軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

デイビット、それが恋だと初めて理解した時は――

――ま、まってくれ、もう一度、俺と話してくれないか??

夕暮れの屋上で、マリサの背中が遠ざかっていく。

俺はベンチに座ったまま、身体が動けなかった。

呼び止めたかった。

何か言いたかった。

けれど、口を開いても言葉が出てこない。

バタン、と屋上の扉が閉まる。俺はまた頭をかきむしり、ため息を吐いた。

「俺は……イケメンだ、正義の男だ、将来の英雄となる定めだ。そして、侯爵家の長男だ。それも普通の侯爵家じゃない。ナイトハルト侯爵家の長男なんだ」

侯爵家デイビット・ナイトハルト。政治的にはナイトハルト家がこの帝都の実権を握っている。

公爵家など、王族の特権階級にあぐらをかいているだけの家柄だ。

「ユウト・アルバトロス……」

その名前が自然と口に出していた。

冷たい風が俺の身体を冷やす。なのに、胸の内側だけが妙に熱かった。

「なんで、俺を見てくれない。……いや、違う、俺にはフィオナがいる。しかし――」

屋上に来ると、マリサとの思い出がどんどんと流れてくる。

初めての出会い、初めての大冒険、初めての手を繋いだ時、俺が……さらわれた時、俺を助けてくれた時……。

「どこから狂ったんだ?」

俺はモテた。非常にモテた。

幼馴染のロゼッタは俺にベタ惚れだった。血のつながっていない養子で義妹のプリシラは俺のそばから離れない。――それに隣国の姫、エリザベスからの求婚もすごかった。

俺は……全部流されて浮気をした。

それが真実の恋だと思ったんだ。だが、いつも何か違和感があった――

『……お帰りなさいませ。……今日の手紙です』

マリサ……とはみんな違ったんだ。

「俺は……馬鹿なのか?」

ああ、馬鹿だ。

マリサは、もう俺を見ていなかった。

いや、見てはいたけれど、それはただの俺がそこにいる、という事象としか認識していない。

俺の姿は目に映っていなかった。

それが、苦しかった。

「ユウト・アルバトロスゥ……」

アルバトロス公爵家の次男。英雄と呼ばれる長男と違い、魔道具好きの変わり者で、落ちこぼれだと聞いていたし、実際、まともな社交をする人間ではないと、俺は夜会で判断したんだ。

あの男の隣に立つマリサは……なぜか輝いていた。

「なぜ、俺の時とは違ったんだ?」

自分の心に何かが引っかかった。

俺の隣にいた時のマリサは、いつだって素晴らしかった。

淑女にふさわしい笑み、令嬢としての作法、『絶対に間違えない』『絶対にはずさない』という特殊な力。

公的な仕事も、私的なことも、すべて抜かりなく、俺が全部こなしていた。

さっきのマリサは全然違った……。

あんなふうに気を抜いた顔を、俺は見たことがあっただろうか。

「…………子どもの時だけだ」

息がうまく吐けない。

俺は顔を覆って、もう一度大きく息を吐いて空を見上げた――

「そうか……、俺はマリサが隣にいるのが……当たり前だと思っていたのか……」

ポケットから青いブローチを取り出す。マリサに返された婚約の証。

そして、『誓いの制約』。

「……マリサと婚約関係を戻そうとした時――誓約が俺に降りかかる」

俺が破ったら……、魔力をすべて失う。そういう誓約だ。

魔力を失うと、俺は貴族として死ぬ。

あの時はそれでいいと思っていた。制約を破らなければ問題ない、子爵家は愛するフィオナと婚約を結べばいいと思っていた。

ブローチを夕暮れ色の空にかざした。青石が鈍く光る。

昔、これを渡した時。

マリサは確かに笑っていた。

いつもの社交用の笑みじゃない、すごく綺麗で、温かい笑みだったんだ。

急に嗚咽が込み上げてきた。わけがわからない。

「……なんだよ……、なんで、涙が……出てくるんだ……」

一時の感情の揺れ……マリサなんてどうでもいい、そんな風に思っているのに、心の奥底のもう一人の俺が……それを否定するんだ。

***

「――デイビット様。旦那様がお呼びです」

屋敷で魔法の鍛錬をしていたら、執事に呼ばれた。

(……もう帰ってきたのか!? 予定では来月の昼会後だと聞いていた。くっ、それまでにフィオナの教育をしようと――)

俺は、内心の焦りを隠しながら、重い足取りで父上の書斎へ向かった。

「――失礼します。デイビット入ります」

扉を開けると、父上は机の前に立ったままだった。俺の瞳を真っ直ぐにみていた。観察されている。瞳の揺れがごまかせない。

「……ふん、座れ」

短い声だった。

俺は黙って向かいの椅子に腰を下ろした。

「温室の事件、マリサ嬢との婚約継続、婚約破棄、『誓いの制約』の使用……すべて報告は受けている」

「……はい」

親父の圧の前では俺はただの子どもだ。悪鬼羅刹と呼ばれたアルバトロス家の守護神。過去、勇者パーティーの一員として世界中を冒険した逸話もあるほどだ。

「デイビット……貴様はマリサ嬢との婚約を自分の意思で破棄したそうだな」

その一言で、部屋の空気がさらに冷えた気がした。いや、物理的に部屋が凍りついた。漏れ出した魔力が俺に心臓を凍らようとする。

鋭い目が、まっすぐに俺を射抜いた。

「理由を言ってみろ」

「……温室の件は状況証拠がありました。フィオナが傷ついていて、マリサは――」

「聞いているのは、言い訳ではない」

言葉を切られた。わかっている、親父が何を求めているのか。

父上の声は静かだった。だが、その静かさが余計に恐ろしい。

「私は昔からお前に言っていたはずだ。キリサキ家の長女は特別だと。絶対に手放すなと」

「ですが父上、子爵家など――それに、フィオナも子爵家です」

「家格の話をしているのではない!」

氷が俺の肩にぶち当たる。痛みなんて耐えられる。親父の圧に比べたら。

「貴様は何一つわかっとらん!! マリサ嬢がどれほど稀有な人材か……。表面的な優秀さは言わずもがなだが、底しれぬ素質の塊だった――」

父上はそこで深く息を吐いた。

「しかも、それを鼻にかけない。黙って貴様を支え、誰にも恩を売らない。あれほど希少な令嬢を、お前は当たり前のように使い潰していたのだ」

「……っ」

反論できなかった。

父上の言葉は、ひとつひとつが胸の奥に刺さった。

「それに」

父上の目が細くなる。

「あの娘は、お前の内面をしっかりと評価していたんだ。この馬鹿息子が……。」

「……え?」

息が止まった。俺を……評価していたのか?

「……貴様はマリサ嬢を見ていなかった。よりにもよって誓いの制約を使うとは……」

俺は親父の言葉が耳から流れていた。俺は……そうだ、マリサを見ていなかった。

――淑女として姿。

――婚約者として抜かりのない振る舞い。

――絶対に間違えない全て。

――俺のために尽くしてくれた日常。

俺は、彼女の何を見ていたんだ?

親父は大きくため息を吐いた。

「――貴様がマリサ嬢を手放した。復縁などもう手遅れだ。くそ……、それでも、フィオナ嬢と婚約を結んだのか……」

父上ははっきりと言った。

「一ヶ月後、俺の前にフィオナ嬢を連れて来い。同じ子爵家だ。マリサ嬢を超える力の持ち主ならば、俺は納得してやろう」

喉の奥が焼けるようだった。

何か言おうとしても、言葉にならない。

「……は、はい」

親父は再びため息を吐いた。魔力で作られた氷が一瞬で消え去った。

「貴様は自分が英雄になるべき男だと思っているようだが――」

父上が冷たく言い放つ。

「信じるべき婚約者を信じられぬ男に、英雄など務まるものか」

俺は俯くことしかできなかった。もう、何も考えられなかった。

***

翌日の放課後、俺は気がつけば旧校舎の方へ歩いていた。

昨日、父上に言われた言葉が頭から離れない。

『信じるべき婚約者を信じられぬ男に、英雄など務まるものか』

――そうだ、俺はマリサを信じてあげられなかった。

自分の正義感だけを優先して、マリサのことなんて何も考えていなかった。ただ……かわいいフィオナを守りたくて――

胸がずきりと痛む。胸が痛くなるのなんて初めてだった。

「俺はどうすれば……、くっ、フィオナを鍛え上げるしかないのか」

階段を曲がった先、何気なく窓の向こうの中庭を見たら、二つの影が見えた。

マリサと……ユウト・アルバトロスだった。

俺は思わず足を止めた。

中庭の石畳の上を、二人はゆっくり歩いていた。

ユウトが何かを話し、マリサが小さく笑う。

それはほんの少し口元が緩む程度の笑みだったのに、なぜか目を離せなかった。

そんな笑顔を、俺は知らない。

ユウトが自然な仕草でマリサの手を取ってベンチに座らせる。

マリサは礼を言って、ベンチに座った。

二人がどんな話をしているかわからない。だけど、話は止まらなかった。マリサの目が……キラキラと輝いていたんだ。

俺の胸の奥が、ぐしゃりと潰れたみたいに痛む。

「……なんでだ」

呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。

マリサが誰と笑おうが、もう俺には関係ないはずだった。

婚約は終わった。終わらせたのは俺だ。

俺は自分で選んだ。そうだ、それでいいはずなんだ。

なのに――

どうして、あんなふうに別の男の隣で自然に笑っているのを見るだけで、こんなにも苦しい?

その顔を見た瞬間、胸の痛みが決定的なものに変わった。

ああ、そうか、俺はマリサが

他の男の隣で笑う姿を、見たくなかったんだ。

その隣に立つのが自分じゃないことが、耐えられなかったんだ。

なんだ、この気持ちは??????????

「……あ」

俺はやっと理解した。自分はこんな感情を本でしか知らなかった。

――嫉妬。

――喪失。

そして――恋。

「俺は……」

声が掠れる。

けれど、もう誤魔化せなかった。

「マリサが、好きなんだ……」

俺は廊下の壁を拳で叩いた――なんの魔力を付与していないそれは、拳から血が流れた。

痛い、けれど、この胸の痛みを紛らわせないと――俺は死んでしまいそうになる。

「俺はマリサを愛していたのか? なんで、いまさら気がつく? なんでだ? なんで、俺はマリサだけを愛さなかった」

俺は地べたに座り込んでしまった。

「いまさら、愛していたなんて……、もう遅いじゃないか……。俺は、俺はどうすれば……」

涙が止まらなかった。

俺は自分の自身を壊したいほどの後悔に襲われた……。