場が数ヶ所あります。大きな浴場の場合、湯の準備をするだけで三時間以上掛かってしまうので、浴槽に湯を張ることは考えていなかったのですが、それでも体を拭く湯を準備するのには時間が掛かります。
お義母様のおっしゃっていた意味ですが、浴場に行ってすぐに判りました。
リディアーヌ・デュプレさんとガイ・ジェークスの娘、シャロンが魔法で湯を作っていたのです。私は魔法で湯を作るという行為を目にしてドクトゥスで流れているザックさんたちの噂が本当だったのだと今更ながらに驚いてしまいました。
私が聞いた噂では、ザックさんたちは自分たちが快適に過ごせるようにあらゆることに魔法を利用しているというものでした。
祝宴でも魔法を使って氷を作ったり、ワインを冷やしたりされていたので、本当の話だと判っていたのですが、まさかお風呂のために魔法を使うとは思わなかったのです。
お義母様に話を伺うと、
「ザックはお風呂が好きなんですよ。村に来たら分かると思いますけど……」
領地であるラスモア村には大きなお風呂があり、村人たちと一緒に入っているそうです。そのお風呂を作ったのが、まだ幼かったザックさんという事実に驚きましたが、お義母様のお話を聞き、あの方なら何でもありかもしれないと妙に納得してしまいました。
女性用は二人で湯を準備しているのですが、男性用はザックさん一人だそうです。さすがに水は従士たちが準備しているようですが、それでも大変そうです。
汗を流しすっきりしたところで朝食をとり、今日から始まるお披露目の旅の準備を行っていきます。途中でアンジーが呼び出され、少し時間が掛かってしまったのですが、十時頃には予定通り出発できました。
出発前にアンジーにどこに行っていたのかと聞くと、
「お館様のお召しだったのですが、侍女たちを集められ、お嬢様とともにロックハート領に赴く希望者を募られたのです……」
どうやら父が私に付ける侍女を選ぶために希望者を募ったようです。私もその話は聞いており、その時はアンジーだけで十分と言っておいたのですが、やはり娘が可愛いのでしょう。父はアンジーの他にもう一人か二人、同行させようと考えたようです。
「……もちろん私は即座に手を上げましたが、驚いたことに侍女の半数以上が即座に希望したのです。これにはお館様も驚いておられました……」
アンジーの話では昨日の祝宴で給仕を担当した侍女のほとんど、侍女長のバーバラ以外全員が手を上げたそうです。
「……バーバラ様は特に驚いておられませんでしたが、少しだけ残念そうな表情をされたのが印象的でした。もしかしたら、バーバラ様も手を上げたかったのかもしれません……」
私はどうして給仕を担当した侍女のほとんどが手を上げたのか理由が判りませんでした。こう言ってはなんですが、ラスモア村と言うのは辺境の開拓村です。確かに平和で豊かな村だそうですが、若い侍女たちが都会であるウェルバーンを離れ、田舎暮らしをしたいと思う理由が判らなかったのです。
それについてはアンジーが同僚たちに聞いた話を教えてくれました。
「ザカライアス卿に魅了されたようですよ。給仕の練習の時の凛としたお姿と優しい表情、そして、時々見せる可愛い表情に……」
そして、アンジーは笑いながらこう付け加えました。
「……それにしても、ザカライアス卿は噂どおりの方ですね。 全方位のハーレム王子(オールレンジプリンス) と聞いた時には信じられませんでしたけど、凄い女誑し、いえ、本当におもてになる方なんですね……」
その話に珍しく夫が口を挟んできました。
「ザックはそんな器用な男じゃないよ」
私はそうなのかしらと思い、
「でも、リディアーヌさん、ベアトリスさん、それに二人の幼馴染の四人と一緒に暮らしていたんでしょ?」
「そうだけど……多分、一緒にいれば分かると思う」
夫はどう言っていいのか判らないという感じで、それ以上語りませんでした。私はこの時、夫が本当にザックさんに嫉妬していないことを知りました。
夫も天才剣術士と言われていますが、ザックさんは剣術、魔法、政治、そしてお酒……本当に何をやらせても天才なのです。もし、私が男性に生まれ、弟がザックさんのような天才だったとしたら、間違いなく嫉妬するはずです。ですが、私の夫ロドリックは弟であるザックさんに対して全く嫉妬していないのです。それどころか、アンジーのからかいに対しても 窘(たしな) めていますし、昨夜のザックさんのアドバイスも素直に聞いています。
私はこの時、ロッドを夫に選んで本当に良かったと思いました。
ザックさんは天才ですが、この人はそれを認める度量を持っているのです。私はそれがとても誇らしく、知らず知らずのうちに彼の腕に抱きついていました。
私は話題を変えるため、私に同行する侍女について聞いてみました。
「話を戻すけど、アンジーの他に誰が来そうなの?」
「まだ判りません。私も決定と言うわけではありませんから。実家の了解が必要なんです……」
彼女の話では父は希望者全員に実家の承諾を得るように指示を出したそうです。
ウェルバーン城の侍女たちは比較的近隣に領地を持つ男爵家、騎士の家の令嬢たちですから、手紙を出せば五日ほどで確認は取れます。父は私たちの出発までに親の許可を得るよう指示したそうです。
私としては姉のように思っているアンジーと離れたくないのですが、こればかりはコールリッジ男爵のお考え次第です。
いずれにしても、私はロックハート家の人間になるのです。今までのように甘い考えでは皆に迷惑が掛かってしまいます。
私がそんなことを考えていると、夫が私の手をしっかりと握り、私の目を見つめながら、「大丈夫。私がいるから」と囁いてくれました。
その様子を見てアンジーが何か言いたそうにしていますが、私はそれを気にすることなく、夫に体を預けました。
この先、この人と一緒なら大丈夫。そう思えたのです。