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ふつうの婚約解消

作者: 田仲絵筆

本文

「クラリッサ・アルテンベルク侯爵令嬢、今この時をもって、そなたとの婚約を解消する」

「まあ、エルンスト第四王子殿下、それは一体、何故でございましょうか」

「そなたの他に、愛しい女性ができたからだ。私はその人と結婚することに決めたのだ」

「そうですか。承知いたしました。ちなみにお相手というのは、どんな方なのでしょうか」

「畏れ多くも北の大国ロマノヴィア帝国の皇女、エスカリーナ殿下である。美しく優しく、天使のようで、私のような者にはもったいない女性だ。何せまだ12才、汚れを知らないーー」

その時部屋の中にんんっという咳払いが響いた。これは記述を停止せよという宰相の合図だ。部屋の隅で速記をしていた書記官が手を止める。

それを確認して、宰相ゲオルグはエルンスト王子の方を向く。

「殿下。畏れながら、エスカリーナ皇女の年齢は言わなくても良いかと存じます」

「そうか。ここで若さを強調しておいた方が、無垢なイメージで印象が良いと思ったのだが」

「さすがに12才とあっては、若すぎます。殿下の方が熱烈にエスカリーナ様に恋したという設定にしてほしいというのがあちらの希望なのですから、あたかも殿下があまりに若すぎる女性が好きだと思わせてしまいかねません」

「そういうものか。どうせ当面は白い結婚になるのだから、年齢などさほど重要ではない気もするが」

王子と宰相のやり取りに、エルンスト王子の対面に座っていた婚約者、クラリッサがくすりと笑う。

「いくらエルンスト様が美貌で有名だからといっても、12才の少女にひと目惚れした、なんていう噂が流れたら、あっという間にその人気も失墜してしまいますわよ」

エルンストは肩をすくめた。

「どうせ一年後にはこの国を出てロマノヴィア帝国に婿入りする身だ。この国での評判が落ちたところで、特に痛くも痒くもないさ」

「まあ。誰よりも祖国を愛している殿下が、そんな強がりを言うものではありませんわ」

エルンストはふいと横を向く。この婚約者は、エルンストの考えていることなら何でもお見通しという顔をしている。10年前に婚約した時からずっと。

だがそれも、今日で終わりだ。

「……続きを」

では続けてください、というゲオルグの言葉に、書記官が再びペンを構えた。

「私はロマノヴィア帝国を訪問した際、エスカリーナ殿下をひと目見るなり恋に落ちてしまったのだ。だが、所詮は帝国に比べると小国の、第四王子に過ぎぬ身。それも、我々の本意とは関係無く、政治的な都合により、本当に仕方無く意に染まぬ婚約をした相手もいる」

「……ちょっと、言い過ぎではないですか?」

クラリッサのぼそりとした呟きは、ゲオルグ宰相の咳払いと書記官の機転により、記述を免れる。

「諦めるしかないと、毎夜枕を濡らしていたのだ。しかし、ああ、なんということだろう。心優しいエスカリーナ殿下は、そんな私に慈悲を持って、その寛大な心で、私を夫としてロマノヴィア帝国に迎えると言ってくださったのだ」

「まあ。なんとお優しい方なのでしょう。私も感銘を受けました。エスカリーナ殿下の高潔な取り計らいに免じて、私は身を引くことにいたします」

「そうか。本意が伝わって良かった。これで私も心置きなくロマノヴィア帝国の帝室に入ることができる」

「どうか後顧の憂い無く、この国をあとになさってください。エスカリーナ皇女殿下とエルンスト王子殿下の幸せを、陰ながら祈っております」

「いいでしょう」

ゲオルグ宰相が頷いたので、エルンストとクラリッサは息を吐いた。

「では、今記述した内容を公式のものとして、おふたりの婚約解消の意思決定とさせて頂きます。正式な婚約解消は後日、国王殿下と司教立会の元で署名して頂いて成立します。それでよろしいですね?」

ふたりが特に異論を言わないのを見て、ゲオルグが頷いた。

書記官が出て行ったのを確認して、ゲオルグも立ち上がる。それから座ったままのふたりを見た。

「……おふたりには、お辛い思いをさせることになってしまって、申し訳ございません」

「嫌だわ。どうせ私たちは、『本当に仕方無く意に染まぬ婚約をした』仲なのだから、謝る必要なんてないのよ」

笑いながら先ほどのエルンストの言葉を再現するクラリッサに、エルンストは苦虫を噛み潰したような顔をする。

「仕方がないだろ。彼の国は非常に体面を重視する国なんだ。あくまでも俺の方が皇女様にひと目惚れしたっていう筋書きにするのが、一番丸く収まるんだから」

先ほどとは変わってずいぶん砕けた口調になっている。この場にいる三人は昔からの気安い仲なので、公的な場でなければこんなものだった。

「元はと言えば、エルンストの顔が無駄に良いのが悪いのよね」

呆れたようなクラリッサの言葉に、エルンストは「好きでこんな顔に生まれたわけではない」という言葉を飲み込む。

実際は、エルンストにひと目惚れをしたのはエスカリーナ皇女の方だった。先頃公務で国を訪問したエルンストに、幼い皇女はすっかり心を奪われてしまい、どうしてもこの人と結婚すると言い張ってきかなかったのだ。

エスカリーナ皇女は、父であるロマノヴィア帝国皇帝にとっても遅くにできた娘とあって、寵愛を受けていた。

その娘が、異国の王子にすっかり夢中になっている。親としては悲しませるのは本意ではない。どうか娘の希望を叶えてやって欲しい。皇帝直々に口にされたそれは、打診に見せかけておいてほとんど命令のようなものだ。

国力も立場も格上のロマノヴィア帝国の皇女の強い希望は、婚約者の有無などを問題にするものではなかった。それに帝国と誼を持つことは、国にとっても有益でしかない。

逆に帝国の意向に逆らおうものなら、国を危機に晒してしまいかねないのだから、ある意味選択肢は無いも同然だった。

エルンストもクラリッサもこの国の王族と高位貴族として育ってきた身だ。国益を何よりも優先させなくてはいけないことなんて生まれた時から叩き込まれている。

この場合のふるまい方など、嫌というほどわかっていた。婚約の解消に、ふたりはあっさりと同意した。

婚約者としての仲は決して悪くなかった。それどころか10年前からずっと良好だった。

表面的には節度ある態度を貫いていたものの、ふたりの間にある信頼とそれ以上のものは、ずっと変わることがないように思えたのだ。

それをふたりが幼い頃から見てきた宰相のゲオルグが知らないはずはない。知っていてなお、婚約の解消を進言しなくてはいけないというのは、ゲオルグにとっても苦行でしかなかった。

ゲオルグは、ことさらに何でもない顔をしているふたりに深ぶかと頭を下げる。このふたりが夫婦になったところを心底見たかったと思いながら。

あと二年後にはふたりは二十歳になり、正式に結婚しているはずだった。こうなるとわかっていたら、何としても婚姻を早めるべきだった。法律的には問題はなかったのに。

いくらロマノヴィア帝国とは言えども、まさか既婚者を自国の皇女の夫になどとは言わないだろうから。

ーーだが、すべてはあとの祭りだ。

婚約は解消され、この国を愛している王子は帝国へと去って行く。

誰もそれを止める手立てはないまま。

「涙目だったわね、ゲオルグ」

「仕方ない。あいつはお前が王族入りする日を、楽しみにしてたからな。優秀な王子妃候補を失った痛手で、しばらくは落ち込んでるんじゃないか」

ゲオルグも去り、室内には、さっきまで婚約者同士だったふたりだけが残されていた。

「あんたの王族離脱もでしょ。将来この国を支えるために幼い頃から努力してきたのに、顔がいいばっかりに国を離れなくてはいけないなんて、可哀想なこと」

ちっとも同情していない口ぶりのクラリッサに、エルンストは少し口を歪めて見せただけだった。どう考えても同情されるべき人間なのはクラリッサの方だったからだ。

「どうするんだ、これから」

「どうって?」

「俺は帝国に婿入りするけど、お前はどうするんだ。王族の元婚約者なんて、ここにいても居心地が悪いだけだろう」

「そうねえ」

クラリッサは少し考える。

「当面は『帝国の権力に目が眩んだ王子様に捨てられた可哀想な令嬢』として、大人しくしておくわ」

「……もしかしたら、従弟のヴァルドあたりがお前に求婚するかもな。奴はお前に心酔しているから」

「素敵。8つ歳下の伴侶ができるのね。エルンストのところよりも離れているわ」

手を合わせて嬉しそうに笑うクラリッサの笑顔が本心ではないことぐらい、わかっている。

「それとも、昔私に求婚した隣国のビッテル王子様でも迎えに来てくれないかしら」

「あの身の程知らずの王子か。お前とは不釣り合いだよ」

にべもなく切って捨てる。ロマノヴィア帝国も隣国ぐらいの規模だったら、同じようにあっさり断ることができたのに。そう思っても、口にすることはない。

「しばらくは、晴れて独り身になった自由を謳歌するわよ。今から官僚を目指すのもいいわね」

「そうだな。向いてるんじゃないか。基礎的な知識量もトップクラスだ。国内外の有力者との交流も、数か国語を操る話術も。例えば外交官として、お前ほど上手くやれる者は同世代にはいないだろうな」

「私が外交官になったら、またエルンストと会うこともあるのかしら。今度は仕事上で」

呟かれた言葉は、当人が意図していたものよりも切実な響きを帯びてしまう。それに気づいたクラリッサが失言だった、という風に首を振る。

「……だとしても、元婚約者をあなたに近づけることを、あの皇女様が許すとも思えないわね」

「彼女はまだ若い。成長すれば、大国の皇女として、成すべきこと、我慢しなくてはいけないことを飲み込めるようになるさ」

ーー例えば、婚約者のいる他国の王子様に恋してはいけないだとか?

それを口に出せるほど、クラリッサは身勝手にはなれなかった。すべてはもう決まったことなのだ。

少しでも未練がある素振りなど見せれば、それはお互いの瑕疵となって残り、生涯に渡ってふたりを苛むだろう。

「王室としても、できるだけのことはする。賠償金は言い値で出すし、国政のポストも用意する。希望があるなら、新たな婚約者への口添えもしよう」

ずいぶんと破格の申し出だった。クラリッサは瞬いた。

「それはありがたいけど……。大丈夫? まさか独断でそんなこと言ってるわけじゃないわよね。罪悪感を感じているのなら、必要ないのよ」

「まさか。王室の総意だ。お前は本当に俺の、いや、第四王子の婚約者として良くやってくれたから」

そう言いながら、エルンストが立ち上がった。これで本当に最後なのだろう。

10年前、婚約者になってから、無二の存在として手を取って歩んできた。

本音を言えば、クラリッサにとって、全部エルンストだった。初めての親友、初めての喧嘩、初めて弱味を見せた相手、初めてのダンスの相手、初めてのパートナー。そして、初めての恋。今のところ二度目はない。

それで良かった。一生そうやってエルンストと人生を共にするのだと思っていた。一国の王子妃として、これ以上の幸福はないと思っていた。

まさかそれがこんなに脆いものだなんて、思ってもいなかったのだ。

こうやって気安い会話ができるのも、これが最後。

エルンストが椅子を引いたので、クラリッサも引き裂かれるような気持ちで立ち上がる。エルンストの手が伸ばされる。手を乗せる。あまりに何度も繰り返してきて、そうするのがすっかり自然になっていた。だが、これが最後。

先導したエルンストが扉に手を掛ける。そのまますぐに開けることはせずに、クラリッサを振り返った。

束の間ふたりの視線が交差する。静かな、何の感情も乗っていないような表情の奥で、お互いの瞳だけが馬鹿みたいな熱量でお互いを捉えて離せなくなっていた。

「……クラリッサ」

低く低く、エルンストがクラリッサの名前を呼んだ。ああ、そういえば、こうやって名前を呼ばれることももう無くなるのだ。

ふと、突拍子もない望みがクラリッサの奥から湧き上がった。このままエルンストに手を引いて一緒に逃げてほしいと思ってしまったのだ。

何だってする。エルンストと一緒に生きていけるのなら、慣れない仕事だって貧乏暮らしだって、何にでも耐えてみせる。だから家族も、国も、皇女様も全部捨てて、私と、

「俺と、逃……」

咄嗟にクラリッサはエルンストの頬を打っていた。エルンストが何を言うのかわかってしまった。最後まで言わせてはいけない。

ここで逃げたとして、どう考えてもふたりに待っているのは破滅でしかない。それがわかっていて、みすみす激情に身を委ねるには、クラリッサは理性的すぎたし、何よりこの国を、エルンストを愛していた。

頬をおさえることもせず、ただクラリッサを見る昏い眼に、無理矢理笑って見せた。

「……そういえば、一方的に婚約を解消された報復を、していなかったと思って」

声が、震えていなければいいと思う。

これで賠償は手打ちにしてあげる、と冗談のように言うクラリッサを見返して、気を取り直したらしいエルンストも苦笑する。

「ああ、そうだな。そういえば、俺もちゃんと謝罪をしていなかった。このたびのことはすまなかった。今までありがとう」

「お互い様だわ。貴族に政略はつきものだもの」

そして何事も無かったかのように部屋から出て歩き出す。

似た者同士だと思う。価値観も、大事にするものも、守り方もふたりはよく似ていた。

エルンストに門まで送らせて、クラリッサはではここで、と振り返る。

膝を曲げて、ドレスをつまみ、優雅に礼をした。今までで一番美しく見えると良いと思いながら。

「エルンスト殿下のご多幸を、心よりお祈りしております」

こうして婚約は解消され、後日新聞やゴシップ誌が控えめにその記事を載せたが、人びとの関心はもっぱらエルンスト第四王子の新しい婚約者のことだった。

年若い皇女が新しい婚約者、それもエルンストの望みということで、権力目当てだろうという声や、彼に憧れていた女性達の失望の声が一時国中にあふれたが、エルンストが国を離れると徐々にそれも収まっていった。

特に揉めることも泥沼になることもなかった婚約の解消は、やがて人びとの記憶から静かに忘れ去られていった。