軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

02 エバンス伯爵家

屋敷の門が見えてきて、私は小さく息を吐いた。

王宮の庭園で目撃した光景。

婚約者のエドワードとカミラの親しげな姿、そして彼の口から発せられた言葉——

あの瞬間、何かが決定的に終わったのを感じた。

それなのに、思っていたほどの悲しみはない。ただ、ようやく肩の荷が下りた気がしていた。

馬車が止まり、玄関へと続く石畳の上に降り立つ。

エバンス伯爵家は格式高い名家ではあるが、王宮のように華美な装飾は控えられ、落ち着いた雰囲気が漂っている。

玄関のアーチには繊細な彫刻が施され、春の陽光を受けたアイボリー色の石壁が穏やかに輝いていた。

扉の前には使用人たちが並び、出迎えのために控えている。

執事が扉を開くと、馴染み深い屋敷の香りが鼻をくすぐった。

焼きたてのスコーンと、花の香り——いつもの家だ。

「お帰りなさいませ、リリアナ様」

使用人たちが一斉に頭を下げる。

「ただいま戻りましたわ」

静かな声で返しながら、私はそっと裾を持ち上げ、屋敷の中へ足を踏み入れた。

大理石の床が陽光を反射し、広々とした玄関ホールには品のあるシャンデリアの灯りが柔らかく揺れている。

装飾の施された柱や、壁に飾られた絵画が整然と並び、この屋敷の静かな気品を象徴していた。

「皆様はサロンでお茶をしておられます。リリアナ様も向かわれますか? すぐにご用意いたします」

「……ええ。お願い」

執事の言葉に、私は軽く頷く。

王宮のお茶会に参加したのに、こうして一人で早く帰ってきたリリアナのことをこの執事長も不思議に思っているだろうに、そのことをおくびにも出さない姿はやはりプロだなと感心する。

——家族にはどんな顔をされるかしら。

血の気が多いお父様は怒るだろうか。穏やかなお母様は落ち着いて受け止めるだろうか。

もっと血の気が多いお兄様は……おそらく、今にも飛び出して決闘を申し込む勢いかもしれない。

長い廊下を歩きながら、私は無意識に指先を擦る。婚約指輪を外した跡が、そこにあった。

サロンの前で、一度深呼吸をする。

「……お嬢様。開けますね」

そして、神妙な顔をした馴染みの執事がゆっくりと扉を開いた。

***

「おかえり、リリアナ」

扉を開くと、家族全員が席に着いていた。

普段と変わらぬ穏やかな雰囲気だったが、そこに漂う空気は明らかに違っていた。

長いダイニングテーブルの中央には、やはり焼きたてのスコーンと、それから私の大好きなマフィンが並んでいる。

だが、誰一人として手を付けていない。

父のオーウェンは手にした紙を脇に置き、母のエリザベスはティーカップを持ったままこちらを見ている。

四つ年上の兄のレオンはフォークを手にしたまま、明らかに緊張した面持ちでこちらを見つめていた。

お母様がそっと立ち上がる。

「無事でよかったわ、リリアナ。さあさ、こちらに座って」

お母様の穏やかな声が、張り詰めた空気を少しだけ和らげたように感じる。

なんだか不思議な雰囲気で、緊張していた私はひとまず椅子に腰掛ける。

「紅茶をお持ちしますか?」

控えていた侍女が尋ねると、リリアナは小さく頷いた。

ほどなくして差し出されたカップには、湯気を立てるアールグレイが注がれている。

温かい香りが鼻をくすぐる。

「……リリアナ、お茶会はどうだった?」

お兄様の慎重な問いかけに、私は深く息を吸い、一拍置いて口を開いた。

「……エドワード様が、カミラ嬢と逢い引きをしておられました。熱い抱擁と、その……口づけを交わしておいでで……ゆくゆくは一緒になろうとお約束をされておりました」

その瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。

お母様のティーカップがいつもより音を立てて皿に置かれ、お父様が持つ紙は真っ二つに亀裂が入った。

そしてお兄様はなぜだかナイフも手にしていた。

ボロボロになった紙をテーブルに置いたお父様は咳払いをする。それから静かに告げた。

「リリアナ。子細を話せるか?」

その言葉にゆっくりと頷く。

「はい。カミラ嬢とは随分と前から親しくしていらっしゃったようで、気安いご様子でした。そして、その時私のことを……『空気のような女』だと仰っていました」

言葉を呑み込みたかったが、誤魔化す理由もない。

「……つまらない婚約者だから、いずれ婚約解消するつもりだったそうですわ」

言えた。言った。

私の言葉に、静寂が落ちた。

サロンの広々とした空間が、息苦しく感じるほどの沈黙に包まれる。

お父様は拳を握りしめ、お母様は目を伏せている。レオン兄様は奥歯を噛みしめながらこちらを見つめていた。

──待って、お兄様のカトラリーが大変なことになっているわ。

力を込めすぎたのか、フォークもナイフも変な方向に曲がっている。

三者三様の家族をゆっくりと見回した後、私は静かに手を膝に乗せた。

「……以上が、お茶会での出来事です」

そう言ったあと、誰もすぐには口を開かなかった。

お父様は深く息を吐き、お母様は何か言いたげに口を開きかけて閉じる。

レオン兄様は怒りを抑えきれない様子で、ギリッと歯を食いしばっている。

私もまだ心臓がバクバクしている。

大好きな家族に、こんなことを伝えることになったことが悲しい。

パキ、という小さな音がこの部屋の静寂を破った。