軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

SIDE リリアーヌ

妹が生まれた日のことを、リリアーヌは今でも鮮明に覚えている。

泣き声は小さく、頼りない。

白い産着にくるまれたその存在は、ふにゃふにゃとしていて、あまりにも儚かった。

(――この子を守らなくては)

そう思ったのは、理屈ではない。

胸の奥に芽生えた、ひどく強い衝動だった。

リリアーヌ達の両親は忙しい人たちだった。家の名誉と、社交の事しか頭にない。

貴族としては、珍しくもなかった。

(だから――わたくしが、この子を守ってあげなくてはいけないわ。こんなにも小さくて、か弱いんだもの。)

はじめて小さな指が、自身の指を握り返したとき。リリアーヌの心臓は、きゅっと締めつけられた気がした。

こんなにも小さな存在が、自分を頼っている。それが、どうしようもなく嬉しかった。

「ロザリー……」

その名前を呼ぶだけで胸が柔らかくなる。

「あなたのお姉ちゃんよ。これからよろしくね、ロザリー」

そう囁きながら、小さな額にそっと触れる。

(この子は、わたくしの宝物だ。誰にも渡したくない、わたくしだけの――大切な妹。)

***

それから、リリアーヌはロザリーの面倒をよく見た。

乳母もメイドもいたけれど、任せきりにはしたくなかった。

朝、目を覚ませば真っ先に揺り籠を覗き込み、ふにゃりとした顔を確かめる。

小さな手が動けば、それだけで胸が温かくなった。

歩けるようになると、庭園へ連れていった。

石畳の上をよちよちと歩く姿に、思わず笑みがこぼれる。

「ロザリー、こっちよ」

そう呼べば、妹はよろよろとこちらへ歩いてくる。

途中で転びそうになると、慌てて腕を伸ばして抱き上げた。

「もう……危ないでしょう?」

叱るように言いながらも、声はどうしても甘くなる。

腕の中の体温が、愛おしくて仕方がなかった。

(この子は、わたくしがいなければ駄目ね……。)

そして、わたくしもまた。

この子がいなければ、きっと駄目なのだろう。

そんな日々が、ずっと続くと思っていた。

けれど――ある日、王宮からの使者がやってきた。

応接室に呼ばれ、両親と向かい合って座る。いつもよりも重い沈黙のあと、父が静かに口を開いた。

「リリアーヌ。お前は、アレクシス殿下の婚約者に選ばれた」

その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

王太子の婚約者。つまり、未来の王妃。家の名誉としては、この上ない栄誉だった。

「……光栄ですわ」

そう答えたとき、両親は満足げに頷いた。

けれど、リリアーヌの胸に浮かんだのは、別の顔だった。

――ロザリー。

部屋へ戻ると、妹が駆け寄ってきた。

小さな手が、リリアーヌのドレスを掴む。

「姉さま!」

「どうしたの?」

「さっきね、庭でね……見たことのない、ちょうちょがね……」

嬉しそうに今日の出来事を話す妹を見下ろす。

その白銀の髪が、夕陽を受けて輝いていた。

ふと、思う。

この子の隣にいられる時間は、もう長くないのかもしれない。

王妃教育が始まれば、王宮へ通う日も増える。

勉強も、社交も、これまでとは比べものにならないほど忙しくなるだろう。

「姉さま?」

呼びかけられて、はっとする。

「……何でもないわ」

そう言って、ロザリーの頭を撫でた。

柔らかな髪が、指のあいだをすり抜ける。

――この子は、わたくしの宝物。

けれど。これから、わたくしは王宮へ行く。

未来の王妃として生きていかなければならない。

それでも――

(この子だけは、誰にも渡したくない。誰にも奪わせたくない。

この子だけは、わたくしのものでいてほしい。)

そう思ったのは、きっと。

姉としての愛情だけでは、なかったのだろう。

***

アレクシス殿下の婚約者に決まってから、リリアーヌの生活は一変した。

王妃教育。宮廷での挨拶。令嬢たちとの社交が始まったのだ。

華やかな衣装を身に纏い、香り高い紅茶を傾けながら談笑する。一見すれば、優雅で穏やかな時間。

けれど、その裏に潜むものを、リリアーヌはほどなくして悟った。

令嬢たちの集まるお茶会は、決してただ美しいだけの場所ではない。笑顔の裏で交わされる探り合い、さりげない言葉の棘、誰かを落とすための噂話。

一歩踏み誤れば、すぐに足元をすくわれる。そんな、静かな戦場だった。

だから――

「姉さま、今日はどこへ行くの?」

出かける支度をしていると、廊下の向こうから妹が顔を出す。

銀髪の髪を揺らし、無邪気な瞳でこちらを見上げていた。

「お茶会よ」

「わたしも一緒に行きたい! 連れてって!」

その言葉に、思わず足を止める。

小さな手がドレスの裾を掴む。その仕草は、昔と少しも変わらない。

けれど、リリアーヌは首を横に振る。

「駄目よ、ロザリー」

「どうして?」

「あなたには、まだ早いの」

妹は少しだけ唇を尖らせた。

けれど、すぐに頷く。

「……わかった」

素直でいい子。

けれど本当は、年齢の問題ではない。ローザと同い年くらいの令嬢を連れてきている者もいる。

ただ、あの場所には連れて行きたくなかった。この子は純粋すぎるから、汚い世界なんて知らなくていい。

それに――ロザリーには、友達など必要ないと思っていた。この子には、わたくしがいる。それで十分だ、と。

だから、寂しそうに見送るロザリーを屋敷に残し、リリアーヌはひとり出かけていった。

***

アレクシス殿下の婚約者として社交の場に出るようになってから、しばらくのあいだは、すべてが順調だった。

「なんてお美しいのかしら」

「マナーも完璧で、本当に素晴らしいご令嬢ですわ」

向けられるのは賞賛の言葉ばかり。

微笑みを返せば、誰もが感嘆のため息を漏らした。

けれど――それは、長くは続かなかった。

ある日を境に、奇妙な噂が流れはじめたのだ。

リリアーヌを“悪役令嬢”だと貶める、根も葉もない噂が。

「お優しそうに見えて、裏では下の者を虐めているそうよ」

「知ってるわ。庭園で下働きの者を立たせたまま、お説教をなさったんですって」

ひそひそと交わされる声。

扇で口元を隠したまま、令嬢たちは意味ありげに笑う。

リリアーヌにも、覚えがないわけではなかった。

確かに侍女を叱ったことはある。仕事を怠り、他の侍女に責任を押しつけていたからだ。

けれど、それは当然の注意だったはずだ。

だが、悪い噂はそれだけでは終わらなかった。

アンジェリカを虐めているという、身に覚えのない話まで広がっていた。

校舎の廊下を歩いていると、背後で小さな囁きが聞こえる。

「……悪役令嬢ですって」

「やっぱり怖い方なのね」

振り返れば、声はぴたりと止む。

けれど視線だけは、背中に突き刺さったままだった。

最初は、ただの噂だと思っていた。

けれど、噂というものは恐ろしい。

一度広がれば、真実など関係なく形を変えていく。

いつの間にか――

リリアーヌは“悪役令嬢”と呼ばれるようになっていた。

けれど――それらを突きつけられても、リリアーヌの胸は大きくは揺れなかった。

無論、衝撃がなかったわけではない。名を貶められれば、それなりの痛みは走る。それでも、その痛みは長くは続かかった。

――どうでもいいことだったから。

それに、リリアーヌにはロザリーがいた。

誰が何を言おうと、あの子だけは違う。

あの子だけは、きっと自分を信じてくれる。そう思っていた。

実のところ――

リリアーヌの“優しさ”は、他人への無関心からきていた。

どうでもいい相手だからこそ、波風を立てる必要もなく、穏やかでいられた。

金に困っていたメイドには、給与を上げるという名目で専属に取り立て、慕ってくる男爵令嬢には、求められるままに親切を施した。

踏み込む気もなければ、傷つける必要もない。その無関心が、結果として“優しさ”に繋がっていただけだ。

けれど同時に――他人の心に無頓着であるということは、向けられる感情にも鈍いということだった。

反感を買っても、気づくのに遅れて対処に遅れることは度々起きた。

そして、アレクシスから愛情を与えられなくとも、彼女の心は傷ついたりしなかった。

求めていないものには、欠落の痛みは生まれないからだ。それがまた、知らず知らずのうちにアレクシスの心を遠ざけてしまう、という皮肉な結果を招くのだが。

ただ――リリアーヌにとって、唯一大切だったはずの存在。

ロザリーの気持ちも、彼女は理解出来ていなかった。

***

今日も王妃教育に追われ、帰りはすっかり遅くなっていた。

自室へ向かう足を止め、リリアーヌは迷いなく廊下を折れる。向かう先は――ロザリーの寝室だった。

扉をそっと押し開ける。視線の先には、ベッドの上で小さく身を丸めて眠るロザリーの姿。

(……もう遅いもの。眠っていて当然ね)

そう思いながら、静かに歩み寄る。

けれど、規則正しい寝息の合間にかすかな嗚咽の名残が混じっていることに気づいた。枕を握る指先は力なく、何かに縋るように震えている。

「……ロザリー」

呼びかけても、返事はない。ただ、赤く腫れた目元だけが――彼女がどれほど泣いたのかを物語っていた。

リリアーヌはそっと腰を下ろし、眠る妹の髪に指を差し入れる。柔らかな感触が、静かに指先へと絡みついた。

「寂しがらせて、ごめんなさいね」

答えは返らない。それでも、ロザリーの眉がかすかに寄る。

リリアーヌは静かに手を伸ばし、その目元へと触れた。涙の跡が、まだわずかに湿っている。

「……もう少しだけ。我慢してちょうだい」

指先でなぞるように、やさしく拭う。

壊れ物に触れるかのように、慎重に。

「わたくしが王妃になったら――また、楽しく過ごしましょうね」

もう一度、髪を撫でる。

その手は、すぐには離れなかった。

「……おやすみ、ロザリー」