軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

魔女編9

北の大地にあるドミニケル公爵邸の窓の外には、まだうっすらと雪が残り、冷たい春の風が木々の枝を大きく揺らしている。

厚いガラス窓に打ち付ける風の音は、厳しい冬の余韻を色濃く残していた。

しかし、公爵邸の豪華な応接室の中だけは、まるで真夏の熱帯夜かのような、むせ返るような甘く暑苦しい空気が充満していた。

燃え盛る暖炉の熱気だけではなく、部屋の中央から発せられる熱量が、室内の温度を異常なまでに引き上げているのだ。

豪奢なソファの上で、ドミニケル公爵であるディーンが、愛する妻であるリアスティエーゼを自分の膝の上に抱き寄せ、その月明かりを紡いだような銀色の髪に何度も口づけを落としている。

「リア、今日の君の髪も、春の陽だまりのように美しいね」

「まあ、ディーン様ったら。ディーン様こそ、今日もとっても凛々しくて素敵ですわ」

リアスティエーゼもまた、頬を熟れた林檎のように真っ赤に染めながらも、嫌がる素振りは一切見せずにディーンの広い胸に顔を埋め、完全に二人だけの甘い世界に浸りきっていた。

彼女の小さな手はディーンの服の胸元をきつく握りしめ、その体温と鼓動を確かめるようにすり寄っている。

その甘すぎる光景を、ソファの対面で紅茶のカップを持ったまま無表情で見つめているのは、光り輝く銀髪と青玉の瞳を持つ、外見年齢十八歳の少女の姿をとった魔女アイラである。

アイラは、ダイダロス王国と神聖エルミナ教国を巡る大きな事件を裏から完全に解決し、再び「旅の魔法使い」という設定で、教え子であり可愛い子孫でもあるリアスティエーゼの元へと戻ってきていた。

しかし、帰還してからというもの、この若夫婦のブレーキの壊れたようなイチャイチャぶりを毎日見せつけられ、アイラの胃袋はすでに砂糖の過剰摂取で物理的な限界を迎えつつあった。

手元の最高級ダージリンティーから立ち上る上品な香りすらも、今のアイラにとっては胸焼けを助長するスパイスにしか感じられない。

「……ねえ、あなたたち。私が目の前で最高級のダージリンティーを飲んでいるのに、もう少し自重という言葉を辞書で引いてみたらどうかしら」

アイラがジト目を向けて、氷のように冷たい声で突っ込みを入れると、リアスティエーゼはハッと我に返り、慌ててディーンの膝から降りようとジタバタと身をよじった。

「あ、アイラ様! も、申し訳ありません、私としたことが……!」

「夫婦の仲が良いのは、領地にとっても慶事です、アイラ殿。それに、私の妻は世界一愛らしく、片時も離れたくないと思うのは夫として当然のことですからね」

リアスティエーゼが羞恥で消え入りそうになっているのに対し、ディーンは全く悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげに胸を張って言い切った。

彼の迷いのない瞳には、妻への絶対的な愛だけが真っ直ぐに宿っている。

アイラは、完膚なきまでに開き直っているディーンの態度に深いため息を吐き出し、ティーカップをソーサーにコトリと音を立てて置いた。

「……まあ、教国のゴタゴタや悪魔の血の呪縛から解放されて、リアスティエーゼが心から幸せそうに笑っているのは、私としても喜ばしいことだけどね」

アイラは、幸せ太りしそうな現状から少しでも気を逸らすため、以前から気になっていた話題を切り出すことにした。

「ところでディーン。このドミニケル公爵領の食料事情って、今どうなっているの? 外を見る限り、春とはいえまだ寒くて、作物が豊富に育つような環境には見えないけれど」

アイラの真面目な質問に、ディーンもようやく公爵としての顔つきに戻り、背筋を伸ばして姿勢を正した。

「お察しの通りです。この北の地は寒冷な気候のため、一部の寒さに強い麦や根菜類などは生産できていますが、領民の胃袋を完全に満たすほどの自給率はなく、半分ほどは他領からの輸入に頼っているのが現状です」

「輸入のお金は、どうやって工面しているの?」

「我々ドミニケル公爵家は、北の荒野から押し寄せる魔物の脅威から、ダイダロス王国全体を守る『防波堤』としての役割を担っています。そのため、王国からは軍事費と領地維持費として、潤沢な国家予算が割り振られているのです」

ディーンの説明に、アイラは顎に指を当てて納得したように頷いた。

「なるほどね。お金はあるけれど、地理的な問題で新鮮な食材が手に入りにくいってわけね。……公爵邸の料理は豪華だけれど、一般の領民たちはどんな食生活をしているの?」

「……お恥ずかしい話ですが、平民たちの食卓は、決して豊かなものとは言えません」

ディーンの顔に、領民を案じる暗い影が落ち、その声のトーンが一段低くなった。

「冬の間は特に、塩漬けにした硬い肉や干し魚、そして日持ちのする硬いパンを、ただ水で煮込んで柔らかくしただけの、味気ないスープが主食となっています。凍える手で粗末な匙を握り、ただ生きるためだけに腹を満たす日々です。食の娯楽というものは、彼らにはほとんどありません」

その言葉を聞いて、アイラの脳裏に、かつて自分がスラムで泥水を啜っていた前世の記憶が鮮明にフラッシュバックした。

凍てつくような冷たい風が吹き込むあばら家で、空腹に耐えかねて泣きじゃくる幼い義妹。

そんな彼女に、あり合わせのクズ野菜を煮込んで作った不格好なスープを飲ませた時、義妹が見せてくれた涙混じりの満面の笑顔。

美味しい料理は、ただ空腹を満たすだけでなく、凍りついた心を溶かし、明日を生きるための希望の光となるのだ。

「……決めたわ」

アイラはポンッと手を打ち鳴らし、青玉の瞳を爛々と輝かせた。

「私、この領都に食堂を開くわ」

「「……はい?」」

ディーンとリアスティエーゼの声が見事にハモり、二人は目を丸くしてアイラを見つめた。

「アイラ様、食堂、ですか……?」

「そうよ。この領地で安価で手に入りやすい食材を使って、私の知っているレシピで、美味しくて体がポカポカに温まる料理を提供するお店を開くの」

アイラは立ち上がり、ドレスの裾を翻して意気揚々と語り始めた。

「もちろん、ただ料理を売るだけじゃないわ。領民たちの食生活を豊かにするために、そのレシピは惜しみなく全員に公開するつもりよ」

「そ、それは素晴らしい考えですが……アイラ殿ほどの魔法使いが、わざわざ厨房に立つというのですか?」

ディーンが戸惑いながら尋ねると、アイラはニシシと悪戯っぽく笑った。

「論より証拠ね。厨房を貸してちょうだい。私の腕前を、あなたたちの舌で直接確かめさせてあげるわ」

一時間後、公爵邸の広大な厨房は、得体の知れない熱気と、かつて誰も嗅いだことのないような強烈に食欲をそそる匂いに包まれていた。

公爵邸の料理長や見習い料理人たちが、遠巻きにハラハラと見守る中、アイラは真っ白なエプロンを身に着け、魔法の杖ではなく巨大な包丁を軽やかに振るっていた。

「北の国で手に入りやすいのは、オークやボアといった魔物の肉と、土臭い根菜類ね。これを極上のご馳走に変える魔法は、火力と香草、そして……『出汁』よ」

トントントントンッ、と軽快でリズミカルな包丁の音が石造りの広々とした厨房に心地よく響き渡り、硬いボア肉と乱切りにされた大根や人参が、巨大な鉄鍋の中に次々と放り込まれていく。

アイラは、 空間収納(アイテムボックス) から、異次元の魔女の知識を活かして調合した特製の味噌風調味料と、臭みを消すための数種類の香草を取り出した。

そして、絶妙な火加減でグツグツと煮え滾る鍋の中に、それらを一気に投入した。

ジュワァァァッという激しい音と共に、香ばしく、そして体の芯から温まるような濃厚な香りが爆発的に広がり、厨房にいた全員の喉がゴクリと鳴った。

その匂いは、長年の厳しい冬を耐え抜いてきた北の民の記憶に直接語りかけるような、力強くも優しい香りであった。

「さあ、完成よ。『アイラ特製・魔物肉と根菜の味噌煮込み鍋』よ」

熱を帯びた大鉢が応接室のテーブルに運ばれると、ディーンとリアスティエーゼ、そして特別に同席と試食を許された料理長は、恐る恐るスプーンを手に取った。

湯気とともに立ち昇る香ばしい味噌の匂いと、琥珀色のとろみのあるスープ。

その中には、飴色に染まるまで煮込まれた根菜と、分厚く切られたボア肉がゴロゴロと入っている。

リアスティエーゼが、フーフーと息を吹きかけてスープを一口飲んだ瞬間、彼女の青玉の瞳が驚きで大きく見開かれた。

「……美味しいっ! なんですか、これ!?」

リアスティエーゼは感動のあまり立ち上がり、両手で火照る頬を押さえた。

「あんなに硬くて臭みの強かったボア肉が、舌の上でホロホロととろけていきます! それに、このスープ……体の奥底からポカポカと温かくなって、色々な旨味が複雑に絡み合って……」

「本当だ……。魔物の肉特有の獣臭さが完全に消え去り、むしろ肉の旨味だけが極限まで引き出されている。それに、この野菜の甘みと、スープの奥深いコクは一体……」

ディーンもまた、貴族の作法を忘れかけたように次々と肉と野菜を口に運び、驚愕の声を上げた。

「ただの塩気ではない、まろやかで芳醇なこの味わい……もしや、時間をかけて食材を発酵させているのですか? 私の知るいかなる調味料とも違う、全く未知の味覚です」

ディーンの鋭い味覚の分析に、アイラは得意げに笑みを深めた。

「ふふっ、さすが公爵様ね。大豆に似た豆と穀物を特殊な菌で発酵・熟成させた、私の故郷の秘伝の調味料よ。これが素材の味を極限まで引き上げるの」

横で試食していた料理長に至っては、あまりの美味しさと衝撃に涙を流しながら鍋の前で平伏しそうな勢いだった。

「素晴らしい……! 我々が長年悩まされていた魔物肉の臭みを、これほど完璧に消し去り、しかもこんなに安価な根菜を極上の逸品に昇華させるなど……アイラ様は、料理の神に愛されたお方に違いありません!」

「大袈裟ね。ただ、素材の生かし方と調味料の組み合わせを知っているだけよ」

アイラは、空間収納から取り出した真新しい羊皮紙に、羽ペンでサラサラとレシピを書き込み、震える手でそれを受け取ろうとする料理長に手渡した。

「このレシピはあなたたちにもあげるわ。これを基本にして、公爵邸の料理も色々と工夫してみなさいな」

「よ、よろしいのですか!? このような秘伝のレシピを、我々などに……!」

「だから、最初から公開するって言っているでしょう? 美味しいものは、みんなで分け合った方が幸せじゃない」

アイラが事もなげに言うと、ディーンはスプーンを置き、深く、そして真剣な眼差しでアイラを見つめた。

「アイラ殿。あなたのこの料理とレシピは、北の厳しい冬を生きる我が領民たちにとって、まさに救いの光となります」

ディーンは、力強く頷いて宣言した。

「食堂の開店を、ドミニケル公爵家の名において全面的に許可します。初期の店舗改装費用から、当面の運営資金、食材の調達ルートの確保まで、すべて公爵家が責任を持って負担させていただきます」

「話が早くて助かるわ。それじゃあ、さっそく準備に取り掛かりましょうか!」

アイラは、満面の笑みを浮かべてガッツポーズをした。

こうして、最強の魔女による、北の大地での新たな気まぐれな挑戦が幕を開けたのである。

* * *

雪解け水が小川を満たし、柔らかな春の日差しが領都の石畳を温め始めた頃。

ドミニケル公爵領の領都、その大通りから一本入った活気ある市場の近くに、「アイラ食堂」はオープンした。

木造の温かみのある外観に、手書きの可愛らしい看板が掲げられたその店は、開店初日から凄まじい熱気に包まれていた。

「いらっしゃいませー! 空いている席へどうぞ!」

「熱いから気をつけて運んでね!」

店内を忙しく駆け回っているのは、公爵邸から借り受けた腕利きの若い料理人が一人と、給仕を任された愛想の良いメイドが二名である。

厨房の奥では、アイラ自身が巨大な鍋をいくつも並べ、凄まじい手際で次々と料理を仕上げていた。

メニューは、あの「特製・魔物肉と根菜の味噌煮込み鍋」を筆頭に、体の温まるスープや、安価な魚介を使った香草焼きなど、北国の寒さを吹き飛ばすような温かいラインナップで統一されている。

「うめぇ……! なんだこの肉、噛まなくても溶けちまうぞ!」

「このスープ、冷え切った腹の底までじんわり染み渡るなぁ。明日も仕事頑張れそうだぜ!」

荒くれ者のマタギや、市場で働く商人、そして噂を聞きつけた平民の家族連れなど、客層は様々だったが、誰もがアイラの料理を口にした瞬間、幸福に満ちた笑顔を浮かべていた。

店の外の掲示板には、ディーンとの約束通り、今日提供している料理のレシピが丁寧に書き出された羊皮紙が貼り出されている。

食堂は大繁盛し、連日食材が大量に売り切れるほどの人気店となった。

しかし、オープンから数日が過ぎた頃、アイラが厨房で仕込みをしていると、常連になりつつある領都の主婦たちが、申し訳なさそうにアイラに声をかけてきた。

「アイラさん……ちょっと、ご相談があるんですけど」

「どうしたの? 料理の味が落ちたかしら?」

アイラが手を止めて首を傾げると、主婦の代表である恰幅の良い女性が、もじもじとエプロンの裾を握りしめた。

水仕事で赤くひび割れた彼女の手が、毎日の厳しい家事労働を物語っている。

「とんでもない! アイラさんの料理は毎日でも食べたいくらい絶品よ。……ただ、その、表に貼り出してくれているレシピの通りに、家で作ってみたんだけど……」

別の若い主婦が、ため息をつきながら言葉を引き継いだ。

「どうも、アイラさんが作ってくれたものと同じ味にならないんです。お肉が硬いままで臭みが残っていたり、スープの味がぼやけてしまったりして……」

アイラは、彼女たちの悩みを聞いて、ポンと手を打った。

「ああ、なるほどね。料理って、ただ材料を同じ分量入れるだけじゃダメなのよ」

アイラは、主婦たちの前に立ち、優しく微笑みかけた。

「火の強さを調整するタイミング、香草を手で揉んで香りを出すひと手間、アクをすくう丁寧さ……そういう『文字にはしにくいコツ』が、味の決め手になるの」

主婦たちは、アイラの言葉に深く頷き、すがるような目を向けた。

「そのコツ……私たちにも教えてもらえませんか? 家族に、あんなに美味しいものを食べさせてあげたいんです!」

その真剣な眼差しを見て、アイラは魔女としての冷徹な仮面の下で、ひっそりと心を温かくした。

誰かのために美味しいものを作りたいという願いは、どんな魔法よりも尊く、美しいものだとアイラは知っている。

「ええ、もちろんよ。……よし、決めたわ」

アイラは、厨房の清潔な布巾で手を拭きながら、堂々と宣言した。

「食堂の定休日を利用して、『アイラのお料理教室』を開くわよ。みんなで一緒に、美味しい料理の作り方を実践で学びましょう!」

主婦たちから、割れんばかりの歓声が上がった。

「はい、そこで火を弱めて! 香草を入れたら、グツグツ煮立たせちゃダメよ、香りが飛んじゃうからね!」

「あ、アクが浮いてきました!」

「そう、それを丁寧にお玉で掬い取るの。このひと手間が、スープの透明感と旨味を決定づけるわ」

アイラ食堂の定休日。

普段は客席として使われているスペースに長机が並べられ、簡易的な魔導コンロがいくつも設置された店内は、領都の主婦たちの熱気と活気に満ち溢れていた。

アイラは、白いエプロン姿で机の間を軽やかに歩き回りながら、時には手を添え、時には的確なアドバイスを飛ばして、主婦たちに料理の極意を叩き込んでいた。

最初は五、六人だった料理教室だが、「アイラ先生の教え方が分かりやすい」「実際に作って食べられるのが楽しい」という噂が瞬く間に領都中に広まり、今では毎回定員オーバーになるほどの大盛況となっていた。

「アイラさーん! こっちの火加減はこれでいいですか!?」

「ええ、完璧よ! いい匂いが出てきたわね」

アイラが笑顔で頷いたその時、食堂の裏口の扉がバンッと勢いよく開き、数人の男たちが雪崩れ込んできた。

「ずるいぞ! なんで領都の主婦たちばかりに、アイラ様の直伝の技を教えているんですか!」

「俺たちにも、その新しい出汁の取り方と、素材の旨味を閉じ込める焼き方を教えてください!」

鼻息を荒くして抗議してきたのは、なんと公爵邸の厨房で働く料理人たちだった。

彼らは非番の日を利用して、わざわざアイラの料理教室に押しかけてきたのである。

「ちょっと、あなたたちプロでしょうに。主婦の皆さんの邪魔をしないの」

アイラが呆れ顔で注意するが、料理人たちは全く引き下がる様子はない。

「プロだからこそ、アイラ様の次元の違う料理技術を少しでも吸収したいのです! お願いします、見学だけでもさせてください!」

料理人たちが土下座せんばかりの勢いで懇願するのを見て、主婦たちもクスクスと笑い始めた。

「いいじゃないですか、アイラさん。男の人たちが料理に興味を持ってくれるなんて、奥さんたちも大助かりですよ」

「……仕方ないわね。ただし、見学するなら洗い物と後片付けは全部あなたたちにやってもらうわよ」

「はいっ! 喜んで!」

こうして、アイラの料理教室は、主婦たちと公爵邸の料理人たちが入り混じる、活気に満ちた学びの場へと発展していった。

料理教室が軌道に乗り、食堂の客足もますます増えていく中で、アイラは新たな問題に直面していた。

公爵邸から借りている三人だけでは、どうしても食堂のオペレーションが回らなくなってきたのだ。

「アイラさん、もしよかったら、私をこのお店で雇ってもらえませんか?」

忙しさのあまり厨房で目を回しかけていたアイラに、救いの手を差し伸べてくれたのは、料理教室の第一期生であり、一番の優等生となっていた若い主婦のアンナだった。

「アンナ……でも、あなたにはまだ手のかかる小さな子供がいるでしょう? 毎日ここで働くのは大変じゃない?」

アイラが心配そうに尋ねると、アンナは満面の笑みで首を横に振った。

「それが、大丈夫なんです。実は、私がアイラさんのお店で働きたいって近所の人たちに相談したら、引退したおばあちゃんたちが『私たちが子供たちの面倒を見てあげるから、あんたはしっかり働いてきなさい』って言ってくれて」

アンナが食堂の裏手を指差すと、そこには日向ぼっこをしながら、アンナの子供や他の主婦たちの子供を、数人の恰幅の良いおばあちゃんたちが笑顔であやしている光景があった。

「アイラさんがこの食堂と料理教室を開いてくれてから、街の空気がすごく明るくなったんです。みんなで美味しい料理を作って、レシピを教え合って、助け合おうっていう空気ができたんですよ」

アンナの言葉に、アイラは青玉の瞳をわずかに見開き、そして優しく、心の底から嬉しそうに微笑んだ。

「……そう。それなら、遠慮なくあなたの力を借りるわね、アンナ。明日から、アイラ食堂の厨房係としてビシバシしごいてあげるから覚悟しなさい!」

「はいっ! よろしくお願いします、アイラ店長!」

アンナをはじめとする数人の主婦たちが従業員として加わり、子供たちを地域のお年寄りが協力して育てるという、温かく強固なコミュニティが、アイラ食堂を中心に自然と形成されていった。

厨房が落ち着いた午後、まかないのスープを飲んでいたマタギの老人が、ふと渋い顔でこぼした。

「しかし最近、どうも北の森の魔物たちが妙にピリピリしているのが気がかりでな」

「ピリピリしている、とはどういうこと?」

アイラが布巾で手を拭きながら尋ねると、老人は眉間に深く皺を寄せた。

「ああ。獲物の気配が薄いというか……鳥が鳴かず、獣道から足跡が完全に消えているんだ。まるで何か巨大な力に怯えて、森の奥へ奥へと逃げ込んでいるような不気味な静けさなんだよ」

「……そう」

アイラはその言葉にほんのわずかな引っかかりを覚えたが、今は目の前の平穏な日々に紛れ、その小さな違和感は心の隅へと追いやられた。

* * *

北の大地の短い夏が終わりを告げ、冷たい秋の風が吹き始めた頃。

アイラ食堂はいつものように、昼時の忙しさのピークを迎えていた。

「アンナ、三番テーブルにポトフ二つ上がったわよ!」

「はい、ただいまお持ちします!」

活気に満ちた店内に、突如としてガチャガチャと重々しい鎧の音を鳴らして、公爵邸の騎士が顔面を蒼白にしながら飛び込んできた。

「アイラ様! 大変です!!」

その尋常ではない様子に、店内の客たちのざわめきが一瞬にして静まり返る。

アイラは、手に持っていたお玉を置き、真剣な表情で騎士に向き直った。

「どうしたの? そんなに慌てて」

「ほ、北の国境付近の哨戒部隊から、緊急の知らせが届きました! 魔物の群れが異常な規模で集結し、南下を始めているとのこと……大規模な 魔物暴走(スタンピード) の予兆です!」

騎士の言葉に、店内にいたマタギたちや商人たちの顔に緊張が走った。

アイラの脳裏に、かつてマタギの老人がこぼした「魔物たちが何かに怯えている」という言葉が鮮明に蘇る。

「ディーン様はすでに討伐隊を編成し、前線へと向かおうとされております。リアスティエーゼ様も、アイラ様に急ぎお力添えをお願いしたいと……!」

「分かったわ。すぐに行く」

アイラは、エプロンを素早く脱ぎ捨て、厨房のアンナたちを振り返った。

「悪いけれど、今日の営業はここで一旦ストップよ。火の始末をして、戸締まりをしっかりしておいて」

「はい! アイラさん、どうかお気をつけて……!」

アンナたちの心配そうな声に背中で応えながら、アイラは店の外へと飛び出し、空高くへと舞い上がった。

アイラが 空間跳躍(テレポート) の魔法で北の国境付近の荒野に到着すると、そこにはすでに、ディーン率いる精鋭の騎士団と、領内から駆けつけた歴戦のマタギたちが、堅固な陣形を組んで待ち構えていた。

兵士たちの荒い息遣いと、武器を握る手から滲む汗の匂いが、戦場特有の張り詰めた空気を作り出している。

「アイラ様! お待ちしておりました!」

銀色の髪を風になびかせたリアスティエーゼが、アイラの姿を見つけて駆け寄ってくる。

彼女の手には、アイラから授けられた氷属性の魔力を秘めた杖がしっかりと握られていた。

「状況は?」

アイラが短く尋ねると、ディーンが険しい顔で地平線の彼方を指差した。

「数千規模の群れです。ゴブリンやオークといった下級魔物だけでなく、雪山に生息する凶悪な魔物も混ざっているようです。間もなく、第一波が到達します」

ディーンの言葉を証明するかのように、地鳴りのような足音と、空気を震わせる不気味な咆哮が風に乗って響いてきた。

地平線の彼方から、土埃を上げて黒い波のように押し寄せてくる魔物の大群が見える。

「凄まじい数ですね……ですが、私たちは負けません」

リアスティエーゼの青玉の瞳には、恐怖ではなく、自分の愛する夫と領民を守るという強い決意の光が宿っていた。

「ええ、その意気よ。さあ、リアスティエーゼ。彼らを誰一人欠かすことなく、無傷で家に帰してあげるわよ」

アイラは黒魔法使いの杖を虚空へと掲げ、リアスティエーゼもそれに合わせて杖を構えた。

「行くわよ……【聖なる軍神の 加護(ホーリー・イージス) 】! 【戦乙女の 祝福(ヴァルキリー・バフ) 】!」

アイラとリアスティエーゼの杖の先から、目も眩むような純白と氷藍色の光の波紋が放たれ、ディーンをはじめとする騎士団とマタギたち全員を包み込んだ。

「おおっ!? 体が、羽のように軽いぞ!」

「力がみなぎってくる……! この感覚、負ける気がしねえ!」

極大のバフ魔法を受けた騎士たちとマタギたちの身体能力は、常人の数倍にも跳ね上がっていた。

彼らの筋肉は脈打ち、視界は信じられないほどクリアになり、恐怖心は完全に払拭されていた。

「全軍、突撃!! 北の防波堤の誇りを見せてやれ!」

ディーンの号令と共に、強化された兵士たちが一斉に魔物の群れへと突っ込んでいく。

ディーンの大剣が一振りされるたびに、十数体のゴブリンが宙を舞い、騎士たちの槍がオークの硬い皮膚をバターのように容易く貫く。

後方からは、マタギたちの放つ矢が百発百中の精度で魔物の急所を射抜き、撃ち漏らした魔物は、リアスティエーゼの放つ【氷結の 槍(アイス・ランス) 】の圧倒的な冷気によって次々と美しい氷の彫像へと変えられていった。

戦局は、完全にドミニケル公爵軍の圧倒的な優勢で進んでいた。

しかし、魔物の群れの中央が突如として大きく割れ、巨大な影が姿を現した。

「グルォォォォォォォォォォォッ!!」

それは、体長十メートルを超える、全身が氷の結晶で覆われた巨大な熊の魔物――『ブリザード・グリズリー』だった。

その圧倒的な質量と、周囲の空気を一瞬で凍りつかせるような絶望的な冷気に、最前線で戦っていた騎士たちの動きがピタリと止まる。

「ディーン! あれはボスのようね。……なるほど、この強力な個体が縄張りを広げたせいで、他の魔物が押し出されてスタンピードになったのね。一気に決めるわよ!」

アイラが後方から叫ぶと、ディーンは短く頷き、大剣を上段に構えた。

「リアスティエーゼ、私に合わせて!」

「はいっ!」

アイラとリアスティエーゼは、互いの魔力を共鳴させ、かつてない規模の強化魔法の詠唱を開始した。

「【紅蓮の 爆炎(フレア・バースト) 】に【絶対零度の 刃(ゼロ・エッジ) 】を重ねて……ディーンの剣に 付与(エンチャント) !」

二人の放った相反する極大の魔法が、空中で複雑に絡み合いながら、ディーンの構えた大剣へと吸い込まれていく。

ディーンの剣が、白い光が明滅を繰り返し、空間を歪ませる凄まじい力を周囲に撒き散らした。

「はぁぁぁぁぁっ!!」

ディーンは、バフによって強化された脚力で大地を蹴り、巨大なブリザード・グリズリーの頭上へと高々と跳躍した。

魔物が迎撃のために巨大な氷の爪を振り上げるよりも早く、ディーンの光を纏った大剣が、魔物の脳天へと振り下ろされる。

相反する魔法のエネルギーが音もなく魔物の体が空間ごと切り裂かれた。

ブリザード・グリズリーは苦悶の咆哮を上げる間もなく、炎に焼かれ、氷に砕かれながら真っ二つに両断される。

巨体は爆発の余韻とともに、キラキラと輝く光の粒子となって北の空へと霧散していった。

ボスの死を目の当たりにした残存の魔物たちは、完全に戦意を喪失し、悲鳴を上げながら北の荒野へと逃げ去っていった。

「……勝ったぞぉぉぉぉっ!!」

「ディーン様万歳! リアスティエーゼ様万歳!アイラ様万歳!」

荒野に、騎士たちとマタギたちの地鳴りのような歓声が響き渡る。

負傷者は数名出たものの、アイラの迅速な治癒魔法によってすぐに回復し、ドミニケル公爵軍は文字通り死者ゼロという完全勝利を収めたのであった。

* * *

その夜、公爵邸の広大な中庭では、領民も参加したかつてない規模の盛大な祝勝の宴が開かれていた。

かがり火が煌々と焚かれ、火の粉が夜空に舞い上がる中、あちこちで樽酒の蓋が開けられ、勝利の美酒に酔いしれる人々の笑い声が響き渡っている。

アイラ食堂の従業員であるアンナたちと、公爵邸の料理人たちが完全にタッグを組み、討伐したばかりの新鮮な魔物肉を使った豪快な丸焼きや、アイラ直伝の温かい鍋料理が、次々と長机の上に並べられていった。

「さて、私も一肌脱いで、とびっきりのデザートでも作ろうかしら」

アイラが腕まくりをして厨房へ向かおうとすると、料理長とアンナが慌てて立ち塞がり、両手を広げて通せんぼをした。

「アイラ様! 今日ばかりは絶対に厨房には入れさせません!」

「そうです! アイラさんは今日の討伐の一番の功労者にして、私たちの恩人なんですから! 今日は大人しく、お客さんとして私たちの料理を食べてください!」

二人の剣幕に気圧され、アイラは目をパチクリとさせた後、やれやれと肩をすくめて苦笑いした。

「分かったわよ。それじゃあ、あなたたちの腕前、特等席でじっくりと堪能させてもらうわね」

アイラは、ディーンとリアスティエーゼが座る主賓席へと戻り、冷えたエールがなみなみと注がれたジョッキを受け取った。

「アイラ様、今日は本当に、何から何までありがとうございました」

リアスティエーゼが、感謝の涙で瞳を潤ませながら、アイラにジョッキを差し出す。

「大袈裟ね。私はただの旅の魔法使いよ。……それに、守るべきものがある男たちの背中っていうのは、なかなか見応えがあったわ」

アイラがディーンに向かってウィンクをすると、ディーンも照れくさそうに笑ってジョッキを掲げた。

「我が領地の平穏は、アイラ殿の力があってこそです。……この勝利と、素晴らしい料理に!」

「乾杯!!」

グラスの触れ合う澄んだ音が、賑やかな宴の喧騒の中に溶け込んでいく。

マタギたちが肩を組んで歌い出し、騎士たちが剣を置いて笑い合い、領民たちが満面の笑顔でアイラのレシピで作られた料理を頬張っている。

身分も立場も超えて、皆が一つになって喜びを分かち合うその光景は、アイラがこの北の大地に作り上げた、何よりも温かく、美しい魔法のようだった。

* * *

木々の葉が黄金色に色づき、北の大地が秋の豊穣を祝う季節となっていた。

ドミニケル公爵邸は、先日の魔物討伐の完全勝利の時すらも凌ぐほどの、凄まじい歓喜と熱狂の渦に包まれていた。

「リア! ありがとう、本当にありがとう……!」

「ディーン様、そんなに泣かないでくださいませ。私まで泣いてしまいます……」

応接室の中心で、ディーンがリアスティエーゼを抱きしめ、大の大人が顔をくしゃくしゃにして大号泣している。

その理由はただ一つ。

リアスティエーゼの胎内に、ディーンとの間の新しい命が宿ったことが、専属の医師によって正式に確認されたからである。

この朗報は、風よりも早く公爵邸から領都中へと駆け巡り、街のあちこちで祝福の鐘が鳴らされ、人々が道端で抱き合って公爵家の慶事を喜び合っていた。

アイラは、応接室の窓辺に寄りかかり、腕を組みながらその光景を静かに見つめていた。

少しだけふっくらとしたお腹を愛おしそうに撫でるリアスティエーゼの顔は、聖母のように優しく、穏やかな喜びに満ち溢れている。

かつて悪魔の血と罵られ、冷たい地下牢のような部屋で孤独に震え、世界を憎んでいた少女の面影は、もうどこにもない。

彼女は今、自分を心から愛してくれる夫と、彼女を慕う多くの領民たちに囲まれ、そして自らの中に芽生えた新しい命の温もりに包まれている。

(……もう、私がずっと傍に張り付いている必要は、完全に無くなったわね)

アイラは、窓の外に広がる、秋の夕暮れに染まった美しくも力強い北の大地を見渡しながら、ふっと息を吐き出した。

領民たちの食生活はアイラ食堂と料理教室のおかげで劇的に向上し、アンナたちを中心とした助け合いのコミュニティは、アイラがいなくても自立して回るほどに成熟している。

北の国境の守りも、ディーンと騎士団、そして自信をつけたリアスティエーゼの魔法があれば、そう簡単に崩れることはないだろう。

自分の役割が、この地において一つ、綺麗に完結したことをアイラは悟った。

「さて、北の美味しいものは堪能し尽くしたし……そろそろ、新しい土地の未知なる食材や、面白い事件でも探しに行こうかしら」

アイラは、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟き、窓からそっと離れた。

その日の深夜。

月明かりだけが差し込むアイラの自室で、アイラは 魔力分身(ドッペル・アバター) を作り出した。

「ドミニケル公爵領のことは任せなさい。私がしっかり守ってあげるわ」

瓜二つの姿をした分身が、不敵な笑みを浮かべて本体にウィンクをする。

「ええ、頼んだわよ。でも、分身は本体ほどの魔力はないから、大規模な戦闘はあの子たちに任せることになるわね。私は気兼ねなくソロキャンプを続けるわ」

わざわざ皆を集めて湿っぽいお別れの挨拶をするのは、アイラの魔女としての美学に反する。

彼女は旅の魔法使いなのだ。

風のように現れ、風のように去っていくのが一番美しい。

アイラは、黒魔法使いの杖を手に取り、窓の桟に音もなく足をかけた。

冷たい秋の夜風が、彼女の光り輝く銀色の髪を大きく揺らす。

手にした杖のひんやりとした感触が、旅立ちの決意を静かに後押ししていた。

「たまには、分身を取り替えて、リアスティエーゼの子供の顔を見に来るのも良いわね」

アイラは、眼下に広がる、人々が眠りにつき静かな温かい光だけが瞬く領都の街並みに向かって、優しく、そして少しだけ寂しげな笑みを浮かべて小さく手を振った。

「それじゃあね、私の可愛い子孫。……立派な母親になりなさいよ」

アイラは、夜空に浮かぶ満月に向かってふわりと跳躍し、その姿は一瞬にして月光の中へと溶け込んで消えた。

最強で気まぐれな魔女は、また一つ世界に温かい奇跡の種を残し、まだ見ぬ新しい世界へと、自由な旅を続けていくのだった。