軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三十二話:TRON

「……完璧だ。一クロックの遅延もなく、二つの世界が同期している」

今川は椅子に深く腰掛け、モニターの青い光を浴びながら、どこか遠くを見つめるような目で切り出した。

「‥‥佐伯くん。君と一緒にリアルタイムOSの雛型と言える物を作り上げたおかげでね、僕の構想していた研究にようやく目処がついたんだ」

今川は、壁一面に広がるホワイトボードに視線を向けた。そこには、これまで彼が一人で積み上げてきたであろう、コンピュータ・アーキテクチャの膨大な数式と図解が書き殴られている。

「‥‥プロジェクト名も決めたんだ。Time Real Operating system Next――の頭文字をもじって、『TRONトロン』だ」

忠夫の心臓が、ドクンと跳ねた。前世の記憶に刻まれた伝説の名が、今、目の前で産声を上げた。

(史実より早い。これならパソコン用OSのBTRONの普及も早くなり、米国が貿易摩擦を理由に政治工作を仕掛けてくる前にシェアを獲れる可能性がある……!)

忠夫の脳裏を、前世で見た忌まわしいニュース映像がよぎる。TRONを「日米摩擦の火種」や「日本独自の非関税障壁」と決めつけ、ナショナリズムの象徴のように書き立てたマスコミの論調だ。

(あの時は、マスコミが『日本独自の技術でアメリカを逆転する』と不用意に煽ったせいで、逆にアメリカに攻撃の口実を与え、メーカーの腰を折った。だがWindowsも出ていない今からなら)

「‥‥TRON」

「そうだ。これは単なるOSじゃない。あらゆる機械に共通の『知能』を埋め込み、一つの思想のもとにリアルタイムで共鳴し合うための巨大な標準化の核だ。……僕達で作り上げたあのOSの設計思想。これが、TRONの心臓部になる。このロジックを、世界の標準にしたいんだ」

「先生。教育やビジネスの現場……それこそ子供や一般の人たちにまで広めるために、提案があります」

忠夫の言葉に、今川が興味深そうに眉を上げた。

「これからは、文字を打ち込むだけの時代から、画面上のアイコンを直感的に操作する時代――GUIグラフィカル・ユーザー・インターフェースが必須になります。TRONを、誰もが簡単に使いこなせる操作体系を備えたパソコン用OSとして定義してほしいんです。僕に出来ることなら、できるかぎり協力します」

今川は一瞬目を見開いたが、すぐに我が意を得たりとばかりに、愉快そうに笑った。

「GUIか。‥‥佐伯くん、君もか。実は僕も、コマンドライン主体の今のコンピュータでは一般に広まるのは難しいと思っていたんだ」

今川は立ち上がり、窓の外に広がる夜の東京を見据えた。

「僕はこれから、論文を携えて、メーカーの連中を説得して回る。日本の産業界を一つにまとめるためにね」

今川は振り返り、忠夫を見た。その目は、一人の戦友に向けられたものだった。

「佐伯くん。ありがとう、君のおかげだ。予定ではまだ数年はかかりそうだったが……君と一緒に作ったものが僕の理論に命を吹き込んでくれた。これでようやく、自信を持って彼らの前に立てるよ」