軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第17話 モブ、学園アイドルに卵焼きを教えていたら「ちょっとカッコよく見えた」と甘い爆弾を食らう

坂を上りきって、息を整えた。

……また来てしまった。

門柱の前で、インターホンに指を伸ばしかけた——その手前で、ガチャ、と内側からドアが開いた。

「水野くん、おそーい!」

ポニーテール。エプロンはまだ手に持ったまま。

気合入りすぎだろ、こいつ。

「時間通りだろ」

「えー、三十秒は遅いよ?」

「三十秒で『おそーい』はねえだろ」

「気持ちの問題!」

気持ちで遅刻判定すんな。

廊下を通ってリビングへ。

ソファに誰もいない。テレビの画面は黒いまま。

……前よりシーンとしてんな。

口には出さず、橘の後ろを歩いた。

アイランドキッチンが見えた。

まな板も包丁も、きっちり用意されている。

奥の炊飯器は、もう動いている。

……今日は、本気だな。

橘がエプロンを締めて、ポニーテールを結び直した。

「今日は絶対作るから!」

「まずは野菜な」

橘が冷蔵庫から取り出したのは、玉ねぎ一個とじゃがいも二個。

……ちゃんと別物だ。

「ほら、間違えてないでしょ?」

「……まあな」

ちゃんと褒めとけよ俺、と一瞬思って、すぐ引っ込めた。

褒めると調子に乗るタイプだ、こいつ。

「ねえ、もうちょっと反応ない?」

「あるわけねえだろ、玉ねぎ識別ぐらいで」

「むー」

橘は頬を膨らませて、それでも嬉しそうに包丁を握った。

左手は、猫の手。

ぎこちないが、ちゃんと指を曲げている。

「もう少し左手の指、曲げろ」

「これくらい?」

「もう一段」

「これ?」

「……まあ、いい」

橘がじゃがいもをいちょう切りにしていく。

最初の一枚は厚みがバラバラだったが、二枚目、三枚目と、サイズが揃ってきた。

……意外と覚えてんな。

途中、橘が一度だけ、自分の右手をちらっと見た。

包丁を握っている、その右手を。

……ああ、覚えてんのか。

俺は何も気づかなかったふりをして、冷蔵庫の方を向いた。

卵パックを取り出して、ボウルの脇に置く。

「次、卵焼きな」

「来た……」

橘の声が、一段低くなった。

「前回、殻だけで終わったやつな」

「言わないで!」

「事実だろ」

橘がぐっと唇を結んで、ボウルを引き寄せた。

卵を一個、コンと割る。

……お、いけたな。

「見て、殻入ってない!」

「一回割れただけで騒ぐなよ」

「だって、ずっと殻入っちゃってたんだもん!」

堂々と言うな、と思ったが、口には出さない。

橘は続けて三個、全部クリアした。

……成長してんな、こいつ。

ボウルに白だしと砂糖を加える。

俺は卵焼き用の長方形フライパンを出した。

「火、弱めから」

「中火じゃないの?」

「弱めから」

橘がコンロの調節レバーを、おそるおそる弱火側へ滑らせた。

……いや、それ強火側だぞ。

「逆」

「えっ? あっ」

橘が慌ててレバーを動かした。

今度は最小まで一気に絞ってしまった。

「だから言ったろ」

俺は横から手を伸ばして、レバーを少しだけ弱火側に押し戻した。

フライパンには触らない。

手にも、触らない。

「油」

「はい」

橘が油を引く。

フライパンに広がったところで、ボウルを構えた。

——次の瞬間、卵を、ジャーッと一気に流し込んだ。

「えっ、ちょっ、固まってる!」

「だから三回に分けろって、言って——いや言ってなかったか」

「言ってない!」

「あー、すまん、忘れてた!」

フライパンの端から、卵が一気に固まり始める。

完璧にスクランブルへの直線コースだ。

「火、弱めろ」

「弱めた!」

「もう一段!」

「あ、ごめん!」

橘がレバーに手を伸ばして、逆方向に動かした。

「そっちじゃない!」

俺はもう一回横から手を伸ばして、レバーを動かした。

その途中で、橘の指と俺の指が、一瞬だけ触れかけた。

慌てて手を引いた。

橘も、ぱっと手を引いた。

フライパンの中の卵は、もう手遅れだ。

「これ、卵焼きじゃなくてスクランブルエッグだな」

「えー、でも食べられるもん!」

「そりゃ食えるけどな」

橘は失敗作を皿に逃して、まっすぐ俺を見上げてきた。

「もう一回やる」

「だな」

ボウルにもう三個、卵を割る。

「卵は、三回に分けて流す」

「三回」

「最初は薄く。手前に折る」

「手前に……」

「次、奥から手前に」

橘が、ゆっくり頷いた。

眉が、ぐっと寄る。

唇を結んで、菜箸を構えた。

……こいつの本気顔、初めて見たかも。

一回目の薄い層。橘が菜箸で手前に寄せる。

たどたどしいが、ちゃんと寄った。

二回目を流して、奥から手前へ。

……いいぞ、そのまま。

三回目。

最後の巻きだけど——あ、崩れた。

「あっ!」

「いいから巻け、巻け」

「巻く!」

橘がフライパンを傾けて、皿に乗せた。

完璧な長方形じゃない。途中で形が丸くなっている。

それでも、卵焼きだ。

「……できた」

「……まあ、食えるな」

俺は短く返した。

橘は皿を見下ろしたまま、小さく、えへへ、と漏らした。

……反則だろ、その顔。

「味噌汁、俺が仕上げる」

「うん、お願い!」

俺は冷蔵庫を開けて、味噌の容器を取り出した。

橘の切ったじゃがいもと玉ねぎを出汁に入れて、味噌を溶く。

炊飯器がピー、と鳴った。

「ご飯、よそうね!」

「おう」

俺は味噌汁をお椀によそって、トレーに乗せた。

ダイニングテーブルが相変わらずでかい。

俺たちは、向かい合って座った。

橘が、自分の卵焼きを見下ろして、ぽつりと言った。

「……作りたて食べるの、久しぶりかも」

……ん?

「普通、作りたてだろ」

うちは自分で作るから、作りたてしか食ったことがない。

橘は「ふふ」と笑った。

それ以上は言わずに、箸を取った。

「いただきます」

「いただきます」

声を揃えて、手を合わせた。

橘が、まず卵焼きに箸を伸ばす。

形の崩れた、その境目あたり。

口に運んで、噛んで——ぱっと顔を上げた。

「……おいしい!」

「半分スクランブルだけどな」

「でも自分で作ったから美味しいの!」

出たな、自分で作ったから理論。

まぁ、気持ちはわかる。

俺は味噌汁を一口飲んだ。普通にうまい。

「味噌汁もちゃんと味する」

「ちゃんとってなんだよ」

「ちゃんとはちゃんとだよ」

語彙どうにかしろ。

食事が中盤に入った。

ご飯が半分減ったあたりで、橘が、ふと箸を止めた。

まっすぐ、俺を見ている。

「ねえ、水野くん」

「……なんだよ」

「さっき、教えてくれてたとき」

……何の話だ?

俺は箸を止めて、橘を見返した。

橘は、ちょっとだけ唇を持ち上げて、それから言った。

「水野くん、ちょっとカッコよく見えた」

無自覚で爆弾を投げるなよ!

「……料理してるだけだろ」

俺は目をそらしながら、ぶっきらぼうに返した。

「そうなんだけど、なんかさ、ちゃんとしてる人って感じ」

「うるさい」

味噌汁を一気に飲んだ。

熱い。喉が痛い。

橘は「ふふ」と笑って、何事もなかった顔で卵焼きに箸を伸ばした。

食事が終盤に近づいた。

卵焼きはもう残っていない。橘が全部食べた。

「水野くんは毎日作ってるの?」

「作らなきゃ食えないからな」

「すごい……」

橘が感心したような顔で、味噌汁の椀を見下ろした。

それから、何気ない調子で続けた。

「うちね、平日はお昼に家政婦さんが来て作り置きしてくれるから、夜はそれを温めるだけなんだ」

箸が、止まった。

……家政婦、か。

家がでかいから、誰か手伝う人はいるんだろうとは思っていた。

「でも土日は来ないから、自分で適当に買うか、お母さんが作ってくれる残り物を温めるかで……」

橘がそこで一度言葉を切って、困ったように笑った。

「……ごめん、なんか暗い話みたいになっちゃったね」

……いや、別に暗くねえよ。

俺は声には出さずに、味噌汁を一口飲んだ。

リビングの方を、ちらっと見る。

誰もいない空間が、広がっている。

「……今日、お母さんは?」

「お母さんはお茶のお稽古。終わったら会食だから、夜まで帰らないんだって」

「……お父さんは?」

「お父さんは料亭で忙しいから、夜遅いの。土曜はいつもこんな感じ」

「兄貴は?」

「お兄ちゃん? 一人暮らしだから、毎日いるわけじゃないの」

橘は、軽い口調で答えていく。

俺は箸を持ったまま、止まった。

……じゃあ、橘、夜一人か。

声には、出さない。

橘が、にこっと笑った。

「いつものことだよ、気にしないで!」

その声が、いつもより明るく聞こえた。

……そういうこと、ポロっと言うなよ。

「……そうか」

俺はそれだけ返した。

味噌汁の椀を持ち上げて、残りを飲んだ。

空になった椀を、トレーの上に置く。

橘が、空気を切り替えるように、明るい声で言った。

「次はさ、ハンバーグとか作ってみたい!」

「……ハンバーグは卵焼きより面倒だぞ」

「やってみたいの! お母さんには作ってもらったことないし」

……そういうこと、本当にポロっと言うなって。

俺は、ご飯茶碗を空にしてから、短く返した。

「……まあ、また来週な」

橘の目が、ぱっと光った。

「ほんと? 来週も?」

「……来週じゃなくて再来週でもいいけど」

「来週がいい!」

「……はいはい」

俺は箸を置いた。

橘は、満足そうに茶碗を置いて、両手を合わせた。

「ごちそうさまでした!」

「ごちそうさまでした」

俺も、手を合わせた。

片付けは二人で軽く済ませた。

橘が洗い、俺が拭く。手分けして、すぐ終わった。

……ここだけ手慣れてんな、こいつ。

皿を片付け終えて、リビングを抜ける。

玄関で、橘がサンダルを引っかけた。

「送る!」

「いいって」

「途中までだし!」

「またそれかよ」

俺はぼそっと言って、靴を履いた。

外は、夕方が近い。

坂を、二人で下り始めた。

坂の途中の街灯のところで、橘が立ち止まった。

「今日の卵焼き、忘れないからね」

橘は、両手を背中で組んで、俺を見上げた。

……「ありがとね」じゃないんだな、今日は。

「……来週、ハンバーグだっけか」

「うん! えっと……再来週でもいいよ?」

「……来週にしとけ」

「やった、来週ね!」

橘が手を振る。

俺は軽く片手を上げて返して、坂を下り始めた。

数歩進んで、振り返ると、橘はまだ街灯の下で手を振っていた。

……ったく。

俺はもう振り返らずに、坂を下った。

坂の中腹で、ペースが落ちた。

……土曜の夜、一人で食ってんのか、あいつ。

広いダイニング。

皿は二枚、椀も二つ。

あれが普段、一つなのか。

……俺が行くから、今日は一人じゃなかったわけか。

坂を下りきる手前で、もう一回ペースが落ちた。

……偽彼氏の役割、にしては、ちょっとな。

……月曜、教室であいつにどんな顔すりゃいいんだ。

商店街の信号が、青になった。

俺は顔を上げて、駅の方へ歩き出した。

……来週、な。