軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十五話:零細の限界

1982年、8月。

佐伯家のリビングは、もはや「家庭」の体をなしていなかった。

「……あ、はい。佐伯技術研究所です。……ええ、五本ですね。一週間ほどお時間をいただきます」

佳子は受話器を肩で支えながら、震える手で封筒に宛名を書いていた。机の上には、数百枚の現金書留の抜け殻。そして、データレコーダが「ピーーヒョロロ……」と、呪文のようなロード音を絶え間なく吐き出し続けている。

「……あなた、もう指が動かないわ。昨日も徹夜で……。忠夫も、夏休みに入ったとはいえ、これじゃいつか倒れてしまうわよ」

和雄も、会社から帰るなりスーツを脱ぎ捨て、カセットにラベルを貼る作業に没頭していた。だが、注文の勢いは、三人の「手作業」の限界をとうに超えていた。

「父さん、母さん。……もう、やめよう」

忠夫が、積み上がった未発送の段ボールを見つめて言った。

「やめるって……こんなに注文が来てるんだぞ! 現金を返すのか?」

「違うよ。僕たちだけでやるのは、もう限界だ。……ここからは、現金書留での販売は一旦やめてプロのインフラを借りる。……任天堂の東京支店に行ってくる」

忠夫は、詰め襟の学生服をビシッと整え、カバンに「テトリスの仕様書」と、未来のビジネスモデルを凝視した『ライセンス提案書』を詰め込んだ。

任天堂東京支店

扉が開かれると、そこには仕立ての良いスーツを隙なく着こなした男が入ってきた。東京支店営業部長、黒井康雄。彼は入ってきた忠夫が学生服姿であることを見ると、一瞬だけ目を見開いたが、すぐに柔和な、しかし距離のある「営業のスマイル」を浮かべた。

「……お待たせしました。私が黒井です。佐伯さんは……今日はお父様はご一緒ではないのかな?」

「いえ。私が代表の佐伯忠夫です。予約の電話を差し上げたのも私です」

黒井はわずかに沈黙した。目の前の中学生が冗談を言っているようには見えない。彼は困ったように微笑み、言葉を選びながら言った。

「なるほど、君が。……感心だね。自作のゲームを売り込みに来たのかな? 本来、うちは持ち込みの企画は受けていないんだが、せっかくわざわざ来てもらったんだ。……預かっておこうか。後で本社の開発の者に目を通させておくよ」

それは、相手を傷つけずに体よく引き取ってもらおうとする、「丁寧な門前払い」だった。

「すみませんがお預けして後ほど……というわけにはいきません。これから主流になるであろう、カセット交換式の家庭用ビデオゲーム機に関する、提案です」

部長の動きが止まった。

「……ほう」

眼鏡の奥の目が、獲物を狙う鷹のように細められる。

「御社も今の成功の先に、新たなハードを開発するのは必然です。ですが、優れたハードもソフトがなければただの箱です。……僕の『テトリス』は、そのハードを世界中で売るための『鍵』になります」

忠夫は、自作の『ライセンス提案書』『テトリスの仕様書』を机に滑らせた。そこには、1982年当時の常識では考えられない「出荷数に応じたロイヤリティ(印税)方式」の契約案が、理然と記されていた。

黒井は資料を読み終え告げた。

「……ちょっと待ちたまえ」

彼は応接室の隅にある電話機を掴み、市外局番「075(京都)」をダイヤルした。

「……あ、京都ですか。東京支店の黒井です。開発二部の植松さんをお願いします。‥‥お疲れ様です……お忙しい所すみません。ええ、神田の支店に変なガキが……いや、失礼。……面白いのが来ましてね。どうにか会っては……お願いします。‥‥はい。来週……はい」

黒井は受話器を置くと、椅子に座り直し、改めて忠夫を直視した。

「……来週、京都へ行けるか?‥来週ならうちの開発スタッフが会ってくれるそうだ。」

「はい。社長である母と、二人で伺います」

忠夫は静かに立ち上がり、深く一礼した。一九八二年、夏の京都行きが決まった。