軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第九十話:選択

1984年、8月。

夏休みに入ってからというもの、忠夫は毎日、東芝の開発室に入り浸っていた。

マイラー紙への全体レイアウト作業が、本格的に始まっていた。

プロッターが事前に組み上げた座標リストを読み込み、数千個のセルの配置図面を正確に吐き出していき。大まかな配線ガイドも同時に出力されていく。

そこから先のミリ単位の細かい配線を詰めるのは、西村や関根たちの泥臭い手作業だった。

マスターセルの標準化と座標リストによる事前定義が功を奏し、従来とは比べ物にならない速さで作業が進んでいた

「……よし、第三ブロックのルーティング、パスしたぞ」

「こっちもだ。シフタ周り、見事に収まってる」

疲労の中にも、確かな手応えを感じさせる声が開発室に飛び交っていた。

その日の午後、斎藤常務が開発室に顔を出した。

いつものように高村と進捗について短いやり取りを交わし、出力されたばかりの図面へ目を落としてから、ふと、部屋の隅で仕様書を追っている忠夫の方へ目を向けた。

「……そういえば、佐伯くん」

忠夫は仕様書から顔を上げた。

「確か、今年は受験生だよな。……受験勉強はいいのか」

「……ええ、高校受験は受けないつもりです。代わりに大検を考えています」

一瞬、部屋の空気が凍りついた。

大門のペン先がわずかに滑った。

向かいの席の小林も顔を上げかけて止まる。

だが、斎藤の表情は、わずかに動いただけだった。

驚いているのか、呆れているのか、あるいは深く納得しているのか。一見しただけでは判断がつかない顔だった。

しばらく、プロッターの機械音だけが響く沈黙が続いた。

斎藤は窓の外へ目をやり、それから再び忠夫を見た。

「そうか。ご両親には話したのか?」

「……いえ、まだです」

忠夫はわずかに言葉を詰まらせた。

「……なら早めに両親に伝えたほうがいい」

無責任な賛同も、大人としての説教もしない。ただ、その一言だけを静かに置いて、再び開発室の重い扉を開けて出ていった。

扉が閉まった後、大門が大きなため息をついた。

「……高校行かねえって、お前な」

「大門さん、手が止まってますよ」

「……はぁ、可愛げのねえガキだ」

悪態をつきながらも、大門の口元はわずかに緩んでいた。

忠夫は再び仕様書へ視線を戻した。

九月中旬。

夏休みが終わり、すでに半月が過ぎていた。

忠夫は自室の机に向かい、資料に目を通していた。

その時、居間の黒電話が鳴った。

「もしもし、佐伯です」

『お久しぶりです。佐伯くん、山下です』

「ご無沙汰しています」

『報告だけ。東芝に続いて、各社も先月から順次量産を開始しました。現時点では大きな問題の報告はありません』

忠夫は小さく息を吐いた。

まずは順調。

それだけで十分だった。

『東芝と共同出願した国際特許の方も、各国で順調に審査が進んでいます。権利範囲としても十分な広さを確保できそうです』

「心強いです。引き続きお願いします」

『ええ。……では』

電話が切れる。

ツー、という無機質な音が耳に残った。

忠夫はゆっくりと受話器を置いた。

特許も、量産も、順調に進んでいる。

窓の外を見ると、夕日が街を赤く染めていた。

一つの選択が、少しずつ形になり始めていた。