軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第八十五話「卒業:後篇」

トリア暦三〇一七年の年が明けた一月の初旬頃、ラスペード教授から解放された俺はベアトリスから二人だけで話をしたいと告げられた。

いつになく沈んだ感じのベアトリスに違和感を覚えながら、俺は彼女を部屋に招き入れる。部屋に入っても、ベアトリスは中々口を開かなかった。

沈黙が場を支配し、気まずい空気が流れ始めた時、意を決したのか、ベアトリスはゆっくりとした口調で話し始めた。

「……今年であんたは卒業だ。卒業したら、ここで暮らすわけじゃないんだろ? どうするつもりなんだい?」

「今のところ、一度村に戻るつもりではいる。だが、その先は決めていないな。そうだな、世界を旅して回ってもいいな。いずれにせよ、少なくともアルスには早めに行くだろうがな」

学院を卒業した後、村に戻り、少しゆっくりするつもりでいた。

もちろん、鍛冶師ギルドに迷惑を掛けたから、その後始末をするため、カウム王国の王都アルスにいくことだけは決めていたが、それ以外は決めていなかった。

なぜなら、もうそろそろ俺がこの世界に来た理由、神が遣わす者を導くという仕事が待っていると考えていたからだ。

神の言葉が正しいなら、俺より五年あとに生まれているはずだ。そうなると、俺が出会う相手は十歳になっている。つまり、“導く”ということが使命なら、あと十年とは掛からずに、俺はその者と出会うだろう。

だから、今は明確な方針は決めていない。決めても流れに押し流され、あまり意味がないと考えているからだ。

ベアトリスは小さくため息のような息を吐き、俺と目を合わさず、

「あたしはどうしたらいいんだろう? あんたと一緒にいてもいいのかい?」

その時、俺はあまり深刻に考えていなかった。

「何を言っているんだ。一緒に来てくれるんだろ?」

俺は軽い調子でそう答えた。

普段のベアトリスなら、それでも良かった。だが、彼女の気持ちを俺は理解していなかった。

ベアトリスは下を向き、絞り出すような感じでゆっくりと話し始める。

「あたしは不安なんだ。あんたたちはみんな強くなっていく。それに引き換え、あたしはこれから力が落ちていくはずさ。そんなあたしが付いて行ってもいいのかってね……」

確かに俺たちザックカルテットは物凄い勢いで強くなっている。更に俺たちはまだ十代半ば。今から更に強くなっていくだろう。リディについても同様だ。彼女は長命なエルフ。衰えることはなく、ゆっくりだが確実に能力は上がっていくだろう。

それに引き換え、ベアトリスは今年三十五歳になる。今はまだ、衰えるという歳でもないが、五年後、十年後を思えば、不安になってもおかしくはない。

「一緒に来てほしい。その言葉だけじゃ不安か?」

だが、ベアトリスは何も答えない。俺には彼女がひどく弱々しく見えていた。

「ザック、あんたは天才だ。それに例の神様の頼みって奴もある。あの子たちも天才だよ。それに引き換え……」

俺は何も言わずに彼女を抱き締めた。

(確かに不安になるかもしれない。俺もあのくらいの歳の時には先が見え始めて不安になったものだ。これから先の未来と今まで生きてきた過去。それを見比べてしまうんだ。もっと早く気付いてやればよかった。ベアトリスなら大丈夫だという気持ちがあったんだろうな。俺の甘えだ……)

ベアトリスはびくりと体を震わせるが、僅かに俺に体を預けてきた。

「すまない。俺が甘えていたようだ。俺がもっと……」

彼女は俺の言葉を遮り、

「あたしだって、こんな気持ちになるなんて思ってなかったさ。自分ひとりで生きていけるって、ずっと思っていたんだよ……」

俺はもう一度強く抱きしめ、そのままベッドに倒れこむ。

そして、彼女の唇を奪った。

翌朝、目が覚めると、恥ずかしそうに顔を赤くするベアトリスの顔が目に入ってきた。

いつものように声を掛けるが、俺に背を向けたまま、シーツを体に巻きつけている。

「どうしたんだ? 後悔しているのか?」

彼女は俺の問いに答えない。

「俺は後悔していない。リディのことも含めて、俺は自分の心に素直に従っただけだ。昨日の言葉をもう一度言うぞ。俺と一緒に来てくれ」

以前の俺なら、ベアトリスを抱くことはなかっただろう。リディという心から愛せる相手を見付けたのだから。ベアトリスを抱けば、リディが去っていくかもしれない、そう考えて優柔不断のまま、ズルズルと今の関係を続けていただろう。

だが、俺はこの人生で後悔したくなかった。

自分の気持ちに妥協し、安全、確実な生き方をするくらいなら、二人の愛する女性、リディとベアトリスが去ったとしても後悔しない。後に自分が間違った選択をしたと知っても、後悔しないつもりだ。

恐らく、俺以外の誰にもこの考え方は理解されないだろう。実際、俺が今も日本にいて、以前のような暮らしをしていたら、何て奴だと非難する方に回ったはずだ。

それでも、俺はベアトリスを手放したくなかった。我儘な行動なのだろう。男の身勝手な考えなのだろう。

だが、少なくとも俺は、これがどのような結果を生んでも後悔だけはしないだろう。

俺がもう一度、「俺と一緒に来てくれ」と言うと、彼女はゆっくりと俺の方に顔を向ける。

その顔には涙が流れた跡があった。

「本当にいいんだね。あたしが一緒でも……」

俺が頷くとベアトリスは、少しはにかんだような笑みを浮かべる。

「これであたしもあんたの女なんだね。今は口に出すと恥ずかしいが、いつか胸を張って言えるようになりたいものだね」

結局、今年、トリア暦三〇一七年に入ってから、家にいるときには一人で寝ることはなくなった。

二人の女性は対照的だった。

リディは激しく情熱的で、いつも狂おしいまでに愛情を確かめてくる。それは、今生の別れを覚悟したような、これで最後になっても後悔しないと思っているかのようだ。

一方、ベアトリスは全く逆で、普段の力強く凛々しい彼女からは想像できないほど、ベッドの上では甘えてくる。その甘え方が子猫のようで、俺しか知らないこの事実に、密かに優越感を覚えるほどだ。

そして、どちらも俺にとっては愛おしい存在だ。

六月二十九日。

初夏の抜けるような青空には、ところどころに白い綿雲が浮かんでいる。

今日はティリア魔術学院の卒業式だ。

俺にとって、それほど感慨のあるイベントではないと思っていたが、やはり五年間過ごした学院を去ると思うと、少しだけ寂しさを感じていた。

卒業後の俺の予定だが、兄の結婚式に出席するため、両親たちと共にラズウェル辺境伯領に向かうことになっている。

今回、父たちの護衛は、ガイ・ジェークス、バイロン・シードルフ、イーノス・ヴァッセルの三人の従士に加え、村の自警団の若者五名が同行している。どうやら、新たな従士候補のようで、見聞を広めさせる考えのようだ。

ガイが選ばれたのは、娘シャロンの卒業式に出席させるという父の配慮だろう。

バイロンは旅慣れていることと、以前カウム王国に部隊長として仕えていた経験から、うちの従士の中では最も礼儀作法にも通じている。これが選定の理由だろう。

イーノスは母たちが乗る馬車の御者として同行したようだ。

従士たちはいつものように防具で身を固めているが、新調したのか真新しい装備になっている。自警団の若者たちも訓練で傷だらけになっている防具ではなく、磨き上げられたブレストプレートとヘルメットを着け、更にはロックハート家の紋章――剣を持つ立ち上がった獅子――入りの儀礼用のマントを纏い、傍目には田舎の騎士の従士には全く見えない。

父に聞いたところでは、兄ロドリックの結婚式ということもあり、随行者の装備を新調させたそうだ。

更にガイに裏話を聞いてみると、兄の婚約者であるロザリンド嬢からの手紙に、辺境伯の縁者の中にロックハート家を良く思っていない者がいるという情報があったそうだ。従士頭のウォルト・ヴァッセルがそれを気にして、装備を新調し、更には自警団の若者に作法を叩き込んだ。それだけではなく、ベテランのガイも作法を叩き込まれたと愚痴をこぼしていた。

「大変だったんですよ。あの温厚なウォルト殿がかなり神経質になられていたので……私も生粋の従士じゃないですからね。ウォルト殿とバイロンに徹底的に作法ってやつを叩き込まれました……」

更に母たちが乗る馬車もどこで手に入れたのか、かなり立派な馬車だった。

黒塗りのボディにはロックハート家の紋章が描かれ、御者を務めるイーノスは執事と見紛うほど、きびきびとした動きで対応していた。

これも後で聞いた話だが、イーノスは今回の御者を務めるに当たり、わざわざカウム王国の王都アルスに行って、貴族の従者としての修行をさせられたそうだ。

父や祖父はそこまで必要ないと考えていたようだが、ウォルトやニコラスといった、昔のことを知っている従士たちには思うところがあるようで、祖父が不要ではないかと意見を述べても首を縦には振らなかったそうだ。

俺たちはその立派な馬車に乗り、新市街から旧市街に入っていく。

さすがに伯爵家などの上級貴族が出席するため、それほど目立たないが、父も新調した白を基調とした礼装に身を固め、辺境の田舎騎士には全く見えない。

母も黒を基調としたシンプルなドレスを身に纏っており、父と並ぶと本当に絵になる。

午前十時。卒業式が始まった。

学院長の挨拶を皮切りに来賓の祝辞が続いていく。この辺りは日本の学校と何ら変わるところがない。

来賓だが、今回は魔術師ギルドの評議会議長ピアーズ・ワーグマンも出席している。今回、彼は親族側の席に座っている。ギルドの代表として祝辞を述べる教育研究委員長が頻繁にそちらに視線を送っていたのには、思わず噴出しそうになった。

在校生の送辞を受け、卒業生代表である俺が答辞を行う。

今回も入学式と同様に歴代の答辞の文案から適当に繋ぎ合わせて文章を作成したが、最後の部分だけは自分で考えていた。

「……私たちは今日、ここに五年間学んだティリア魔術学院を去ります。しかし、私たちはまだまだ未熟です。今後、諸先輩方の教えを受け、更なる研鑽に励む所存です……これから先、さまざまな苦難が私たちを待ち受けているでしょう。時には暗い闇の中で死を覚悟するようなことが、また、大きな組織の論理に押し潰されそうになることがあるかもしれません。ですが、私たちはここで学んだことを礎にそれを克服する努力を惜しまないつもりです。私たちはそのことをこの学院で学びました……最後に指導してくださった先生方、影になり日向になり支えてくださった学院関係者の皆様、そして、私たちを育て、見守ってくれた家族に感謝の意を捧げたいと思います。ティリア魔術学院第二百八十一期代表、ザカライアス・ロックハート」

俺が壇上で頭を下げると、一瞬会場が静けさに支配される。

そして、親族席でワーグマン議長が立ち上がって拍手を始めると、その拍手は一気に広がり、会場は割れんばかりの音に支配された。

拍手が続く中、俺はゆっくりと壇上から降りていった。

卒業式は無事に終わった。

俺は世話になったリオネル・ラスペード教授とキトリー・エルバイン教授に挨拶に行く。

ラスペード教授はいつも通りの口調で、

「やはりここには残らんのかね」

俺が頷くと、教授は笑顔を見せ、「それは残念だ。だが、気が向いたらいつでも来なさい」と右手を差し出してきた。

俺は「五年間、本当にありがとうございました」と言って、大きく頭を下げてから、教授の手をとった。教授は満足そうに小さく頷くと、シャロンにも声を掛ける。

「ミス・ジェークスもいつでも来なさい。もちろん、君だけでも歓迎する」

シャロンはその言葉に「は、はい」と答えただけで、それ以上何も言えなくなっていた。有名なラスペード教授が自分を勧誘するとは思っていなかったのだろう。

教授は満足そうに頷きながら、自分の研究室に戻っていった。

キトリーさんにも同じように礼を言うと、意外な言葉が返ってきた。

「私も何年か学院を離れるつもりよ。今のところ、アクィラ山脈の調査を考えているから、ペリクリトルでお世話になるかもしれないわね」

そして、何かを思い出したかのように付け加える。

「そう言えば、あなたの実家もアクィラの麓だったわね」

俺は質問の意図が判らず、少し困惑していた。

「ええ、五kmも東に行けば山に入ってしまうほど近いですね。それが何か?」

「いえ、ペリクリトルで冒険者を雇うより、あなたを雇った方がいいような気がしたのよ」

キトリーさんは遺跡調査で知ったアクィラ山脈にも古代人たちのコミュニティがあったという情報から、遺跡調査を行うつもりだそうだ。

そして、ラスモア村がアクィラに近く、調査に便利なようなら、俺たちを雇おうと考えたようだ。

「機会があれば、お手伝いしますよ。まあ、アクィラは広いですから、うちの村の近くに遺跡があるとは限りませんが」

彼女は「構わないわ。機会があればよろしく」と言って、右手を差し出してきた。

俺は彼女の右手をとり、もう一度礼を言った。

俺がキトリーさんに挨拶を終えると、クェンティン・ワーグマンが近付いてきた。

「ミスター・ロックハート。ありがとう」

クェンティンはいきなり俺に礼を言ってきた。俺が面食らっていると、更に話を続けていく。

「僕は……いや、私がこの学院に入って一番良かったと思ったのは、君に、ザック、君に出会えたことだと思っているんだ。もし、君に出会っていなければ、私は未だに子供のままだったと思う……」

彼は今年十七歳になり、少年から大人になろうとしていた。そして、父親譲りの少し野暮ったい顔だが、自信に溢れた若者らしい笑顔を見せている。少し背伸びをしている感じもするが、自立しようと努力しているようで微笑ましい。

クェンティンは一年の時、一人で森に入って死にそうになってからも、定期的に森に入り、今ではレベル二十を超えている。俺とシャロンがいなければ、ダントツで首席になっていただろう。最後までラスペード教授の講義は受けられなかったものの、教授にある程度認められているようだ。驚くべきことに、ここ十数年の卒業生の名を誰一人覚えなかった教授が、彼の名を覚えたのだ。

俺は「俺がいたからじゃない、クェンティン。それは君の努力の結果だ」と言いながら、右手を差し出した。

彼は俺の右手を取り、しっかりと握り返してきた。

「君は冒険者を続けるそうだね。そんな生き方ができることが羨ましいよ」

俺は小さく頷く。

「君はサルトゥースに行くそうだな。父上と同じように宮廷魔術師からギルドで出世を目指すつもりかい?」

「ああ、今のところ、そのつもりなんだが……今の目標は別のところにある」

俺は「別の目標?」と首を傾げる。

「十年後、いや、二十年後に、君と対等に話せるようになりたい。今の僕の……どうも言い慣れないな……今の私ではザック、君の足元にも及ばない。十年では無理だ。でも、二十年で必ず君に追いついてみせる。それが今の私の目標なんだ」

「そうか……それなら俺も頑張らないとな。二十年後の君に、こんな奴が目標だったとはと悔やまれないように……」

俺がそう言って笑うと、彼もニコリと笑い返してきた。

(最初は嫌な奴だと思ったが、努力家だし、性格も悪くない。魔術師ギルドという権力の中枢にいても、このまま素直に伸びていってほしいものだな……)

彼はもう一度、右手を強く握ると、シャロンにも、「シャロンも私の目標の一人だ。必ず君に追いついてみせる。それまで元気で」とそれだけを一気に話すと、踵を返して父親であるワーグマン議長のもとに走っていった。

その様子を見て、俺は彼がシャロンに恋していたのかもしれないと思った。

(接点は少なかったが、可能性はあるな。まあ、シャロンに片思いしているのはクェンティンだけじゃないんだろうが)

実際、シャロンに告白する男子生徒は多かった。上品な顔立ちの美少女であり、天才ともてはやされても驕らない控えめな性格が好印象を与えていたようだ。

その点、俺に告白してくる女子生徒は皆無だ。

クェンティンから聞いたのだが、女子たちは俺がラスペード先生と対等に話しているのを見て、近寄りがたい威厳のようなものを感じていたらしい。俺としては面倒がなくてちょうど良かったのだが、リディやメルはドクトゥスの女子生徒は見る目がないと憤慨していた。実際、言い寄ってくる女子がいたら、それはそれで何か文句を言いそうだが。

シャロンは少し感慨深げに、

「ミスター・ワーグマンは変わりましたね。最初はどうなるかと思ったんですけど……でも、私が目標って、どういうことなんでしょう?」

シャロンはクェンティンが自分に想いを寄せていることに、気付いていないようだ。気付いたとしても、彼女が困るだろうし、クェンティンは即座に失恋するから、それはそれでよかったかもしれない。

「そうだな。俺やシャロンを目標にするより、もっと大きな目標を持ったらいいのにな」

俺はそう言って、もう一度、クェンティンの後姿を見た。

(二十年後、クェンティンはどうなっているのだろう。それを言ったら、俺はどうなっているんだろうな……)

俺は青く澄んだ空を見上げ、未来に思いを馳せた。

そして、五年間過ごしたこの学院のことを、ここで出会った人たちのことを。

この街での出会いが俺を大きく変えた。

ラスペード教授、キトリーさん、ワーグマン議長、サイ・ファーマン……そして、ベアトリス。そして、傍らにはいつもリディがいた。

(ベアトリスと出会わなかったら……あの日、あの時間に……今とは全く違う生活になっていたんだろうな……)

俺はそんなことを考えながら、学院の校舎を見つめていた。

(ここで学院生として生きることは二度とない……ここでの生活は本当に楽しかった。思い描いていた学院生活とはかなり違ったが、これほど充実した日々を過ごせるとは思っていなかった……)

俺が物思いにふけっていると、シャロンが俺の手を取り、軽く引っ張る。

彼女の目は真っ直ぐに、そして前だけを見ていた。

「お館様や奥方様がお待ちですよ。リディアさんも」

シャロンには未来だけが見えているようだ。

俺はもう一度振り返り、学院の校舎を見た。

そして、今度はシャロンに促されること無く、家族が待つ門に向かって歩き始めた。