作品タイトル不明
296.【sideハルト】ハネミヤの攻防
◇ ◇ ◇
涅い雨が降り注ぐハネミヤで、ハルトの叩き込んだ拳が、幻魔を屠る。
しかし、倒しても倒しても終わりが見えない。
地面を這うように迫ってくる幻魔は、まるで底なしの井戸から湧いて出てくるかのようだった。
「団長、これじゃキリがないわよ!」
近くに駆け寄ってきたカティーナが叫ぶ。
彼女が放った水の刃が逃げ遅れた少年へと群がろうとしている数体の幻魔の足を斬り飛ばす。
血とも瘴気とも似つかない涅い飛沫が辺りに飛び散る。
「わかってる!」
軽く返しながら、ハルトは足を喪ってバランスを崩した幻魔に拳を振るう。
拳から放たれた氣の塊が空気を振動させながら、幻魔たちを轢き潰した。
カティーナが少年を立ち上がらせて、民間人を避難させるために集めている場所へと連れていく。
ただ幻魔を斃し続けるだけなら、どうにかなる。
だが、戦えない民たちを護りながらでは話が違った。
外国から来ていた観光客、避難の遅れた子ども連れ、武器を手にすらできない老人。
護らなければならないものが多すぎる。
「クソッ! 【鳥瞰視覚】が使えないことがこんなにもどかしいとはな!」
転移してきたハネミヤの郊外であれば、まだ【鳥瞰視覚】が多少は使えたが、更に魔力が不安定になっているハネミヤでは使えなくなっていた。
「ヒューイ! 民間人の避難状況はどうなってる!?」
ハルトの呼びかけに、少し離れた建物の影から声が返ってきた。
「避難自体は順調です! ですが、これ以上人が増えると、護りきれるかどうか……」
実際、民間人を集めている地点には、すでに三十人以上が身を寄せ合っていた。
そこを護っているのは、シオンとテルシェの二人。
その二人なら信頼はできる。
けれど、幻魔の数がさらに膨れ上がれば、いずれ限界が来る。
「オリヴァーとルーナが戻ってくるには、もう少し時間が掛かりそうか……」
この場にいないオリヴァーとルーナは集めた民間人を連れて、涅い雨の届かない範囲まで輸送している。
だが、往復にはどうしても時間がかかる。
ハルトは思考を巡らせた。
(このままじゃ、いずれ押し切られる……!)
殴って、斃して、それで守れる範囲には限界がある。
ハルトは、ちらと霊山の方角を振り返った。
あそこから噴出しているのを、止めない限り終わりはない。
わかっている。
けれど、それをオルンとフウカに任せた以上、今自分がすべきはここで戦い続けること。
こんなところで弱音を吐いているわけにはいかない。
幻魔をまた一体殴り倒した瞬間、背後からゾッとするような気配を感じた。
「団長、でかいのが出てきました……!」
ヒューイが声を上げながら目を向けている先では、異様に膨れ上がった幻魔が四体、這い出してきた。
どれもこれまでの個体より異質な雰囲気を醸し出している。
牙は伸び、曖昧にぼやけていた体表は岩のように硬化し、全身から濃密な涅い魔力を垂れ流していた。
「ここに来て強化個体かよ!」
ハルトが拳を構える。
強化幻魔の一体目が地を滑るようにハルトへ飛びかかった。
それを、氣を纏った拳で迎え撃つ。
ハルトは接触と同時に氣を強化幻魔の体内に流し、それを炸裂させる。
強化幻魔が内側から爆ぜる。
周りに飛び散った大量の涅い液体のような魔力が、彼の視界を遮る。
いつものハルトであれば、それでも死角ができることは無い。
しかし、今は涅い雨によって【鳥瞰視覚】が封じられている。
死角を突くようにして残りの三体がハルトに襲い掛かる。
「しまった――」
気づいた時には遅かった。
強化幻魔が振り下ろす鋭利な爪がハルトを切り裂こうとする。
「――私が正面のを斬る。先生は左。ナギサは右をお願い」
凛とした声が、戦場に響いた。
「承知しました」「わかった!」
次の瞬間、中央の個体は無数の斬撃で細切れに、左の個体は縦一文字に裂け、右の個体は突然体がドロドロ溶けた。
ハルトが目を見張る中、歩み寄ってきたのは、
「フウカ……。それに――」
「強力な助っ人、連れてきた」
フウカと共にやってきたのは、キリュウとナギサだった。
「背も氣も、随分と大きくなったようだな、ハルト」
キリュウが目を細め、懐かしげに言う。
「ハルトさん、久しぶり! すっごく大きくなってる!」
ナギサは弾むような足取りで駆け寄り、無邪気に笑みを浮かべる。
小柄な身体から溢れ出す喜びが、辺りの空気まで柔らかく変えるようだった。
「ナギサ、無事でよかった」
そんな彼女の頭に手をのせるハルト。
だが、視線はキリュウの方を向いていた。
その目には怒りが孕んでいるように見える。
「おい、クソジジイ。フウカとナギサが傷ついているのは、あんたが原因か?」
「……いかにも。どちらも儂が原因だ」
キリュウは余計な言い訳をせず、ただ静かに頷いた。
その返答に、ハルトの表情が一変する。
「ふざけんなよ……。ガキの頃から『天堂家の人間にふさわしい振る舞いをしろ』とか説教してきたやつが、何をしてるんだよ」
低く唸るような声とともに、拳を握りしめた手の甲に血管が浮かび上がる。
周囲の空気がわずかに揺れ、拳に集まる氣が思わず漏れ出す。
「――今がこんな状況じゃなかったら、殴り飛ばしているところだ」
ハルトは拳を解き、深く息を吐いた。
キリュウを睨みつけたまま、ゆっくりと宣言する。
「戦いが終わったら、絶対ぶん殴るから覚悟しとけよ、ジジイ」
「……わかった。甘んじて受けよう」
「意外。ハルトが私のために本気で怒ってくれるなんて」
「あ? 当たり前だろうが。俺はお前の筆頭家臣なんだから――って、そんなこと今は良いんだよ。何でお前がここに居るんだ? 霊山の件はどうしたんだよ」
「そっちはオルンに任せた」
フウカがハルトの質問に答えると、タイミング良く霊山の中腹から噴き出していた魔力が消えた。
涅い空へ魔力の供給が収まったためか、ハネミヤに降り続けていた雨も止み始める。
「……ね?」
「なんか納得いかねぇが、これで幻魔はもう湧いてこないってことだな」
「後は、私に任せて!」
ナギサが元気良く声を上げる。
そのまま前に出ると、両手を空へと広げながら異能を行使した。
「―― 罪穢(つみけがれ) よ、天の 御許(みもと) へ還れ!」
ナギサの澄んだ声が、止み始めた雨の空に溶けていく。
彼女の周りからあふれ出した桜色の光が、やさしく、けれど確かに、ハネミヤを包み込んでいった。
まるで春の陽気が凍てついた大地を溶かすように、街に渦巻いていた涅い気配がゆっくりと後退していく。
その輝きは地を這う穢れだけでなく、空を覆っていた涅い雲すらも押しのけていった。
重く垂れ込めていた空が、ゆっくりと裂けていく。
雲間から差し込んだ一筋の陽光がハネミヤを照らし始める。
幻魔たちが呻くような声を上げながら、次々と動きを止めていった。
やがてその身を崩し、無へ還るようにして消えていく。
「すごい……」
カティーナが思わずつぶやいた。
ハルトも、力の抜けるような安堵を覚える。
「ふぅ……。これで、ひとまずは――」
彼が安堵の声を漏らそうとしたその時、――大地の底から突き上げるような衝撃が走った。
「何!? 地震!?」
街中のあちこちで悲鳴が上がる。
幻魔による被害が収まったというのに、建物の崩落や瓦礫による二次被害は最悪の事態だ。
「れ、霊山が!!」
誰かが叫んだ。
その声にハルトたちも一斉に視線を向ける。
そこには、――天を貫くように伸びる、漆黒の蛇の化け物が居た。
幾重にももつれた身体が山頂からのしかかるように蠢き、八つの首がそれぞれ違う方向を睨んでいる。
その身体は山頂を砕き、大地を締めつけるようにとぐろを巻き、ただ存在するだけで周囲の空気を圧迫していた。
その全身から滲み出る涅い魔力は、ハネミヤを襲っていた幻魔とは桁違いだ。
「あれは……まさか、神話に出てくる 八咫蛇(ヤタノヘビ) !?」
ナギサが驚きの声を漏らす。
ヤタノヘビの八つの首のうち、ひとつが大きく天を仰ぎ――。
次の瞬間、怒声のような咆哮と共に、口の奥で涅い魔力が渦を巻いた。
「攻撃が来ますぞ!」
キリュウが声を張り上げたのと同時に、魔力が一気に解き放たれる。
黒雷の奔流のような涅いブレスが、大地を焼き払う勢いで真っ直ぐに放たれた。
空気が引き裂かれ、地形ごと抉り取られそうなほどの圧力が迫る。
だがその直撃の軌道上に、ひとつの人影が立ちはだかる。
漆黒の盾を構えたオルンが、それを一人で受け止めていた。
「っ!」
それを見たフウカが霊山とは反対方向――救出した民たちを集めている場所へと駆け出す。
「フウカ!?」
ハルトが驚きの声を上げるが、フウカは振り返らない。
彼女が駆けつけた先には、避難民を護るように立っていたシオンの姿があった。
「シオン!」
「わかってる!」
言葉はそれだけで充分だった。
フウカの真意を即座に理解したシオンが、迷いなく手を伸ばす。
「テルシェ、ここは任せたよ」
「お任せください。シオン様はご存分に」
フウカがその手を取った瞬間、転移魔法が起動する。
「――【 転移(シフト) 】!」
残響を残して、二人の姿は霧のようにその場から消えた。