軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

22話 地獄に近い天国

夫婦としては相変わらず余所余所しいまま、二人は子供を育てていった。

ロザリーは、とりわけ熱心にリリアの世話をした。

自分の腕で抱き、自分の目で見守り、自分の声で語りかける。――いつか、姉にしてもらったように。

「……決して、この子には寂しい思いをさせないわ」

夜泣きに付き添い、小さな手を握り、眠るまで子守歌を歌った。侍女たちが驚くほど、貴婦人としては異例のなか、ロザリーは自ら手をかけて子を育てた。

一方でルーカスも、子育てに参加した。

仕事の合間に顔を出し、小さな寝台を覗き込み、成長を確かめるように静かに見つめる。多くを語るわけではないが、そこには確かに父親の姿があった。

傍目には、まるで仲の良い家族のように過ごしていく。

両親の想いを知ってか知らずか、リリアはすくすくと育っていった。

よく笑い、よく走り、白い頬を赤く染めてはしゃぐ子供になった。

***

そして、リリアが三つになったある日のことだった。

やわらかな陽光が庭園を満たし、淡い光の粒となって花々のあいだに揺れている。まだ背丈の低い草花は風に撫でられるたび、ささやくように身を寄せ合い、季節の息吹をそっと伝えていた。

そのなかを、ロザリーとリリアはゆっくりと歩いていた。

幼いリリアは、小さな手いっぱいに花を摘み取りながら、足元もおぼつかないまま無邪気に進む。

「おかあさま、みて!」

弾む声とともに、リリアはロザリーの前にしゃがみ込む。摘み集めた花々を膝の上に広げ、小さな指でひとつひとつを丁寧に繋いでいく。

不格好で、ところどころ花が落ちそうな、それでも一生懸命な冠だった。

「できた!」

ぱっと顔を輝かせ、リリアはそれを高く掲げる。

そしてよちよちと歩み寄り、精いっぱい背伸びをして差し出した。

「おかあさま、どうぞ!」

ロザリーは、少し驚いたように目を瞬かせた。

「……わたしに?」

「うん!」

無邪気な笑顔だった。

ロザリーはゆっくり膝を折り、その花冠を受け取る。指先に触れた花びらはまだ温かく、リリアの体温がまだ残っているようだった。

ロザリーが控えめな笑みを浮かべた時だ。

庭園の小道の向こうに、こちらへ歩いてくる人影が見えた。

「あ、おとーさま!」

ロザリーはその姿に、まぶしそうに目を細める。けれど、自分から声を掛けることはしなかった。

その様子をリリアはじっと見つめ、小さく首を傾げる。

「おかあさまは……」

「なあに?」

「おかあさまは……おとうさま、すき?」

突然の問いに、ロザリーは一瞬だけ言葉を失った。

それでもすぐに、穏やかな笑みを浮かべる。

「……好きよ。もちろんじゃない」

リリアはじっと母の顔を見つめた。小さな眉が、ほんの少し寄る。

「ほんとうに?」

そして、ぽつりと言う。

「わたしに“すき”っていってくれるときと、ちがうかおしてるよ」

胸の奥を、そっと触れられたような気がした。

ロザリーは一瞬だけ視線を落とす。そして、困ったように微笑んだ。

「……ごめんなさい」

小さく息を吐く。

「本当に好きなのよ」

嘘ではなかった。ただ、その気持ちはあまりにも複雑だった。

同じ罪を背負った者同士。あの夜、すべてを知ったうえで手を取った。

愛というよりも、共犯者のような関係から始まった結婚。

互いの傷も、罪も、全部知っている。

だからこそ、簡単に愛していると言える関係ではなかった。

リリアはまだ幼い。その複雑さを理解できるはずもない。

――そう思っていた。

けれど。

リリアはしばらく黙ってロザリーの顔を見つめていた。

やがて、ぽつりと呟く。

「そっか……」

ぽつりと零れた声はあまりにも小さく、春の風に紛れてしまいそうなほどだった。

リリアは、どこか悲しげに眉を寄せる。

「……わたくしのせいね」

ロザリーは目を瞬かせた。

「ごめんなさい……」

「……?」

思わず問い返す。

「リリア……、なにを言ってるの? どうして謝るの?」

三歳の子供が口にするには、あまりにも重すぎる響きだった。

リリアは一度だけ視線を落とす。

花を握っていた小さな手が、きゅっと強く結ばれた。

「わたくしが願ったせいだもの」

静かな声だった。

「わたくしを、一番に愛してほしいと……」

その瞬間――ロザリーの胸の奥で、何かが激しく打ちつけた。

心臓が、嫌なほどに大きく鳴る。

(――なぜ、この子が、そんなことを……)

言葉にならない疑問が渦を巻くより先に、リリアが腕を伸ばした。

まだ幼く、頼りないほど細い腕。ためらいなくロザリーの頭を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめる。

「……だから、ごめんね」

小さな手が、まるで慰めるようにロザリーの髪を撫でる。

その仕草は、あまりにも見覚えがあった。

胸の奥で、忘れたはずの記憶が揺れる。

柔らかな声。優しく頭を撫でる手。

幼い頃、何度も何度もしてもらった仕草。

ロザリーの唇が、かすかに震えた。

「……姉さま……?」

震える声で呼ぶと、リリアはゆっくりと瞬きをして小さく笑った。

三歳の子供が見せるには、あまりにも穏やかで、あまりにも懐かしい微笑みだった。

「……うん」

小さく頷く。

「ロザリー」

そんな甘い声で呼ぶ人は、ひとりしかいなかった。

胸の奥に押し込めていた記憶が、一気に溢れ出す。

優しく微笑む姉の姿。いつも自分を庇ってくれた背中。

そして――あの夜。

ロザリーの視界が滲む。

「どうして……」

声がうまく出ない。

けれどリリア――いや、リリアーヌは、そっとロザリーの頬に触れた。

小さな手だった。

「わたくしのことを忘れて、とは言えない」

静かな声だった。

「でも――」

ほんの少しだけ、寂しそうに笑う。

「あなたには幸せになってほしいの」

ロザリーの胸が締めつけられる。

「そんな……。姉さまがいないのに、どうして……」

震える声で言う。言葉が続かなかった。

けれどリリアーヌは、小さな腕でロザリーを抱きしめたまま言う。

「ロザリー。あなたはもう、十分苦しんだでしょう?」

風が庭園を吹き抜ける。

遠くで、ルーカスがこちらを見ていた。まだ何も知らないまま。

リリアーヌはそっと囁く。

「だからね」

柔らかな声で。

「今度は、ちゃんと幸せになりなさい」

ロザリーの胸の奥で、何かが崩れた。

長いあいだ押し殺していたものが、堰を切ったように溢れ出す。

「……っ」

息が詰まる。胸が軋み、呼吸さえまともにできない。

こらえることなど、もうできなかった。

「……ぁ、あ……っ。うわあああ……!」

次の瞬間、ロザリーは声をあげて泣いた。まるで子供のように。

庭園に、その嗚咽が響く。その様子を遠くから見ていたルーカスが顔色を変えた。

「ロザリー!」

長い脚で一気に距離を詰め、慌てて駆け寄ってくる。

「どうしたんだ!?」

ロザリーは涙に濡れた顔を上げた。

腕の中には、小さなリリア。

その小さな身体を抱きしめながら、震える声で言う。

「あっ、ねえ……っ、姉さまが……」

ルーカスの眉が深く寄る。

「姉……?」

ロザリーは泣きながら、腕の中の子供を見つめた。

白い百合のような娘。

その小さな頭を、何度も何度も撫でる。

「姉さまが……ここに……」

声が震える。

「わたしを……許してくれたの……」

ルーカスは一瞬、言葉を失った。何を言っているのか、すぐには理解できない。

だが、ロザリーの腕の中のリリアが、ふと彼を見上げた。

三歳の子供のはずの瞳。けれど、三歳にしてはその奥に宿る光は静かすぎた。

「……ルーカス様」

その呼び方に、彼の心臓が止まりそうになる。

「約束を守ってくださり、ありがとうございます。これからも、ロザリーを……どうか、よろしくお願いいたしますね」

柔らかな言葉だった。一瞬のことだった。

次の瞬間、リリアはぱちぱちと瞬きをする。

「……あれ?」

きょとんとした顔で、首を傾げる。

「おかあさま、どうしてないてるの?」

幼い声だった。いつもの、三歳の子供の声。

ルーカスの背中を冷たいものが走っていた。

***

それから――ロザリーは、以前にも増して娘を大切にした。

まるで失われた時間を埋めるように。朝は自ら髪を梳かし、昼は一緒に庭園を歩き、夜は寝物語を語ってやる。

リリアが転べばすぐに抱き上げ、小さな笑い声が聞こえれば、誰よりも嬉しそうに微笑んだ。

そして――ルーカスにも。

これまでどこか遠慮がちだったその距離が、少しずつ、ほんの少しずつ近づいていった。

姉に許された。それが、ロザリーの心を解いたのだろう。

ある日ふと、ルーカスは思う。

彼女は笑うようになった、と。

柔らかな笑みを。罪を背負った者のぎこちない笑みではなく、ただ大切なものを見つめる人の、穏やかな笑みを。

その笑顔を見ているうちに、ルーカス自身もいつの間にか彼女を愛するようになっていた。

共犯者のような関係から始まった結婚。だが、今は違う。

ゆっくりと、時間をかけて育った感情だった。

あれから、リリアが再び“あの顔”を見せることはない。

庭園を駆け回り、転びそうになっては笑いながら母に駆け寄る。三歳の少女らしい無邪気さで毎日を過ごし、何も知らない子供のように屈託なく笑っている。

その姿を見ていると、あの日の出来事が夢だったのではないかと思えるほどだった。

けれど、ルーカスは知っている。

リリアは、リリアーヌの生まれ変わりなのだと。

あの約束のことは、彼女しか知らない。誰にも語っていないはずの約束を、あの子は確かに知っていた。

だからこそ、ルーカスは確信している。

庭園の端に立ち、彼は静かにその光景を眺めた。

花に囲まれた小道のなかで、ロザリーとリリアがしゃがみ込み、摘んだ花を見せ合いながら笑っている。柔らかな風が吹き、花びらと一緒にふたりの笑い声が運ばれてくる。

その光景を見つめながら、ルーカスはふと呟いた。

「一度死んでもなお……ロザリーの一番は、君のままか……」

吐息に紛れるような低い独白だった。

それは、果たして愛と呼べるのか。執着と呼ぶほうが正しいのかもしれない。

生まれ変わってもなお、妹を誰よりも一途に思い続けるその想いは、常人には理解できないほど強いものだろう。

正直なところ、それを恐ろしく感じることもある。けれど、妻と娘が愛しいという感情もまた、本物だった。

視線の先では、ふたりは今日も寄り添っている。

ロザリーの穏やかな笑顔と、リリアの無邪気な笑顔。風が吹き、花弁が舞い上がる。淡い色彩が、ふたりの輪郭をやわらかく溶かしていく。

その光景は、あまりにも満ち足りていて。同時に、どこか現実から切り離された、作り物の楽園のようでもあった。

失われたはずのもの。

決して手に入らないと、諦めていたもの。

それでもなお、ここにある。

――ああ。それでも。

自分はきっと、今、幸せだから。