作品タイトル不明
21 元婚約者たち
城内の回廊を歩きながら、私はふっと息をついた。
先ほど、侍女長からの呼び出しで王宮の礼儀作法に関する細かな確認を受けていた。今後の公式行事のためのものらしい。
慣れない環境での生活に少しずつ順応し始めてはいるものの、まだ戸惑うことも多い。
早く部屋へ戻ろう。そう思いながら足を進めたとき、不意に声をかけられた。
「リリアナ様、お待ちください」
振り向くと、見覚えのない侍女が一礼していた。王宮の制服を着ているが、どの所属なのかは分からない。
「侍女長から、追加の伝言を預かっております」
「……追加の伝言、ですか?」
侍女長からは何も言われていなかった。だが、必要があれば改めて呼び出されることもあるかもしれない。
聞いたことのない声。見覚えのない顔。
だが最近は、王宮勤めの侍女がさらに増えているようで、配置されている方の顔を覚えきれていないのは確かだった。
「分かりました。侍女長はお部屋にいらっしゃるのでしょうか?」
「現在別室で作業をされていますので、ご案内しますね。こちらでございます」
侍女が示したのは、普段は使われていない廊下の奥まった小部屋だった。
彼女の後ろをついて行きながら、初めて来る場所に目線だけキョロキョロと観察する。
古くて静かな一角。王宮に詳しくないと、このような部屋の存在は知らないだろう。
「どうぞ、こちらです」
「……はい。ありがとうございます」
私は少しだけ躊躇したが、侍女長の命ならばと扉を開けた。
そして、足を踏み入れた瞬間に扉はバタリと勢いよく閉じられた。
「えっ……?」
驚いて振り向くより早く、部屋の中から低く囁く声が聞こえた。
「久しぶりだね、リリアナ」
背筋が凍った。
ゆっくりと顔を上げると、そこにいたのは——エドワード・バークレー。
思わず息を呑む。エドワード様がここにいるはずがないのに。そう思っていると、彼の横に立つ姿が目に飛び込んできた。思考が一瞬止まる。
「先日はどうもお世話になりました、リリアナ様」
深緑色のドレスに身を包み、甘く微笑むカミラ・アルトマン。その目は嘲るように細められていた。
「……何のつもりですか」
私の声は思ったよりも冷たかった。
けれど、それを聞いたエドワードは哀願するように私へ歩み寄ろうとする。
「君と話がしたかったんだ……どうして僕を避けるんだ、リリアナ。君は優しいだろう? 僕の話を聞いてくれるよね?」
その言葉に、ゾクリとした。
まるで、何もなかったかのように振る舞う彼に、背筋がひやりとする。
「避ける? それは当然でしょう。私はあなたと話す理由がありません」
「リリアナ……!」
私の拒絶に、エドワードは焦ったように手を伸ばしてくる。私は無意識に後ずさる。
「随分とハッキリ言うようになりましたのね。でも、そういうところがまた腹立たしいのですわ」
カミラがすっと歩み寄り、私を見下ろすように微笑む。
「私よりも影が薄くて地味な貴女が、セドリック殿下の側にいるなんて!」
カミラの声が鋭くなった。
「ずっと見下していたのに、まさかこんなふうに私の前を歩こうとするなんて。——許せませんわ!」
彼女はわざとらしく首を傾げ、エドワードに視線を向けた。
「だから、取り戻して差し上げたらいかが? とわたしもエドワード様に進言いたしましたの!」
カミラは嬉々として話しているけれど、言っていることの意味がひとつも分からない。
取り戻す、だとか私がまるで誰かの物みたいに言うのはなぜなの。
「エドワード様、貴方がリリアナ様と結婚すれば、すべて丸く収まりますわ。それに……貴方には味方がいるのですよ?」
カミラは意味深に微笑む。
まるで、この誘導すらも誰かの計画であるかのように。
私は微かに息を呑んだ。
「リリアナ、僕は君を愛しているんだ! 遅くなってごめん。君も僕をあんなに愛してくれていただろう!」
エドワードが私を真っ直ぐに見つめる。
その瞳は、執着に満ちていた。
「エドワード様。私たちの婚約は解消されて、今はもう他人です。あなたが何を考えていようと、私はもう過去のあなたに縛られるつもりはありません」
私はそうはっきりと告げた。
「カミラ様も。いつまでも私に構わないでくださいますか? これまでは黙っていましたが、あなたの振る舞いはエバンス家としてアルトマン家にきっちりと抗議いたします」
震えそうな足に力を込める。
今まで私を散々空気扱いしていた二人を見据えて、最後まで言い切った。
エドワード様の瞳が僅かに揺れる。
「……どうしてそんなことを言うんだ、リリアナ」
まるで心から傷ついたかのような声音。
だが、それに騙されるほど私はもう愚かではない。
「どうして? あなたが一番よく分かっているでしょう?」
静かに言い放つと、エドワードの表情が歪む。
「君は優しかった……今まで僕を受け入れてくれたはずだ」
「ええ、私はずっと空気のように過ごしていましたから。だから気にも留めなかったのでしょう?」
エドワードの顔が引きつる。カミラが面白そうに口元を覆った。
「随分と強気ですのね。やはり、セドリック殿下のおそばにいるからそうなるのかしら?」
カミラが私を一瞥する。その目には、底知れぬ嫌悪と嫉妬が混じっている。
「なんとでも仰ってください。当初の予定どおり、エドワード様とカミラ様が結婚すればよろしいのではありませんか? 私のことはこれまでどおり空気のように思ってくださって構いません」
本当に。私のことなど気に留めないでほしい。
そう思って真っ直ぐに二人を見ると、彼らは少したじろいだようだった。
「貴女がセドリック殿下の側にいるなんて、滑稽ですわ! わたしの方が、ずっとふさわしいのに」
激高するカミラの言葉に私は目を細める。
「あなたは、セドリック殿下と何か関係があるのですか?」
「な、何もありませんわ。でも、貴女よりはお似合いでしょう!?」
カミラのせっかくの美しい顔が嫉妬に歪んでいる。
どうしたらそのような認知になるのかわからないが、きっと一生相容れない考え方であることはわかった。
「…………だめだだめだだめだ」
なにやらブツブツと呟きながら、エドワード様が私の方に近付いてくる。
じりじりと後退しながら、周囲を見渡す。
狭い小部屋に置かれているのは、掃除用のモップやバケツ、それに棚の上に並ぶリネン類。
(……何か使えるものは)
エドワード様が一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
「リリアナ、どうしてそんなに怯えるんだ? 僕は君を迎えに来ただけなのに」
彼の声は甘ったるい。だが、その瞳の奥に狂気じみた執着の色が見える。
(怖い、でも……私は、もう二度と彼の言いなりにはならない)
私はふっと息を整え、そっと傍にあったモップの柄を握った。
「もう一度言いますわ、私に構わないで」
エドワード様は苦笑する。
「本当に冷たいな、リリアナ。僕は君のために——」
「違うわ。あなたの保身のためでしょう」
私はきっぱりと言い切ると、彼が再び近づこうとした瞬間、モップを素早く振り上げた。
バシッ。
「っ……!」
モップの先がエドワード様の肩に直撃する。
驚きに目を見開いた彼が一瞬動きを止めた隙に、私はすぐさま反対側へと回り込み、扉へと手を伸ばした。
——しかし。
ガチャン。
「っ、開かない……!」
どうやら外から鍵がかけられているらしい。
何度もドアノブを回すが、空回りするだけだ。
「ふふっ、残念だったわね」
カミラがエドワード様の向こう側でくすくすと笑っている。
「せっかくあなたのためを思って用意したのに。なのに、そんな乱暴なことをして……ねぇ、エドワード様?」
エドワード様は私の肩を押さえながら、にやりと笑う。
「……リリアナ、もう逃げられないよ」
ドンッ。
強引に押し寄せられ、私は扉から引き剥がされる。
「離してください!」
必死に抵抗しようとするが、男女の力の差は大きい。だがここで抵抗しないわけにはいかない。
(やるしかないわ……!)
兄に教えてもらった必殺の一撃をお見舞いしようと右足に力を込めたその瞬間。
突如、扉が大きく開かれた。