作品タイトル不明
第九十話:選択
1984年、8月。
夏休みに入ってからというもの、忠夫は毎日、東芝の開発室に入り浸っていた。
マイラー紙への全体レイアウト作業が、本格的に始まっていた。
プロッターが事前に組み上げた座標リストを読み込み、数千個のセルの配置図面を正確に吐き出していき。大まかな配線ガイドも同時に出力されていく。
そこから先のミリ単位の細かい配線を詰めるのは、西村や関根たちの泥臭い手作業だった。
マスターセルの標準化と座標リストによる事前定義が功を奏し、従来とは比べ物にならない速さで作業が進んでいた
「……よし、第三ブロックのルーティング、パスしたぞ」
「こっちもだ。シフタ周り、見事に収まってる」
疲労の中にも、確かな手応えを感じさせる声が開発室に飛び交っていた。
◇
その日の午後、斎藤常務が開発室に顔を出した。
いつものように高村と進捗について短いやり取りを交わし、出力されたばかりの図面へ目を落としてから、ふと、部屋の隅で仕様書を追っている忠夫の方へ目を向けた。
「……そういえば、佐伯くん」
忠夫は仕様書から顔を上げた。
「確か、今年は受験生だよな。……受験勉強はいいのか」
「……ええ、高校受験は受けないつもりです。代わりに大検を考えています」
一瞬、部屋の空気が凍りついた。
大門のペン先がわずかに滑った。
向かいの席の小林も顔を上げかけて止まる。
だが、斎藤の表情は、わずかに動いただけだった。
驚いているのか、呆れているのか、あるいは深く納得しているのか。一見しただけでは判断がつかない顔だった。
しばらく、プロッターの機械音だけが響く沈黙が続いた。
斎藤は窓の外へ目をやり、それから再び忠夫を見た。
「そうか。ご両親には話したのか?」
「……いえ、まだです」
忠夫はわずかに言葉を詰まらせた。
「……なら早めに両親に伝えたほうがいい」
無責任な賛同も、大人としての説教もしない。ただ、その一言だけを静かに置いて、再び開発室の重い扉を開けて出ていった。
扉が閉まった後、大門が大きなため息をついた。
「……高校行かねえって、お前な」
「大門さん、手が止まってますよ」
「……はぁ、可愛げのねえガキだ」
悪態をつきながらも、大門の口元はわずかに緩んでいた。
忠夫は再び仕様書へ視線を戻した。
◇
九月中旬。
夏休みが終わり、すでに半月が過ぎていた。
忠夫は自室の机に向かい、資料に目を通していた。
その時、居間の黒電話が鳴った。
「もしもし、佐伯です」
『お久しぶりです。佐伯くん、山下です』
「ご無沙汰しています」
『報告だけ。東芝に続いて、各社も先月から順次量産を開始しました。現時点では大きな問題の報告はありません』
忠夫は小さく息を吐いた。
まずは順調。
それだけで十分だった。
『東芝と共同出願した国際特許の方も、各国で順調に審査が進んでいます。権利範囲としても十分な広さを確保できそうです』
「心強いです。引き続きお願いします」
『ええ。……では』
電話が切れる。
ツー、という無機質な音が耳に残った。
忠夫はゆっくりと受話器を置いた。
特許も、量産も、順調に進んでいる。
窓の外を見ると、夕日が街を赤く染めていた。
一つの選択が、少しずつ形になり始めていた。