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作者: 三香

本文

「大げさだ」

「悪気はなかったんだ」

「わかってくれるよね」

「波風を立てることはない」

「君にも悪いところはあった」

「君は冷たい。彼女は優しく温かいんだ」

それは、7年の間に婚約者のラウレリスからリリシャが何度も何度も聞いた言葉だった。

そして言うのだ。

「君は許してくれるだろう?」

と。

お茶会で、ラウレリスの隣の席にリリシャ以外の令嬢が座っても。

パーティーで、ラウレリスがファーストダンスをリリシャ以外の令嬢と踊っても。

リリシャとの約束を土壇場で取り消しをして、友人たちと遊びに行っても。

ラウレリスが誰かを優先して、リリシャを後回しにすることが10回、100回と続いても。

「君はわかってくれるだろう? 許してくれるよね」

と、ラウレリスは婚約者としての体面を繕ってリリシャに赦しを強制するのだ。

「はい。ラウレリス様」

とリリシャはお茶会では隅っこに座って。パーティーでは壁側に立って。

何事もなく終わらせるために。

関係の綻びを縫い合わせるために。

ラウレリスの面子を折らないために。

無力さで鉛のごとく重くても背筋を伸ばして、リリシャは微笑んで頷くことしかできなかった。貴族の政略なのである。男尊女卑の貴族社会において、単なる令嬢という駒にすぎないリリシャには耐えることしか方法がなかったのだ。

リリシャの、ラウレリスに歩み寄ろうとした気持ちは突然に消えるのではなく少しずつ少しずつ外套みたいに内側へ折りたたまれて。

目を持たない貝のように。

耳を持たない貝のように。

海の底へ潜る貝のごとく心を閉じこめて、リリシャは自身を守るようになったのだった。

貴族の娘は家のために親が定めた相手と結婚をする運命だ。それでも最初の頃は何度もリリシャはラウレリスにお願いをした。父親の伯爵も幾度も繰り返して抗議をしてくれた。しかし、ラウレリスの態度は変わらなかった。

一人息子に甘い侯爵夫妻が、若さゆえの未熟と本気で叱責して咎めることがなかったことがラウレリスを増長させる主因にもなっていた。

豊かな貴族生活を享受してもラウレリスは貴族社会の利害への認識が甘く、思慮が浅く軽率な面があった。失態は侯爵夫妻が対処するので、ラウレリスは失敗の本当の重みを理解していなかった。権勢のある家門、有能な側近たち、整えられた環境でラウレリスは判断力や感情制御にやや不安を抱かえたまま成長してしまったのだが、それを周囲の許容する状況が最大の問題点であったのだった。

そんな日々の果てに。

16歳になったリリシャにラウレリスが言った言葉は。

「婚約はなかったことにして欲しい」

であった。

なかったこと。

なかったことに誰ができるのだろうか。

婚約破棄は記録に残り。

社交界の人々の記憶に残り。

リリシャの貴族令嬢としての傷となって残るというのに。

ラウレリスが恋した相手は王都の伯爵令嬢であった。華やかな美貌の令嬢で、父親の侯爵が勝手に決めたリリシャとの婚約が不本意であったラウレリスは夢中になった。

もともとリリシャに不服だったラウレリスは、時期を狙って婚約を破棄するつもりだったのだ。

リリシャは16歳の伯爵令嬢である。

ラウレリスは19歳で侯爵家の嫡子であった。

隣国と自国の王族との婚姻政策によっての隣国から王都への大規模な道路の開通工事にともない、政略として結ばれた地方の伯爵家と王都の侯爵家との婚約であった。

侯爵家は伯爵領に通る街道の利権に喰い込み、伯爵家は侯爵家が持つ王都での人脈によって街道の開発が円滑に進むように両家は婚約を結んだのである。

婚約をしたのはリリシャが9歳の時。

初めての顔合わせでラウレリスが、

「田舎の伯爵の娘が婚約者なんて嫌だよ!」

とリリシャを庭の池に突き飛ばしたのだ。

池の水辺には花盛りの木々があり、落ちた花が色鮮やかな万華鏡のように浮かんでいた。その花々を巻き込んでリリシャが沈む。

すぐさま護衛に助け出されたが、ラウレリスは不貞腐れたままで謝罪すらしなかった。

一時は破談になる寸前であったが、政治的理由から婚約は結ばれることとなったのだ。池に落とされても婚約が成立した経緯のある重要な政略が土台となっているが故に、いずれは結婚をするものだとリリシャは諦めていた。

地方の伯爵家の娘として土を見て育ったリリシャだが、風向きを読む聡明さもあった。

だからリリシャは厳しい教育にも耐えてきた。

地方の平凡な伯爵家の娘が王都の侯爵家に嫁ぐのである。リリシャの両親は、リリシャが結婚後に社交界で苦労しないようにと理想の貴婦人とはかくあるべし、という厳格な教育をしたのであった。

泣いては窘め、笑っては窘め、喜怒哀楽を許さず、常に微笑みを浮かべて物事を冷静に対処できるように躾けたのだった。侯爵夫人として相応しくあるように。

ある意味、地方である故にリリシャの両親は王都の侯爵夫人であるならばと教本の理想像をリリシャに型ハメしてしまったのである。

それがリリシャのために正しいのだと両親は信じて疑わなかったのだ。

結果としてリリシャは、『淑女の仮面』がもはや『皮膚』と同じになってしまったのだった。

この世界には魔法があり、魔法属性がある。

稀に複数の属性持ちがいるが、たいていは一人につき魔法属性は一つであった。

魔法属性が反映されるのか、火属性の者は情熱的で水属性の者はクールで風属性の者は移り気な者が多く、と論理的根拠はないが性格占いのように曖昧なままに幅広く信じられてきた。

リリシャは貴重な氷魔法の所有者だった。

故に感情を表情として露わにすることのないリリシャは、氷属性だから冷たい性格なのだとラウレリスと友人たちに嘲笑されるようになっていた。

ひたすら立派な侯爵夫人となれるようにリリシャが7年間も努力をしてきた、その結果が。

冷たい、であった。

社交界ではリリシャは完璧な令嬢として高く評価されていた。なのでリリシャに同情的な者も多い。

だが、婚約者であるラウレリスはリリシャの価値を認めることをしなかったのである。

地方の伯爵家であったから。

氷魔法であったから。

リリシャを見下す方が都合がよかったから。

池に落とした件でこっ酷く父親の侯爵から叱咤されたラウレリスはリリシャに暴力を振るうことはなかったが。

かわりに冷たく厳格で正しく距離を保つ使い勝手の良い婚約者の役割をリリシャに押し付けたのであった。

しかし、それも終わりだった。

今日は両家で婚約の破棄のための話し合いが、伯爵家の応接室でおこなわれていた。

リリシャ、ラウレリス、伯爵、侯爵、王家の書記官や法務官などの役人たちがそれぞれの表情をして長い机を囲んでいる。

部屋には神経を研ぎ澄ます緊張した空気が漂っていた。

窓から差し込む日差しは明るいが、部屋の空気は布を一枚隔てたみたいに薄く張っている。透明な氷が小さな気泡によって白く濁るみたいに。真昼なのに日の暮れのごとく光の縁取りが少しぼやけて、灰を含んだようにほんのりと曇り薄暗い。

どっしりと重い濃紺のカーテン、大理石の暖炉、壁を飾る綴織のタペストリーの金糸銀糸が光を鈍く反射して沈んだ翳りを作っていた。

侯爵は苦虫を噛み潰したような顔をしている。原因が、ラウレリスの浮気による婚約破棄であったからだ。

巨大な利益が絡む婚約である。

かつ、ラウレリスを生涯支える大事な要員としても聡明なリリシャを手放すことは有り得なかった。

侯爵家は婚約の継続を望んでいたが、そもそもラウレリスが婚約の破棄を宣った、と伯爵は断固として譲らなかったのだ。

口火をきったのは侯爵だった。

「何故、王家の役人がいるのだ!?」

「隣国からの街道が婚約に絡んでいるのです。王家が重要視するのは当然では?」

伯爵の返答に、国王派閥の貴族家である役人たちも言葉を添えた。

「陛下よりの命を受けて参っております。こちらが書類でございます」

国王の正式な命令書に、ますます侯爵は顔をしかめた。警戒心が頭をもたげ、目線が動く。役人たちは国王派閥の眉目秀麗な青年貴族たちである。猜疑が棘となって侯爵は疑心を高めて身構えた。

一方、伯爵は余裕のある態度である。

「7年間に渡るラウレリス殿の振る舞いに、王家と高位貴族方の家々が憂慮を抱かれておられましてな。当家のリリシャが蔑ろにされていることを皆様がご存知なのです。万が一婚約が破棄された場合にはと次なる婚約を内々に頂戴するくらいに」

「何だと! そんな不義理なことを!」

侯爵の怒りを伯爵は軽く受け流す。都合の良い婚約者の役目を課した挙げ句の婚約破棄に、伯爵の内心は煮え滾っていた。次の婚約が侯爵家の政敵になる懸念を匂わしてしまうほど、伯爵の方が怒っていたのだ。

「不義理はラウレリス殿でございましょう。それに貴族家ならば二手先三手先を予測するもの。ましてや巨費を投じる街道工事なのです。もしもに備えるのは貴族家としては当たり前のことです」

「だが、まだラウレリスは婚約者だ! 苦情を言われる度にきちんとラウレリスを叱責をしてきたのだ、少々の失態くらい大目にみてもかまわないだろう!」

「婚約の破棄を宣うことを少々の失態とは……。当家ではとてもとても理解が及びません。軽率な行動の不始末を娘のリリシャに背負わせるラウレリス殿の振る舞いには何度も抗議をしました。その上でこれです。やはり婚約の継続は無理ですな」

激しく睨み合う伯爵と侯爵に、ラウレリスは青ざめ、役人たちは空気となっていた。その時、リリシャが机に日記帳と手紙の束を静かに置いた。

「私は7年間、待ちました。いつかはラウレリス様が私に振り向いてくださるかも知れない。いつかはラウレリス様が変わってくださるかも知れない。でもラウレリス様は最初から、いつか私を切り捨てる予定を崩されることはありませんでした」

ゆっくりとリリシャは頭を下げた。

「こちらを読んでくださいませ。これは7年間の記録でございます。その上でご判断をお願いいたします」

実はリリシャは転生者であった。

9歳の時に池で溺れて前世を思い出したのである。

今世の思慮深さと前世の知識がリリシャに慎重さを与えた。

前世で長く生きた経験から、トラブルの時の証拠の必要性を身に染みて知っていたのである。

前世のような写真等はない世界だが、それでも警戒深く準備は怠らなかった。

見たことや聞いたことに思ったことは混ざりやすい。混ざれば誤作動をして、記憶が改ざんされてしまう場合がある。

余計な色はいらないのである。

白い色のままがいいのだ。

だから。

感情ではなく事実のみを記したラウレリスの行動観察の日記帳を書いたのであった。

7年前から。

日付順に。

場所も。

内容も。

たとえば。

王国歴221年花惜しみ月16日、ダレン子爵家茶会にて。

茶会の席順。

出席者たちの行動と言葉。

ラウレリスの言動の詳細。ラウレリスがリリシャを放置して隣に置いた令嬢の名前。

風待ち月5日、侯爵家のパーティーでは。

出席者の名簿。

ラウレリスと友人たちがリリシャを揶揄する会話。

ラウレリスが男爵令嬢と庭で何をしていたか、一部始終を漏らさずに。複数の目撃者がいたことも。

7年間のラウレリスがリリシャに対して義務や責任を怠った細々が、資料のごとく分類されて細部まで整理されて詳しく書かれていた。

その日の天候や目撃者の名前まで残されていて、疑う余地のない記述であった。

さらにラウレリスのリリシャを軽んじる手紙の数々。

リリシャは常に観察してきた。

パーティーの壁側から、茶会の隅っこから、あらゆるものを見て聞いて積み木のように書いて積み上げてきたのである。

貴族令嬢の立場は弱い。

発言権も狭い。今回は父親の伯爵の特別な手配で席を準備してもらえたが、普通は当事者であっても女性は話し合いに参加できないほどに王国における女性の地位は低いのだ。前世を蘇らせたリリシャが一番驚愕したことは、女性側は離婚する権利すらないことであった。

両親はリリシャを愛してくれているが、第一は家と領地を守ることだ。

貴族であることを捨てて平民になっても、女性の働ける場所は極々限られている。現実は厳しいのだった。

だからリリシャは、不測の事態への対策を講じてきたのだ。7年間。役に立つか立たないか、それすらも不明のままに。

そうして今日を迎えたのであった。

「リリシャ! すまなかった、わたしがラウレリス殿との婚約を拒否する力がなかったせいで……!」

日記帳を読んだ父親の伯爵がリリシャに縋りついた。

「わたしはリリシャを精一杯守っているつもりでいた。しかし、つもりはつもりでしかなかった。こんなにも苦しんでいたなんて……っ!」

「大丈夫です。私はお父様とお母様の愛情を感じておりました。ですから今まで頑張れたのです」

優しく微笑むリリシャに伯爵の涙腺が崩壊する。

「リリシャ……。もっと早く婚約を破棄すべきだった。リリシャは何度も訴えていたのに、わたしは侯爵家に抗議するだけだった」

「仕方ありません。婚約は家と家との大事な契約ですから。破棄は簡単にはできないものです」

「その簡単ではないことを簡単にしてくれたラウレリス殿には感謝だな。ようやっとリリシャを自由にできる」

本来ならば婚約者であるリリシャを疎かにしたくらいで婚約の破棄はできない。ラウレリスが放った破棄の言葉があってこそ、の機会であった。

王宮の役人たちも表情が固い。

真実性の証明としては文書は【形あるもの】として強力であった。証拠として不足はない。ましてや内容が内容である。捏造や嘘や誇張ではない、と誰も疑問に思うことすらしなかった。調査すれば日記と全てが一致するだろう。それだけラウレリスによるリリシャへの軽視は社交界で有名だったのである。

がっくりと侯爵は肩を落とした。

分が悪すぎる。足掻くだけ無駄に傷口をひろげる結果につながることは火を見るより明らかだった。日記帳には明白な過去が記されているのだ。

もし婚約中に日記が公開されていたならば関係の険悪さや不仲として対処できていたが、もう遅い。こうなれば損害は最小なおかつ体面を保つ理にかなった処置と整理をしなければならない。

無念のあまり、額に青筋を浮かばせた侯爵は乾いた砂漠みたいにひび割れた声を絞り出した。

「……婚約破棄の手続きを……」

希望通りの婚約破棄にラウレリスの顔が一瞬輝くが、殺気を帯びた侯爵の眼差しに貫かれて身を竦める。

「庇いすぎたか……。我が身とラウレリスの後始末をせねばな」

侯爵の呟きはラウレリスには聞こえていなかった。が、侯爵の冷え冷えとした冷気を漂わせる雰囲気にラウレリスは背筋を粟立たせたのであった。

リリシャは王宮の書記官に顔を向けた。

「婚約破棄の書類には賠償金として金貨1枚でお願いいたし」

リリシャの語尾を遮って侯爵が叫ぶ。

「待て! 和解金だ! それに1枚だと!? 侯爵家の沽券に関わる! 婚約の契約書では解消または破棄の時には両家による協議により決定する、と記されている。一方的に我が侯爵家の家名に泥をつける気か!?」

賠償金と和解金では侯爵家の名誉への傷が大きく異なる。ましてや金貨1枚では社会的な信用の失墜に繋がる可能性があった。

この応接室には書記官がいるのだ。

紙の上での文言には力がある。

王宮へ提出する正式書類に『賠償金、金貨1枚』と書かれでもしたならば、侯爵家は明日から社交界で笑い者になることは確実だった。あるいは侯爵家には金貨1枚しか支払い能力がないという噂が出回ったならば、没落コースに片足を突っ込む危険性もある。

「もちろん存じております。けれども相手側が有責の場合は、請求する側の有利性が文章化されています。また、額面の上限はありますが侯爵家にとって残念なことに下限は定められておりませんから、私の請求は不当ではございません」

にこり、と微笑むリリシャに侯爵はゾッと戦慄を走らせた。額から汗が流れる。指先で椅子の肘掛けを掴んだ。

透明な水なのに底が見えない地底湖と同じだ。

凪いだ水面のごとく静かで控えめな令嬢の姿で、一歩足を踏み入れると音もなく沈ませてしまう水であった。

ラウレリスのためにリリシャの賢さを一生利用するつもりであったのに。

その賢さがこれほどであるとは、と侯爵は逃した魚の大きさに目眩がするようだった。

王宮の役人たちも目を見開いている。書記官は唖然と口まで開けていた。

伯爵だけが、娘が素晴らしいとニコニコしていた。

ニコリとするリリシャとニコニコする伯爵は父娘であるだけに、人化した毛並みの良い狐のごとく雰囲気が似ていた。

「金貨1枚の賠償金ですもの、お安いものでございましょう?」

「そうですな。安い賠償金で侯爵家の懐も細ることがなく、万々歳ではないですか?」

にこやかに声を揃える父娘に、ギリギリと侯爵は奥歯を食いしばった。

「金貨1枚は法外な要求だ……!」

粘って抗する侯爵に、ラウレリスに散々に冷たいと批判された微笑でリリシャは冷静に返答する。

「契約違反ではございません」

「ッ! 伯爵家からの要求によって金貨1枚となった、という風評が流れれば伯爵家とて妙な勘繰りをされることになるぞ」

「ご心配なく。侯爵家の諸々のご事情を伯爵家の方で考慮しての要求、とお答えをいたしますので被害はありません。社交界の皆様は邪推が得意でしょうから、侯爵家のあることないことの内情を勝手に推測してくださいますわ」

「事情の考慮だと!? 侯爵家には考慮される事情などない!」

「心遣いをしているだけです。7年も婚約をいたしておりました情による気遣いのこもった配慮ですわ」

「どこが気遣いだ!」

「だってありえないほどお安い賠償金ですもの。たった金貨1枚。きっと王国の歴史に刻まれますわ」

「和解金だ! 金貨10万枚を払う!」

「それこそ契約違反です。契約書の上限を超えておりますわ」

リリシャが強い。

鬼気迫る侯爵に一歩も譲歩することがない。

ラウレリスが婚約破棄を狙っていたように、リリシャも虎視眈々と機をうかがって婚約契約書を隅から隅まで読んでいたのである。

チラリ、とリリシャが王宮の法務官に視線を流す。王家が侯爵家に恩を売るチャンスだと、リリシャの視線が語っていた。金貨1枚を押し通す方法もあるがリリシャには目的があったし、侯爵と敵対するのは得策ではないということもわかっていた。

法務官も愚かではない。

姿勢を正すと咳払いをした。

「せっかく法務官であるわたしが立ちあっているのです。ここは法律に則り処理をいたしませんか?」

法務官の仲裁に侯爵は身を乗り出した。苦境からの脱出の命綱というべき法務官の言葉に侯爵はしがみつく。

「もちろんです! 法律は大事ですからな、ぜひとも法律による適正な処理をいたしましょう! そして賠償金ではなく和解金もしくは示談金で!」

必死になる侯爵とは対照的にラウレリスは、我関せずという態度で平然としている。いつものごとく父親が事後処理の火消しをしているだけと思っているのだ。

より一層落胆した侯爵はラウレリスへの失望を深めたが、今は侯爵家の体面のために婚約破棄の形式と調整を最低限まとめなければならない。

しかもリリシャの尊厳を踏み台にして高く立っていたラウレリスが他人事な顔をしているのを見て、リリシャと伯爵と王宮の役人たちが呆れ果てた表情を浮かべているのだ。当事者意識の問題である。伯爵は、そんな風に育ててしまった責任をとるべきだという痛烈な眼差しであった。

侯爵は恥辱で心臓が停止してしまいそうなほどに恥ずかしかった。毅然としたリリシャと座っているだけのラウレリスの歴然たる差。自業自得とはいえ悔やんでも悔やみきれない。

「ラウレリス殿。婚約の破棄は決定しました。お疲れでしょう。これから内容を詰めるために時間が長くなります。先に屋敷に戻られてはいかがですか?」

邪魔だから帰れ、と伯爵が匂わすがラウレリスは言葉通りに受けとめた。密かな意図を汲み取ることをしないのがラウレリスだ。

「父上。伯爵が勧めてくれていますので、それでは屋敷に帰ります。後のことはよろしくお願いいたします」

丸投げなラウレリスに、侯爵はつくづく教育の失敗を悟った。放置した自分の怠慢であり罪だ。ラウレリスは侯爵位を継げる器ではない。即刻で親族から優秀な養子をむかえることを侯爵は決意する。健常な嫡子がいるのに養子を後継者に指名するのは難しい。ラウレリスの排除が適切である。

侯爵は、父親としてではなく当主としてラウレリスを切り捨てることを選んだのであった。

「ああ。夜に話そう。屋敷で待っているがいい」

ラウレリスの後ろ姿を、守りたかったのだ守ってやりたかったのだ、と侯爵は見送る。たった一人の息子を、ずっと。だが、もはや侯爵家にラウレリスを置くことはできない。

ラウレリスが足を止めて振り返った。

「僕の好きな花は太陽の炎のような赤いガーベラだ。リリシャは?」

王国では別れの時に自分の好きな花を教えあうのだ。永遠に会えないとしても、花は毎年咲く。花を見れば思い出してくれることを祈って、花の名前を伝えるのである。

「私は明るい黄色の山茱萸の花です。秋に実る赤い実も珊瑚のように綺麗です」

「山茱萸? 知らない花だな」

最後に咲く会話の花なのに摘むこともなく、ラウレリスは再び歩き出す。

リリシャもラウレリスを引き戻すこともなく、別れの礼に膝を祈った。いつものように短い、会話にもならない会話であった。

ラウレリスが扉から出て行くと、リリシャが待機していた侍女からティーワゴンを受けとった。象嵌と曲線のフォルムが優美な白いティーワゴンだった。

「皆様、お茶が冷めております。新しいお茶をどうぞ。こちらは我が伯爵家の氷菓子にございます」

リリシャがテーブルにお茶と氷菓子を並べる。

「私の氷魔法で作りました。アイスクリームといいます」

侯爵と王宮の役人たちが瞠目する。

見たこともない菓子である。いや、氷菓子という名称すら初めて聞くものだった。氷魔法はあっても攻撃魔法として使うだけで、料理に活用した者はいなかった。ジュースを凍らせる簡単なシャーベットすら存在していないのだ。

「ほう? 珍しい菓子ですね。アイスクリームですか、見たことも聞いたこともない菓子です」

と、甘味が好物の書記官がアイスクリームを一口味わう。グワッ、と目が輝いた。

「う、美味い! 何だ、この菓子は!?」

感動する書記官の姿に、侯爵と法務官が続く。

「これは……!?」

「美味しい!!」

「蕩ける……。この舌の上に残る冷たさの余韻。固すぎず柔らかすぎず、体験したことのない滑らかな未知の食感が絶妙だ。甘さも他と比べようがないほど濃厚で美味い。これぞ天国の味!」

大絶賛する書記官がギラリとリリシャを見つめた。獣のように双眸が爛々としている。

「ご令嬢が作られた? アイスクリームはご令嬢の発想なのか?」

「はい。他にもシャーベットとかプリンとかクレープとか色々とあります」

誰も知らない美味しいものや珍しいものには価値がある。経済的な有用性はもちろん、貴族ならば政治的な実利を図る手段として用いる方法もあった。

それを承知の上でリリシャは言った。

「レシピは王家に献上するつもりです」

父親の伯爵も許可してくれた。伯爵には、ラウレリスとの婚約を拒否できずにリリシャを不幸にした負い目があった。

「「「なんと……っ!」」」

侯爵も王宮の役人たちも、魑魅魍魎が蔓延る王宮でトップクラスにいるのだ。交渉道具としてのアイスクリームの真価を見抜いていた。

外交、内政、王宮運営、あらゆる場面で有効活用が可能である。

それをアッサリと献上する、と言ったリリシャに侯爵と役人たちの視線が集中した。

「私には大望があります。女性から離婚を申し出る権利、女性が財産を保有する権利を認めてもらいたいのです」

空を舞う風がビョオォッと窓の外で強く吹いた。

伸びた木の枝が揺れて、繁る葉が波のごとくうねり、影が部屋の中に寄せては返す。波が駆けて散るような葉の影の動きだった。

侯爵と法務官は絶句している。書記官はギラギラしていた。

「侯爵様、協力してくださいますよね? 絵空事かも知れません。時間もかかることでしょう。けれども侯爵様の家門と派閥の力添えがあれば成功する公算が大きくなります」

リリシャは日記帳と手紙に触れた。

「厳重に保管はしておりますけれども、もしかしたら盗難とかに遭って日記帳や手紙が社交界に流出したりして……。とても不安ですの。手紙はラウレリス様の直筆ですし……」

すぐさま侯爵が降参した。

「支援する! ただし婚約は円満な解消による和解金、契約上限の金貨1万枚だ!」

「はい、侯爵様。ですが1万枚も?」

「投資だよ。まったく忌々しいことにリリシャ嬢は勝馬特性だ」

侯爵がリリシャを鋭く睨む。が、口元は見事な令嬢と緩んでいた。

「王家は受け入れるだろう。このアイスクリームは全てにおいて強力な武器になる。利は天文学的価値だ。以前から議会で案は出ていたのだ。他にもレシピがあるならば保守的な国王陛下も否やはないだろう」

「僕も協力します! 邪魔する者は地獄の底に蹴落とすので任せてください。リリシャ嬢は僕の女神様ですから!」

書記官がリリシャの前に片膝をついた。

「求婚します。僕はダレン・ジェルエット、家は公爵家です。権力も財産もあります。存分に利用してください」

「はい?」

びっくりしてリリシャがした疑問型の返事に、ダレンは了承ではないことを承知の上でリリシャの手を握った。

「ありがとうございます、承諾してくれて。リリシャ嬢の強かさ、腹黒さ、賢さ、素晴らしすぎます。僕の理想です。しかも極上のデザート付き! 生まれてきてよかった、僕の人生は薔薇色です!」

「いえ、あの、待ってください」

ヤバ系を釣り上げてしまった、とリリシャが焦る。公爵家。王宮への伝手として最高の相手だと思うが急展開に胸がざわつく。

人間は相手から「嫌い」と言われるとすぐに信じるが「好き」と言われてもすぐに信じる人は多くない。リリシャもいきなりの告白に混乱していた。

「そうそう。僕の属性は結界魔法です。結界魔法の所有者は、好きな人を閉じ込めてしまう性質と言われるくらい一途です。浮気はしません。陛下は叔父なので、おねだりして屋敷内でのレシピ使用を許可してもらいましょう。二人で幸せになりましょうね!!」

「待ってください。い、家に! まず父に申し込んでください。私の結婚は父に決定権があります!」

スルリ、とダレンの手からリリシャが逃げる。

ダレンを押しつけられた伯爵がすまなそうな目をリリシャに向けた。しょぼんと眉が垂れ下がる。

「ごめんよ、たぶん勝てない……」

「お父様、戦う前です!」

「でもぉ〜、お父様は知っているんだ。彼はジェルエット公爵家だよ。無敵のジェルエット公爵家なんだ、魔王の化身なんだ、無理だよぅ〜」

手を取り合う父娘に、ダレンは瞳孔全開の笑顔を煌めかせた。

「よろしくね、僕の愛しい未来の奥様。貴族の結婚は政略だよ。絶対に僕は別れの花を告げないからね」

かくしてリリシャの婚約解消における自由時間は35分で終了したのであった。

王国歴232年、女性側からの離婚および女性の財産保有の権利が法的に認められた。

そこに賢王と称えられた国王の名はあるが、リリシャの名前はない。

しかし。

ジェルエット公爵夫人リリシャの名前は【料理の神様】として歴史書に残っている。

画期的なデザートと料理の数々。

ジェルエット公爵夫人リリシャが転換期となり、料理もデザートも新たな時代をむかえたと称賛されていた。

また、夫のジェルエット公爵の底なし沼のごとき愛情も裏歴史書に残るほどに知れ渡っている。大事に、大切に、羽根でくるむみたいに生涯愛したと綴られていた。ただ裏歴史書であるので、監禁ギリギリの溺愛だったともマル秘で書かれていた。が、風を読むことが得意だったリリシャ夫人は神回避も上手く、公爵は常に振り回されていたとの記述も残っていたのだった。