作品タイトル不明
第三十一話「庭園での出来事」
トリア暦三〇一七年七月二十日。
今日、兄ロドリック・ロックハートとヒューバート・ラズウェル辺境伯の息女ロザリンドの婚姻の儀が行われる。
昨日のハリソン・ガネルの捕縛によって、一連の騒動は一応の決着をみた。まだ、ルークスへの制裁などが残っているが、最も危険な人物を式典の前に捕らえられたことから、人々の表情は明るかった。
ロックハート家の面々も皆、今日の式典を楽しみにしており、笑顔が絶えることはなかった。
今日のスケジュールだが、午前中は準備に当てられ、正午から婚姻の儀が執り行われる。平民の結婚式では結婚を司る 人神(ウィータ) の神官が祝福を与えるだけの簡単な儀式だそうだが、さすがに大貴族である辺境伯家ということもあり、十二柱の神すべての祝福を受けることになっている。このため、その儀式だけで二時間近く掛かる。
その後、開放型の馬車で市内をパレードし、市民たちにお披露目を行うことになっている。三万人が住む大都市であり、主要な通りを回るだけで二時間近く掛かると見込まれ、パレードは午後四時頃に終了する予定だ。パレード終了後の午後四時過ぎから祝宴が始まることになっており、兄たちにとってはかなりのハードなスケジュールとなっている。
俺はドレスの着付けに忙しい女性陣とは異なり、正装に着替えるだけであっという間に準備は終わる。ちなみに俺の着ている服だが、袖口や肩などに銀色のラインで装飾を施した二列ボタンの丈の短い 上着(ジャケット) にヒラヒラとしたネクタイのような白いジャボ、ピッタリとした細身のボトムスにロングブーツで軍服のようにも見えなくはない。色は言うまでも無く、ジャボ以外すべて黒だ。
いつもは後ろでまとめている髪だが、今日はまとめることなく降ろしている。鏡を見ると白い宇宙戦艦を旗艦としている銀河帝国の皇帝陛下のようで何となく落ち着かない。さすがにあそこまで美男子ではないが。
暇を持て余しているのは俺だけではなかった。リディとベアトリスも俺と同じような服装であるため、既に着替えを終えており、することがない。
リディの装いだが、真っ白なリネンのシャツ、濃いグリーンの燕尾服のようなジャケット、俺と同じような白いジャボを身に着けている。細身の白いボトムスに黒いロングブーツで、貴族の乗馬服をモチーフにしている。俺と同じようにセミロングの髪を降ろし、背中に向けて自然に流しており、エルフの特徴的な耳が僅かに見えている。
ベアトリスは銀糸で縁取りをし、肩章を象った刺繍がされた黒い軍服調の上着と、細身の白いボトムスに黒いロングブーツでジャボはつけていない。これは俺がデザインしたもので、こちらも黄金樹の帝国の軍服を参考にしている。凛々しい顔立ちとベリーショートの髪型で、宇宙戦艦の艦橋で「 発射(ファイエル) !」と叫んでもそれほど違和感はないはずだ。いや、虎耳と尻尾が付いているから違和感はあるかもしれない。
二人とも薄く化粧をしており、いつも以上に色気がある気がする。
今回、式典に出席できるのはロックハート家の者だけなのだが、リディ、ベアトリス、メル、シャロンは俺の婚約者扱いということで出席することになっている。従士扱いのダンは婚姻の式典と夕方からの祝宴には出席できない。もちろん、彼の父であるガイ・ジェークスやバイロン・シードルフも従士ということで控えの間で待つことになっている。
午前十一時頃、母たちの準備も終わり、下見を兼ねて式典が行われる大ホールに向かった。
ウェルバーン城の構造だが、西側にエントランスがあり、城の中央の中庭を囲むように建物が配置されている。つまり、上から見ると“ロ”の字の形になっている。エントランスから見て一番奥、つまり東側の面が大ホールとなっている。
ちなみに城を守る騎士たちは北側、文官たちが南側の棟を使っている。南側の二階部分が来客用のエリアとなっており、俺たちと同じように遠方から来た貴族たちが泊っている。
大ホールの東側には先日の第四大隊反乱時にリディとシャロンが魔法で滅茶苦茶にした庭がある。庭師たちの懸命な努力によって、世紀末を思わせるような無残な状態からは脱しており、急遽植えた花々で華やかさを取り戻していた。
西側にある中庭は中央に噴水があり、その周りの花壇には赤や黄色、オレンジ色と言った美しい花々がパッチワークのように植えられている。
大ホールは幅五十m、縦七十mほどのスペースがあり、高い天井はアーチ状になっている。さすがにその長い 梁間(スパン) を支えることは難しいのか、太い柱がホールの中にもあるが、設計がいいのかほとんど気にならない。
天井付近にある窓にはガラスが多く使われており、城であるにも関わらず、非常に明るい空間になっている。
俺たちが城の中をブラブラしていると、母ターニャが呼び止められた。
そこには母方の祖父ジェイコブと祖母メーベル、母の兄、伯父のデールがいた。祖父はここウェルバーンで騎士団相手の仕立屋を営んでおり、今回は孫の結婚ということで平民にも関わらず招待されていたのだ。
祖父は七十歳に近い年齢ということもあり、先日俺たちに会いに来てくれた時の印象では笑顔を絶やさぬ好々爺と言った感じだったのだが、今日は辺境伯と顔を合わせるということでかなり緊張しているようだ。同じように祖母と伯父も笑顔が引き攣っていた。
「ターニャが来てくれてよかったわい」
母の姿を見付け、ホッとしたのか、二人は大きく安堵の息を吐く。
そして、父の姿が目に入ったのか、慌てて「挨拶が遅れ申し訳ございません」と頭を下げる。
父は三人に「緊張しているようだが、大丈夫か」と声を掛ける。
「総督様の姫様が孫の結婚相手なんて思ってもみなかったもので。ロドリック様は自慢の孫なのですが、それでも……」
祖父たちは大貴族と縁戚関係になるということが実感できないでいるようだ。
それを言うなら、父も騎士ということで彼らにとっては身分違いになる。だが、祖父ゴーヴァンが平民上がりということで、父と母の結婚はそれほど揉めることはなかったそうだ。もちろん、英雄である 獅子心(ライオンハート) ゴーヴァンの息子ということで驚きはしたそうだが。
だが、今回はそれとは大きく異なる。
ウェルバーンに長く住む彼らにとって、辺境伯は皇帝にも匹敵する権力者だ。その愛娘と直系の孫が結婚するのだ。それもここでは絶大な人気を誇る“姫様”と結婚するということに、未だ心の整理が付いていないようだ。
ちなみに両親の出会いだが、母が店の手伝いをしている時、偶然父が訪れ一目惚れしたそうだ。父が酔った時に聞き出したのだが、あまり詳しくは聞けていない。
ウェルバーンに来て結構な日数が経っているが、ハリソン・ガネルが捕えられるまで城の外に自由に出られなかったので、祖父の家にはまだ行ったことがない。話を聞く限りでは比較的裕福な家のようだ。
祖父は兄のことを敬称を付けて呼ぶが、平民である彼らと騎士階級の俺たちでは仕方がないことだ。さすがに母のことは昔のように呼んだが、他の目があれば“ロックハート夫人”か“奥方様”と呼んでいただろう。
祖父が俺を含め、弟のセオや妹のセラ、ソフィアに様付で呼んでいるが、日本人の感覚が残る俺には違和感がある。特にこの世界に来てからも割と身分の上下がないところにいたためか、未だに慣れない。
ただ、孫たちはやはり可愛いようで、特に幼いソフィアには頬ずりしそうな感じで接しており、どの世界でも孫を可愛がるのは一緒なのだと少し安心した。
一旦、祖父たちとは別れ、大ホールに入る。
既に祭壇の設置が終わり、神官たちが手順の確認や供物の並べ方などで文官たちと話し合っている姿が目に入る。
彼らにとっては久しぶりの大イベントであり、気合が入っているのがありありと分かる。特に光神教のこともあり、各神殿の神官たちは辺境伯の印象を良くしようと精一杯の努力をしているようだ。
大ホールから中庭に目をやると、そこには何人もの貴族たちが庭を散策していた。
俺たちと同じように暇を持て余しているのだろう。
俺は父と母に断りを入れてから、傍らに立つメルとシャロンに声を掛ける。
「庭を見に行かないか?」
メルはニンジン色の赤毛をシニヨンのように後ろでまとめるように結い上げ、肩を出したかなり大胆なデザインの薄いブルーのドレスを着ている。日に焼けているが肩からうなじに掛けての肌が艶めかしく、コルセットを使いウェストの細さと成長著しいバストを強調した姿が妙に女を感じさせる。但し、本人はかなり苦しいのか、「これでは何も食べられません」と零していた。ただ、俺が「良く似合っている」と言って褒めると嬉しそうに、はにかんだ笑顔を見せてくれた。
シャロンは美しいプラチナブロンドの髪をサイドで三つ編みにし、後ろでまとめていた。身に纏うのは大人しいAラインのドレスで薄いピンク色のものだ。メルとは違い肌の露出は少なく、普段から清楚な感じのシャロンにはよく似合っている。彼女にそのことを伝えると、「ありがとうございます」と恥ずかしげに答え、僅かに顔が上気していた。
二人を引き連れ、中庭に行くが、リディとベアトリスは特に何も言ってこない。
これには理由があった。
今回は昼間を年少組のメルとシャロンの相手をし、リディとベアトリスは日が暮れてから相手をするというシフト制になっていたのだ。それも俺の知らないところで決まっていた。
中庭を一周して時間を潰し、軽い昼食をとるため、部屋に戻っていく。
そして、正午となった。
ウェルバーン市内の鐘が一斉に鳴らされ、兄ロドリックとロザリンドの婚姻の式典が始まった。
鐘が鳴り終わると、兄たちが後ろの大扉から入場してくる。
兄はカエルム帝国北部総督府軍の正装――青を基調とした軍服に飾帯を肩から掛けたスタイル――で身を固め、肩まである濃い金色の髪を後ろでまとめている。美しい装飾を施した細身の剣を佩き、その颯爽たる姿はまさに若き英雄だった。
一方のロザリンドは豊かな金髪をあえてまとめずに背中に流し、頭には銀色のティアラを飾っていた。ドレスはサファイアのような光沢のある青で、胸元が大きく開いたエレガントなデザインのものだった。はっきりとした目鼻立ちと大人の装いで、舞台女優のような艶やかさがあり、北部一の美女と言う評価にも納得できる。
赤い絨毯と白亜の壁と柱をバックに、天井付近の窓から差し込む日の光がスポットライトのような効果を見せ、二人が並んだ姿は名画の一シーンのようだと思うほどだった。
ここウェルバーンの人々にとって男装している印象が強いのか、感嘆のため息がそこかしこから聞こえてくる。
神事は滞りなく進行していった。
創造神(クレアトール) に始まり、 火の神(イグニス) 、 光の神(ルキドゥス) 、 風の神(ウェントゥス) 、 木の神(アルボル) 、 水の神(フォンス) 、 闇の神(ノクティス) 、 土の神(リームス) 、 金の神(フェッルム) の属性神八柱が続き、最後に主神三柱である 天の神(カエルム) 、 地の神(モンス) 、 人の神(ウィータ) の祝福が行われていく。
十二の神殿の神官たちによる祝福の儀式は荘厳なものであり、こういった儀式に懐疑的な俺ですら本当に神の祝福があるのではないかと錯覚させるほどだった。
父も同じことを感じたのか、神々への感謝の言葉を呟いていた。特に母は感極まってしまい、涙を流すほどの感動を受けたようだ。
若いメルやシャロンは儀式を見ながら自らの結婚を夢見ているかのように遠い目をしていた。
式典が滞りなく終わると、兄たちはパレードに向かう。パレードには兄たち新婚夫婦と辺境伯一家、そして、父マサイアスと母ターニャが参加する。 開放型(オープン) 馬車に乗り込み、主要な通りを全て回るのだが、手を振り続けるだけでも大変だろう。ちなみに兄たちの馬車の御者はメルの兄シム・マーロンが勤めている。従騎士として兄を支えてくれていることに対し、父と辺境伯が決めたそうだ。そのことでシムは涙を流さんばかりに感激していたそうだ。
最初はロックハート家が参加する予定ではなかったのだが、ラズウェル家とロックハート家の良好な関係を印象付けると言う理由で急遽決まったようだ。俺もパレードに出るよう促されたが、正直面倒だったので、適当な理由をつけて断っている。つまり、パレードが終わるまで二時間ほど時間が空くことになったのだ。
俺たちに割り当てられた部屋に戻るが、思ったよりゆっくり出来ない。
帝都から来ている貴族の令嬢たちが俺目当てにやってくるからだ。目端の利く貴族ならロックハート家と関係を結びたいと考えるのは理解できる。この世界では成人として認められる十五歳の次男がいるのだから不思議ではないが、家長である父がいない時を狙ってくるのは理解できなかった。
だが、その理由はすぐに判明した。
父や母がいないから、若い俺が羽目を外しやすいと考えているようだ。大胆なドレスを着た令嬢たちがしきりに外に行くよう誘い、二人っきりになろうとするのだ。
(庭の木立の陰にでも引き込んで篭絡してしまえってことか……それとも 美人局(つつもたせ) 紛いの手口で強引に関係があったと言い張るのか?……それにしても面倒だな……)
侯爵家や伯爵家の美姫たちが代わる代わる部屋を訪れる。
(確かに美人なんだが、特権階級という意識が鼻につく。こっちが騎士の家のそれも次男坊だということで嫌々来ていることを隠そうともしない……)
あまりの酷さに辟易とし、メルとシャロンを引きつれ外に脱出した。
七月下旬の盛夏の頃であり、日差しが強いのだが、ここウェルバーンは大陸性の気候なのか湿度が低く、木陰に入れば結構過ごし易い。
城の前面に当たる西側の庭には、多くの招待客が散策し、木陰のベンチで涼んでいた。
庭の片隅に空いたベンチを見つける。ここは城壁の南西角に当たり、いい具合に日射を遮ってくれる。それだけでなく、きれいに剪定された植木に遮られ、庭の方からこちらを見通すことが難しい。いい避難所を見つけたと思い、だらしなくベンチにもたれかかる。
メルとシャロンはドレスの裾を気にしながら、俺の横に座った。
庭の方から招待客たちの談笑する声が聞こえてくるが、思ったより静かで多くの招待客がいるとは思えないほどだ。
(パレードが終わるまであと一時間以上か……平和だな。昨日までのバタバタが嘘のようだ……少し眠くなってきたな……)
そんなことを考えていると自然とあくびが出る。
「少し横になられますか?」
右側に座るメルが自分の膝を示してそう言ってきた。
膝枕をしてくれると言いたいようだ。
折角のドレスが皺になると言って断ると、「大丈夫ですよ」と更に勧めてくる。
これ以上断るのもなんだと思い、横になる。後頭部に感じる柔らかく、そして弾力のある感触に何となく気恥ずかしさを感じながら、上を見上げると、そこにはメルの楽しそうな笑顔があった。
(少し恥ずかしい気もするが、これくらいのことで喜んでくれるなら……シャロンの言うことも聞いてやらないとな……)
木漏れ日の中、木々の間から覗く青い空を見ながら、まどろんでいく。
だが、そのささやかな幸せは突然の闖入者によって破られる。
「いいご身分だな。女を侍らせて昼寝か」
騎士団の装備に身を固めた若者がそう言いながら、俺を睨みつける。
見た感じは十代半ば、俺より一つ二つ年上といったところか。装備を見る限りでは騎士ではなく従士のようだ。
俺は礼儀を知らぬ若者に気分を害していた。
(いきなり何を言い出すんだ? 招待客だと見れば分かるはずだ。いや、第一騎士団の従士なら俺の顔は知っているはずだ……これくらいの歳ならきちんと教育されているはずだが、何が気に入らないんだ?)
俺は体を起こす。
「これでも招待客なのですよ。それに誰にも迷惑を掛けていないはずですが?」
その若い従士は俺の言葉を無視し、更には殺気を放ちながら、にじり寄ってきた。
メルがその殺気を感じ、立ち上がる。
「この方はザカライアス・ロックハート様です! 無礼なことは許しません!」
そう言って俺の前に出る。一度腰に手をやり剣を持っていないことに気付くが、気丈にも相手を睨みつけ、俺を守ろうとしていた。
横ではシャロンも立ち上がり、呪文の詠唱を始める。
(騎士団の従士にケガをさせるのは拙いな。向こうが一方的に言いがかりを付けてきたんだが、それを証明する術は無いし……)
俺はメルの肩に手を置きながら彼女の前に出る。
「二人とも大丈夫だ。とりあえず、落ち着いてくれ」
そう言った後、従士の方に向き直り、改めて名を名乗った。
「この娘が言ったように、私はマサイアス・ロックハートの次男、ザカライアスです。決して怪しいものでは……」
若い従士は俺の名乗りを無視し、「貴様に兄上は……こんな奴に……」と呟きながら、剣の柄に手を掛ける。
「兄上? 何の話だ?」
俺は話が見えず、そう尋ねた。彼が答える前に木立から一人の騎士が姿を現した。
「フィリップ! それ以上は私が許さぬ!」
その騎士は二十代半ばくらいで小隊長の徽章を付けていた。
「しかし! 隊長の命令でも……」
ここまで言ったところで小隊長の拳が飛び、フィリップと呼ばれた少年は大きくよろめいて転倒する。
それでも片膝を突いて立ち上がり、悔しそうな顔で再び俺を睨みつけてきた。
小隊長である騎士は未だに睨み続けているメルとシャロンに苦笑しながら、「部下が迷惑をお掛けした」と言って頭を下げる。
「私は第一騎士団で小隊長を務めているケネス・ダイアスという者だ。この者はフィリップ・イングリス。第四大隊の騎士レイモンド・イングリスの弟だ」
第四大隊と聞き、何となく事情が判った。
「もしかして、先日お亡くなりになられたのでは……」
ダイアスは頷き、
「三階に上がる階段の途中で死亡していたそうだ。外傷は無く、貴公の魔法で命を落としたらしい……」
事情は判った。
フィリップという少年にとって、俺は兄レイモンドの仇ということだ。その仇が二人の美少女を侍らせて暢気に昼寝をしていたから、切れてしまったのだろう。
事情は判るが、俺に斬りかかって良いと言うことにはならない。だが、それを指摘する気にならなかった。
「ザック様は悪くありません! 私たちを、辺境伯様をお守りするために仕方なく戦ったんです!」
俺が何も言わないでいる隙に、メルがやや興奮した口調で叫んでいた。
それに対し、ダイアスは頷き、
「もちろんそれは判っている。我らもロックハート家の方々には感謝しているのだ」
苦笑気味にそう言うが、メルは納得しない。
「なら、どうして剣を抜こうとしたんですか! いえ、今も剣から手を放していません!」
ダイアスはフィリップに「いい加減、剣から手を放せ!」と命じ、
「それについては謝罪する……だが、人の心はそう簡単に割り切れんのだよ。やり場のない怒りという奴は厄介なのだ。いや、これはいい訳に過ぎんな」
その横ではフィリップが顔を歪め泣きそうにも見える表情で睨んでいる。
フィリップの表情に気付いたシャロンが彼女にしては珍しく、強い口調で問い詰めていく。
「あれは命懸けの戦いだったのですよ。それで恨まれても……では、私たちが死ねば良かったのですか? いえ、辺境伯様が亡くなればよかったと思っているのですか?」
その鋭い舌鋒にフィリップは顔を赤くするだけで何も言えない。自分より年下の少女の言っていることの方が正論だと判っているようだ。
俺は「ありがとう」と言って二人の肩に手を置き、
「だが、それくらいにしておいてやってくれ。彼の気持ちも分からない訳じゃないんだろう?」
ダイアスがもう一度頭を下げる。
「もう一度言わせて欲しい。我々は君たちに感謝しているのだ。主君を守ってくれた君たちにな……今回のことで恨むべきは悪辣な手を使ってきたルークスの奴らだ。それは分かっているのだ……だが、家族を、友を失った気持ちという奴は……済まぬ。繰り言だ。忘れてくれ」
俺は初めて“ 戦(いくさ) ”というものを実感したような気がしていた。
(何の恨みもなく、初めて会った人と殺し合う……知識としては知っていたが、正直なところ俺には重いな、戦争って奴は……俺には傭兵は無理だな……)
ダイアスは背筋を伸ばし、
「こいつには厳しい罰を与える。もちろん、今回のことはきっちりと反省させるし、自分が何をしたのか考えさせる。それで収めてはくれないだろうか」
そう言って深々と頭を下げる。
俺は「もう気にしていません」と答えることしか出来なかった。ダイアスはフィリップを引き摺るようにして立ち去っていく。
どんよりとした塊のようなものが俺の心を占めていた。
それを察したのか、メルとシャロンが俺の腕をからめ取る。
シャロンが「もう少し歩きませんか」と笑顔を見せ、メルも「噴水のところに行きましょう」と俺の腕を抱きしめる。十五、六の少女に慰められ、何となく情けない気持ちになった。
(情けないものだ。もう少し割り切れればいいんだが……未だに前の世界の常識が抜けていないな……)
天を仰ぎ見る。そこには青い空が変わらずにあった。
(考えても何か変わるわけじゃない。あれ以上の事が出来たわけじゃないんだ。今はメルやシャロンの笑顔が見られるだけでいいと考えよう……)
俺は交互に左右の二人を見ながら、「それではお姫様方」と芝居がかった口調で声を掛ける。
「もうすぐ祝宴ですが、いま少し時間があります。あちらの庭園の散策にお付き合いいただけませんか?」
二人は一瞬面食らったものの、すぐに「はい」と笑顔で答えた。俺たちはゆっくりとした足取りで美しい庭園に向けて歩き始めた。