軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

228 時は流れ……ない

春の陽射しを浴びながら、車椅子に身を預け、窓の外の木々を眺めていると、

「蔵式さん。今日もレクリエーションには参加されませんか?」

居室の入口から若い介護士が声をかけてくる。

俺は自動的に、

「ああ……自分は結構」

しわがれた声で、無愛想にそう答える。

答えつつ、俺は激しい違和感に襲われた。

なんだ、今の声? 本当に俺の声か?

しかも、答えようと思う前に、勝手に口をついて出た。

目を何気なく手元に落とし、さらに驚く。

車椅子の手すりにあったのは、シワに覆われ、血管が青く浮き出た手の甲だ。

手のひらを見ようと裏返そうとしても、筋肉が強張って動かない。

介護士は俺の異変に気づいた様子もなく、

「そうですか。気が向いたらいつでも歓迎ですからね」

明るくそう言ってくれるが、介護士本人も自分の言葉をあまり信じていないように見えた。

蔵式悠人という老人が気難しいことに加え、施設内の高齢者たちの人間関係は固定的だ。

最期の時を迎えるその日まで、ここを出ていく者はいないのだから。

――そんな感想がどこからともなく湧いてくる。

「……なんだこの状況は」

とつぶやき、自分の声がかすれていることに改めて驚く。

「おぼろげながら記憶はあるな。いや、これは本当に記憶なのか?」

俺が自分の置かれた状況に違和感を覚えるやいなや、今の状況に至る「経緯」が、俺の脳裏に浮かんでくる。

ひきこもり状態を脱し、探索者として活躍していた俺は、ある日突然、ダンジョン内で正体不明の呪いを受けた。

その呪いは「封印」――ステータスが使用できなくなるというものだ。

ステータスが使用できないということは、固有スキルやスキルはもちろん、能力値による補正も受けられなくなるということだ。

状態異常とは原理が異なるらしく、俺はついに「封印」を解く手段を見つけることができなかった。

探索者として活動する手段を失った俺は、再びずるずるとひきこもりに。

幸いなことに銀行口座にはそれなりの預金があったが、そのことがよかったのかどうか。

俺はその状態を脱することができないまま、五年、十年の歳月を無駄にした。

はじめは俺のことを励ましてくれていた人たちも、いつしか自分のことで忙しくなり、俺は月日とともに孤立を深めていった。

十年を無為に過ごした後に、二十年、三十年を待つのは、思ったよりも簡単だ。

気づけば俺は高齢者となり、介護施設にお世話になる身になっていた。

その介護施設が羅漢の元グループ会社の運営する施設だったのは皮肉だが、その頃にはさすがにブラック体質も駆逐され、数ある一般企業の一つになっていた。

俺はステータスを「封印」されたあの日のことを三十年以上も悔やみながら老後を迎え、無念を抱えたまま虚しく最期の時を待っている――

という、なんともしんどいストーリーが俺の脳裏に浮かんだのだ。

だが、このストーリーには破綻も多い。

「俺は探索者だった時のことをかなりはっきり覚えてる。まるで昨日のことみたいに」

かかりつけの医師によれば、認知症の患者は最近のことよりも昔のことをはっきり覚えていることがあるという。

このかかりつけ医の言葉とやらも、たった今、辻褄を合わせるかのように浮かんできた。まるで映画のナレーションみたいにな。

しかし、

「前にも同じようなことがあったよな」

奥多摩湖ダンジョンの崩壊を止めた後のことだ。

俺は異世界からその一部が流れ込んでいた界竜シュプレフニルの干渉によって、この世界とは異なる平行世界に飛ばされた。

そこでの俺は、文句のつけようのないリア充爆発の高校生だった。

その夢に浸っていれば幸せだったのかもしれないが、それでも俺は元の世界に戻ることを選んだ。

何の挫折もなく青春を送り、将来も半ば約束された優秀な探索者であるという境遇を捨て、何度となく挫折を繰り返し、複雑骨折したままバラバラになった心の欠片をつなぎ合わせるようにして生きていた元の人生へと戻ったのだ。

「今回はその逆か? いや、前回に比べれば試練ってほどのこともないか」

今俺がこんな状況になっている理由はわからない。

ただ、脱出する方法は既にある。

あの時と同じく、「困難から逃げる」を使えばいい。

Skill──────────────────

逃げる

S.Lv1 戦闘から逃げることができる。

S.Lv2 現実から逃げることができる。

S.Lv3 困難から逃げることができる。

S.Lv3「困難から逃げる」

使用条件:

自分の置かれた状況が完全に解決不能であることを心の底から認識する。

特記事項:

「困難から逃げる」による因果の遡行では、自分自身に属する因果は最新の状態のまま保持される。

ただし、因果の認識は人間の魂には負荷が大きいため、因果の遡行に時間をかけすぎると自分自身の因果が摩滅する。

また、認識した「困難」と直接的な関係がない時点まで因果を遡行することはできない。

同じ困難から繰り返し逃げることは可能だが、そのたびに魂に負け癖がつき、自己肯定感が永続的に減少する。減少した自己肯定感は同種の困難に打ち克つことでしか回復できない。

────────────────────

「多分だが、俺の今のこの状況は、平行世界なんかじゃなくて幻覚だろう。俺の知らない誰かの固有スキルの効果なんじゃないか? ただのスキルにしては強力だしな」

命を狙われる心当たりなんてない――と言いたいが、この状況に陥る前の俺には、命を狙われるような心当たりが死ぬほどあった。

国内の凍崎路線過激派が凍崎誠二の理想実現の障害となる俺を消そうと考えたのかもしれないし、他国の工作員が俺の力を恐れて暗殺を企てたのかもしれない。

あるいは、殺せそうにないと見て、こんな搦め手に訴えたのだろうか。

「そうだとしても、そいつらが異世界の神である界竜シュプレフニルをも超えるような力を持ってるとは考えにくいな」

ジョブ世界に試練と称して放り込まれたあの時に比べれば、事態を楽観してもいいだろう。

とはいえ、面倒なこともある。

「『困難から逃げる』を使うには、『自分の置かれた状況が完全に解決不能であることを心の底から認識する』必要があるんだよな」

なまじ対処できそうな危機だけに、この条件を満たすのが難しい。

それに、

「ステータスオープン……やっぱダメか」

さっきのストーリーにあった通り、今の俺はステータスが「封印」されたことになってるらしい。

とはいえ、これも絶望するような話ではない。

「困難から逃げる」は、俺の固有スキル「逃げる」の、いわばサブスキルのような能力だ。

スキルが使えないはずのジョブ世界でも、「困難から逃げる」は使うことができた。

固有スキルは魂に刻まれたものであり、他のスキルとは扱いが異なるというような話だったか。

となると、今の状態でも「困難から逃げる」は使えるだろう。

「……いや、違うな。ここはあえて悲観的に考えるべきだ」

ステータスを「封印」されたことにされている現在のこの状態では、「困難から逃げる」も使えないかもしれない。

するとどうなるか。

俺はこの幻覚だかなんだかの世界から脱出することができず、このまま寄る辺のない孤独な老人として無念を抱えたまま生涯を終えることになってしまう。

いや、べつに老人が孤独であっても悪いわけじゃないか?

長く生きればその分、人と死に別れることも多いだろう。

本人の性格もあるんだから、人間関係の少ない高齢者がいたとして、「孤独でかわいそう」と決めつけるのも問題だ。

さっきの介護士さんも、「せっかく施設が交流の機会を設けてあげているのに他の人たちと馴染もうとしないとは困ったものだ」的な空気を感じなくもなかった。

俺が実際に高齢者になって施設に入ったとしたら、同世代の高齢者の集まりにうまく溶け込めるかははなはだ疑問だな。

人生の最期くらい好きに過ごしたいと思えば、一人でいることを選んだって文句を言われる筋合いはない。

おっと、話が逸れてしまった。

老人に孤独はある程度伴うものかもしれないが、それにしたって、芹香やほのかちゃん、はるかさん、灰谷さんといった知り合いと交流が絶えているのは寂しすぎる。

俺がステータスを失ったからといって芹香が俺のことを簡単に見限るとも思えない。

俺に恩義を感じているはるかさんだってそうだろう。

っていうか、エルフであるはるかさんは今でも健在である可能性が高いよな。

さっきのストーリーにはそういう齟齬があるわけだ。

このストーリーをでっち上げた誰かがいるのだとしたら、そいつは俺のことを表面的にしか知らないんだろう。

それでもあえてストーリーに乗っかって考えるなら、今の状態は絶望的だ。

俺は手に入れたはずのすべてのものを失った。

過ぎ去った時を取り戻すことはできない。

人生いくつになってもやり直せるとよく言うが、さすがにこの年齢になってしまえばできることはほとんど残されてない。

おまけに、施設の他の高齢者と比べても、今の俺の健康状態は悪いらしい。

――ああ、終わったな。詰んだな。

俺は過去に何度となく噛み締めた経験のあるその言葉を、脳裏でひたすらリフレインする。

蘇ってくるのは、でっち上げられたストーリーではなく、生々しいトラウマだ。

それでもダンジョンというありえないような「チャンス」を得て、俺は自分の人生を取り戻した。

そのすべてが一夜にして失われ、もう取り返しもつかないとしたら――?

自分の視野をひたすら狭め、絶望に心を浸し切ることしばし。

俺は、無数の星の瞬く銀河のような空間に現れた。

「やれやれ。うまく行ったか」

自分の身体を見下ろすと、直前の記憶にある通りの若い身体に戻っている。

もっとも、物質の存在しえない空間だけに、自分の身体は半透明に透けている。

さっきは銀河のような空間と言ったが、厳密には違うところもある。

銀河というものが中心からどら焼き状に広がるものなのに対し、俺が見下ろしているそれは、枝を広げる樹のように根本から外へと広がるように分岐している。

その樹をクローズアップして見ると、星のように見えた瞬きは、それぞれが俺の経験した過去の映像だった。

各地のAランクダンジョンを巡って特殊条件ボーナスを漁っている光景。

海ほたるダンジョンに乗り込み、男児会の探索者と神取桐子を捕らえた光景。

少し空いて、凍崎誠二が自政党の総裁となり、世界を揺るがすあの演説を行っている光景。

そして、その後の怒涛の日々も。

現在俺が立っている地点は、その怒涛の日々の途中から細く短い糸のようなものが脇に逸れた先にある。

もし脳裏に浮かんだストーリーが現実なら、そのストーリーはこの樹状の因果連鎖の太い幹となっていたはずだ。

にもかかわらず、このストーリーの属する枝は、日光を浴びられなかったもやしのようにか細く、今にも消えてしまいそうに見える。

その「もやし」を根本へと遡ると、

「ああ、そういうことか」

俺の人生が分岐したポイントを見て、俺は自分の置かれた状況を把握した。

この状況を打開できそうな方法も、すぐにいくつか思いつく。

未知の固有スキルによる攻撃への対策は、Sランクダンジョン攻略の目的の一つとしていたからな。

「あの胡散臭い西洋人の仕業だったのか」

ステータスの鑑定はかろうじて成功していた。

名はミハイル・ウスペンスキー。

ロシア大使館参事官・ロシア対外情報局東京支局長。

固有スキルは――

「……なるほど。そういうからくりか」

それなら対処は思ったよりも簡単だ。

もしかしたら「因果から逃げる」を使わなくてもよかったかもな。

「こんな目に遭わせてくれたんだ。同じことをやり返されても文句は言えないよな」

俺はウスペンスキーの固有スキルの説明文を熟読し、報復の手順を確かめる。

未知の固有スキル対策はもっとスマートに行く予定だったんだけどな。

この固有スキルの方向性が、これまで見てきた他のスキルと比べて異質すぎた。

「まあ、結果的になんとかできたんだからよしとするか」

俺は、因果樹の中から遡りたい「時点」を選ぶと、そこに浮かぶ映像へと意識を凝らし――

……え? 話がなんか飛んでるような気がするって?

たしかに、ちょっと話を急ぎすぎたかもしれないな。

ここは俺のためのおさらいもかねて、凍崎の「大演説」(……と世間では呼ばれている)の直後に時を巻き戻そう。

大演説の後に世界がどう変わり、同時に俺の身の上がどう変わってしまったのか。

因果樹の映像を見ながら思い出せば、何か見逃してたものが見えてくるかもしれないしな。

まずは……そうだな。

あの演説の直後も直後、はるかさんと引き離され、俺に助けを求めてきたほのかちゃんと合流したところから語ろうか。