作品タイトル不明
第17話 モブ、学園アイドルに卵焼きを教えていたら「ちょっとカッコよく見えた」と甘い爆弾を食らう
坂を上りきって、息を整えた。
……また来てしまった。
門柱の前で、インターホンに指を伸ばしかけた——その手前で、ガチャ、と内側からドアが開いた。
「水野くん、おそーい!」
ポニーテール。エプロンはまだ手に持ったまま。
気合入りすぎだろ、こいつ。
「時間通りだろ」
「えー、三十秒は遅いよ?」
「三十秒で『おそーい』はねえだろ」
「気持ちの問題!」
気持ちで遅刻判定すんな。
廊下を通ってリビングへ。
ソファに誰もいない。テレビの画面は黒いまま。
……前よりシーンとしてんな。
口には出さず、橘の後ろを歩いた。
アイランドキッチンが見えた。
まな板も包丁も、きっちり用意されている。
奥の炊飯器は、もう動いている。
……今日は、本気だな。
◇
橘がエプロンを締めて、ポニーテールを結び直した。
「今日は絶対作るから!」
「まずは野菜な」
橘が冷蔵庫から取り出したのは、玉ねぎ一個とじゃがいも二個。
……ちゃんと別物だ。
「ほら、間違えてないでしょ?」
「……まあな」
ちゃんと褒めとけよ俺、と一瞬思って、すぐ引っ込めた。
褒めると調子に乗るタイプだ、こいつ。
「ねえ、もうちょっと反応ない?」
「あるわけねえだろ、玉ねぎ識別ぐらいで」
「むー」
橘は頬を膨らませて、それでも嬉しそうに包丁を握った。
左手は、猫の手。
ぎこちないが、ちゃんと指を曲げている。
「もう少し左手の指、曲げろ」
「これくらい?」
「もう一段」
「これ?」
「……まあ、いい」
橘がじゃがいもをいちょう切りにしていく。
最初の一枚は厚みがバラバラだったが、二枚目、三枚目と、サイズが揃ってきた。
……意外と覚えてんな。
途中、橘が一度だけ、自分の右手をちらっと見た。
包丁を握っている、その右手を。
……ああ、覚えてんのか。
俺は何も気づかなかったふりをして、冷蔵庫の方を向いた。
卵パックを取り出して、ボウルの脇に置く。
◇
「次、卵焼きな」
「来た……」
橘の声が、一段低くなった。
「前回、殻だけで終わったやつな」
「言わないで!」
「事実だろ」
橘がぐっと唇を結んで、ボウルを引き寄せた。
卵を一個、コンと割る。
……お、いけたな。
「見て、殻入ってない!」
「一回割れただけで騒ぐなよ」
「だって、ずっと殻入っちゃってたんだもん!」
堂々と言うな、と思ったが、口には出さない。
橘は続けて三個、全部クリアした。
……成長してんな、こいつ。
ボウルに白だしと砂糖を加える。
俺は卵焼き用の長方形フライパンを出した。
「火、弱めから」
「中火じゃないの?」
「弱めから」
橘がコンロの調節レバーを、おそるおそる弱火側へ滑らせた。
……いや、それ強火側だぞ。
「逆」
「えっ? あっ」
橘が慌ててレバーを動かした。
今度は最小まで一気に絞ってしまった。
「だから言ったろ」
俺は横から手を伸ばして、レバーを少しだけ弱火側に押し戻した。
フライパンには触らない。
手にも、触らない。
「油」
「はい」
橘が油を引く。
フライパンに広がったところで、ボウルを構えた。
——次の瞬間、卵を、ジャーッと一気に流し込んだ。
「えっ、ちょっ、固まってる!」
「だから三回に分けろって、言って——いや言ってなかったか」
「言ってない!」
「あー、すまん、忘れてた!」
フライパンの端から、卵が一気に固まり始める。
完璧にスクランブルへの直線コースだ。
「火、弱めろ」
「弱めた!」
「もう一段!」
「あ、ごめん!」
橘がレバーに手を伸ばして、逆方向に動かした。
「そっちじゃない!」
俺はもう一回横から手を伸ばして、レバーを動かした。
その途中で、橘の指と俺の指が、一瞬だけ触れかけた。
慌てて手を引いた。
橘も、ぱっと手を引いた。
フライパンの中の卵は、もう手遅れだ。
「これ、卵焼きじゃなくてスクランブルエッグだな」
「えー、でも食べられるもん!」
「そりゃ食えるけどな」
橘は失敗作を皿に逃して、まっすぐ俺を見上げてきた。
「もう一回やる」
「だな」
ボウルにもう三個、卵を割る。
「卵は、三回に分けて流す」
「三回」
「最初は薄く。手前に折る」
「手前に……」
「次、奥から手前に」
橘が、ゆっくり頷いた。
眉が、ぐっと寄る。
唇を結んで、菜箸を構えた。
……こいつの本気顔、初めて見たかも。
一回目の薄い層。橘が菜箸で手前に寄せる。
たどたどしいが、ちゃんと寄った。
二回目を流して、奥から手前へ。
……いいぞ、そのまま。
三回目。
最後の巻きだけど——あ、崩れた。
「あっ!」
「いいから巻け、巻け」
「巻く!」
橘がフライパンを傾けて、皿に乗せた。
完璧な長方形じゃない。途中で形が丸くなっている。
それでも、卵焼きだ。
「……できた」
「……まあ、食えるな」
俺は短く返した。
橘は皿を見下ろしたまま、小さく、えへへ、と漏らした。
……反則だろ、その顔。
「味噌汁、俺が仕上げる」
「うん、お願い!」
俺は冷蔵庫を開けて、味噌の容器を取り出した。
橘の切ったじゃがいもと玉ねぎを出汁に入れて、味噌を溶く。
炊飯器がピー、と鳴った。
「ご飯、よそうね!」
「おう」
俺は味噌汁をお椀によそって、トレーに乗せた。
ダイニングテーブルが相変わらずでかい。
俺たちは、向かい合って座った。
橘が、自分の卵焼きを見下ろして、ぽつりと言った。
「……作りたて食べるの、久しぶりかも」
……ん?
「普通、作りたてだろ」
うちは自分で作るから、作りたてしか食ったことがない。
橘は「ふふ」と笑った。
それ以上は言わずに、箸を取った。
◇
「いただきます」
「いただきます」
声を揃えて、手を合わせた。
橘が、まず卵焼きに箸を伸ばす。
形の崩れた、その境目あたり。
口に運んで、噛んで——ぱっと顔を上げた。
「……おいしい!」
「半分スクランブルだけどな」
「でも自分で作ったから美味しいの!」
出たな、自分で作ったから理論。
まぁ、気持ちはわかる。
俺は味噌汁を一口飲んだ。普通にうまい。
「味噌汁もちゃんと味する」
「ちゃんとってなんだよ」
「ちゃんとはちゃんとだよ」
語彙どうにかしろ。
食事が中盤に入った。
ご飯が半分減ったあたりで、橘が、ふと箸を止めた。
まっすぐ、俺を見ている。
「ねえ、水野くん」
「……なんだよ」
「さっき、教えてくれてたとき」
……何の話だ?
俺は箸を止めて、橘を見返した。
橘は、ちょっとだけ唇を持ち上げて、それから言った。
「水野くん、ちょっとカッコよく見えた」
無自覚で爆弾を投げるなよ!
「……料理してるだけだろ」
俺は目をそらしながら、ぶっきらぼうに返した。
「そうなんだけど、なんかさ、ちゃんとしてる人って感じ」
「うるさい」
味噌汁を一気に飲んだ。
熱い。喉が痛い。
橘は「ふふ」と笑って、何事もなかった顔で卵焼きに箸を伸ばした。
◇
食事が終盤に近づいた。
卵焼きはもう残っていない。橘が全部食べた。
「水野くんは毎日作ってるの?」
「作らなきゃ食えないからな」
「すごい……」
橘が感心したような顔で、味噌汁の椀を見下ろした。
それから、何気ない調子で続けた。
「うちね、平日はお昼に家政婦さんが来て作り置きしてくれるから、夜はそれを温めるだけなんだ」
箸が、止まった。
……家政婦、か。
家がでかいから、誰か手伝う人はいるんだろうとは思っていた。
「でも土日は来ないから、自分で適当に買うか、お母さんが作ってくれる残り物を温めるかで……」
橘がそこで一度言葉を切って、困ったように笑った。
「……ごめん、なんか暗い話みたいになっちゃったね」
……いや、別に暗くねえよ。
俺は声には出さずに、味噌汁を一口飲んだ。
リビングの方を、ちらっと見る。
誰もいない空間が、広がっている。
「……今日、お母さんは?」
「お母さんはお茶のお稽古。終わったら会食だから、夜まで帰らないんだって」
「……お父さんは?」
「お父さんは料亭で忙しいから、夜遅いの。土曜はいつもこんな感じ」
「兄貴は?」
「お兄ちゃん? 一人暮らしだから、毎日いるわけじゃないの」
橘は、軽い口調で答えていく。
俺は箸を持ったまま、止まった。
……じゃあ、橘、夜一人か。
声には、出さない。
橘が、にこっと笑った。
「いつものことだよ、気にしないで!」
その声が、いつもより明るく聞こえた。
……そういうこと、ポロっと言うなよ。
「……そうか」
俺はそれだけ返した。
味噌汁の椀を持ち上げて、残りを飲んだ。
空になった椀を、トレーの上に置く。
橘が、空気を切り替えるように、明るい声で言った。
「次はさ、ハンバーグとか作ってみたい!」
「……ハンバーグは卵焼きより面倒だぞ」
「やってみたいの! お母さんには作ってもらったことないし」
……そういうこと、本当にポロっと言うなって。
俺は、ご飯茶碗を空にしてから、短く返した。
「……まあ、また来週な」
橘の目が、ぱっと光った。
「ほんと? 来週も?」
「……来週じゃなくて再来週でもいいけど」
「来週がいい!」
「……はいはい」
俺は箸を置いた。
橘は、満足そうに茶碗を置いて、両手を合わせた。
「ごちそうさまでした!」
「ごちそうさまでした」
俺も、手を合わせた。
◇
片付けは二人で軽く済ませた。
橘が洗い、俺が拭く。手分けして、すぐ終わった。
……ここだけ手慣れてんな、こいつ。
皿を片付け終えて、リビングを抜ける。
玄関で、橘がサンダルを引っかけた。
「送る!」
「いいって」
「途中までだし!」
「またそれかよ」
俺はぼそっと言って、靴を履いた。
外は、夕方が近い。
坂を、二人で下り始めた。
坂の途中の街灯のところで、橘が立ち止まった。
「今日の卵焼き、忘れないからね」
橘は、両手を背中で組んで、俺を見上げた。
……「ありがとね」じゃないんだな、今日は。
「……来週、ハンバーグだっけか」
「うん! えっと……再来週でもいいよ?」
「……来週にしとけ」
「やった、来週ね!」
橘が手を振る。
俺は軽く片手を上げて返して、坂を下り始めた。
数歩進んで、振り返ると、橘はまだ街灯の下で手を振っていた。
……ったく。
俺はもう振り返らずに、坂を下った。
◇
坂の中腹で、ペースが落ちた。
……土曜の夜、一人で食ってんのか、あいつ。
広いダイニング。
皿は二枚、椀も二つ。
あれが普段、一つなのか。
……俺が行くから、今日は一人じゃなかったわけか。
坂を下りきる手前で、もう一回ペースが落ちた。
……偽彼氏の役割、にしては、ちょっとな。
……月曜、教室であいつにどんな顔すりゃいいんだ。
商店街の信号が、青になった。
俺は顔を上げて、駅の方へ歩き出した。
……来週、な。