軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

プロローグ1

―― 九年前 王都アルジェント公爵邸 ――

静寂の産室で、公爵夫人エレオノーラの尊い命と引き換えに双子の赤子が産声を上げた。

しかし、その場に控えるメイドや乳母たちはすでに悪魔に乗っ取られていた。

彼らの真の目的は、古の『黒魔法』の素養を色濃く受け継ぐ双子の片割れを、地上を混沌に陥れるための「舞台装置」として奪い去ることだった。

悪魔に操られた乳母が赤子を連れ去る途中、妻の死を知って絶望と焦燥に駆られた公爵レオンハルトと鉢合わせてしまう。

だがその瞬間、悪魔が張り巡らせていた強力な『認識阻害結界』が作動した。

神話級の魔法によって公爵の脳は直接書き換えられ、「双子が産まれた」という事実も乳母の姿も、彼の記憶から完全に消え失せてしまったのだ 。

自分に「一人娘」が産まれたと思い込まされた公爵が産室へと向かう裏で、存在を抹消されたもう一人の赤子は、やがて来る『絶望』の種としてスラムへと送られる。

誰にも知られることなく、残酷な運命の幕が静かに上がったのであった。

―― 現在 王都アルジェント公爵邸 ――

「……何としても探し出せ。王家が来る前に、必ず」

王都の中心にそびえ立つアルジェント公爵邸。その執務室で、当主であるレオンハルトは血を吐くような声で騎士団長に命じた。

彼の最愛の末娘、リリアが何者かに誘拐され、行方不明になってから既に三日が経過していた。

公爵家の情報網を駆使しても足取りは掴めず、レオンハルトの焦燥は限界に達している。

「父上……」

傍らに立つ十五歳の長男、セオドアもまた、目の下に濃い隈を作っていた。

このアルジェントの父子にとって、リリアという少女はただの家族ではない。

九年前。レオンハルトの最愛の妻であり、セオドアの母であるエレオノーラは、自身の命と引き換えにリリアを産み落とした。

『泣かないで。この子は、私が命に代えても守りたかった、私たちの宝物よ』

『セオドア。あなたは強くて優しいお兄ちゃんになるわ。妹を守ってあげてね』

死の直前、慈愛に満ちた微笑みと共に遺されたその言葉は、残された二人にとって永遠の『愛の呪縛』となった。

妻が、母が、己の命を賭して遺してくれた宝物。それを何があっても守り抜くことこそが、亡きエレオノーラへの最大の愛の証明だったのだ。

しかし、その宝物が奪われた。さらに悪いことに、彼らには一刻の猶予も残されていなかった。

「……三日後、王太子殿下と第二王子殿下が、当家を訪問される」

レオンハルトが忌々しげに吐き捨てた。

名目は公爵家への慰問だが、真の目的は九歳になったリリアと王太子との『婚約の顔合わせ』だ。

もし今、リリアが誘拐されて行方不明だと王室に知られればどうなるか。

どれほど純潔であろうと、九歳の少女が賊に攫われたという事実は、社交界において『傷物』という致命的な烙印を押されることになる。王族との婚約はおろか、貴族令嬢としての未来が完全に閉ざされてしまうのだ。

「病に伏せているという理由で面会を遠ざけるにしても、遠目から『あそこにいる』と誤魔化せるだけの身代わりが絶対に必要だ……」

歯噛みするレオンハルトの元へ、一人の暗部がふっと姿を現した。

「閣下。スラム街の廃教会に、リリアお嬢様と同じ年頃で、銀髪の孤児がいるとの情報が」

「……連れてこい。いや、案内しろ。私が自ら赴く」

もはや、藁にもすがる思いだった。レオンハルトはただちに騎士たちを引き連れ、悪臭漂うスラムへと馬を走らせた。

石畳の冷たさが、薄いボロ布越しに肌を刺す。

ひどい頭痛と、胃袋が裏返りそうなほどの空腹感で、私は目を覚ました。

「……ここは、どこ?」

身を起こして周囲を見渡すと、そこは悪臭の漂う薄暗い路地裏だった。

自分の手を見ると、土と煤で汚れきった、骨と皮ばかりの細い子供の手。

私は『アイラ』という名前の、スラムで生きる孤児の少女だった。

――いや、本当にそうだろうか?

「……『意味記憶』はあるけど、『エピソード記憶』がない……」

ズキズキと痛む頭を押さえながら、私は無意識のうちにそんな言葉を口にしていた。

意味記憶、エピソード記憶。スラムの孤児が知るはずもない単語だ。

今の私の頭の中には、アイラとしての短くも過酷なスラムの記憶と、もう一つ、『別の誰か』の記憶が入り混じっていた。

舗装された道路、空を飛ぶ鉄の塊、四角い画面に映る映像。そして、安全で暖かな部屋と、豊富で美味しい食事の数々。

間違いなく、今のこの世界よりもずっと進んだ文明の知識が、私の脳内にインストールされている。

「なるほど。これが巷で言う『転生』とか『憑依』ってやつね」

私は冷静に自己分析を終えた。

しかし、厄介なことに、私の中にあるのは『知識(意味記憶)』だけで、『私が誰だったのか(エピソード記憶)』がすっぽりと抜け落ちていた。

名前も、どうやって死んだのかも思い出せない。ただ、美味しいものを食べるのが好きだったことと、現代社会の常識だけが残っている。

「自分が誰だったかなんてどうでもいいか。問題は、このひもじい現状をどうするかだけど……」

ぐぅぅぅ、と腹の虫が盛大に鳴る。

前世(?)の豊かな食の記憶を思い出してしまったせいで、空腹感がより一層際立ってしまった。

まずはゴミ箱を漁るか、とふらり立ち上がった、その時だった。

「――報告にあった孤児というのは、あれか」

路地裏の入り口に、不釣り合いなほど立派な服を着た男が立っていた。

銀糸の髪に、氷のように冷たい青い瞳。背が高く、ただそこにいるだけで周囲の空気を凍りつかせるような威圧感を放っている。

(えっ、なに? 私、何か悪いことしたっけ?)

身構える私をよそに、男は長い脚を動かして一瞬で私の目の前まで距離を詰めてきた。

そして、私の顔をじっと覗き込む。その冷ややかな瞳には、明確な焦燥と疑念が浮かんでいた。

「……煤と泥だらけでよく分からんな。だが、年齢と背格好は情報通りか。ええい、構わん。とりあえず連れて帰るぞ」

「えっと、おじさん、誰……?」

「連れて行け」

「は?」

男が顎をしゃくると、背後の騎士が私の両脇をヒョイと抱え上げた。

抵抗する間も、説明を求める隙もない。

有無を言わさぬ完全な強制連行。スラムの孤児に拒否権など最初から存在しなかった。

「ひぃぃ、冷たい! 痛い! もっと優しく洗って!」

数十分後。

私はどこかのお屋敷の豪華な浴室で、数人のメイドたちにタワシのようなものでゴシゴシと全身を磨き上げられていた。

ただ、彼女たちが私の頭越しにヒソヒソと交わす噂話のおかげで、私は自分の置かれた状況を大体把握することができた。

私を拾ったあの銀髪のおじさんは、この国でも有数の権力を持つ『アルジェント公爵閣下』。そして、この家には『リリア』という最近行方不明になった娘がいて、私はその身代わりとして急遽連れてこられたということだ。

高級な香油を塗りたくられ、フリルのたくさんついた上質なドレスを着せられると、私は大広間へと引きずり出された。

「……っ!」

大広間で私を待っていた公爵と、その隣に立つのが長男のセオドアだろう。

綺麗に磨かれた私の顔を見た瞬間、二人は同時に息を呑み、雷に打たれたように硬直した。

「……信じられん」

公爵の声が、微かに震えていた。

私の目鼻立ち、そして何気ない表情の中に、彼らが狂おしいほどに愛し、そして失った女性――亡きエレオノーラの面影をはっきりと幻視したのだ。

「まるで、ドッペルゲンガーです。いや……母上に、生き写しだ」

「ああ……」

食い入るように私を見つめる二人。しかし、その甘い感傷は一瞬で断ち切られた。

「……いや。似てはいても、これはただの偽物だ。リリアではない」

公爵は自らを律するように首を振ると、瞬時に氷のような冷徹な当主の顔を取り戻した。

隣のセオドアも、ハッとして表情を引き締める。

「これならば、三日後の王族の訪問も隠し通すことができるだろう。……それ以上の価値はない。おい、執事」

「はっ、ここに」

「こいつの世話は使用人に一任する。適当な部屋に置いておけ。我々はリリアの捜索に戻る」

公爵はそれだけを言い捨てると、もはや偽物の私には微塵も興味がないと言わんばかりに、振り返りもせず足早に大広間を出ていった。セオドアもまた、冷たい一瞥をくれただけで父親の後に続く。

ただの便利な道具。それが、彼らにとっての私の価値だった。

私だって、こんな氷のような親子の家族ごっこに付き合う義理はないのだから、それで十分だ。

(スラムで飢え死にするよりは、貴族の屋敷で美味しいご飯が食べられる方が百万倍マシだしね)

――しかし、その甘い期待は、数時間後の夕食であっさりと打ち砕かれることになる。

「さあ、お食事ですわよ。スラムのネズミさん」

豪華絢爛な食堂で一人ぽつんと座る私の前に、ふくよかなメイド長が嘲笑いながらお盆を置いた。

銀のお皿に乗っていたのは、カチカチに硬くなった黒パンの切れ端と、具材の影も形もない、冷めきった塩水のようなスープだった。

「……ねえ、これってどういう嫌がらせ?」

「嫌がらせだなんて心外ですわ。公爵閣下は、貴女の世話を我々に『適当に』任せると仰いましたのよ? どこの馬の骨とも知れない孤児の分際で、愛しきリリアお嬢様の身代わりとしてこの屋敷に居られるだけでも感謝していただきたいものです」

公爵と長男が私に全く無関心で、興味を失ったように立ち去ったのを見て取った使用人たちは、すぐに私を「どう扱ってもいい泥棒猫」として見下し、冷遇を始めたのだ。

ふん、と鼻を鳴らして去っていくメイド長を見送りながら、私は硬い黒パンをスープ(仮)に浸して無理やり胃に流し込んだ。

だが、ただで泣き寝入りする私ではない。

(ふざけんな。こんなもんじゃ足りないわよ)

その日の深夜、私は使用人たちの目を盗み、厨房へと忍び込んだ。

命を脅かす外敵こそいないが、毎日コソコソと泥棒みたいな真似をして食いつながなければならないのは、純粋に面倒くさかった。

(公爵令嬢としての愛や待遇なんて求めてない。でも、堂々とまともなご飯を食べられないのは絶対に許せない)

前世の豊かな食の記憶があるせいで、私の「食」に対する執着はスラム時代よりもはるかに強くなっていた。

無理やり連れて来ておいてこの待遇、絶対に文句を言ってやる。

明日の朝一番で、あの氷の公爵閣下の執務室に乗り込んで直訴してやる。

――偽物の分際だと貶されるのは我慢する。でも、私の胃袋を舐めるなよ、と。

翌朝。

私は豪華だが冷え切った自室のベッドで、昨夜厨房からくすねてきた上質なチーズをかじりながら、ふぅとため息をついた。

(……マリー姉ちゃんたち、心配してるかな)

私が突然、屈強な騎士たちに連れ去られてから三日。

私の脳裏に浮かぶのは、スラムの悪臭漂う廃教会と、そこで身を寄せ合って生きてきた『家族』たちの顔だった。

私が赤ん坊の頃に捨てられていたのを拾い、自分の食い扶持を削ってでも育ててくれた、お人好しで優しいマリー姉ちゃん。

私と一番年齢が近く、生意気だけど頼りになる七歳のリックや、その下のセナ、ポル、ベル、それに一歳でよちよち歩きのココ。

私が公爵家に連れてこられた時、もしかしたら「これで口減らしになる」と彼らの負担が減るかもしれないと、少しだけ思った。

だけど、いざ離れてみると、みんなが今日もカチカチの黒パンにありつけているか、マリー姉ちゃんが無理をして倒れていないか、気になって仕方がない。

昨日、私は自分の内側に眠る不思議な魔力に気づいた。

てきとうな紐を一本手に取って特定の相手を念じて魔力を練ると、その方向が直感的にわかる『ダウジング』のような能力だ。試しにマリー姉ちゃんやリックたちを思い浮かべてみたら、ちゃんとスラムの廃教会の方向を指し示した。みんな無事で、あの場所にいるらしい。

他にも血族の血液を媒介にした捜索魔法というのも使えるようだ、頭の中に使い方が浮かんでくる。

(早くお役御免になって帰りたいな。……あの子たちのために、厨房の美味しいパンをたくさんお土産に持って帰ってあげたいし)

そのためにも、いつまでも残飯を出されながら部屋で軟禁されている場合ではない。

「公爵閣下に直訴する」と決意したものの、私はこのバカ広い屋敷の中で彼の執務室がどこにあるのかを知らなかった。

厨房は連れてこられたときに通ったから覚えてたが。

使用人に聞いたところで、偽物の私にまともに答えてくれるはずもない。

そこで私は、マリー姉ちゃんたちの無事を確認した自分の能力を、別の目的に使ってみることにした。

昨夜の厨房探索の際、ついでに洗濯室らしき部屋からくすねておいた、真っ白な上質なハンカチを取り出す。公爵家の紋章が刺繍されたそれは、どうやら公爵閣下本人の持ち物らしい。

それに服のほつれ糸を括り付け、目の前にぶら下げた。

「ええと……公爵閣下はどこ?」

持ち主を念じながら意識を集中し、ふっと魔力を練り上げる。

すると、だらりとぶら下がっていたハンカチが、まるで目に見えない磁石に引っ張られるように、ピンと特定の方向を指し示した。

「へえ、やっぱり便利だな。これ」

私はそのハンカチが指し示す方向へと、迷うことなく歩き出した。

道中、すれ違う使用人たちが「偽物が部屋を抜け出してどこへ行く気だ」とばかりにジロジロと見てきたが、完全に無視だ。

こちとらスラムの路地裏で野良犬と縄張り争いをしてきた身である。痛くも痒くもない。

ハンカチのナビゲーションに従って進み、やがて三階の奥にある分厚いマホガニーの扉の前に立つと、警備に立っていた護衛の騎士が怪訝な顔で立ち塞がった。

「おい、偽物がここで何をしている。閣下はご多忙だ、部屋に戻れ」

「閣下ー! アイラです! お話があります!!」

騎士の制止を無視して扉越しに大声で叫ぶと、中から「……入れ」と氷のように冷たい声が返ってきた。

騎士が渋々といった様子で扉を開けると、そこには書類の山に囲まれたレオンハルト公爵閣下がいた。

銀髪に青い瞳。相変わらず、そこにいるだけで空気がピリッと引き締まるような威圧感だ。

「なんの用だ。私は忙しい」

「単刀直入に言います。私、この家を出ていきたいのですが」

「……却下だ」

書類から顔を上げた公爵様は、秒で私の提案を切り捨てた。

「あのですね、私は別に令嬢ごっこがしたいわけじゃありません。このままじゃ餓死しちゃいます」

「餓死? なにを馬鹿なことを。我が家から逃げ出したい口実か? お前は本物のリリアが見つかるまで、ここで身代わりを務める義務がある」

「口実じゃありません。せめて、まともな温かいご飯が食べたいんです。それさえ約束してくれるなら、本物のお嬢様が見つかるまで大人しく身代わりを務めます」

私の言葉に、公爵閣下のペンの動きがピタリと止まった。

その冷ややかな青い瞳が、すっと細められる。

「……まともなご飯、だと? お前は毎日、厨房の料理長が腕によりをかけた令嬢用の食事を摂っているはずだが」

「え? 昨日のお昼も夜も、カチカチの黒パンと塩水みたいなスープでしたけど?」

「なっ……!?」

ガタンッ! と、公爵閣下が勢いよく立ち上がった。

執務室の空気が、急激に冷え込んでいく。比喩ではなく、本当に室温が下がった気がした。これが高位貴族の放つ魔力というやつだろうか。

「……執事を呼べ。メイド長もだ。今すぐに」

地を這うような低い声。

呼び出されたメイド長と執事長は、部屋に入るなり公爵閣下の尋常ではない怒気を察して顔を真っ青にさせた。

「お前たち……このアイラに、一体何を食わせている」

「えっ……あ、あの、それは……スラムの孤児の胃腸には、公爵家の豊かな食事は毒かと思いまして、その、質素なものを……」

「質素、だと? 腐りかけの黒パンと塩水が、我が公爵家の『質素』なのか!? 誰がそんなことを許可した!!」

公爵様の怒声が執務室に響き渡った。

ビクッと肩を跳ねらせたメイド長たちは、その場に平伏してガタガタと震え始めた。

「貴様らは公爵家に仕えることの意味が分かっていない! たとえ偽物であろうと、今は『レオンハルト公爵の娘』として置いているのだ! それを蔑ろにすることは、私とこの公爵家への反逆と同義だと知れ!」

公爵様は、私が可哀想だから怒っているわけではない。

「公爵家の名に泥を塗ったこと」と「自分の預かり知らぬところで不正が行われていたこと」に激怒しているのだ。

だが、理由はなんであれ私にとっては好都合だった。

「お前たちはただちに降格だ。見て見ぬ振りをしていた他の使用人たちにも減給を言い渡す。今後、アイラへの待遇に一切の不備を許さん。……次に同じことが起きれば、首が飛ぶと思え」

「は、はいぃぃっ!!」

半泣きで逃げ出していくメイド長たちの背中を見送りながら、私は心の中で盛大にガッツポーズをした。

あー、スッキリした。これで今日から美味しいお肉が食べられる!

「……アイラ」

「はいっ」

公爵閣下が、ひどく疲れたようにこめかみを揉みながら私を見た。

「……私の管理が行き届いていなかったようだ。すぐに、まともな食事を用意させよう」

「ありがとうございます! ……あ、そうだ」

ホカホカのシチューと柔らかいパンを想像してご機嫌になった私は、ふと思いついて口を開いた。

「美味しいご飯のお礼に、本物のお嬢様、探してあげましょうか?」

「……なんだと?」

「私、探し物……というか『人』を探すのが得意なんです。さっきもこの部屋を探すのに使いましたし」

公爵様と、控えていた護衛騎士が胡散臭そうな目を向けてくる。

私は、執務机の上に広げられていたこの国の広域地図を指差した。

「私の能力は、血族の血を触媒にして居場所を特定します。公爵様、少し血を貸してください」

私がそう言うと、公爵様はわずかに眉をひそめたものの、無言でペーパーナイフを手に取り、躊躇いなく自身の指先を少しだけ切って見せた。娘を助けるためなら、藁にもすがる思いなのだろう。

私は背伸びをして、血が滲んだ公爵様の指を掴むと、机の上の地図の真ん中にペタリと押し当てた。

「いきますよ。【 血盟探知(ブラッド・サーチ) 】」

私が魔力を込めると、ぽっ、と地図の上に青い炎が上がった。

炎は血の滴を起点にして地図全体に燃え広がり――しかし、不思議なことに机は一切焦げない。

やがて炎が収まると、地図の大半が灰になってパラパラと崩れ落ち、ほんの一部分、国境近くの深い森のエリアだけが焼け残っていた。

「……ここです。ここに、血の繋がった娘さんがいます」

「馬鹿な……こんな魔法、聞いたことがない。地図を燃やして居場所を特定するだと?」

「疑うなら、試しにそこの護衛騎士さんの家族が今どこにいるか当ててあげましょうか?」

私は訝しげな顔をしている護衛騎士を指差した。

騎士は戸惑いながらも、公爵様に頷き返されて、素早く腰の短剣を抜くと、自らの親指に躊躇いなく刃を当てた。そして、血が滲んだ指先を私へと差し出す。

私は机の端にあった王都の詳細地図の上にその血を擦りつけ、再び魔力を込めた。

青い炎が燃え上がり、焼け残ったのは、王都の裏通りにある小さな区画だけだった。

「……えっ。こ、ここは……うちの親父が行きつけの昼飲み酒場です……!」

騎士が素っ頓狂な声を上げた。

「親父は今日非番で、朝から飲みに行くと言って家を出ました。……ま、間違いありません。この能力は本物です、閣下!!」

騎士の言葉に、公爵閣下の目の色が完全に変わった。

氷のように冷たかった瞳に、娘を救い出すという猛烈な熱が宿る。

「……すぐに騎士団を動かせ! 精鋭を集めろ!」

「はっ!」

「馬の準備もだ。私も出る!」

焼け残った国境の森の地図を乱暴に掴み取ると、公爵閣下は執務室の扉を開け放ち、廊下に控えていた執事に向かって大音声で叫んだ。

「執事!! この少女……アイラを丁重にもてなせ! リリアを見つけ出した、我が公爵家の最大の恩人だ! 彼女の望むものをすべて、最高級の待遇で与えよ!」

「は、はいぃぃっ!?」

目を丸くして平伏する執事を置き去りにし、公爵閣下は血相を変えて飛び出していった。

後に残されたのは、ボロボロになった地図の残骸と、呆然とする執事、そしてのんきに立つ私だけだ。

「……よし。おじさんたちも行ったことだし、執事さん、私は厨房に美味しいご飯をもらいに行こっと。最高のお肉、お願いね」

「か、かしこまりました! すぐに料理長に最高級の食材を準備させます!!」

私の人生における最優先事項は、何よりもまず「食」である。

見ず知らずの令嬢の救出劇は、あの過保護そうな公爵様と屈強な騎士たちに任せておけばいいだろう。

私はホカホカのシチューと分厚いお肉に思いを馳せながら、大慌てで案内を始めた執事の後に続き、足取り軽く食堂へと向かった。

公爵閣下が執務室を飛び出していってから数十分後。

私は念願叶って、豪華な食堂のテーブルで湯気を立てるクリームシチューと、ふかふかの白パンを堪能していた。

口の中に広がる濃厚なバターの香りと、とろけるような肉の旨味。スラムの泥水やカチカチの黒パンとは次元が違う。

「はぁ〜、生きててよかった……」

私が至福の吐息を漏らした、その時だった。

「貴様、父上に何を吹き込んだ!!」

バンッ! と食堂の扉が勢いよく開かれ、公爵の長男であるセオドアが血相を変えて踏み込んできた。

その後ろには、オロオロとしている使用人たちの姿が見える。

「父上が突然、近衛の精鋭騎士たちを引き連れて馬で飛び出していかれた。行き先は国境の森だと言っていたが……貴様が執務室に行ってからの出来事だ。一体何があった!」

「ああ、セオドア様。お疲れ様です」

私はシチューを掬う手を止めず、もぐもぐとパンを咀嚼しながら答えた。

「私の能力で、本物のリリアお嬢様の居場所を見つけたんです。閣下は救出に向かわれました」

「……は? 居場所を見つけただと?」

セオドアは、私が突拍子もない嘘をついていると判断したらしい。氷のように冷たい瞳に、明確な怒りが宿った。

「馬鹿なことを言うな。我が公爵家の情報網を駆使しても足取りが掴めなかったのだぞ。スラムの孤児にすぎない貴様が、どうやって……」

「信じられませんか? じゃあ、お見せしますよ。閣下の執務室の地図は燃やしちゃったんで、ちょっと劣化版の能力になりますけど」

私は手元にあった銀の細いスプーンを手に取り、そこに自分の服のほつれ糸を結びつけた。

そして、セオドアに向かって手を差し出す。

「セオドア様の髪の毛を一本、貸してください」

「……何をする気だ」

「いいから」

警戒しながらも、セオドアは自身の銀糸の髪を一本引き抜いて私に渡した。

私はその髪の毛を、スプーンに巻きつける。

「特定の家族――血縁者を探す場合、対象者と血の繋がった人間の『身体の一部』、特に血液を触媒にするのが、一番強力で正確な人探しの魔法なんです」

髪の毛を巻きつけたスプーンを糸で吊るし、私はふっと魔力を練り上げた。

すると、だらりと垂れ下がっていたスプーンが、まるで強力な磁石に引かれるように、空中でピーンと真横を向いた。

スプーンの先端が指し示しているのは、食堂の窓の外――つまり、王都から遠く離れた国境近くの森の方向だった。

「なっ……!?」

「ね? 今、お父様とリリアお嬢様はあっちの方向にいます。閣下の執務室では、血を使って地図上に直接位置を炙り出したんです。国境近くの森が残りました」

完全に物理法則を無視して宙で静止するスプーンを見て、セオドアは絶句した。

確かに国境近くの森の方角を指している。

疑念に満ちていた彼の瞳からスッと険が取れ、代わりに驚愕と、そして深い安堵の色が広がっていく。

「本当に……リリアの、居場所が分かったのか……?」

「はい。護衛騎士さんの家族の場所も当てたので、情報の整合性はバッチリです。あとは優秀な騎士様たちが助け出してくれますよ」

私がスプーンをテーブルに置くと、セオドアはしばらくの間、呆然と宙を見つめていた。

やがて彼は、ふうっと深く息を吐き出すと、私の前に歩み寄り――スラムの孤児である私に向かって、深く頭を下げた。

「……すまなかった。お前をただの身代わりの偽物だと蔑み、冷遇を放置していたこと、公爵家の次期当主として恥じ入るばかりだ。そして……妹を見つけてくれて、本当にありがとう」

さっきまでの冷酷な態度はどこへやら。妹を想う兄の、心からの謝罪と感謝だった。

――一方、その頃。

国境の深い森の奥で、レオンハルト公爵は燃え盛る怒りを静かに解き放っていた。

「ヒィィッ! バ、バケモノめ……っ!」

誘拐犯のならず者たちが、恐怖に顔を引き攣らせて後退る。

彼らのアジトであった古びた山小屋の周囲は、レオンハルトの放つ氷の魔力によって文字通り『凍結』していた。

武器を構えた盗賊たちは首から下を厚い氷に覆われ、身動き一つ取れない状態で生け捕りにされている。

「騎士団長。こいつらを決して死なせるな。厳重に地下牢へ移送しろ」

「はっ! しかし閣下、このような山賊どもを生かしておくのですか?」

「ああ。厳重な警備を敷いていた公爵邸から、ただの山賊が娘を攫えるはずがない。

必ず手引きをした内通者や、背後にいる黒幕が存在するはずだ。

……こいつらには、知っていることを全て吐かせねばならんからな」

氷のように冷酷な声で言い放ち、レオンハルトは山小屋の扉を蹴り破った。

薄暗い部屋の隅で、ボロボロのドレスを着た小さな少女が、怯えたように震えながら身を寄せている。

銀糸の髪に、青玉のような瞳。間違いない、彼の最愛の娘、リリアだった。亡き妻エレオノーラが、己の命に代えて残してくれた宝物。

「……リリア!」

「お父、様……?」

涙で顔をぐしゃぐしゃにしたリリアを、レオンハルトは力強く抱きしめた。

娘の温もりを感じ、氷の公爵と恐れられる男の目から、ひとすじの涙がこぼれ落ちる。

「よく無事でいてくれた。もう大丈夫だ。家に帰ろう」

王都へ向けてひた走る、公爵家の豪奢な馬車の中。

身を清め、温かい毛布に包まれたリリアは、安堵の表情で父親の隣に座っていた。

「お父様。あんなに遠くて深い森だったのに、どうやって私を見つけてくれたのですか?」

「ああ……実はな、ある不思議な少女が、お前の居場所を教えてくれたのだ」

「少女、ですか?」

「そうだ。スラムで拾った孤児なのだが……驚くべきことに、その少女はリリア、お前と瓜二つの顔をしていた」

レオンハルトは、身代わりとしてアイラを連れてきたこと、冷遇されていた彼女に直訴されたこと、そして彼女が『血盟探知』という見たこともない能力を使って居場所を特定してくれたことを、隠さずに話して聞かせた。

「私と、瓜二つ……」

リリアは胸元を押さえ、不思議そうに呟いた。

なぜか、その『アイラ』という少女の話を聞いた時、リリアの胸の奥でトクリと小さな鼓動が跳ねたのだ。

まるで、ずっと昔に失くしてしまった大切な半身の話を聞いているような、不思議な温かさ。

「そのアイラさんは、今もお屋敷にいるのですか?」

「ああ。私が戻るまで、留守番をさせている」

「早く会いたいです! 私の命の恩人……どんなお顔で、どんな声でお話しするのか、すごく気になります」

目を輝かせる愛娘の頭を撫でながら、レオンハルトもまた、王都の屋敷で待つアイラの顔を思い浮かべていた。

恩人であるあの風変わりな少女に、どう報いるべきか。

少なくとも、ただの身代わりとしてスラムに放り出すような真似は、絶対にできない。

それから数時間後。

レオンハルトが放った早馬が、王都のアルジェント公爵邸へと到着した。

『リリアお嬢様を無事に救出! お怪我はなし。お嬢様の体調を最優先とし、馬車にてゆっくりと帰還されるため、到着は明後日になる見込み!』

その報告がもたらされた瞬間、公爵邸は割れんばかりの歓喜の声に包まれた。

使用人たちは涙を流して抱き合い、セオドアは天を仰いで神と母に感謝の祈りを捧げていた。

そんなお祭り騒ぎの中。

私は自室に戻り、厨房からくすねておいた干し肉やパンを、手近な布袋にせっせと詰め込んでいた。

「よし、こんなもんかな」

荷造りを終え、鞄を背負って部屋を出ようとした、まさにその時。

バンッ! と再び勢いよく扉が開かれ、セオドアが立ちはだかった。

「アイラ! お前、その荷物はなんだ! どこへ行く気だ!」

「どこって、スラムに帰るんですよ。お嬢様も見つかったことですし、私の偽物としての役目は終わりですよね」

「ならん! 帰すものか!」

セオドアは血相を変え、私の前に両手を広げて退路を塞いだ。

「妹の命の恩人をスラムへ放り出すような真似、アルジェント公爵家の誇りにかけて絶対にできん! なぜ出て行こうとする! この屋敷の待遇に不満があるのか!?」

「不満はないです。ただ……」

私はふう、と息を吐いた。

「私がスラムに帰らないと、マリー姉ちゃんやリックたちが心配するんです」

「マリー? リック?」

「私のスラムの『家族』です。赤ん坊の頃に捨てられていた私を拾って育ててくれたマリー姉ちゃんと、一緒に育った孤児の仲間たち。……私がこんなに美味しいものを毎日食べてるのに、あの子たちが黒パンの端っこをかじって震えてるなんて、嫌なんです」

孤児たちは何も持たないが、お互いに助け合って生きてきた。

私が公爵家にいることで口減らしにはなったかもしれないが、やはり彼らの無事を確認し、少しでもマシなものを食べさせてあげたかった。

私の理由を聞いたセオドアは、目を見開いて硬直した。

そして、数秒ほど真剣に思案すると、ギュッと拳を握りしめた。

「……なるほど。お前が帰りたい理由はよく分かった。だが、やはりお前をスラムに帰すわけにはいかない。どうか、父上が戻るまでこの屋敷に留まってくれないか」

「でも、マリー姉ちゃんたちが」

「俺がなんとかする!」

セオドアは力強く言い切った。

「その『家族』たちの安全は、我が公爵家が保証しよう。今すぐ精鋭の騎士を数名、スラムの廃教会へ護衛として派遣する。食料と支援物資も手配させよう。だから、お前はここで待っていてくれ」

そこまで言われてしまえば、私に否やはなかった。

むしろ、スラムにいる彼らにとって、これ以上ない安全の確保だ。

「……分かりました。お言葉に甘えます」

「よし! すぐに手配してくる!」

安堵したように笑い、セオドアは足早に部屋を出ていった。

ほどなくして、アルジェント公爵家の紋章を掲げた数名の近衛騎士が、支援物資を抱えてスラムへと派遣されていくのを、私は窓から眺めていた。

(お兄様、行動が早いなぁ。……ま、これで安心して今日のお肉が食べられるね)

見ず知らずの令嬢の救出劇と、スラムの家族の保護。

私は公爵家が着々と動いていくのを見届けながら、今日の夕食のメインディッシュに思いを馳せていた。

早馬の報告から二日後。

王都のアルジェント公爵邸のエントランスは、かつてないほどの熱気と歓喜に包まれていた。

泥と埃にまみれた重厚な馬車が到着し、扉が開かれる。

降り立ったのは、レオンハルト公爵と――長旅の疲れは見えつつも、怪我一つない本物の公爵令嬢、リリアだった。

「リリアッ!」

「お兄様……!」

長男のセオドアが駆け寄り、愛する妹を力強く抱きしめる。

氷の貴公子とまで呼ばれていた次期当主が、周囲の目も憚らずに大粒の涙を流している。使用人たちもまた、ハンカチを顔に押し当てて咽び泣いていた。

(良かった良かった。感動の再会だねぇ)

私はエントランスの隅にある柱の陰から、こっそりとその光景を眺めていた。

手には、厨房からくすねたばかりの焼き立てのスコーンがある。サクサクして美味しい。

家族の輪に私みたいな偽物が混ざるのも野暮だし、スコーンを食べ終わったら適当に部屋に戻ろうと思っていた、その時だった。

「……あの。私を見つけてくれた、命の恩人の方はどこですか?」

リリアがセオドアの腕の中から顔を上げ、周囲を見回した。

「おお、そうだった。アイラ、どこだ! 隠れていないで出てきなさい」

「むぎゅっ」

公爵閣下の鋭い声に呼ばれ、私はスコーンを口に咥えたまま柱の陰から引っ張り出された。

私の姿を見た瞬間、リリアは息を呑んで目を丸くした。

輝く銀糸の髪に、青玉のような瞳。年齢も同じ九歳。

スラムの泥と煤を落とした私の顔は、目の前の本物の公爵令嬢と、まるで鏡を見ているかのように瓜二つだった。

「あなたが、私を……」

「んぐっ、ごふっ。……あ、初めまして。アイラです」

急いでスコーンを飲み込んで挨拶すると、リリアはふわりと花が咲くような笑みを浮かべ、私に向かって両手を広げて飛びついてきた。

「アイラお姉様!!」

「えっ、ちょ、お姉様!?」

初対面のはずなのに、リリアは私にぎゅっと抱きつき、私の胸に顔を擦り寄せてきた。

自分とそっくりな孤児を見て気味悪がるどころか、まるでずっと探し求めていた魂の片割れを見つけたかのような、異常なほどの親愛の情だ。

「お父様から全部聞きました! お姉様が不思議な力で私を見つけてくれたって! 私、ずっと……ずっとお姉ちゃんが欲しかったんです!」

「あ、いや。美味しいご飯のお礼にちょっと地図を燃やしただけなんで、お気になさらず……」

「お願いです、どこにも行かないでください! 一緒に、公爵家で暮らしましょう?」

上目遣いで懇願してくるリリアの頭を優しく撫でながら、公爵閣下が私の前で片膝をついた。

国で一番権力を持つと言っても過言ではない男が、スラムの孤児に向かって膝をついたのだ。周囲の使用人たちがヒィッと息を呑む音が聞こえた。

「アイラ。お前の不思議な力がなければ、リリアは二度と私の元へは戻らなかっただろう。我がアルジェント家を救ってくれた最大の恩人として、今日からお前を私の『養女』として迎え入れたい。リリアの姉として、この家で暮らしてくれないか?」

出会った初日は、亡き妻・エレオノーラの面影を見て動揺しつつも「これはただの偽物(道具)だ」と私を冷酷に突き放した公爵閣下。

だが、今の彼の瞳に冷たさは微塵もない。愛する娘を救ってくれた恩人であり、最愛の妻の面影を宿す少女を、絶対に手放すまいという強烈な意志が宿っていた。

上目遣いで懇願する可愛い公爵家の一人娘と、絶対に逃がさないとばかりに見つめてくる親バカ公爵。そして、背後で「お前が残ってくれるなら、俺は何でもする!」と謎の決意を固めているシスコンの兄。

……スラムの冷たい地面と、公爵家のホカホカのシチューと無限のお肉。

比べるまでもない。

「……三食おやつ付きで、お肉がいっぱい食べられるなら、喜んで」

私がそう答えた瞬間、リリアが「わぁぁっ!」と歓声を上げて私に抱きつき、公爵閣下とセオドアが破顔したのだった。

「――なるほど。アイラには、スラムに家族同然の者たちがいると」

「はい、父上。彼女は自分の安寧よりも、スラムに残してきた育ての親や孤児たちの安全を心配して、屋敷を出ていこうとしていたのです」

歓喜に沸くエントランスから執務室へと移動したレオンハルトは、セオドアからの報告を聞いて深く頷いた。

身代わりの道具から、公爵家の恩人、そして養女となったアイラ。さらに彼女には、レオンハルトの亡き妻・エレオノーラの面影がある。

今のレオンハルトにとって、アイラの優先順位は天を衝くほどに跳ね上がっていた。

「お前が先んじて護衛と支援物資を派遣したのは良い判断だったな、セオドア。だが、それだけでは足りん」

「と、仰いますと?」

「アイラの恩人は、我が公爵家の恩人でもある。彼女の憂いを完全に断ち切るため、私が直接スラムへ出向き、彼らを安全な場所へ迎え入れよう」

「なるほど! では、近衛騎士団を第一小隊から第三小隊まで招集します! スラムの害虫どもがアイラの家族に近づかないよう、完全武装で!」

こうして、過保護すぎる公爵親子の暴走により、スラムの廃教会へ向けて「国境警備レベル」の大名行列が出陣することになったのである。

時間を少し巻き戻そう。

セオドアが近衛騎士たちをスラムへ派遣した、あの夜のことである。

王都の裏側に位置するスラム街の廃教会では、未曾有の大パニックが起きていた。

「ひぃぃぃっ! ま、マリー姉ちゃん! なんか凄え強そうな騎士様がいっぱい来たよぉ!」

「リック、静かに! 窓から見つかっちゃうわ!」

ボロボロの修道服を着た二十歳の女性マリーは、七歳のリックやその下の幼い孤児たちを両腕に抱え込みながら、教会の隅でガタガタと震え上がっていた。

無理もない。悪臭漂うスラムの路地裏に、王家を守護するはずの『アルジェント公爵家』の紋章を掲げた完全武装の騎士たちが、ズラリと並んでいるのだから。

(ど、どういうことなの!? アイラちゃん、貴族様の屋敷でとんでもない粗相をやらかしたんじゃ……!)

連帯責任として自分たち孤児も全員処刑されるのだと絶望し、マリーが泣きそうになっていると、教会の扉がコンコンと控えめに叩かれた。

「夜分遅くに申し訳ありません。マリー殿はいらっしゃいますか」

「ひぃっ……!」

恐る恐る扉を開けると、そこには厳つい顔に無理やり愛想笑いを浮かべた騎士の隊長が立っていた。

「あ、怪しい者ではありません! 我々はアルジェント公爵家の近衛騎士。セオドア様より、皆様の護衛と支援を命じられて参りました」

「ご、護衛……?」

「はい。どうかご安心ください。アイラ様はご無事であり、公爵家にて最高の厚遇を受けておられます」

その言葉に、マリーと孤児たちはポカンと口を開けた。

「アイラちゃんが、無事……?」

「左様でございます。これはほんの気持ちですが、当面の支援物資をお受け取りください。後日、詳しい状況の説明のため、我が主人が直接こちらへ出向かれますので」

騎士はそう言って、見たこともないような大量の高級食材を教会の床にうず高く積み上げた。

アイラが無事で、しかも厚遇されている。

その事実には心の底から安堵したマリーだったが、騎士の言葉の後半に思い切り引っかかった。

「あ、あの……我が主人、とは……?」

「公爵閣下ご自身でございます」

「…………はい?」

スラムの最底辺である廃教会に、国の最高権力者である公爵本人が来る。

その事実に、マリーは別の意味で顔を真っ青にしてガタガタと震え始めた。

「そ、そんな……私たちのような平民が、公爵様をお迎えするなんて……粗相があったら今度こそ首が飛ぶわ……!」

結局、最初の勘違いパニックは解けたものの、今度は「公爵来訪」という巨大すぎるプレッシャーという形で恐怖が増幅することになったのである。

――そして、現在(早馬の報告から二日後)。

教会の周囲を護衛する騎士たちの外側から、さらに地響きのような蹄の音が近づいてきた。

『公爵閣下の、おなーりーっ!!』

その声を聞いた瞬間、マリーは「終わった」と絶望して白目を剥きそうになった。

過保護な大名行列を率いてやってきた氷の公爵を前に、震える孤児たちを抱きしめたまま、マリーはただ神に祈るしかなかった。