軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 宰相閣下の食卓事情

宰相邸の厨房は、驚くほど使われていなかった。

鍋は棚の奥で埃をかぶり、調味料の壺は中身が固まっている。まな板に至っては、一度も刃を受けたことがないのではないかと疑うほど綺麗だった。

——いや、これは綺麗とは言わない。放置と言う。

「使われてないでしょう」

白髪をきっちり結い上げた老女が、腕を組んで厨房の惨状を見渡した。宰相邸のメイド長、ヘルタ。六十歳。口が悪くて面倒見がいい、この屋敷の実質的な支配者だ。

「坊ちゃま——閣下はね、食に興味がないの。朝は紅茶だけ、昼は立ったままパンをかじって、夜は食べないこともしょっちゅう。先代の旦那さまもそうだったけど、息子はもっとひどい」

(紅茶だけ!?)

この一週間、毎日伯爵邸から煮物を届けに通った。ヴィクトルは毎回無言で完食してくれたけれど、それ以外の食事がこの状態だったとは。

頬が削げているのも、目の下の隈が消えないのも、当然だ。

「ヘルタさん、閣下のお食事は普段どなたが」

「お抱えの料理人がいたんだけどね、半年前に辞めちゃったのよ。『閣下は何を出しても感想がない。やりがいがない』って」

気持ちはわかる。でも。

(栄養失調で倒れたら国政が止まるのでは?)

料理人の端くれとして——いや、前世で栄養学をかじった人間として、目も当てられない。

その日の夕刻。

書庫で報告書を読んでいたヴィクトルに、私は夕食を運んだ。根菜と鶏肉の煮物、蒸したパン、温かいスープ。

ヴィクトルは例によって無言で完食し、スプーンを置いてからぽつりと言った。

「毎日通うのは非合理的だ」

「……はい?」

「伯爵邸から往復で一時間かかる。住み込んだ方が合理的だ」

合理的。

この人の辞書には、それしか載っていないのかもしれない。

* * *

翌朝、伯爵邸に荷物を取りに戻った私を待っていたのは、銀の盆に載せられた一通の手紙だった。

封蝋は、見覚えのある伯爵家の紋章。差出人の名は書かれていないが、この几帳面な筆跡は義母のものだ。

開く前から、中身は知っている。一度目の人生でも、同じ手紙を受け取った。

『エレノーラ。いつまで道楽をしているの。帰ってきなさい。王太子殿下との縁談の準備があります。あなたの——あなたとルシウスの将来がかかっているのです。お義母さまの言うことを聞きなさい』

一度目の私は、この手紙で帰った。

義母の言う「将来」が、自分のためではなくルシウスのためだと知らずに。伯爵の爵位を義弟に継がせ、王太子との外戚関係で出世させる——私はそのための駒だった。全部、知っている。

便箋を両手で持つ。

指先が震えた。怒りではない。恐怖だ。この文面一枚で、一度目の私は三年後の死に向かって歩き出した。

——でも。

びり、と音がした。

手紙を、真ん中から裂いた。もう一度。さらにもう一度。細かくなった紙片を、ゴミ箱に落とす。

(さよなら、お義母さま)

その足で伯爵邸を出た。荷物はモニカがまとめてくれた革鞄ひとつ。着替えと、少しの日用品。それだけでいい。

宰相邸に戻り、ヴィクトルが用意していた雇用契約書に署名した。

専属料理人。月給銀貨五十枚。住居提供。食材費別途。

契約書の文面は事務的で、温かみのかけらもない。

なのに、ペンを置いた瞬間、目の奥がじんと熱くなった。

(泣くな。泣いてどうする。これは逃げじゃない。選んだのよ、自分で)

* * *

住み込み初日。

私は張り切って弁当を作った。

昨日買い足した食材で、根菜の煮物と、薄焼き卵で包んだ飯握り——おにぎりのようなもの。この世界の米は日本の米より粘りが弱いけれど、強めに握れば崩れない。

昼前、ヴィクトルの執務室に弁当を届けに行った。

ノックすると、「入れ」と短い返事。

——すごい。書類の山だ。

机の上はもちろん、椅子の横にも床にも書類が積まれている。ヴィクトルはその隙間で、立ったまま万年筆を走らせていた。

「閣下、お昼をお持ちしました」

「そこに置いてくれ」

机の端を指す。しかし机の端にも書類がある。どこに置けと。

ヴィクトルは一瞬手を止め、書類の山を見て、弁当を見て——。

無言で立ち上がった。

執務室の隅にある小さなテーブルまで歩き、椅子を引き、腰を下ろす。

「ここで食べる」

書類の隙間で立ち食いするのかと思った。

別のテーブルに移動して、座って食べる。たったそれだけのことなのに、なぜかその背中が妙に丁寧に見えた。

(……変な人)

弁当の蓋を開けたヴィクトルが、薄焼き卵の握り飯を無言で持ち上げる。一口。咀嚼。二口目。

今日も感想はない。

でも、最後の一粒まで食べた。

弁当箱を返しに来たとき、秘書官が慌てた顔で飛び込んできた。

「閣下、伯爵家からお使いの方が。エレノーラ嬢をお返しいただきたいと」

義母の使者。

予想はしていた。あの手紙を無視したのだから、次は人を寄越す。一度目の人生でもそうだった。

胃がきゅっと縮む。

反射的にヴィクトルの方を見た——見てしまった。助けを求めるつもりはなかったのに。

ヴィクトルは万年筆を置き、静かに立ち上がった。

「通せ」

現れたのは、伯爵家の執事だった。義母の腹心。慇懃な笑顔で頭を下げる。

「宰相閣下、恐れ入ります。我が家の令嬢エレノーラをお返しいただけますでしょうか。伯爵夫人がたいそう心配しておりまして——」

「断る」

一言。

執事の笑顔が固まった。

「エレノーラ嬢とは正式な雇用契約を締結している。彼女は成人であり、自らの意思で署名した。宰相府管轄の使用人に対し、伯爵家に返還義務はない」

ヴィクトルは執事の目を見もせず、契約書の写しを差し出した。声に感情はない。まるで予算報告書を読み上げるような口調。

「伯爵夫人にお伝えしろ。法的根拠のない要求に対応する暇は、宰相府にはない」

執事は引きつった笑顔のまま、契約書を受け取り、踵を返した。

靴音が遠ざかる。

——静かになった執務室で、私はしばらく動けなかった。

(守られた……のかしら、今の)

いや、違う。守られたのではない。制度で処理されたのだ。感情ではなく、契約で。

でも、それが——不思議と、ありがたかった。

感情で守られると、感情で捨てられる。一度目の人生で、嫌というほど学んだ。

「エレノーラ嬢」

ヴィクトルが万年筆を取り直しながら、ぽつりと言った。

「夕食は何時だ」

「……七時でよろしいですか」

「ああ」

それだけ。

仕事に戻るヴィクトルの背中を見ながら、私は厨房に向かった。

* * *

夜。

味噌汁——正確には、この世界の発酵豆調味料で作った温かい汁物と、焼き魚と、漬物。

夕食を執務室に運ぶと、ヴィクトルは今度も小テーブルに移動して食べた。

無言。ひたすら無言。でも、箸の動きは止まらない。

空になった椀を下げようとした時だった。

「名前」

唐突すぎて、一瞬意味がわからなかった。

「……は?」

「エレノーラ。今後はそう呼ぶ」

スプーンを置く。灰色の瞳がこちらを見た。

「……理由をお聞きしてもよろしいですか」

「嬢をつけると二音長い。一日に何度も呼ぶなら、短い方が効率がいい」

(効率)

この人は本当に、本当に——。

「……かしこまりました、閣下」

椀を盆に載せ、一礼して退室する。

廊下に出た瞬間、頬が熱いことに気づいた。

(名前で呼ばれただけでしょう。効率の話でしょう。何を赤くなっているの、私は)

でも。

一度目の人生で、あの人は最後まで「エレノーラ嬢」だった。

名前で呼ばれるのは——たぶん、初めてだ。この世界では。

頬の熱が引かないまま、厨房に戻る。

明日の朝食の仕込みをしなくては。出汁を引いて、卵を溶いて。

——ヘルタさんの好みも、聞いておかないと。

遠く、伯爵邸の方角で、義母が手紙の返事を待っている。

返事は、もう届かない。