作品タイトル不明
第2章 3
(え? 今の……)
懐かしい色と、形。
「散り始めたな」
アゲイト様が足を止めた。
綺麗に整えられた庭園の、中央にある池のほとりにその木は立っていた。
高く伸びた幹から大きく広がる枝に、小さな薄紅色の花がみっしりと咲いている。
満開のその木から、ハラハラと花びらが落ちては風に舞っていく。
え、これって……まさか。
「桜!?」
木の元へと駆け寄る。
見上げると、目の前には赤い葉をつけた枝に咲く、柔らかそうな五弁の花。
黒っぽい艶のある幹から広がるように横へと伸びていく枝も、前世の記憶にあるままだ。
「本物の桜だ……」
まさか、この目で見られるなんて。
(前世で死んだ時に見た以来だ)
交通事故だった。
最後の記憶は空に舞う薄紅色の花びら。
痛みと寒さで意識が遠のく中、花が綺麗だと思った。
孤独のままの人生だったけれど、一番好きな花で終えることができたのは良かった。
この世界にも桜があるけれど、この国には生えていない。
ゲームでは、街で出会う商人キャラの攻略ルートでアイテムとして出てくる。
ヒロインの髪色と同じだと、桜の押し花をもらうのだ。
その桜が、まさかオーランジェ公爵家にあったとは。
(桜を見られるなんて夢みたい……)
うっとりと見上げていると、横から視線を感じた。
(あ……しまった)
そうだ、アゲイト様にエスコートされていたんだ。
桜に驚いて、夢中になってすっかり存在を忘れてしまった。
(どうしよう……やってしまった)
呆れられているか、怒っているかもしれない。
恐る恐る振り向いた。
アゲイト様は驚いた顔で私を見ていた。
目が合うと、その瞳が一瞬大きく見開かれて――数度まばたきをする。
(これは……どういう反応?)
よく分からないけれど、予想外だったようなのは分かった。
「す、すみません……」
急いでアゲイト様の側へ戻ろうとすると、アゲイト様が歩み寄ってきた。
「……その、ずっと見たかった花が咲いていたので……」
「そういう顔も出来るんだね」
「え……?」
「このサクラを知っていたんだ」
桜の傍に立つとアゲイト様は木を見上げた。
「は、はい……。本で見た挿絵がとても綺麗で……一度見たいと思っていて……」
王宮にある、異国の本の中に桜について書かれたものが何冊かあった。
それを読んでは実物を見たいと願っていた。
「このサクラは死んだ母が好きだった。花が散るのを何時間も眺めていたのを覚えているよ」
桜を見上げるアゲイト様の横顔は、懐かしむような――そして苦しげに見えた。
(……何だか……とても寂しそう)
自分の胸まで少し苦しくなる。
(こういう時……何を言えばいいのだろう)
社交的な人ならば、さりげなく気の利く言葉をかけられるだろうに。
私には分からない。
でも、今のアゲイト様に何か声をかけた方が良い気がした。
(何か……桜の……)
私はもう一度桜を見上げた。
アゲイト様のお母様が、何時間も見続けられるほどに、狂おしい……。
『世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし』
無意識に前世の和歌が口から出た。
「え?」
「――遠くの国では、桜はとても愛されていて……多くの絵や文学作品で取り上げられているそうです」
はらはらと風に舞う桜は、前世で見た姿と変わらなかった。
この世界でも、ずっと昔から桜は咲き続けてきたのだろう。
「それで、その中で私が好きな、短い詩がありまして……。『もしもこの世に桜がなかったならば春は心穏やかに暮らせるのに』という意味なんです」
学生の時に読んだ古今和歌集に載ってきた、在原業平の歌だ。
桜の歌が好きでいくつか覚えたが、この歌が一番印象に残っている。
「ずっと昔から、この桜は人の心を狂わせるほど美しいんです」
アゲイト様を見ると、じっと私を見つめていた。
(あ……喋りすぎたかも)
突然変なことを言いだしたと、不審に思っているかもしれない。
「すみません! 長々と……」
「いや」
ふ、とアゲイト様は微笑んだ。
「面白い話をありがとう」
「いえ……」
「話のお礼に、そうだな。俺のおすすめの店に今度一緒に食事に行こう」
お礼を言われると思わなかったので驚いていると、アゲイト様は笑みを深めてそう言った。