軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

40 騒動

カミラによる騒動に、夜会の会場は凍りついたように静まり返っていた。

視線はすべて、彼女の手から滑り落ちたグラスへと集まっている。破片が煌びやかな絨毯の上で鈍く光を放ち、音の余韻すら消えたあとも、誰も動けずにいた。

私は、セドリック殿下の腕を見つめたまま、胸を押さえる。鼓動がやけにうるさい。

(……焼けた。あれは……劇物だった)

あの赤い葡萄酒は、ただの飲み物ではなかった。明らかに、ものを溶かす性質を持った液体。カミラが意図的に持ち込んだのなら――それは、王族に対する暗殺未遂だ。

それが分かっているから、カミラはこうして真っ青になり腰を抜かしているのだろう。レオン兄様に拘束された彼女は、口をパクパクさせながら目を見開いている。

「レオン。謀略の疑いで連行せよ」

「はっ」

「ひっ」

鋭く命じられたその声に、ようやく会場がざわめき始める。

お兄様の返事と、カミラの短い悲鳴はほとんど同時だった。

「リリアナ。怪我はないか?」

「私は大丈夫です。それよりもセドリック殿下が……!」

私は急いでセドリック殿下の肩口に手を伸ばす。溶けた生地は見た目以上に深刻で、肌にも赤く痕が残っていた。

「こんなもの、大したことない。君にかかるくらいなら、安いものだ」

そう言って微笑むその表情に、またしても胸がきゅうと痛くなる。

私はなにも言えず、ただ唇をかみしめた。

「リリアナ! 殿下!」

真珠のような声が響き、銀糸のような髪が揺れて駆け寄ってくる。アイリスだ。

ドレスの裾を気にも留めず駆けつけた彼女は、セドリック殿下の腕の異変にすぐ気づいたようで、祈るようにそっと手を重ねた。

「失礼いたします……大丈夫です、すぐに、痛みが引きますので」

小さく呟かれたその言葉とともに、淡い光が彼女の手からこぼれ出す。アイリスの掌から生まれた光は、やさしく、温かく、そして力強くセドリック殿下の腕を包み込んでいった。

その神聖な光景に、さすがの会場も再び息を飲む。

「……これは、まさか……聖女の癒し……?」

「まことに……生きた奇跡だ……!」

誰かが呟く。アイリスはずっと治癒の力を隠していたから、初めて目にした人もいるだろう。

「ち、違うわ! これは事故よ! わたくしは! 葡萄酒だと聞いて……謀られたんだわ!!! 」

床に拘束されたカミラが、蒼白な顔で叫び始めた。先ほどの余裕はすでになく、言葉は早口で、視線も泳いでいる。

「カミラ。私もあなたひとりがやったとは思っていないわ」

「り、リリアナ」

「他にもいるわよね?」

「〜〜っ!」

核心的なことを聞くと、カミラは苦しそうに顔をゆがめた。またパクパクと不自然な呼吸をしている。

私は、その姿を静かに見下ろしながら、そっとセドリック殿下の方を見る。アイリスから治療を受けながら、こちらを見て小さく頷いてくれた。

無言のうなずき――これだけで、意志は通じる。

私はそっと手を胸元に添えて、小さく囁いた。

「空気魔法を、解除」

窓は開いていないはずなのに、空気が静かに揺れた。

何もなかったはずの出入り口付近に、突如として騎士たちの姿が現れる。

それは、まるで空間の膜が剥がれ落ちたかのような不思議な光景だった。

「な、なに?」

「あの騎士たちは……!?」

「いつの間に」

騒然とする会場。

だが、その騎士たちは静かに、けれど確かな威圧をもって入り口を塞ぎ、誰一人として外に出さない構えを取っていた。

逃げ道はない。空気は張りつめ、場内に冷たい緊張が走る。

誰かの短い悲鳴。がしゃんと食器が落ちる金属音。そして、騎士の低く鋭い声が飛ぶ。

「ご歓談中ではありますが、この会場を一時封鎖させていただこう。ああ安心してください。簡単な調査が済めばすぐ解放します」

アルフォンス殿下がにこやかに宣言する。

誰かが小さく息を呑む気配。別の誰かが、椅子の背に力なく体重を預ける気配。

(……やっぱり、けっこう、たいへんだわ)

目に見えない空気の膜を、これだけの人数に対して長時間張り巡らせていたのだ。集中を切らせないようにと無意識に抑えていたけれど、今になって急に、背中に冷たい汗が伝う。指先がじんと痺れて、膝がかすかに震える。

お母様がお化粧をしてくれなかったら、顔色が悪いことは全て露見してしまっていたかも知れない。

空気魔法で騎士たちを隠してあの人の油断を誘う。

それは私が提案した、今できる最大の空気魔法の使い方だった。

「リリアナ。私に寄りかかりなさい」

「はい……にいさま」

倒れ込みそうな私の身体を、レオン兄様が支えてくれる。

カミラは別の騎士に引き渡されたみたいだ。

その大きな胸に背中を預けたら少しだけ呼吸が楽になった。

「リ……っ」

「……?」

ぼおっとしながら前を見る。セドリック殿下が私に手を伸ばそうとして、ぐっと唇を噛みしめるのが見えたような、そんな気がした。

混乱の最中、上座からひときわ高い声が響いた。

「まあ……どうしたことでしょう! 騎士が会場にこんなに……それにご令嬢が捕まるなんて、何かの間違いではないのかしら?」

クラリス妃が扇子を口元に当て、目を丸くして見せた。まるで貴婦人としての当然の反応のように、場の動揺に寄り添うそぶりを見せる。

「なんて恐ろしいこと。王子が狙われるだなんて……セドリック殿下は政務に復帰したばかりですのに……」

おずおずとした声色。だが、その目元は計算高く揺れていた。

エレオノーラ妃を責めるような口調に、周囲のざわめきも大きくなる。

「……第二王子を亡き者にしようと……?」

「国王陛下が最近お姿を見せないのも関係があるのか?」

「あまりに性急な」

周りの声を拾うと、そんなものが大半だった。

きっと、セドリック殿下の耳にも入っていると思う。

カミラは蒼白な顔で、助けを求めるように上座を見上げている。

彼女と目が合ったクラリス妃は、あからさまに怪訝な顔をした。

「まあ……なんてこわい方。確か、エバンス伯爵令嬢の元婚約者を誘惑して奪ったご令嬢だったかしら」

さらりと扇子を開いた彼女は、わざとらしく肩をすくめてみせる。

「やっぱり節操がない子は、こういう騒動を起こすのねぇ」

「ち、違います! わたくしは……わたくしは命じられた通りにしただけで……っ!」

ようやく声を絞り出したカミラが、縋るように訴えた。

そのとき、会場の端で小さな動揺が広がる。

「カミラ……!」

「待ってください、あの子は……!」

彼女の両親だろう。男爵夫妻が、真っ青な顔で立ち上がり、娘の元へと駆け寄ろうとする。

しかし、二人の前にすっと騎士が立ちはだかった。

「恐れながら、これより先は通せません」

けれど騎士は微動だにせず、通せんぼのまま首を横に振った。

カミラは、両親の姿を見てさらに動揺を深めた。助けが来たと思った瞬間、それが拒まれることほど残酷なことはない。顔はますます青ざめ、涙を滲ませながら、震える声で訴える。

「お父様……お母様……!」

しかし、クラリスはちらりと視線を向けただけで、あくまで他人事のような口調で返す。

「命じた人がいるとでも言いたいのかしら? こわい娘ね、早く連れて行ってちょうだい」

「〜〜っ、〜!」

その冷ややかな言葉に、カミラの顔がみるみる歪んでいく。

パクパクと口が動くものの、その叫びは声にならない。

「わたくし、気分が悪いですわ。退出させていただきますね」

扇子をパタリと閉じたクラリス妃は、当然のようにアルフォンス殿下を見た。

それから扉の方に向かおうと身体を動かす。

「クラリス様。貴女も下がってはなりません。こんな騒ぎを起こしたのですから」

その人の前に立ちはだかったのは、他でもないエレオノーラ妃だった。

「…………なんですって?」

クラリス妃は眉をひそめ、まるで聞き間違いでもしたかのような顔をする。

けれど、エレオノーラ妃は一歩も引かず、まっすぐに彼女を見据えていた。

「このような騒ぎの責任の一端が、貴女にあるのではないかと――そう申しているのです」

その言葉に、場の空気が張りつめる。

「私に? まさか。わたくしは、何も……」

「カミラ嬢は先ほど、『命じられた通りにした』と申しました」

エレオノーラ妃の声は冷静で、揺らがない。けれど、確かな力を帯びていた。

「命じた者が誰か――それは、今この場で解明されることでしょう。わたくしは、王妃として、この会場の秩序を守らねばなりません」

クラリス妃は一瞬、唇を引き結んだ。

その目が、一瞬だけリリアナの方を向く。

(……見た)

私は息を詰める。

あの目。まるで、虫けらでも見るような。最初にセドリック殿下のそばに立ったとき、同じ目を向けられた気がする。

「陛下の御前で話すのならともかく、こんな場で断罪でもなさるおつもり?」

クラリス妃の声に、静かな怒気が混じる。

「断罪などとは申しておりません。ただ、協力を仰いでいるのです。すべての真実を明らかにするために」

「……はっ。まさか、こんな芝居に本気で付き合うとでもお思いなのかしら?」

クラリス妃の口元が歪む。その目に宿ったのは、もはや貴族的な優雅さではなく、むき出しの敵意だった。

「王族の暗殺未遂? 毒入りの葡萄酒? そんなもの、本当に存在したのかしら? 騒ぎ立てて注目を浴びたい令嬢や王子が、自作自演を仕組んだのではなくて?」