作品タイトル不明
第七十三話:白紙の工程表
窓の外はすっかり暗くなり、室内には蛍光灯の冷たい光が落ちていた。
斎藤は壁一面に貼られた白紙の 工程表(ガントチャート) を見上げた。
「高村。暫定でいい」
斎藤が静かに振り返る。
「この石の開発に、どれだけかかる」
議論を止めた高村は、手元の暫定仕様書へ視線を落とした。
いくつかの項目をペン先でなぞり、頭の中で素早く計算を走らせる。
やがて、信じ難いものを見るような目で顔を上げた。
「……異常な数字です。今川先生の仕様通りに命令を極限まで削ぎ落とせば、トランジスタ数は約五万。ゲート数にして二万弱にまで圧縮されます」
「五万、だと?」
斎藤の表情がわずかに変わった。
同世代の他社の三十二ビットCPUが、数十万トランジスタ規模へ向かおうとしている中、あまりにも小さすぎる数字だった。
「ええ。ハードウェアの制御回路が異常なほど削られていますから。……ですが」
高村は重い口調で続ける。
「三十二ビットのフルカスタム設計であることに変わりはありません。しかも、既存の 設計資産(ライブラリ) が一切使い回せない、完全な新規アーキテクチャです」
高村は一度、言葉を切った。
「現在のリソースを全投入したとして、セオリー通りに工程を積み上げれば……最短でも二年はかかります」
「二年、か」
斎藤が低く呟く。
「ええ。マイラー紙への手書きレイアウト、メインフレームによる論理検証の待ち時間、そしてマスク作成。どれだけ工程を詰めても、物理的な作業時間がそれを下回ることはありません」
高村は小さく息を吐いた。
「1985年の秋。それが、最初の試作を出せる現実的なラインです」
部屋が静まり返る。
「そして……それは、あくまで最初の試作です」
高村の言葉に、空気がさらに沈んだ。
「そこから不具合を潰し、タイミングを調整し、歩留まりを上げていく。製品化までは、さらに時間が必要になります」
小林が腕を組む。
「……さらに一、二年、といったところか」
「ええ、しかも今回は、CPUだけではありません。
TRON、コンパイラ、開発環境――全部を並行で成立させる必要があります」
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて、忠夫が口を開く。
「……確かに従来通りなら、二年かかります」
全員の視線が集まる。
「論理設計を固めて、検証して、それからレイアウトへ入る。今までどおりのやり方では、どうしても待ち時間が長くなる」
西村の眉がわずかに動いた。
「最初にフロアプランを決めるんです。配線長と配置を先に固定して、論理側をそこへ合わせる」
「……普通は逆だぞ」
小林が低く言う。
「ええ。でも、この石は制御が単純です。最初から物理設計を前提に論理を組めば、手戻りを減らせる可能性があります」
高村が腕を組んだ。
「レイアウト先行、か……」
「はい、検証と配置を並列化できれば、工程はかなり縮みます」
西村が低く唸った。
「……検討する価値はある」
誰も、すぐには否定しなかった。
やがて、斎藤が低い声で言う。
「……人が要るな」
高村は苦い顔をした。
「正直に言えば、全く足りません」
西村が小さく笑う。
「設計だけじゃない。検証も、レイアウトも、全員泊まり込みになりますよ」
「コンパイラ側も同じです」
今川が静かに続けた。
「命令仕様が変われば、コード生成も変わる。OSの割り込み制御も見直しになる」
小林がため息を漏らす。
「誰か一人遅れりゃ、全部止まるってわけか」
誰も否定しなかった。
沈黙の中、斎藤は壁の工程表へ歩み寄る。
まだ何も書かれていない白紙。
斎藤はポケットから煙草を取り出しかけ――そこで止めた。
そのまま静かに、煙草をポケットへ戻す。
「……いい」
そして、工程表を見たまま言った。
「やるぞ」
短い言葉だった。
だが、その一言で、白紙だった工程表は、“計画”へと変わった。