作品タイトル不明
魔女編7
分厚い鉛色の雲が支配していた北の大地の空に、ようやく薄水色の切れ間が覗き始めた頃。
ドミニケル公爵が治める堅牢な城塞にも、遅々としてではあるが、確かな春の足音が訪れようとしていた。
石造りの冷たい壁を撫でる風には、微かに雪解け水を含んだ湿った土の匂いが混じり始めている。
城塞のテラスに置かれた籐の椅子に深く腰掛け、アイラは遠く連なる雪山を眺めながら、ゆっくりとハーブティーの入ったティーカップを傾けた。
カモミールの甘く爽やかな香りが鼻腔をくすぐり、温かな液体が喉の奥へと滑り落ちていく。
「アイラ様、風が冷たくなってきました。ショールをお持ちしましょうか」
背後から掛けられた穏やかな声に、アイラは振り返って柔らかく微笑み返した。
そこには、アイラと瓜二つの顔立ちに、月明かりを紡いだような銀色の髪を揺らすリアスティエーゼが立っていた。
彼女が身に纏うドレスは、以前のような寒々しく薄っぺらなものではなく、上質な濃紺のベルベット生地で仕立てられた、公爵夫人に相応しい気品のある装いだ。
魔物討伐での大立ち回りを経て、彼女の青玉の瞳からはかつての怯えたような色は完全に消え去り、代わりに自らの力と立場に誇りを持つ、凛とした知性の光が宿っていた。
「ありがとう、リアスティエーゼ。でも大丈夫よ、私には特製の暖房魔法がかかっているから」
アイラがそう答えると、リアスティエーゼはふわりと花が咲くような笑みを浮かべ、隣の椅子に腰を下ろした。
二人はしばらくの間、遠くの雪原で訓練に励む騎士たちの勇ましい掛け声や、剣が打ち合う金属音を心地よいBGMとして聞きながら、静かなお茶の時間を楽しんでいた。
しかし、アイラの内心は、その穏やかな情景とは裏腹に、ある一つの小さな、しかし無視できない疑問の渦に飲み込まれつつあった。
(今更ながらだけど……なんだか引っかかるのよね)
アイラは、カップの底に沈む茶葉を見つめながら、己の記憶の糸を慎重に手繰り寄せていた。
リアスティエーゼが人質として送られてきたという、彼女の故郷の国の名前。
隣国である『神聖エルミナ教国』。
その名前を最初に聞いた時は、ただの聞き慣れない国名として脳の片隅に追いやっていたが、落ち着いて考えてみれば、そこには重大な違和感が潜んでいるのだ。
かつて、アイラがまだ人間だった頃、この世界には天使たちの父である神を信仰する宗教国家が存在していた。
その国の名前は、『神聖ルシエラ教国』だったはずだ。
長い歳月が流れ、国が統合されたり分裂したりして名前が変わることは歴史上珍しいことではないが、宗教国家にとって信仰の象徴である国名を変えるというのは、余程の事情がない限りあり得ないことである。
(神聖ルシエラ教国ではなく、神聖エルミナ教国……? いつの間にそんな名前に変わったのかしら)
アイラの頭の中に、かつての教皇であり、死後に天使へと転生した食いしん坊の少女、セレスの顔が浮かんだ。
彼女が天使になってから、教国はどうなってしまったのだろうか。
アイラは、ティーカップをソーサーにコトリと置き、隣で優雅にお茶を飲んでいるリアスティエーゼへと視線を向けた。
「ねえ、リアスティエーゼ。少しだけ、あなたの故郷の話を聞かせてもらってもいいかしら?」
アイラの突然の問いかけに、リアスティエーゼはピクリと肩を震わせた。
彼女の顔に、ほんの一瞬だけ、古傷を無遠慮に触られたような微かな苦痛の影が走ったのを、アイラは見逃さなかった。
「私の、故郷ですか……?」
「……今更ながらなんだけれど、私がかつて本で読んだ古い歴史では、あの国は『神聖ルシエラ教国』という名前だったはずなのよ」
アイラは、自分がいかにも歴史の知識に詳しい旅人であるかのように装いながら、言葉を選んで慎重に問いかけた。
「ルシエラ、ですか……? いえ、私が物心ついた頃から、あの国は神聖エルミナ教国という名前でしたわ」
リアスティエーゼは少し首を傾げ、記憶を探るように伏し目がちになった。
「エルミナという名は、たしか……建国の祖である聖女様のお名前だと、教会の教えで聞いた記憶があります」
(……エルミナ、ね。昔の教国のトップは、代々『ルシエラ』を名乗る教皇だったはずよ)
アイラの二百年前の記憶が、激しく警鐘を鳴らしていた。
あの忌まわしいアウストラル帝国との戦争の後、教皇であったセレスは命を落とし、天使へと転生して天界へと旅立った。
その後、教国がどうなったのか詳しいことは知らなかったが、国名が変わり、しかも『エルミナ』などという聞き覚えのない名前にすり替わっているのは、どう考えても不自然だ。
「そう。じゃあ、もう一つ聞きたいのだけれど……教国には今、『神聖魔法』を使える人はいるのかしら?」
アイラの質問に、リアスティエーゼは明確に首を横に振った。
「いいえ、おりません。教国の聖職者たちは皆、神に祈りを捧げてはおりますが、実際に奇跡の力……神聖魔法を行使できる者は、現在一人もいないと聞いております」
「一人も、いないのね」
「はい。遠い昔の神話の時代には、神から直接力を授かった聖女や教皇様が、癒しの光をもたらしたという伝承は残っています。ですが、今ではただの形骸化した儀式としてしか残っていないのです」
(……やっぱり)
アイラはカップの底に残った紅茶の澱を見つめながら、内心で深く納得した。
神聖魔力は、天界の天使から直接『光の種』を授けられなければ発現しない、特別な力だ。
かつてはルシエラ家がその種を宿し、教国を導いていた。
しかし、彼女が天使となって天界へ上がり、アイラたちが魔女の世界へ引きこもっている間に、天界の天使たちは地上への干渉を止め、新たな種を誰にも与えていなかったのだろう。
神聖魔力を持った者が存在しない神聖教国。
それは、中身のない空箱のようなものだ。
「……リアスティエーゼ。あなたは教国で、アルジェントの血を引いているという理由で、酷い扱いを受けていたのよね?」
アイラがさらに核心へと迫ると、彼女はギュッと自分のスカートの裾を握りしめ、消え入りそうな声で答えた。
「はい……私の家系は、教国の中では『呪われた血筋』だと言われていました。かつて世界を滅ぼそうとした悪魔の血を引いているのだと……」
「呪われた血筋……悪魔の血、ですって?」
アイラは思わず、怒りで声が低くなるのを抑えきれなかった。
アルジェント公爵家の血筋は、アイラとリリアという偉大な魔女を輩出した、気高く誇り高い血統だ。
それを呪われた悪魔の血などと愚弄するとは、到底許されることではない。
「……それで、あなたは虐待され、最終的にはこの北の国への人質として、体よく厄介払いされたというわけね」
「はい。私に魔力の素質が少しだけあったことも、彼らにとっては不気味で恐ろしいことだったようです」
リアスティエーゼの青玉の瞳から、ポロリと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「ごめんなさい、辛いことを思い出させてしまって」
アイラは立ち上がり、彼女の隣に座って、その震える細い肩を優しく抱き寄せた。
「アイラ様……私、どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか、ずっとわからなかったんです。私が何か悪いことをしたわけでもないのに、ただ血筋が違うというだけで……」
彼女の悲痛な声が、静かな部屋に響き渡る。
アイラは彼女の銀色の髪を撫でながら、静かな怒りと共に思考をフル回転させていた。
なぜ、教国はアルジェントの血を迫害するのか。
なぜ、国名が神聖エルミナ教国へと変わっているのか。
そしてなぜ、彼女のような無実の令嬢が、人質という名目で最前線の城塞へと送られてきたのか。
そこには、ただの没落貴族への冷遇という言葉では片付けられない、もっと根深く、ドロドロとした国家間の政治的な闇が隠されているような気がしてならなかった。
「……リアスティエーゼ。あなたはもう大丈夫よ。私がついているし、ディーン公爵もあなたを全力で守ってくれるわ。だから、昔のことはもう忘れなさい」
アイラは彼女を宥め、安心させるように優しく微笑んだ。
しかし、アイラ自身の心の中では、この謎を徹底的に解き明かしてやるという、名探偵としての血が騒ぎ始めていた。
その日の夜、猛烈な吹雪が城塞の石壁を打ち付ける音を聞きながら、アイラは城内の奥深くにある執務室へと足を運んでいた。
重厚なオーク材の扉をノックすると、中から「入れ」という低く響くディーンの声が聞こえた。
アイラが静かに扉を開けると、部屋の中は無数の蝋燭の光に照らされ、ディーン公爵が書類の山と格闘している最中だった。
「アイラ殿か。夜分にどうした? 何か不自由なことでもあったか」
ディーンは羽ペンを置き、疲労で少しだけ隈の浮いた青い瞳でアイラを見上げた。
その目には妻の恩人に対する誠実な敬意がその態度には表れている。
「いいえ、不自由なんて全くないわ。ただ、少しだけ公爵様に直接お聞きしたいことがあって来たの」
アイラは、勧められるままに応接用の革張りのソファに腰を下ろし、まっすぐにディーンの目を見据えた。
「リアスティエーゼのことについてよ」
その名前が出た瞬間、ディーンの肩がピクリと強張り、書類に向かっていた視線が鋭くアイラに向けられた。
「……妻が、何か?」
「彼女が神聖エルミナ教国で虐待に近い扱いを受けていたこと、公爵様は知っていたの?」
アイラの単刀直入な問いかけに、ディーンは深く息を吐き出し、眉間を指で強く揉んだ。
「……彼女が公爵邸に到着した時の、あの痛々しいほどに痩せ細った体と、常に怯えきった瞳を見れば、どのような扱いを受けてきたかは想像に難くなかった」
ディーンの声は低く、苦渋に満ちていた。
「だからこそ、私は彼女に余計な干渉をせず、せめてこの城塞の中では静かに過ごさせてやろうと思ったのだ。……最初は人質としてしか見ていなかった私の、せめてもの情けのつもりだった」
「その不器用な優しさが裏目に出て、すれ違っていたわけね。まあ、今は上手くいっているからそこは不問にしてあげるわ」
アイラは脚を組み替え、さらに一歩踏み込んだ質問を投げかけた。
「私が知りたいのは、なぜ彼女が『人質』に選ばれたのか、という政治的な裏事情よ。教国はなぜ、彼女をこのダイダロス王国に送ってきたの?」
ディーンは、アイラの鋭い眼光を正面から受け止め、しばらくの間、深い沈黙に沈んだ。
部屋の中には、暖炉の薪が爆ぜる音と、窓を叩く吹雪の音だけが不気味に響き渡っている。
やがて、ディーンはゆっくりと首を横に振った。
「……すまないが、その件に関して、私からお前に話せることは何もない」
「知らないの? それとも、知っているけれど言えないの?」
アイラが詰め寄ると、ディーンは苦しげに顔を歪めた。
「アイラ殿、貴女が彼女を大切に思ってくれていることは十分に理解している。だが、これは国家間の機密に関わる問題だ。いくら恩人であるお前でも、これ以上首を突っ込むことは許されない」
彼の言葉は、最前線を預かる公爵としての重い責任と、これ以上妻の過去の傷を抉りたくないという男としての庇護欲が複雑に絡み合ったものだった。
「それに、彼女は今、このドミニケル公爵家で平穏な日々を取り戻しつつある。過去の泥沼のような教国の闇を、わざわざ掘り返して彼女を再び苦しませる必要がどこにあるというのだ」
ディーンの真摯な訴えに、アイラは小さく息を吐き出した。
(確かに、ディーンの言うことも一理あるわね。今のリアスティエーゼは幸せそうだし、無理に過去を穿り返して彼女を悲しませたくはないわ)
しかし、アイラの中の探偵としての好奇心と、我が子孫を虐げた者たちへの落とし前をつけさせたいという魔女の業火は、そう簡単に消えるものではなかった。
「分かったわ。公爵様がそう言うなら、これ以上は聞かないでおくわ」
アイラはあっさりと引き下がるふりをしてソファから立ち上がった。
「だが、アイラ殿……」
ディーンが何かを言いかけたが、アイラは彼を手で制し、背中を向けたままヒラヒラと手を振って執務室を後にした。
自室に戻ったアイラは、暖炉の前の絨毯に寝転がり、ゴロゴロと転がりながら天井の石組みを睨みつけていた。
(ディーンのあの口ぶり……確実に何か知っているけれど、政治的な縛りが強すぎて喋れないって感じだったわね)
彼が答えてくれないのであれば、自力で情報を集めるしかない。
教国がなぜ神聖エルミナという名前に変わったのか。
なぜリアスティエーゼが人質としてダイダロス王国に送られてきたのか。
そして、その背後で糸を引いているダイダロス王国の中枢は、一体何を企んでいるのか。
(辺境の公爵邸でいくら雪だるまに魔法を撃っていても、国家レベルの陰謀なんて見えてこないわ。やっぱり、権力の中枢に直接潜り込むのが一番手っ取り早いわね)
アイラはむくりと起き上がり、ニシシと悪党のような笑みを浮かべた。
季節はもうすぐ本格的な春を迎え、貴族社会が最も華やぐ『社交シーズン』が到来しようとしている。
各国の王侯貴族がこぞって集まる夜会や茶会は、表向きは優雅な交流の場だが、その裏側は情報と謀略が飛び交う血の流れない戦場だ。
(ダイダロス王国で開催される夜会に潜入できれば、一気に情報が集まるはずよ。でも、どこの馬の骨とも知れない旅人の身分じゃ、門前払いされるのがオチよね)
アイラは、自分の身分を証明できる強力なカードを頭の中で検索し、すぐにある一つの完璧なプランを思いついた。
(そうだわ! デブリスコスモ王国のレヴナント公爵家……エイレーンお義姉様に頼めばいいのよ!)
かつてアイラとリリアが『魔法の国のプリンセス』というトンデモ設定で養女に入り、エイレーンを完璧な王太子妃へとプロデュースしたレヴナント公爵家。
現在、テオドール国王の右腕として宰相を務めるクレメンテ公爵に嫁いだアイリーンもいるはずだ。
デブリスコスモ王国の公爵令嬢という絶対的な身分と権力があれば、ダイダロス王国のどんな夜会にも堂々と正面から乗り込むことができる。
「よし、決まりね! 久しぶりにエイレーンお義姉様やアイリーンに会いに行く口実もできたし、一石二鳥だわ!」
アイラはポンと手を叩き、すぐさま行動を開始した。
まずはリアスティエーゼとディーンに怪しまれないように、一時的な帰郷という名目でこの城塞を離れる理由を作らなければならない。
(ディーンには『ソロキャンプの途中で、ちょっと他の国にも寄り道してくる』って言えば誤魔化せるわね。リアスティエーゼには、王都の美味しいお菓子をお土産に買ってくるって約束すれば、喜んで送り出してくれるはずよ)
アイラは、 空間収納(アイテムボックス) から旅の荷物を引っ張り出しながら、これからの潜入計画に胸を躍らせた。
ダイダロス王国の夜会という華やかな舞台。
そこで待ち受けるであろう新たな謎と、そして何より、王都に集まるであろう未知の極上スイーツの数々。
アイラの中の果てしない食欲と知的好奇心が、まるで春の訪れを待っていたかのように、一気に目を覚まし始めていた。
(待っていなさい、神聖エルミナ教国。そしてダイダロス王国。この名探偵アイラ様が、あんたたちの隠しているドロドロの秘密を、余さず暴き出してあげるんだから!)
猛吹雪の夜の闇の中で、アイラの青玉の瞳は、まるで獲物を狙う夜の獣のように、妖しく、そして楽しげにキラキラと輝きを放っていた。
翌朝、アイラは朝食の席で、ディーンとリアスティエーゼに旅立ちの意志を告げた。
「えっ……アイラ様、もう行かれてしまうのですか?」
リアスティエーゼは、手に持っていた銀のフォークを取り落としそうになるほど驚き、青玉の瞳を不安げに揺らした。
「ええ、少しばかり野暮用ができてしまってね。でも安心して、またすぐに戻ってくるわ。それに、あなたにはもう十分すぎるほどの魔法の基礎を叩き込んだから、私がいなくても一人で訓練を続けられるはずよ」
アイラが優しく微笑みかけると、リアスティエーゼは寂しさを堪えるように唇を噛み締めながらも、健気にこくりと頷いた。
「はい……アイラ様に教えていただいたこと、絶対に忘れません。毎日欠かさず訓練を続けます」
「偉いわ。戻ってくる頃には、もっと凄い魔法を見せてちょうだいね。ご褒美に、王都の最高に美味しいケーキを山ほど買ってきてあげるから」
「ふふっ、楽しみに待っております」
リアスティエーゼの顔にようやく笑顔が戻ったのを確認し、アイラはディーンの方へと視線を移した。
ディーンは、腕を組んで難しそうな顔をしていたが、やがて短く息を吐いた。
「……引き留めはしない。お前にはお前の旅の目的があるのだろう。だが、これだけは言っておく。お前は我が公爵家の大切な客人であり、妻の恩人だ。何か困ったことがあれば、いつでもこの城塞を頼ってこい」
不器用な北の公爵なりの、最大の感謝と気遣いの言葉だった。
「ありがとう、公爵様。その言葉、言質とったわよ」
アイラはニシシと悪党のように笑い、席を立った。
荷造りはすでに終わっている。
あとは、誰もいない場所で【 空間転移(テレポート) 】の魔法を展開するだけだ。
「それじゃあ、二人とも元気でね! 夫婦仲良くやるのよ!」
アイラは、顔を赤らめる二人を背に、軽やかな足取りでダイニングルームを後にした。
城塞の裏手、雪に覆われた静かな森の中まで進んだアイラは、周囲に人の気配がないことを確認し、黒魔法使いの杖を虚空へと掲げた。
「さて、まずは懐かしのデブリスコスモ王国、レヴナント公爵邸へお邪魔しましょうか」
アイラの指先から放たれた膨大な魔力が、冷たい空気をペティナイフのように鋭く切り裂いていく。
パリンッ!というガラスが割れるような音と共に、空間に眩い光の裂け目が現れた。
アイラは、これから始まる華麗なる潜入作戦と、久しぶりの家族との再会に胸を躍らせながら、躊躇うことなくその光の渦の中へと飛び込んでいったのだった。
パリンッ、というガラスが割れるような甲高い音が、静寂に包まれた空間に響き渡った。
虚空に生じた眩い光の裂け目から、アイラは軽やかな足取りで、春の陽光が降り注ぐ美しい庭園へと降り立った。
足の裏に伝わる、ふかふかに手入れされた芝生の柔らかい感触と、どこからともなく漂ってくる甘い薔薇の香りが、彼女の鼻腔を心地よくくすぐる。
ここはデブリスコスモ王国の王都に位置する、レヴナント公爵家の広大な庭園である。
「さて、このままの姿でウロウロするわけにはいかないわね」
アイラは、北の大地で纏っていた防寒具を 空間収納(アイテムボックス) へと仕舞い込み、黒魔法使いの杖を軽く振った。
彼女が人間界で活動する際、このレヴナント公爵家において彼女は『魔法の国から来たエイレーンの双子の妹』という設定になっている。
しかし、実際のエイレーンは現在、テオドール国王の妻として立派な王妃となっており、年齢も四十代後半に差し掛かっているのだ。
永遠の時を生きる魔女であるアイラが、いつまでも若い少女の姿のまま公爵邸を歩き回れば、無用な混乱を招くことになる。
「【 姿態偽装(カモフラージュ) 】」
アイラが呪文を唱えると、彼女の全身を淡い光の粒子が包み込んだ。
光が晴れると、そこには光り輝く銀髪と青玉の瞳を持つ魔女ではなく、亜麻色の髪に優しげな茶色の瞳を持った、落ち着いた大人の女性が立っていた。
目尻には年相応の柔らかな笑い皺が微かに刻まれているが、その美しさは決して衰えることなく、むしろ王妃としての威厳と気品を漂わせるエイレーンと全く同じ容姿である。
アイラは、虚空に水鏡を作り出して自分の姿を確認し、満足げに一つ頷いた。
「うん、完璧ね。これなら誰にも怪しまれないわ」
彼女は、上質なシルクで仕立てられたエメラルドグリーンのドレスの裾を翻し、懐かしい家族が待つ温室へと向かって歩き出した。
ガラス張りの豪奢な温室の中では、春のうららかな日差しを浴びて、色とりどりの花々が咲き誇っていた。
その中央に置かれた白亜のテーブルでは、初老の男女が穏やかな表情でティータイムを楽しんでいる。
「お養父様、お養母様。ごきげんよう」
アイラが温室の入り口から明るい声で呼びかけると、ティーカップを傾けていたガバナント前公爵とエレイン前公爵夫人が、驚きと共に顔を上げた。
「おおっ、アイラではないか! よく来てくれたね!」
「まあ、アイラ! 三ヶ月ぶりくらいかしら、また一段と美しくなって」
ガバナントとエレインは、立ち上がってアイラを温かく迎え入れた。
彼らは既に老境に入っている年齢だが、アイラが定期的に差し入れている魔女特製の健康薬のおかげで、その背筋はピンと伸び、肌には生き生きとした艶があった。
「ええ、お久しぶりです。お二人とも、お元気そうで何よりですわ」
アイラは、勧められるままに籐の椅子に腰を下ろし、メイドが淹れてくれた薫り高いダージリンティーのカップを手に取った。
「北の国でのソロキャンプはいかがかな? 随分と冷えると聞いているが」
ガバナントが、白い髭を撫でながら気遣わしげに尋ねる。
「とても刺激的で楽しいですよ。雪山の景色も綺麗ですし、何より……少しだけ、昔の縁に触れることができましたから」
アイラは、リアスティエーゼの顔を思い浮かべながら、優しく微笑んで答えた。
「それは良かった。エイレーンも、アイリーンも、お前がいつ遊びに来るかとずっと心待ちにしていたのだよ」
エレインが、ティーポットに覆いを掛けながら嬉しそうに目を細める。
その時、温室の外の芝生から、子供たちの元気な笑い声が風に乗って聞こえてきた。
「こらこら、二人とも。あまり走ると転びますよ」
「お母様、お兄様が私の花冠を取ったのです!」
鈴を転がすような可愛らしい声と共に、温室に一人の美しい女性が入ってきた。
彼女は、アイラが化けているエイレーンとよく似た顔立ちをしているが、ずっと若々しく、二十代後半の溌溂とした輝きに満ちている。
彼女こそ、かつてアイラとリリアが魔法で生み出したエイレーンのクローンであり、現在のレヴナント公爵夫人であるアイリーンだ。
「あら、お父様たち、お客様ですか……えっ? アイラお義姉様!」
アイリーンは、アイラの姿を認めるなり、目を丸くしてパァッと顔を輝かせた。
「ふふっ、久しぶりね、アイリーン。また一段と綺麗なお母様になったんじゃない?」
アイラが手を振ると、アイリーンは小走りで駆け寄り、アイラの手を嬉しそうに握りしめた。
「アイラお義姉様がお越しになるなら、事前に教えてくださればよかったのに! クレメンテも、お義姉様にお会いしたがるわ」
アイリーンの言葉の通り、彼女の夫であるクレメンテ公爵は、テオドール国王の右腕として宰相の地位を賜るほどの、極めて優秀で信頼できる人物である。
王国の内政を影で支える彼の存在があってこそ、この国はこれほどの平和と繁栄を享受できているのだ。
「クレメンテ様はお仕事でお忙しいでしょうから、お気遣いなく。それにしても、子供たちは随分と元気ね」
アイラが温室のガラス越しに外を見ると、二人の元気な男の子と、一人の愛らしい女の子が、春の陽気の下で蝶を追いかけて駆け回っていた。
アイリーンとクレメンテの間に生まれた、令息二人と令嬢一人である。
「ええ、毎日騒がしくて大変ですけれど、とても幸せですわ。お義姉様も、後で一緒に遊んでやってくださいな」
アイリーンの幸せそうな笑顔を見て、アイラは心の底から温かい気持ちになった。
かつて、お家騒動の火種を消すために自分たちが魔法で造り出した生命が、こうして立派な家族を築き、愛に包まれて生きている。
それは魔女としての誇りであり、何にも代えがたい喜びだった。
「ええ、もちろんよ。でも、その前に……少しだけ、真面目な相談をさせてもらってもいいかしら?」
アイラが声のトーンを落とし、探偵のような鋭い光を瞳に宿すと、温室の空気が微かに引き締まった。
「真面目な相談、ですか?」
アイリーンが首を傾げ、ガバナントとエレインも真剣な顔つきでアイラを見つめる。
「実は、ダイダロス王国の夜会に潜り込む算段をしたいのよ」
アイラは、紅茶のカップをソーサーに置き、北の大地で抱いた疑惑をゆっくりと語り始めた。
現在、ダイダロス王国のドミニケル公爵家に滞在していること。
そして、ダイダロス王国のドミニケル公爵家に、人質として神聖エルミナ教国から送られてきたリアスティエーゼの不可解な過去。
かつての『神聖ルシエラ教国』が、いつの間にか『神聖エルミナ教国』と名を変え、神聖魔力を持つ者がいなくなっているという不気味な現状。
そして、その背後で糸を引いているダイダロス王国の中枢が、何を企んでいるのか。
「ダイダロス王国ですか……確かに、最近のあそこの動きは、少しきな臭いとクレメンテも申しておりました」
アイリーンが、顎に指を当てて思案顔で呟く。
「あの国は、表向きは我が国と友好的な関係を装っていますが、裏では軍備を増強し、小国を吸収して『統一』を掲げ始めているという噂があります」
「やはりね。神聖エルミナ教国とダイダロス王国、その二つの国がどう絡み合っているのか、権力の中枢に直接潜り込んで調べてみたいのよ」
アイラが意気込みを語ると、温室の奥から、上品でありながらもどこか威厳に満ちた声が響いた。
「それなら、私が協力してあげるわ、アイラ」
声のした方を振り返ると、そこには豪奢な王妃のドレスに身を包んだ、エイレーンが立っていた。
「エイレーンお義姉様! お忍びで来ていたの?」
アイラが驚いて声を上げると、エイレーンは優雅に微笑みながら温室の中へと足を踏み入れた。
彼女の周囲には、王妃としての絶大な権力と、長年国を導いてきた者だけが持つ圧倒的なオーラが漂っている。
「ええ、たまには実家の空気を吸いたくてね。アイラが来ていると聞いて、急いで顔を出したのよ」
エイレーンは、アイラと全く同じ顔立ち(変装)であるため、二人が並ぶと、まるで鏡に映った双子のように見えた。
「先ほどの話、聞かせてもらったわ。ダイダロス王国の不穏な動きについては、テオドール陛下も懸念を抱いておられたの」
エイレーンは、アイラの隣の椅子に腰掛け、真剣な眼差しで語りかけた。
「近々、ダイダロス王国で大規模な夜会が開催されるという情報が入っているわ。そこで、私がデブリスコスモ王国の王妃として、親善訪問という名目で外交官の任を帯びて向かうのはどうかしら?」
「えっ、お義姉様自らが!?」
「ええ。王妃の訪問となれば、ダイダロス王国の王族や、教国の要人たちも必ず顔を出すはずよ。アイラ、あなたは私の専属の外交官として同行しなさい」
エイレーンの提案は、まさに渡りに船であった。
王妃の側近という絶対的な身分があれば、どんな厳重な警備の夜会でも堂々と正面から乗り込むことができるし、不審がられることもない。
「さすがはお義姉様! 完璧なプランだわ!」
アイラが両手を叩いて喜ぶと、エイレーンは悪戯っぽく微笑んでウィンクをした。
「ふふっ、伊達に長年、テオドール殿下の隣で政治の荒波を乗り越えてきたわけじゃないわ。それに、久しぶりにあなたと一緒に仕事ができるなんて、私もとても楽しみよ」
「言質とったわ! それじゃあ、ダイダロス王国の夜会には、お義姉様と一緒に乗り込ませてもらうわね!」
アイラは、新たな謎を解き明かす探偵としての興奮と、王都で味わえるであろう未知の極上スイーツへの期待で、胸を高鳴らせた。
「夜会の日程は一週間後よ。それまでに、必要な書類や身分証は全てクレメンテに用意させておくわ」
エイレーンが手際よく段取りを決めていく姿は、かつてアイラたちがプロデュースした『完璧な王太子妃』の姿そのものであり、その成長ぶりにアイラは内心で深く感動していた。
「ありがとう、お義姉様。それじゃあ、私は一旦、北のドミニケル公爵邸に戻って、少しだけ準備を整えてくるわね」
アイラは、紅茶を最後の一滴まで飲み干し、優雅に立ち上がった。
ダイダロス王国の夜会へ向かう前に、どうしてもやっておかなければならないことが一つあったからだ。
「いってらっしゃい、アイラ。王宮で待っているわね」
エイレーンやアイリーン、そしてガバナントたちに見送られながら、アイラは温室の死角へと移動し、再び黒魔法使いの杖を掲げた。
「さあ、まずは可愛い教え子のところへ戻りましょうか」
アイラの指先から放たれた魔力が空間を切り裂き、パリンッという音と共に、彼女は再び光の渦の中へと姿を消した。
猛烈な吹雪が吹き荒れる北の大地、ドミニケル公爵邸。
アイラが空間転移で自室に戻ってきた時、窓の外はすでに薄暗くなり始めていた。
暖炉の火が赤々と燃える部屋で、アイラは変装を解き、再び十八歳ほどの美しい銀髪の女性の姿へと戻った。
「さて、リアスティエーゼはどこかしら」
アイラは、魔力感知の網を広げて城塞の中を探り、彼女が地下の広大な訓練場にいることを突き止めた。
足音を忍ばせて地下へと向かうと、そこではリアスティエーゼが一人で魔法の訓練に励んでいる最中だった。
「【 氷結(アイス・メイク) 】……【氷刃の 乱舞(アイス・ブレイド・ストーム) 】!」
彼女の澄んだ声が響くと同時に、青白い魔力が鋭い無数の氷の刃となって空間に具現化し、訓練用の硬い木製の的を次々と粉々に粉砕していく。
その動きには一切の迷いがなく、魔力の制御も以前とは比べ物にならないほど洗練されていた。
「素晴らしいわ、リアスティエーゼ。私がいない間も、しっかりと訓練を続けていたのね」
アイラが拍手をしながら訓練場に姿を現すと、リアスティエーゼは驚いて振り返り、そしてパァッと顔を輝かせた。
「アイラ様! お帰りなさいませ!」
彼女は、氷の刃を霧散させると、小走りでアイラの元へと駆け寄ってきた。
「ええ、ただいま。随分と腕を上げたわね。これなら、どんな魔物が来ても一人で対処できるわ」
アイラが彼女の銀色の髪を優しく撫でると、リアスティエーゼは嬉しそうに目を細めた。
「アイラ様が教えてくださった基礎のおかげです。……あの、野暮用は無事に終わられたのですか?」
リアスティエーゼの問いかけに、アイラは少しだけ表情を引き締め、周囲に誰もいないことを確認してから口を開いた。
「ええ、まあね。でも、実はこれから、もう少しだけ長い外出をすることになったのよ」
「長い、外出ですか?」
「そう。実はね、あなたには秘密にしておこうと思ったのだけれど……」
アイラは、リアスティエーゼの青玉の瞳を真っ直ぐに見つめ、声を落として告げた。
「私、これからダイダロス王国の王都に向かうわ。デブリスコスモ王国の王妃様の外交官として、夜会に潜入するの」
その言葉を聞いた瞬間、リアスティエーゼの顔からスッと血の気が引いた。
「だ、ダイダロス王国の夜会……? それは、ディーン様もご存知なのですか?」
「いいえ、ディーンには内緒よ。その方が面白そうだから、っていうのは冗談だけれど、公爵という立場上、他国の外交問題に巻き込むわけにはいかないからね」
アイラは、悪戯っぽくウィンクをして見せたが、リアスティエーゼの表情は硬いままだった。
「でも、どうしてアイラ様がそんな危険な場所に……」
「あなたの故郷である、神聖エルミナ教国のきな臭い噂を調べるためよ」
アイラの言葉に、リアスティエーゼはハッと息を呑んだ。
「あなたが何故『悪魔の血』と呼ばれて迫害されていたのか。何故、神聖ルシエラ教国という名前が変わってしまったのか。そして、なぜダイダロス王国があなたを人質として要求したのか……」
アイラは、言葉を区切りながら、リアスティエーゼの冷たくなった手を両手で優しく包み込んだ。
「その背後に渦巻くドロドロとした陰謀を、私が全部暴き出して、あなたの過去の鎖を断ち切ってあげる。だから、少しだけ待っていてちょうだい」
リアスティエーゼの瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
「アイラ、様……私のために、そこまで……っ」
彼女は、自分の血筋のせいで忌み子として扱われ、誰からも愛されることなく生きてきた。
そんな彼女にとって、血の繋がりがあるかどうかも分からないアイラが、自分のために危険を冒してまで真実を暴こうとしてくれているという事実は、胸が張り裂けそうなほどの感動と感謝を呼び起こすものだった。
「泣かないで。私、美味しいご飯と謎解きが大好きな、ただの物好きだから」
アイラがハンカチで彼女の涙を拭ってあげると、リアスティエーゼは必死に涙を堪え、震える声で告げた。
「どうか、ご無事で……。アイラ様の強さは十分に存じ上げておりますが、王都の貴族たちの陰謀は、雪山の魔物よりも恐ろしいと聞きます。どうか、お気をつけてください」
「ええ、任せておきなさい。それに、私には強力な味方がついているから大丈夫よ」
アイラは、不安そうなリアスティエーゼを安心させるように、力強く微笑んでみせた。
「ディーンには、『ソロキャンプの続きで、また少し遠出する』とだけ伝えておいて。お土産には、王都で一番美味しいチョコレートケーキを買ってくるからね」
「はい……! 楽しみに、お待ちしております!」
リアスティエーゼの笑顔に見送られ、アイラは再び自室へと戻った。
荷物の準備はすでに終わっている。
アイラは、黒魔法使いの杖を虚空へと掲げ、デブリスコスモ王国の王宮へと通じる座標を脳内に思い描いた。
「さて、いよいよ本番ね」
アイラの指先から放たれた魔力が、冷たい空気を鋭く切り裂き、再び光の裂け目を現出させる。
これから始まる、ダイダロス王国での華麗なる潜入作戦。
そして、神聖エルミナ教国が隠し持つ闇の深淵。
アイラの中の果てしない好奇心と、我が子孫を不当に扱った者たちへの魔女としての静かな怒りが、チロチロと青白い炎を上げて燃え上がっていた。
「待っていなさい、ダイダロス王国。そして、エルミナ教国。この名探偵アイラ様が、あんたたちの隠している秘密を、残らず白日の下に晒してあげるんだから!」
アイラは、再びエイレーンと同じ姿へと変装し、華やかな外交の舞台へと向かって、光の渦の中へと颯爽と飛び込んでいったのだった。
デブリスコスモ王国の王宮、その豪奢な一室に、アイラは空間転移で降り立った。
すでに部屋には、テオドール国王とエイレーン王妃、そしてクレメンテ宰相が揃っており、ダイダロス王国への親善訪問に向けた最終確認を行っていた。
「来たわね、アイラ。準備は万端よ」
エイレーンが、アイラの姿を見るなり優雅に微笑みかけた。
「ええ、遅くなってごめんなさい。こちら側の手筈も整ったわ」
アイラは、完璧な外交官としての礼を取る。
「アイラ殿、今回ばかりは我々も表立って動くことができません。どうか、エイレーンをお願いいたします」
テオドール国王が、真剣な面持ちでアイラに頭を下げた。
かつてはただの真面目な王子だった彼も、今では威厳に満ちた立派な国王として国を率いている。
「頭を上げてくださいな、国王陛下。私にとっても、これは個人的な落とし前をつけるための事件ですから。お義姉様の護衛も含めて、完璧にこなしてみせますわ」
アイラが力強く請け負うと、クレメンテ宰相が幾つかの書類の束をアイラに手渡した。
「これが、アイラ殿の身分を証明する外交官の特命書と、ダイダロス王国に関する最新の内偵資料です。道中の馬車の中で、目を通しておいてください」
「ありがとう、クレメンテ。助かるわ」
アイラは書類を空間収納へと仕舞い込み、エイレーンと共に王宮のエントランスへと向かった。
そこには、デブリスコスモ王国の国章が刻まれた、壮麗な六頭立ての馬車が待機していた。
護衛の騎士たちが整列する中、アイラとエイレーンは馬車へと乗り込む。
「それじゃあ、行ってくるわ、テオドール様」
「ああ、気をつけてな。無事の帰還を祈っている」
テオドール国王に見送られながら、馬車はゆっくりと動き出し、やがてダイダロス王国へ向けて加速していった。
馬車の中で、アイラとエイレーンは向かい合って座り、窓の外を流れる景色を眺めていた。
「久しぶりね、こうして二人で馬車に乗るなんて」
エイレーンが、少し懐かしそうに目を細める。
「ええ。昔、お義姉様を完璧な王太子妃にプロデュースした頃を思い出すわ」
アイラも、クスクスと笑いながら答えた。
「あの頃のアイラたちの無茶苦茶な教育がなかったら、今の私はなかったわ。本当に感謝しているのよ」
「お義姉様自身の努力の賜物よ。でも、今回は教育じゃなくて、スリリングな潜入任務だからね。気合いを入れていかないと」
アイラは、クレメンテから渡された資料を取り出し、ダイダロス王国の夜会に出席するであろう要人たちのリストに目を通し始めた。
そこには、神聖エルミナ教国の使節団の名前も記されている。
「神聖エルミナ教国……神聖魔力のない宗教国家が、裏で何を企んでいるのか。そして、なぜリアスティエーゼが狙われたのか」
アイラの瞳に、探偵としての鋭い光が宿る。
「夜会の華やかな光の裏側に、必ずドロドロとした真実が隠されているはずよ。お義姉様、準備はいいかしら?」
「ええ、もちろんよ。デブリスコスモ王国の王妃として、堂々と正面から切り込んでみせるわ」
エイレーンもまた、王妃としての強い覚悟をその瞳に宿して頷いた。
二人の乗る馬車は、国境を越え、いよいよ陰謀の渦巻くダイダロス王国の王都へとその足を踏み入れていく。
そこには、華やかなドレスと音楽に彩られた夜会という名の戦場と、アイラの予測を遥かに超える、帝国の亡霊たちの影が待ち受けているのだった。
アイラは、馬車の窓から遠くに見え始めたダイダロス王国の巨大な城壁を見据えながら、静かに、しかし熱く燃えるような微笑みを浮かべた。
「さあ、美食と謎解きの時間の始まりよ」
ダイダロス王国の王都、その中心にそびえ立つ白亜の王宮は、今宵、眩いばかりの光と音楽の洪水に包み込まれていた。
重厚な大理石の柱が幾重にも並ぶ大広間には、天井から吊るされた巨大なクリスタルのシャンデリアが、何千本もの蝋燭の光を反射して煌びやかに輝いている。
オーケストラが奏でる優雅なワルツの調べが空気を震わせ、色とりどりのシルクのドレスを纏った令嬢たちと、軍服や豪奢な燕尾服に身を包んだ貴族たちが、グラスを片手に歓談の輪を広げていた。
むせ返るような高級香水と、芳醇な赤ワイン、そして厨房から漂ってくる豪勢な肉料理のスパイスの匂いが、広間の熱気と混ざり合って鼻腔をくすぐる。
「デブリスコスモ王国より、テオドール国王陛下名代、エイレーン王妃殿下のお成りであらせられる!」
壮礼なファンファーレと共に、広間の巨大な扉が重々しく開かれた。
ざわめきが波が引くように静まり返り、何百という視線がエントランスへと一斉に注がれる。
その視線の中心で、エイレーンは深紅のベルベットで仕立てられた気品溢れるドレスの裾を静かに引きながら、堂々たる足取りで広間へと足を踏み入れた。
彼女の背筋はピンと伸び、亜麻色の髪を飾る王妃のティアラが、シャンデリアの光を受けて誇り高く煌めいている。
その隣には、全く同じ顔立ちながらも、少し控えめな濃紺のドレスに身を包み、外交官としてのバッジを胸に付けたアイラが、完璧な淑女の微笑みを浮かべて付き従っていた。
「素晴らしいわね、お義姉様。完全にこの場の空気を支配しているわ」
アイラが扇子で口元を隠しながら小声で囁くと、エイレーンは前を向いたまま、ほんのわずかに口角を上げた。
「ええ。デブリスコスモ王国の威信にかけて、彼らに弱みを見せるわけにはいかないもの」
エイレーンのその言葉通り、ダイダロス王国の貴族たちの目には、彼女の堂々たる振る舞いに対する明らかな驚きと、警戒の色が浮かんでいた。
軍事国家として急速に力をつけつつあるダイダロス王国において、他国の王妃がたった一人の側近を連れただけで、これほどまでに隙のない威厳を放っていることは、彼らにとって予想外だったのだろう。
「ようこそおいでくださいました、エイレーン王妃殿下」
広間の奥から、豪奢な王太子服に身を包み、いくつもの勲章を胸に下げたダイダロス王国の第一王子が、愛想の良い笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
「我がダイダロス王国の夜会へ、ようこそ。テオドール国王陛下も、お元気であらせられますかな?」
「ええ、テオドール陛下も、貴国との末長い友好を心より願っておいでですわ」
エイレーンが完璧なカーテシーで応じ、表向きの優雅な外交辞令の応酬が始まる。
アイラは、エイレーンの斜め後ろに控えながら、視線だけを鋭く動かして広間全体を観察していた。
(表向きは華やかだけれど、軍服姿の貴族の割合が異常に多いわね。剣を帯びたままの者もいるし、まるで社交場というより作戦会議室みたいだわ。……それに、あの連中)
アイラの視線が、王族たちの少し後方に陣取っている、異質な一団でピタリと止まった。
純白の法衣に身を包み、胸に十字の紋章を掲げた聖職者たち。
彼らこそが、リアスティエーゼの故郷であり、かつて『神聖ルシエラ教国』と呼ばれていた国から来た、神聖エルミナ教国の使節団だ。
彼らの顔には、神に仕える者特有の穏やかな微笑みが張り付いているが、その目の奥には、周囲の貴族たちを値踏みするような冷たく計算高い光が宿っていた。
(ビンゴね。さて、あの神聖魔力を持たない空っぽの宗教国家が、裏で何を企んでいるのか……丸裸にしてあげるわ)
アイラは、扇子で顔を隠したまま、こっそりと黒魔法使いの杖を握る指先に意識を集中させた。
「【 魔力分身(ドッペル・アバター) 】……【 透明化(インビジブル) 】」
唇をほとんど動かさずに呪文を唱えると、アイラの足元の影が微かに揺らぎ、そこから完全に透明な数体の分身が音もなく抜け出した。
分身たちは、誰にも気づかれることなく床を滑るように広がり、教国の使節団やダイダロス王国の中枢にいる貴族たちの影へとピタリと張り付いていく。
(よし、情報収集網の展開は完了。あとは、回収のタイミングまでお義姉様のサポートに徹するわよ)
アイラは内心でニシシと笑い、再び完璧な外交官の顔を作った。
夜会の中盤。
エイレーンの元には、次々とダイダロス王国の要人たちが挨拶に訪れ、探りを入れるような会話が絶え間なく続いていた。
アイラは、持ち前の知識と圧倒的な記憶力を駆使し、エイレーンが言葉に詰まりそうになるたびに、的確な助け舟を出してサポートを続けている。
「あの法務大臣、さっきから我が国の関税についてカマをかけてきているわ。ここは、昨年の通商条約の第三項を引き合いに出して、やんわりと突き返しておきましょう」
「ええ、助かるわ、アイラ」
二人の連携は完璧であり、誰一人として彼女たちから有利な言質を引き出せた者はいなかった。
そこへ、先ほどからアイラが監視の目を向けていた神聖エルミナ教国の使節団が、グラスを片手にゆっくりと近づいてきた。
「デブリスコスモ王国の王妃殿下に、主の祝福があらんことを」
使節団の代表格である、白髪に深いシワを刻んだ高位の枢機卿が、恭しく頭を下げる。
「ご丁寧な挨拶、感謝いたしますわ。エルミナ教国も、変わらず信仰の光に包まれているご様子で何よりです」
エイレーンが柔らかな笑みで返すと、枢機卿は細い目をさらに細めて、隣に控えるアイラの方へと視線を移した。
「そちらの美しい方は、王妃殿下の妹君でいらっしゃいますかな? お二人が並ばれると、まるで二輪の美しい百合の花のようですな」
「ええ、私の専属外交官を務めているアイラですわ」
エイレーンに紹介され、アイラは一歩前に出て、完璧なカーテシーを披露した。
「お初にお目にかかります、枢機卿猊下」
枢機卿は、アイラの顔をじっと見つめ、ふと何かを探るような冷たい声を落とした。
「……見事な亜麻色の髪ですな。我が教国では、このような温かみのある髪色こそが神の恵みとされております。どこぞの忌まわしき『銀色の髪』などとは違い、実に心安らぐ」
その言葉が出た瞬間、アイラの心臓が微かに跳ねた。
(忌まわしき銀色の髪……アルジェントの血筋のことね)
アイラは、表情を一切崩すことなく、あえて不思議そうな顔を作って首を傾げた。
「銀色の髪、でございますか? 珍しい髪色ではありますが、忌まわしいとは、一体どういうことですの?」
アイラの問いかけに、枢機卿は鼻でふんと冷笑し、まるで汚らわしいものでも語るかのように口を歪めた。
「遠い異国の外交官殿はご存知ないかもしれませんが、銀髪と青い瞳を持つ者は、かつて世界を戦火で焼き尽くした『狂気の魔女』の末裔なのです。我が教国において、そのような悪魔の血を引く者は、存在しているだけで神への冒涜に他なりません」
枢機卿の瞳には、狂信的な嫌悪と、明確な殺意すら混じっていた。
「なるほど、それは……恐ろしいお話ですわね」
アイラは、扇子で口元を隠し、作り笑いを浮かべた。
しかし、その胸の奥底では、疑念が核心に変わっていた。
(狂気の魔女。なるほどね、私とリリアが帝国を滅ぼしたという事実を取っての事だったのね。そうすると、この枢機卿も含め、アウストラル帝国の残党が絡んでいるわね)
アイラは、今すぐこの枢機卿の首を物理的にへし折ってやりたい衝動を必死に抑え込み、優雅に一礼して彼らとの会話を切り上げた。
オーケストラが小休止に入り、広間の喧騒が少しだけ穏やかになった頃。
アイラは「少し冷たいお飲み物を取ってまいります」とエイレーンに告げ、人混みを縫って会場の隅の目立たないバルコニーへと出た。
夜の冷たい風が、怒りで火照った頬を撫でていく。
「さてと、そろそろ第一陣の回収と再配置をしましょうか」
アイラが指を鳴らすと、透明な分身たちが次々とバルコニーへ戻ってきて、アイラの体の中へとスッと溶け込んでいった。
シュンッという微かな魔力の波と共に、分身たちが見聞きした情報が、膨大な記憶の奔流となってアイラの脳内に直接流れ込んでくる。
「……ッ」
アイラは、眉間を指で揉みながら、流れ込んできた情報を瞬時に整理し、分析していった。
その内容のあまりの『真っ黒さ』に、彼女の青玉の瞳が(今は偽装で茶色だが)、夜の闇よりも深く、冷たい怒りの色に完全に染まっていく。
(なるほど……そういうことだったのね)
アイラは、バルコニーの石造りの手すりを、ヒビが入るほど強く握りしめた。
分身が教国の使節団とダイダロス王国の高官たちの密談から探り出した真実。
それは、アイラの想像を遥かに超える、最悪の亡霊たちの復活のシナリオだった。
かつてアイラとリリアが、百二十万の軍勢ごと丸ごと蒸発させた、憎きアウストラル帝国。
その帝国の『王族の生き残り』が、なんと存在していたのだ。
「あの戦争の時、皇都にも戦場にもいなかったせいで、運良く私たちの『概念崩壊・ 極(カタストロフィ・スマッシュ) 』から逃れられた残党がいたのね……」
アイラは、ギリッと奥歯を噛み締めた。
その生き残った帝国の皇女の名前こそが、『エルミナ』。
ルシエラ家が滅び、天使の加護を失って混乱していた教国に、帝国の残党たちがエルミナ皇女を神輿として担ぎ上げ、中枢を乗っ取ったのだ。
だからこそ、国の名前が『神聖エルミナ教国』などという、元の信仰を完全に無視した名前にすり替わっていたのである。
(神聖魔力なくなって奇跡を失った教国は、帝国の残党たちにとって、洗脳と支配に都合の良い最高の隠れ蓑だったってわけね)
さらに、分身が持ち帰った情報は、リアスティエーゼの悲惨な過去の謎も完全に解き明かしていた。
「アルジェントの血を引く者が迫害されていた理由……」
アイラは、冷たい夜風の中で、自分の変装した亜麻色の髪を苛立たしげに払った。
銀髪と青い瞳という、アルジェント家特有の特徴。
それは、帝国の残党たちにとって、自分たちの誇り高き大帝国を一瞬にして灰燼に帰した『悪魔のような 魔女(アイラとリリア) 』の姿そのものだったのだ。
だからこそ、彼らはアルジェントの血を引く者を「帝国を滅ぼした悪い魔女の末裔」「悪魔の血」と呼び、忌み嫌い、恐怖し、迫害し続けていたのである。
「……ふざけないで。自分たちが先に世界を侵略しようとしたくせに、被害者ぶって私の子孫を虐めるなんて」
アイラの足元で、無意識に漏れ出た黒魔力が、大理石の床をジワジワと凍りつかせていく。
リアスティエーゼが地下室に閉じ込められ、怯えて暮らさなければならなかった理由が、まさか自分たちへの逆恨みだったとは。
(絶対に許さない。あの子の流した涙の分まで、きっちりと落とし前をつけさせてやるわ)
アイラは深呼吸をして魔力を抑え込み、再び情報の整理に戻った。
教国の真の姿は、帝国の亡霊たちの隠れ家だ。
では、ダイダロス王国との関係はどうなっているのか。
分身が持ち帰った密談の記憶の中で、ダイダロス王国の高官たちは、軍備の増強と近隣諸国の吸収について熱く語り合っていた。
彼らが掲げる『統一』というスローガン。
それは、かつてアウストラル帝国が掲げていた狂気の野望と全く同じものだった。
「ダイダロス王国は、帝国と同じ道を辿ろうとしている。武力による世界統一を……」
しかし、分身が視た真実は、さらにその裏側を暴き出していた。
表向きの国家間の力関係では、強大な軍事力を持つダイダロス王国の方が教国よりも上であるかのように振る舞っている。
だが、実際の密談の場では、教国の使節団……つまり帝国の残党たちが、甘い言葉と失われた帝国の魔導技術の破片を餌にして、ダイダロス王国の中枢を完全に裏から操っていたのだ。
(ダイダロス王国の王族たちは、自分たちが主導権を握っていると勘違いしているけれど、実態は教国に踊らされているだけの滑稽な操り人形ね)
教国の狙いは明確だ。
ダイダロス王国を利用して軍事力を蓄え、再び世界を戦火に巻き込み、かつてのアウストラル帝国の栄華を取り戻すこと。
そして、リアスティエーゼをわざわざダイダロス王国の最前線であるドミニケル公爵家に人質として送ったのも、悪魔の血を引く邪魔者を体よく厄介払いしつつ、いざ戦争の終結の際、神聖エルミナ教国が戦争を起こした国としてダイダロス王国を切り捨てる大儀名分に使い、真っ先に切り捨てるように仕組んだ、極めて悪辣な盤面整理だったのだ。
「……全部、繋がったわ」
アイラは、冷たい夜空に浮かぶ三日月を見上げながら、フッと冷酷な笑みを漏らした。
全ての謎が解け、真実が白日の下に晒された今、アイラの中に迷いは一切なかった。
(帝国の亡霊ども。二百年前のあの時、完全に焼き尽くしてあげたつもりだったけれど、まだ少しだけゴミが残っていたみたいね)
魔女としての果てしない寿命の中で、アイラは基本的に人間社会の争いに過度に干渉することは避けてきた。
しかし、今回の件は別だ。
愛する子孫を不当に迫害し、さらには再び世界を炎で包もうとする者たちを、これ以上放置しておく理由はない。
「お掃除の時間よ。この私が、一匹残らず綺麗に掃討してあげるわ」
アイラは、再び【透明化】の魔法をかけた分身たちを数体生み出し、今度はエイレーンの護衛として彼女の影にピタリと張り付かせた。
万が一、この夜会で不測の事態が起きても、分身がいればエイレーンに指一本触れさせることなく物理で敵を粉砕できる。
「お待たせしましたわ、お義姉様」
アイラは、冷えたシャンパンのグラスを二つ持ち、再び華やかな広間へと戻っていった。
「ありがとう、アイラ。随分と遅かったのね」
エイレーンがグラスを受け取りながら、少しだけ心配そうにアイラの顔を覗き込む。
「ええ、ちょっとだけ、バルコニーで面白い『夜風』の噂を聞いてきたものですから」
アイラが扇子で口元を隠し、ニシシと悪戯っぽく笑うと、エイレーンはそれだけで全てを察したようにふわりと微笑んだ。
「そう。それは、とても実りのあるお散歩だったようね」
「ええ、大豊作ですわ。あとは、この退屈な夜会を最後まで完璧に乗り切るだけです」
アイラはシャンパンで喉を潤し、広間の奥でふんぞり返っている教国の使節団とダイダロス王国の貴族たちを、獲物を見定めた夜の獣のような鋭い瞳で睥睨した。
煌びやかな夜会の光の裏で、帝国の亡霊たちが蠢くドロドロとした陰謀。
しかし、彼らはまだ気づいていない。
自分たちの企みが、かつて帝国を灰燼に帰した『狂気の魔女』によって完全に丸裸にされ、すでに破滅へのカウントダウンが始まっているということに。
(せいぜい今のうちに、美味しいワインでも飲んでおくことね。……お腹いっぱいになったら、そのまま地獄へ送ってあげるから)
アイラは、心の中で静かに死刑宣告を下し、再び完璧な外交官としての優雅な仮面を被って、夜会の喧騒の中へと溶け込んでいったのだった。
ダイダロス王国の王宮を包み込んでいた眩い光と音楽の洪水は、深夜を回る頃にはすっかり鳴りを潜め、冷たい静寂へと沈み込んでいた。
華やかな夜会が終わり、貴族たちが次々と帰路に就く中、アイラとエイレーンもまた、用意された豪奢な客室へと引き上げていた。
重厚なオーク材の扉が閉まると、廊下の喧騒が嘘のように遮断され、部屋の中には暖炉の薪が爆ぜる乾いた音だけが響く。
「お疲れ様、お義姉様」
アイラは、完璧な外交官としての緊張を解き、ふうっと小さく息を吐き出しながらエイレーンに微笑みかけた。
「あなたもね、アイラ」
エイレーンは、重い王妃のティアラをメイドに外させながら、労うような優しい視線をアイラに向ける。
「それにしても、神聖エルミナ教国の使節団……なんだかひどく冷たくて、底知れない不気味さを感じたわ」
エイレーンの言葉に、アイラは瞳の奥に夜の闇よりも深い暗い炎を宿し、静かに頷いた。
「ええ、その直感は正しいわ」
アイラは、分身たちが集めてきたおぞましい情報の数々を脳内で反芻し、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「彼らの正体は、かつて世界を焼き尽くそうとしたアウストラル帝国の残党よ」
「帝国の、残党……!?」
エイレーンは驚愕に目を丸くし、手にした扇子を取り落としそうになった。
「ええ。彼らは教国を乗っ取り、今度はこのダイダロス王国を裏から操って、再び世界を戦争の炎で包もうと企んでいるの」
アイラの低い声は、暖炉の火の暖かさをかき消すほどに冷たく、そして激しい怒りに満ちていた。
「……許せないわね」
デブリスコスモ王国は、かつて帝国に吸収され、良いように使われてきた歴史を持つ国家を一つにまとめて立ち上げた王国である。
その王妃であるエイレーンもまた、かつての帝国の脅威を知る者として、毅然とした態度で表情を引き締めた。
「ええ。だから、私はこれから少し『夜の散歩』に出かけてくるわ」
アイラは、黒魔法使いの杖を虚空から取り出し、指先でクルリと回した。
「彼らの野望の根源を、根こそぎ物理的にへし折ってくるつもりよ」
その言葉に込められた圧倒的な自信と、魔女としての凄まじい覇気を感じ取り、エイレーンは小さく息を呑んでから、静かに頷いた。
「わかったわ。私はここで、何食わぬ顔で休んでいることにするわね。……気をつけて、アイラ」
「ええ、少しばかり派手な花火を打ち上げてくるけれど、すぐ戻るわ」
アイラが杖を振り下すると、パリンッというガラスが割れるような音と共に、部屋の空間に眩い光の裂け目が現れた。
彼女は、エイレーンにひらりと手を振り、これから始まる一方的な掃討戦へと向かって、光の渦の中へと躊躇いなく飛び込んでいった。
アイラが降り立ったのは、かつて『神聖ルシエラ教国』と呼ばれていた、神聖エルミナ教国の王都の路地裏だった。
深夜の街は分厚い雲に覆われ、月明かりすら届かない深い闇に沈み込んでいる。
かつて、教皇セレスや聖女セリア、サミュエル大司教が暮らしていた頃の教国は、夜であってもどこか温かく、清らかな神聖魔力の光に満ちていたはずだった。
しかし、今のこの街の空気を撫でる風には、カビと鉄錆の混じったような淀んだ匂いが漂い、肌を刺すような陰湿な冷気がまとわりついてくる。
「……神聖魔力が失われたからって、ここまで国全体が腐敗臭を放つようになるものかしら」
アイラは、鼻を突く不快な匂いに顔をしかめながら、冷たい石畳の上を音もなく歩き出した。
否、この腐敗臭は、単に神の加護が失われたからではない。
帝国の残党たちが持ち込んだ、おぞましい魔導技術と、死を弄ぶような禁忌の研究が、この国の土壌そのものを内側から腐らせているのだ。
「さて、まずは大掃除のターゲットを特定しましょうか」
アイラは、街の死角となる高い時計塔の屋根へと【 浮遊(レビテーション) 】の魔法で音もなく舞い上がった。
冷たい夜風が彼女の亜麻色に変装した髪を激しく揺らす中、アイラは目を閉じ、魔女としての規格外の魔力探知網を、国全体へと一気に広げた。
地表の建物だけでなく、地下深くに張り巡らされた水路や、隠された空間に至るまで、彼女の意識は目に見えない糸となって教国の隅々まで這い回っていく。
「……見えたわ」
アイラはパッと目を開き、暗闇の中で青玉の瞳(今は偽装で茶色だが)を冷酷な捕食者のように細めた。
表向きは敬虔な修道院や教会の施設を装っている建物の地下深く。
そこに、かつてアウストラル帝国が使っていたのと同じ、禍々しく淀んだ魔力の反応が、まるで膿のように複数箇所に固まって存在しているのを確認した。
「五箇所……いえ、六箇所ね。随分とコソコソと地下でネズミのように繁殖していたみたいじゃない」
アイラは、唇の端を吊り上げて、極めて獰猛な笑みを浮かべた。
ダイダロス王国を軍事的に操るための餌として、彼らがここで何を造り出しているのか、見なくても大体の想像はつく。
「百二十万の軍勢を用意した、あのマッドサイエンティストと同じ技術……生ける 屍(ゾンビ) や 合成獣(キメラ) の類でしょうね」
アイラは、リアスティエーゼが地下室で震えていた過去を思い出し、足元の大理石の瓦をミシミシと音を立てて凍りつかせた。
自分たちの子孫を『悪魔の血』と呼んで迫害しておきながら、裏では死者を冒涜し、悪魔すらドン引きするような生命への冒涜を行っている。
「絶対に許さないわ。あんたたちのその腐った野望ごと、塵一つ残さず消し炭にしてあげる」
アイラは、最初のターゲットとなる地下施設に向けて、夜の闇に溶け込むように急降下していった。
教国の外れにある、古びた礼拝堂の地下深く。
そこは、強固な結界魔法で偽装された、帝国の残党たちによる秘密の研究施設だった。
緑色の発光液で満たされた巨大なガラス円柱が幾つも並び、その中では、複数の人間の肉体を無理やり繋ぎ合わせた醜悪な合成獣が、苦しげな気泡を吐き出しながら浮かんでいる。
鼻を突くホルマリンと腐敗した肉の匂いが、密閉された空間に充満し、むせ返るほどの吐き気を催させた。
「素晴らしい……この新型の合成獣なら、ダイダロス王国の騎士団の一個大隊に匹敵する膂力を持つはずだ」
白衣を着た帝国の研究員が、ガラス越しに醜悪な化け物を見つめながら、恍惚とした笑みを浮かべて記録簿にペンを走らせていた。
「これだけの戦力をダイダロス王国に提供すれば、彼らは喜んで近隣諸国へ侵攻を開始するだろう。そして世界が疲弊した時こそ、我らアウストラル帝国が真の支配者として君臨するのだ!」
研究員が狂気に満ちた高笑いを上げた、その瞬間だった。
ズドォォォォンッ!!
地下施設の分厚い鋼鉄の天井が、まるで紙屑のように爆発して吹き飛び、瓦礫の雨が施設内に降り注いだ。
「な、なんだ!? 何事だ!」
突然の轟音と崩落に、研究員たちがパニックに陥り、警報の魔導具がけたたましい赤い光を放ち始める。
もうもうと舞い上がる土煙と粉塵の中、天井に空いた巨大な大穴から、一人の人影が、音もなく静かに舞い降りてきた。
「お仕事中ご苦労様。……ずいぶんと趣味の悪いガラクタを溜め込んだものね。不衛生だから、跡形もなく『消毒』してあげるわ」
アイラは、黒魔法使いの杖を肩に担ぎ、瓦礫の上に降り立ちながら冷たい声で告げた。
「き、貴様は何者だ! ここをどこだと……!」
研究員の一人が、腰の護身用魔導銃を抜こうとしたが、その言葉は最後まで続くことはなかった。
アイラが指先を軽く鳴らしただけで、地獄の業火よりも熱く黒い炎が、まるで意思を持った大蛇のように施設内を這い回った。
「ば、馬鹿な!? この地下施設は帝国最高の対魔術結界で守られているはず……!」
研究員の一人が信じられないものを見るように目を見開き、そして炎に包まれる直前、アイラの銀髪と底冷えするような青玉の瞳に気づいた。
「まさか……悪魔……いや、銀髪の、魔女……っ!?」
彼らの目に最後に映ったのは、かつて自分たちの帝国を文字通り灰燼に帰した『怪物』が、冷酷な笑みを浮かべて見下ろしている姿だった。
圧倒的な格の違いと、何百年かけて築き上げた希望が一瞬で消え去る絶望に、彼らは悲鳴を上げる暇すら与えられなかった。
「ぎゃあああああっ!?」
研究員たちは、断末魔の叫びと共に黒い炎に飲み込まれ、骨すら残らない灰へと変わっていく。
ガラス円柱が次々と熱で割れ、中から溢れ出した緑色の液体と合成獣たちが床に叩きつけられるが、それらもまた、触れた瞬間に黒炎によって完全に浄化され、消滅していった。
「フン。二百年前のマッドサイエンティストと、やってることは全く進歩してないわね」
アイラは、圧倒的な熱量で燃え盛る黒炎の中を、全く熱さを感じていないかのように悠然と歩きながら、冷ややかな視線を周囲に向けた。
「こんな気味の悪いおもちゃで世界を支配できると思っているなんて、本当に底が知れているわ」
彼女は杖を振り下ろし、施設全体を支えていた魔力基盤を完全に物理的・魔力的に破壊した。
地鳴りのような音と共に地下空間が崩壊を始めるのを見届け、アイラは再び天井の大穴から夜空へと飛び立った。
「さあ、次のお掃除に行くわよ」
アイラによる、帝国の研究施設への一方的な蹂躙は、まさに嵐のようなスピードと苛烈さで進んでいった。
二つ目のアジトでは、墓地から掘り起こされた死体をゾンビとして大量生産していたが、アイラの放った極大の【光の 浄化(ホーリー・レイ) 】によって、施設ごと神聖な光に包まれて塵へと還った。
三つ目のアジトでは、毒ガスのような生物兵器を培養していたが、風の魔法で施設内を真空状態にされ、研究員たちは自らの生み出した毒を吸う前に窒息して全滅した。
四つ目、五つ目のアジトも、アイラが姿を見せてからわずか数秒で、物理的な爆砕と魔法による爆発の憂き目に遭い、地下の瓦礫と化していった。
教国の中枢にいる使節団の者たちは、まだ夜会から戻る道中であり、自らの足元で数百年かけて準備してきた野望の基盤が、たった一人の魔女によって次々と崩壊させられていることなど、知る由もなかった。
「……さて、これで最後の一つね」
アイラは、教国の最も神聖であるべき大聖堂の、さらにその地下深く、最も厳重な結界が張られた最深部のアジトへと辿り着いた。
分厚いミスリル製の扉を、ただの蹴り一発で紙のように吹き飛ばし、彼女は静かに中へと足を踏み入れた。
そこは、他のアジトのような血生臭さや腐敗臭はなく、無機質で冷たい、魔導機械の駆動音だけが規則正しく響く空間だった。
「誰もいないわね……自動制御の培養施設かしら」
アイラは、警戒を怠らずに杖を構えながら、部屋の中央へと進んでいく。
そこには、ひときわ巨大で、複雑な魔力回路がびっしりと刻まれた特別なガラス容器が、青白い光を放ちながら鎮座していた。
容器の中は透き通った特殊な培養液で満たされており、その中心に、一人の男が目を閉じて静かに浮かんでいる。
「……これは」
アイラは、ガラス容器の前に立ち、浮かんでいる男の顔を下から見上げて、ピクリと眉をひそめた。
二十代後半から三十代前半ほどの、整った顔立ちの男。
しかし、その顔には、アイラの記憶の底にこびりついている、強烈な既視感があった。
「……かつて、あの戦争を引き起こし、私とリリアを絶望の淵に追いやった、アウストラル帝国の狂った新皇帝」
アイラは、ギリッと奥歯を鳴らし、杖を握る手に無意識に強い力を込めた。
二百年前、皇帝の地位を実の父親から簒奪し、自らの権力欲と猜疑心を満たすためだけに、手当たり次第に近隣諸国を侵略し、百二十万というあり得ない数の軍勢を動かした狂人。
その皇帝と、全く同じ顔をした男が、目の前の培養液の中で眠っているのだ。
「なるほど……クローン技術ね。どうやら、細胞から肉体を複製する程度の技術だけは、この二百年で辛うじて完成させていたみたいね」
アイラは、ガラス越しにその男の体を冷徹な魔女の目でスキャンし、すぐにその本質を見抜いた。
「でも、ただの肉の塊よ。魂も、記憶も、何も入っていない……ただの精巧な木偶人形だわ」
人間の肉体を器として造り出すことはできても、そこに魂を宿すことは、神か天使、魔女や悪魔のような存在にしか成し得ない奇跡の領域だ。
帝国の残党たちは、かつての偉大(と彼らが信じている)な皇帝を復活させようと、執念で肉体だけは複製したのだろう。
しかし、魂の入っていない空っぽの器では、決して目を覚ますことはない。
細胞を繋ぎ合わせて形を作ることと、一つの生命として完成させることの間には、絶対に越えられない大きな壁が存在している。
「その他は粗末なものだったけれど、これだけは執念の賜物ってわけね。でも、こんな気持ちの悪いものを残しておく趣味は私にはないわ。死に損ないの執念ほど、見苦しいものはないわ。――さよなら、かつての絶望。今度は塵の一片すら残さないわよ」
アイラは、黒魔法使いの杖の先端を、ガラス容器にコンッと軽く押し当てた。
「【 概念崩壊(カタストロフィ) 】……指先バージョン」
次の瞬間、巨大なガラス容器と、その中に浮かんでいた皇帝のクローンが、まるで空間ごと消しゴムで削り取られたかのように、音もなく完全に消滅した。
ガラスの破片も、培養液の飛沫も、何も残らない。
存在そのものが、この世界から跡形もなく拭い去られたのだ。
「これで、帝国の遺物を研究していた機関は全て完全に沈黙したわね」
アイラは、空っぽになった部屋の中央で、満足げに手をパンパンと払った。
ゾンビも、合成獣も、毒ガスも、そして皇帝のクローンも、全てアイラが物理的かつ魔力的に徹底的にお掃除を完了した。
これで、神聖エルミナ教国がダイダロス王国に提供できる軍事技術は完全に途絶えたことになる。
教国からの技術提供がなければ、ダイダロス王国だけでは世界統一など到底できないだろう。
「裏で操っていたつもりだった教国が、ただの空っぽの張り子になってしまったんだから、ダイダロス王国の連中もさぞかし混乱するでしょうね」
アイラは、帝国の亡霊たちの数百年の執念を、たった一晩で完全にへし折ってやった爽快感に浸りながら、ニシシと悪党のような笑みを浮かべた。
「リアスティエーゼの流した涙の分の落とし前としては、まあ、これくらいで許してあげるわ」
アイラは、大聖堂の地下から再び夜空へと舞い上がり、ダイダロス王国の王都へと繋がる空間転移のゲートを開いた。
アイラがダイダロス王国の王宮の客室へと戻ってきた時、窓の外はすでに薄明るくなり、夜明けの気配が漂い始めていた。
「おかえりなさい、アイラ。怪我はない?」
ソファで本を読みながら起きて待っていたエイレーンが、アイラの姿を見るなりホッとしたように微笑みかけた。
「ただいま、お義姉様。ええ、もちろん無傷よ。ちょっとばかり、大掃除の範囲が広くて時間がかかっちゃったけれど」
アイラは、変装の魔法を解いて、本来の銀髪の美しい姿に戻りながら、大きく伸びをした。
「それで……教国の方は、どうなったの?」
エイレーンが、少しだけ緊張した面持ちで尋ねる。
「完璧よ。彼らが隠し持っていた帝国の研究施設と、そのおぞましい成果物は、全て私の魔法で塵一つ残さず消し去ってあげたわ」
アイラが誇らしげに胸を張ると、エイレーンは両手で口元を覆い、感嘆の息を漏らした。
「まあ……! たった一晩で、国家の裏の軍事力を全て無力化してしまうなんて……相変わらず、あなたの力は規格外ね」
「ニシシ! これで教国は離脱するしかないし、ダイダロス王国だけじゃ、世界統一なんてできないわ」
朝食のダイニングへ向かうと、そこには昨夜の夜会とは打って変わった、異様な光景が広がっていた。
昨日まで不遜な態度でふんぞり返っていたダイダロス王国の貴族たちが、一様に顔面蒼白になり、ガタガタと震えながら朝食の席に着いていたのである。
「王妃殿下、おはようございます……。き、昨晩はよくお休みになられましたでしょうか……?」
昨夜、威圧的に関税の探りを入れてきた法務大臣が、額に滝のような冷や汗を流しながら、エイレーンたちに媚びへつらうような声で挨拶をしてきた。
どうやら彼らも、裏で繋がっていた教国の施設が一夜にして全て壊滅したという凶報を耳にしたらしい。
最大の軍事的な後ろ盾を失い、さらにその原因が何者かも分からないという未知の恐怖が、彼らの傲慢さを完全にへし折っていた。
「ええ、とても静かで良い夜でしたわ。皆様は少しお顔の色が優れないようですけれど、大丈夫かしら?」
エイレーンが完璧な王妃の微笑みでチクリと刺すと、貴族たちはビクッと肩を跳ねさせ、乾いた笑いを漏らすのが精一杯だった。
そんな滑稽な彼らの姿を横目に、アイラは扇子で口元を隠しながら、心の中でニシシと悪党のように笑い声を上げた。
教国の中枢が混乱し、軍事技術が失われた今、ダイダロス王国も性急な軍備増強を見直さざるを得なくなるはずだ。
世界を巻き込むはずだった戦争の火種は、アイラの圧倒的な暴力によって、完全に未然に踏み躙られたのである。
「本当に、いい気味だわ。自分たちが被害者ぶってリアスティエーゼを迫害しておいて、裏で世界を滅ぼそうとしていたんだから、これくらいの罰は受けて当然よ」
アイラは、紅茶の甘い香りに癒されながら、北の大地で魔法の特訓に励んでいるであろう、可愛い子孫の顔を思い浮かべた。
(リアスティエーゼ、あなたを縛っていた過去の呪縛は、これで完全に断ち切られたわ。あとは、あなたが公爵夫人として、自分の人生を堂々と歩んでいくだけよ)
窓から差し込む朝の光が、アイラの銀色の髪をキラキラと照らし出す。
二人は顔を見合わせてクスクスと笑い合い、完全なる作戦の成功を祝ってティーカップを小さく打ち鳴らしたのだった。