軽量なろうリーダー

大泣きしたフリをして、婚約者の浮気を大声で暴露して差し上げましたわ

作者: Re:I P

本文

それは、王城の大広間で開かれた春の舞踏会でのことだった。

「う、うっ……ひっく……っ、いや……っ、そんな、そんなの……あんまりですわぁ……!」

華やかな音楽が流れ、笑いさざめいていた会場に、突然、ひときわ大きな泣き声が響き渡った。

中心にいたのは、侯爵令嬢フローラ・エーヴェルハルト。

ふわりとした金髪に、すみれ色のドレスをまとった彼女は、両手で顔を覆い、肩を震わせながら人目もはばからず泣いていた。

さめざめと、しかもかなり派手に。

周囲の貴族たちは何事かと足を止め、次々に視線を向ける。

「まあ、フローラ様?」

「どうなさったの?」

ざわめきが広がっていく中、婚約者である伯爵家嫡男エドガー・ラインフェルトが、顔を引きつらせながら駆け寄ってきた。

「ち、ちょっと待ってくれ。何で泣いているんだ?」

その声を聞いた瞬間、フローラはますます大きく肩を震わせた。

「だ、だって……っ、わたくし、あまりにも、あまりにも悲しくて……!」

「悲しい?何の話だ」

「そんな……っ、ご自分でおわかりにならないのですか……っ?」

ぐす、ぐす、と丁寧に間を取りながら泣く。

もちろん演技である。

目元に涙を浮かべてはいるが、それはほんの少し前にこっそり使った刺激のある香油のおかげだ。悲しみに暮れているように見せるための、完璧な準備だった。

フローラは知っていた。

婚約者エドガーが、自分の陰で他の令嬢と会っていることを。

相手は子爵令嬢のミレイユ・オルブライト。可憐で守ってあげたくなる雰囲気を売りにした、社交界でも最近顔を売り始めた娘だ。

庭園での密会。茶会の帰りに二人きりの馬車。贈り物。手紙。

全部、知っていた。

知っていて、ずっと知らないふりをしていた。

なぜなら、問い詰めるのは簡単だが、それでは足りないからだ。

どうせなら、言い逃れのできない場所で、二度と社交界で大きな顔ができないように、徹底的に潰したかった。

今日、この舞踏会こそが、そのための舞台だった。

「フローラ、落ち着いてくれ。君が何を勘違いしているのか知らないが――」

エドガーは周囲の視線を気にしてか、声を潜めようとした。

だが、フローラはわざと聞こえるように声を張る。

「勘違い……!?わたくしが、ですの……!?」

はっとしたように口元を押さえ、それから再び涙声で続ける。

「えぇ!浮気していたなんて!?わたくし、ちっとも知りませんでしたわ……!ずっと、ずっと信じておりましたのに……!」

ざわっ、と空気が変わった。

貴婦人たちが扇の陰で目を見開き、紳士たちが眉をひそめる。

浮気。

しかも婚約中の令嬢が、大広間の真ん中で泣きながらそれを口にしたのだ。注目が集まらないはずがなかった。

「は、はぁ!?何を言っている!?」

「違うのですか……?」

「違うに決まっているだろう!」

エドガーの語気が強くなる。

その瞬間、周囲の空気がさらに冷えた。泣いている婚約者に対して、感情的に声を荒らげたように見えたからだ。

フローラは内心でほくそ笑みながら、表向きは怯えたように一歩下がった。

「そんなに怒鳴らなくても……っ。わたくし、ただ……どうしてミレイユ様と毎週のようにお会いになっていたのか、教えていただきたかっただけですのに……っ」

「な……」

「三週間前は南庭園で。先週はベルナール劇場の二階席で。その前は、オルブライト子爵家の別邸でお茶をご一緒に。……ああ、でも、わたくし、信じておりましたの。きっと何か事情がおありなのだろうって」

しん、と辺りが静まり返る。

内容が、あまりにも具体的だったからだ。

エドガーは明らかに狼狽した。

「そ、それは……その……偶然だ」

「三回も四回も偶然が重なるなんて、なんて幸運なのでしょう」

泣いていたはずのフローラの声に、ほんのわずかな冷静さが混ざっていた。

だがすぐに彼女はまた目元を押さえた。

「でも、きっとそうですわよね……。だってエドガー様は、わたくしの婚約者ですもの。まさか別の令嬢に、わたくしに贈るはずだったプレゼントをお渡しになったり、わたくしとの約束を取りやめてまで逢瀬を重ねたり、そんな不誠実な方ではありませんものね……っ」

野次馬たちの食いつきは上々だった。

エドガーはすでに額に汗を浮かべていた。

「フローラ、やめろ……!」

「やめる……?何をですの?」

「こんな場所で話すことじゃない!」

「では、どこで話せばよろしいのですか?」

フローラはゆっくり顔を上げた。

「これまで何度も、お話を伺おうといたしましたわ。でもエドガー様は、いつも『忙しい』『今度にしてくれ』とおっしゃったではありませんか」

「それは……」

「ですからわたくし、知らないふりをしておりましたの。婚約者としての情けでしたわ。ご自分から打ち明けてくださるなら、まだ考える余地もあったかもしれませんもの」

ここでようやく、フローラがただの被害者ではないことに気づき始める者が出てきた。

彼女はずっと知っていたのだ、と。

知っていて、今日この瞬間まで待っていたのだ、と。

「し、知らないふりを……?」

呆然としたのはエドガーだけではない。彼の斜め後ろで様子を見ていたミレイユも、青ざめて立ち尽くしていた。

フローラはそちらへ視線を向ける。

「ミレイユ様も、お気づきではありませんでしたの? わたくし、あなたが身につけていらっしゃるそのブローチ、見覚えがありますのよ」

ミレイユがびくりと肩を震わせた。

「そ、それは……」

「ええ。わたくしが以前、店先で『綺麗ね』と申し上げたものですわ。エドガー様、その場で『今度贈るよ』とおっしゃいましたのに、まさか別の女性の胸元で再会することになるなんて、夢にも思いませんでした」

「違うのです! これは、その……!」

「違いますの?」

ミレイユの唇が震える。

彼女はおそらく、フローラがここまで記憶の良い人だとは思っていなかったのだろう。

エドガーは忌々しげに舌打ちした。

「……誰だ。誰が君に余計なことを吹き込んだ」

「余計なこと?」

フローラは目をぱちぱちと瞬かせ、それからふっと笑った。

今度は泣き顔ではなかった。

ぞくりとするほどの笑みだった。

「面白いことをおっしゃるのね、エドガー様。婚約者の裏切りが、余計なこと?」

「……!」

「それとも、ご自分にとって不都合な真実は、すべて余計なことだと?」

会場のあちこちで、ひそやかな失笑が漏れた。

もう誰の目にも、優位に立っているのがどちらかは明らかだった。

エドガーは見苦しく周囲を見回した。

「お、俺はただ、彼女の相談に乗っていただけだ!」

「毎回、人気のない場所で?」

「それは誤解を避けるためで――」

「誤解を避けるために、隠れて会うのですか?」

間髪を容れずに返され、エドガーは言葉を失った。

そこへ、さらに追い打ちがかかる。

「それに、相談に乗っていただけでしたら、なぜ『君といると心が安らぐ』『フローラは家同士のための婚約だから』などと書かれた手紙が存在するのでしょう?」

エドガーの顔が、さっと白くなった。

「不思議ですわよね。わたくし宛の手紙には『季節の変わり目ですのでお身体を大切に』程度しか書かれませんのに、ミレイユ様宛にはずいぶん情熱的な言葉を綴っていらっしゃるのですもの」

フローラは胸元から一通の手紙を取り出すと、わざと丁寧な手つきで封を切った。

「では、まとめて読み上げますわね。――『ミレイユ。君の笑顔は春の陽だまりのようで、触れるだけで心が溶けてしまいそうだ。次に会うときはあの青いリボンをつけてきてほしい、あれはとても君に似合っていた。いずれ必ず君を迎えに行く』――以上ですわ」

中々痛々しい恋文だった。少なくとも、社交界に身を置く年頃の男性がしたためるものとは思えない。甘ったるい文句をこれでもかと並べ立て、己に酔っているのが行間から滲み出ている。聞かされた側の方がいたたまれなくなるような文面だった。

そして何より、当の二人の反応がすべてを物語っていた。

エドガーは耳まで真っ赤に染め、顔を引きつらせて立ち尽くしている。先ほどまでの見苦しい言い訳も、今は喉の奥に張りついたのか一言も出てこない。ミレイユもまた、青ざめたり赤くなったりと忙しく、とうとう俯いたまま顔を上げることすらできなくなっていた。

さすがに恥ずかしくなったのだろう。

あれほど情熱的な恋文を交わしておきながら、人前で堂々としていられるほど面の皮は厚くなかったらしい。

フローラが手紙を丁寧に畳み、にこりと微笑んだ頃には、二人はもうその場にいられなくなっていた。

エドガーは誰とも目を合わせないまま踵を返し、ミレイユも慌ててそのあとを追う。まるで最初からそこにいなかったことにしたいとでも言うような、実にみっともない退場だった。

それ以来、二人が王都の社交界に姿を見せることはなくなった。

夜会はもちろん、茶会にも観劇にも現れない。最初は「療養中らしい」「親類の領地へ移ったらしい」などともっともらしい話も出ていたが、しばらくすると別の噂が流れ始めた。

どうやら二人とも、外へ出る時は深くフードを被り、人目を避けるようにしてこそこそ生活しているらしい、と。

華やかな広間で人の視線を浴びるのは好んでいたくせに、一度笑いものになっただけでそれとは正反対の生き方に転じるとは、なんとも皮肉な話である。

もっともフローラにとっては、もはやどうでもいいことだった。

二人がどこでどんな顔をして暮らそうと、自分の知ったことではない。

ただひとつ確かなのは、もう二度と王都で、あの痛々しい恋文の続きを語れるほどの顔はできなくなったということだけだった。