軽量なろうリーダー

これが貴族社会というものだ。

作者: 福嶋莉佳

本文

王立学園は王家直轄の学び舎だった。

だが現実には、有力家門の意向が水面下で働く場でもある。

とりわけルヴァリエ公爵家は、代々王家に近い。

学園の後援評議会にも名を連ね、教師人事や推薦にも影響を持つと囁かれていた。

いずれ王太子妃となるレミリアにとって、それは幼い頃から当たり前のことだった。

父――アルベール・フォン・ルヴァリエは、手にしていた書類から目を上げ、娘を見た。

「学園から退けたのなら、まずは十分だ」

「ありがとうございます、お父様。せいせいしましたわ」

父は書類を閉じた。

「……もっとも、あの家はもう難しかろうな」

「あら? どういう意味ですの?」

父は椅子に深く座り直し、淡々と続ける。

「上の家に楯突いた下の家を、そのまま戻してやるわけにはいかん。見せしめは必要だ」

「そこまでなさるのですね」

「容赦して得があるか?」

父はうっすらと笑った。

レミリアも、つられるように目を細める。

王立学園を退学になった男爵令嬢――クラリス・アーデルハイドの姿が、ふと脳裏をよぎる。

学園とは、知識だけでなく、身分に応じた振る舞いを学ぶ場でもある。

けれどあの娘は、それを少しも分かっていなかった。

上位貴族を前にしても臆せず口を開き、ときには異を唱える。

正しければ、誰にでも口を出してよい。

そんな愚かなことを、本気で信じているようだった。

「学園でも、皆さんおっしゃっていましたもの。度を越した無礼は、いずれご自身を滅ぼしますわって」

父はわずかに鼻で笑った。

「身をもって知ることになっただけだ」

レミリアは頷いた。

これが貴族社会というものだ。

退学騒ぎからしばらく経った頃、学園でも、その話は自然と話題に上った。

「男爵家、支援者が減ったそうですわ」

「お父上の仕事先も変わったとか」

「屋敷を縮小するのでは、なんて聞きましたわよ」

「まあ……」

令嬢たちは、驚いたような顔をしながらも、どこか当然の結末のように語っていた。

「ご存知? クラリスさん、どこかのお屋敷に引き取られ、下働きのようなことをしているとか」

「成績が良くても、結局その程度なのですね」

「身の丈に合った場所へ戻っただけでしょう」

レミリアは静かにティーカップを置いた。

「仕方ありませんわよ。無礼が過ぎましたもの」

それから、少しだけ首を傾げる。

「……それに少し、生意気でしたわね」

その言葉に、令嬢たちは待っていたように頷いた。

「ええ。ご本人でもないのに、席次や紹介のことへ口を挟まれては」

「ほんの少し席を外しただけで、不公平だなんて」

「レミリア様にまで、まるで咎めるような口を利いておりましたもの」

「下の家にしては、分不相応なお振る舞いでしたわね」

くすくすと笑いが漏れる。

誰も反論しない。

誰もクラリスを庇わない。

その空気が、レミリアの気分をよくした。

「そうですわね」

レミリアは口元に笑みを浮かべた。

そうして学園生活を送るうちに、クラリスのことを口にする者は少しずつ減っていった。

やがて、誰も彼女の名を話題にしなくなった。

それから数年が過ぎた。

レミリアは十八を迎え、王妃教育も本格的になっていた。

宮中作法、外交の基礎、歴代王妃の事績。王家に連なる者として求められる教養は多く、決して楽ではない。

それでもレミリアは、真面目に学んだ。

いずれ王太子妃となり、王妃となり、この国の女たちの頂点に立つのだからと。

けれど、二十歳を目前にした頃から、妙な噂が立ち始めた。

「最近、殿下がある令嬢と親しくしておられるそうですわ」

「寄付の席でも、制度改革の話し合いでも、その方の名が挙がるとか」

「新興貴族の養女になった方でしょう? 旧貴族の家とも縁を繋いでおられるとか」

夜会で耳に入ったその話に、レミリアはかすかに眉を寄せた。

新興貴族の養女。

その響きだけで、気分が悪くなった。

金で爵位を整えた家々は、どれほど絹をまとっても、どこか商人の匂いがする。

礼を覚え、言葉を飾ったところで、血の薄さまでは隠せない。

そんな家の養女の名が、王家の席で上がる。

それ自体が、レミリアにはひどく目障りだった。

「殿下もお優しいから、珍しがっておられるだけではなくて?」

令嬢の一人がそう言って笑う。

レミリアも笑みを返したが、胸の奥には言いようのないざらつきが残った。

その日の夕刻、レミリアは珍しく自分から父の執務室を訪ねた。

「――たかが新興貴族の養女が、どうして王家の話にまで顔を出しますの? 図々しいにも程がありますわ」

父は鼻で笑った。

「新興貴族は金を持っている。寄付の席で名が出るのは、珍しい話ではない」

「ですが、お父様」

「耳触りのよい制度改革とやらに名を貸せば、金を落とすと王家もお考えなのだろう」

「……では、放っておけとおっしゃるのですか」

「今はな。もっとも、動きは見ておかせる」

「では……もしこれ以上、殿下のお側へ近づくようなら」

「その時は、立場を分からせるだけだ」

その言葉に、レミリアの表情がわずかに和らいだ。

「ただし、今すぐ騒ぐな。金を持つ家は、叩き方を誤ると面倒だ。潰すにも、順番というものがある」

「……分かりましたわ」

「お前が気に病むような話ではない。王太子妃の席に座る者が、ぽっと出の娘の噂に振り回されるな」

父の言葉に、レミリアはようやく頷いた。

結婚準備の整いつつあるこの時期に、あのような娘の名へ心を乱されるほうがおかしい。

そう言い聞かせるように、彼女は静かに扇を閉じた。

夜会の当日、レミリアは一点の曇りもなく鏡の前に立っていた。

王家主催の大夜会。

今宵は婚約に関して、何らかの正式な発表があるのではないかと、宮中でも社交界でも囁かれていた。

淡い銀青のドレスは、王家の色を意識して仕立てられたものだ。

宝飾品も、髪を飾る真珠も、すべてが未来の王太子妃にふさわしいよう選ばれている。

父も満足げに頷いた。

「よく似合っている」

「ありがとうございます、お父様」

今夜を越えれば、誰も妙な噂など口にしなくなる。

新興貴族の養女だの何だの、そうした話はすべて、王家と公爵家の婚約の前にかき消えるはずだった。

そう思っていたのに――

「私は本日、ルヴァリエ公爵家との婚約を白紙に戻す」

王太子の声が、会場に響いた。

「……は?」

何を言われたのか、一瞬理解できなかった。

「殿下……いま、何を……」

「聞こえなかったか。婚約を見直す」

「なぜですの!?」

王太子の眼差しは、驚くほど冷たかった。

「ルヴァリエ公爵家が私怨で下位貴族を追い詰め、王立学園にまで私的圧力を及ぼした疑いがあるからだ」

レミリアの背筋が、すっと冷えた。

「……ずいぶんと大きく出られましたな、殿下」

父が一歩前へ出る。

「そこまで仰るからには、無論、証はお揃いなのでしょう」

「記録はすべて残っている」

王太子の合図で、側に控えていた書記官が書類を広げた。

下位貴族家への圧力。

支援停止と縁談妨害。

家令や側近を通じた指示。

そして、学園関係者による証言と記録。

レミリアは震えながら、広げられた書類へ目を向けた。

知らぬ名も多い。けれど、父の家の印と署名だけは見慣れていた。

王太子は静かに言う。

「下位の者を正すこと自体を咎めるつもりはない。

だが、ルヴァリエ公爵家ほどの家が、私怨で王立学園にまで圧を及ぼし、一つの家を締め上げた。それが問題なのだ」

父は書類を一瞥したきり、すぐには返さなかった。

その沈黙が、レミリアにはかえって異様に思えた。

「……よく、ここまで揃えてこられましたな」

「いや。私が集めたわけではない」

王太子が視線を送る。

人垣が静かに割れた。

現れたのは、第二王子エリアスと、一人の令嬢だった。

令嬢はエリアスの腕に手を添え、落ち着いた足取りで歩いてくる。

流行の薄絹を重ねたドレスに、光を受ける細工の髪飾り。

古い家門の令嬢が好む重厚さとは違う。

近頃、新興貴族の集まりでよく見かける、軽やかで目立つ装いだった。

その姿を見て、レミリアは息を止めた。

「……まさか」

「お久しぶりでございます、レミリア様」

クラリスだった。

学園から消え、もう二度と自分の前には現れないと思っていたはずの女。

「昨年、正式にアストレア伯爵家の養女として迎えていただきました」

クラリスは感情を見せぬまま、淡々と告げる。

「学園を追われた直後は、誰も耳を貸してくださいませんでした。

けれど、伯爵家に迎えられてから、新興の家には旧家への席を、旧家には新しい資金と販路をつないでまいりました。

その積み重ねがあったからこそ、かつて口を閉ざした方々も、私に記録と証言を預けてくださったのです」

エリアスが一歩進み出る。

「クラリス嬢には、私から正式に縁談を申し入れております」

会場に、今度こそはっきりとしたどよめきが走る。

エリアスは落ち着いた声で続けた。

「彼女は、分断されていた家々に利を通した。王家が見過ごしてよい人材ではない」

王太子は冷然と言い渡す。

「ルヴァリエ公爵家には当面、王立学園への関与を禁じる。後援評議会からも退いてもらう」

「……っ」

場が静まり返った。

レミリアは息を詰めたまま父を見た。

いつもなら、父は相手の隙を突き、空気を自分の側へ引き寄せる。

そして最後には、必ず相手を黙らせていた。

なのに。

今は、何も言わなかった。

しばらくして、父はレミリアを振り返った。

「来なさい」

それだけだった。

レミリアはふらふらと父の後に続いた。

新興貴族も、旧貴族も、静かに道を開けた。

誰も引き留めず、誰も声をかけない。

何が悪かったのか、レミリアには分からなかった。

けれど、この場に自分たちへ頷く者がいないことだけは分かった。

その沈黙に押し出されるように、レミリアは会場を後にした。