軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第6話 その呼び方をするな

「王太子殿下が、闇の魔女殿の帰還を検討されております」

見知らぬ男は、笑顔でそう言った。

砦の応接室。窓の外では六月の雨が静かに降っている。

使者と名乗った男は、王都風の仕立ての良い上衣を着て、如才ない笑みを貼りつけていた。今朝方、護衛の騎士二名と共に砦に到着した。

応接室には私と使者、そして壁際に腕を組んで立つゼルギウス様。

ゼルギウス様は使者が到着した時から一言も発していない。ただ壁に背をもたせて、灰色の目で使者を見ている。

——帰還。

朝の花束を花瓶に活けて、いつもの通り医務室で薬を調合していたところだった。ゼルギウス様が「客だ」と言うので出てきたら、これだ。

「帰還の検討、とおっしゃいますと」

私は背筋を伸ばした。声は穏やかに。こういうとき、敬語を丁寧にするのは昔からの癖だ。

「はい。殿下は、ベアトリクス様のお力を改めて評価されておりまして——」

「恐れ入ります」

使者の言葉を遮った。丁寧に。笑顔で。

「ですが、私は流刑囚でございます。流刑の解除と帰還命令は別の法手続きのはずですが、具体的な法的根拠をお示しいただけますか?」

使者の笑顔が、一瞬だけ固まった。

「……は?」

「法的根拠です。流刑囚の帰還には、赦免の勅令か、誤審の認定か、あるいは国王陛下の直接命令が必要なはずですが。殿下のご検討だけでは、手続きとしては不十分ではございませんか?」

宮廷で薬草管理官補佐をしていた頃、法令の棚は毎日目にしていた。読む暇がなかったものも多いけれど、基本的な手続きくらいは覚えている。

使者が口を開いて、閉じた。開いて、閉じた。魚みたいだ。

「そ、それは……殿下のご意向として……」

「ご意向は承りました。法的な手続きが整いましたら、改めてご連絡くださいませ」

にっこりと笑った。

これで終わり——のはずだった。

使者が口元を歪めた。

如才ない笑みが剥がれて、苛立ちが覗く。

「闇の魔女殿。あまり強情を張られますと——」

空気が変わった。

壁際にいたゼルギウス様が動いた。

一歩。二歩。三歩目で使者の前に立ち、四歩目で——使者の胸ぐらを掴んでいた。

「その呼び方をするな」

低い声。静かだけれど、刃のような声。

使者の足が床から浮いている。片手で持ち上げられている。

「彼女の名はベアトリクスだ」

——え。

ベアトリクス。

呼び捨て。

ゼルギウス様がこの三ヶ月間、私を名前で呼んだことは一度もなかった。「お前」か、「医官」か、何も呼ばないか。

それが今——

「き、騎士団長殿! 私は王太子殿下の——」

「非公式の使者だろう。勅令も赦免状も持っていない人間に、うちの医療顧問を侮辱する権限はない」

使者を離した。

男が尻餅をつく。ゼルギウス様は使者を見下ろしたまま、低く言った。

「帰れ」

使者が立ち上がり、着衣を直す手が震えていた。私を一瞬だけ見て——すぐに目を逸らし、応接室を出ていった。

護衛の騎士たちに伴われて、使者が砦の門から出ていく足音が聞こえた。

雨の音が戻ってくる。

私は使者が出ていった扉を見つめたままだった。

「——ゼルギウス様」

振り返った。

ゼルギウス様は窓際に立っていた。使者が門を出ていくのを確認しているのだろう。こちらに背を向けている。

「あの……ありがとうございます」

「……ああ」

短い返事。いつも通りだ。

でも——何かが、いつもと違う。

ゼルギウス様の首筋が赤い。

耳の先まで赤い。

——あれ?

窓から差し込む雨明かりのせいだろうか。それとも使者に怒った興奮が残っているのか。

「ゼルギウス様、お顔が赤いようですが——」

「なんでもない」

即答だった。振り返らない。

「少し暑いだけだ」

六月の雨の日に。応接室の窓は開いていて、むしろ肌寒いくらいなのに。

(……まあ、暑いとおっしゃるなら暑いのでしょう。この人に追及しても「偶然だ」しか返ってこないし)

ゼルギウス様は窓際に立ったまま、しばらく動かなかった。

私は応接室を出た。廊下に出てから、自分の頬が少し熱いことに気づいた。

名前を呼ばれた。

たったそれだけのことで、こんなに心臓が騒ぐのは——おかしい。きっと使者への緊張が解けた反動だ。そうに違いない。

(……そうに違いない)

二度繰り返しても、心臓は静まらなかった。

夜。

部屋の机に向かって、日記を書く。

辺境に来てから始めた習慣だ。治療記録と薬草の研究ノートは別にあるけれど、日記には——もう少し私的なことを書く。

『六月二十四日。王都から使者が来た。殿下が帰還を検討しているとのこと。法的根拠はなし。ゼルギウス様が使者を追い返してくださった』

ペンが止まった。

『ゼルギウス様が、名前で呼んでくれた』

書いてから、少し迷って、次の行に小さく付け足した。

『不思議と、嬉しい』

ペンを置いた。灯りの芯を絞って、ベッドに潜り込む。

枕に顔を埋めて目を閉じた。

——ベアトリクス。

あの低い声が、耳の奥でまだ響いている。

王都。王宮の執務室。

使者の報告を聞き終えたレオンハルトは、椅子の肘掛けを指先で叩いていた。

「辺境の騎士団長が、あの女を庇っている……?」

「はい。非公式の使者を追い返す形で。辺境伯も黙認しているものと思われます」

「……そうか」

指先の動きが止まった。

ベアトリクスの顔を思い出そうとした。三年間の婚約者。顔立ちは覚えている。声も覚えている。でも——表情が思い出せない。

最後に見た顔は、あの断罪の日のものだ。涙もなく、怒りもなく、ただ「結構です」と言って背を向けた顔。

苛立つ。

なぜ苛立つのかは、自分でもわからなかった。

「使者はもういい。下がれ」

使者が退出した後、レオンハルトは執務机の引き出しを開けた。

サファイアの指輪が、暗い引き出しの中で鈍く光っている。

あの日、足元に置かれた指輪。拾ったのは自分ではない。侍従が拾って届けてきたのだ。捨てるつもりだった。なのに、なぜかまだここにある。

引き出しを閉じた。

窓の外では、王都にも雨が降っていた。