軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

帰郷

見送りの挨拶の時、ライヒムは隣にアンジェを連れていた。形式的なやりとりをしつつも金色の瞳は熱心に私に向けられて、アンジェは私にもクヴァルにも、一切顔を向けなかった。辺境伯の姿はない。

彼らと別れて、馬車はゆっくりと進み始める。そうして王都の一角、煉瓦造りの家の前に立つ、2人の男女の前で止まる。

馬車を降りる。ネレイス様、とエフィナは私の名前を呼んだ。緊張した面持ちで私とクヴァルを見つめる彼女の夫は数度舞踏会などで遠目に顔を見た程度だったけれど、変わらず柔和な顔つきで、どこか雰囲気がエフィナに似ていた。

もう行かれるのですね、と言葉を続けられて頷く。

「ずっとずっと、本当にありがとうございました。……またいつか、お会いできますか?」

「ええ。貴女が望んでくれるなら、必ず」

白い手を握って、またいつかと応える。この優しい女性に、美しいひとに、心からの感謝と敬意を込めて。

「またいつか、お茶会をしましょう。次は私が、グランヌスのお菓子を用意しますね」

指先がゆっくりと離れる。かならず、と学生の時のように晴れやかにエフィナは笑う。

馬車が進む。いつまでも手を振り続けてくれる小さな影に、見えなくなるまでずっと、目を凝らしていた。

信頼できる兵士に託すのが、きっと一番正しいことだった。

それでも辺境伯領に入る直前で、グランヌスの国章付きの豪勢な馬車を下り、いつか乗ったような装飾のない馬車に乗り換える。ほんの寄り道だから彼がついてくる必要はなかったのに、クヴァルは懐かしい固い座席だ、と言いながら向かいに座った。

まだ辺境伯は王都にいると知らせを受けている。懐の手紙をなぞってから、国境近くの村の、小さな家の扉をノックした。

「はいはーい!……わぁ、きれいなお姉さん!どうしたの?」

「こんにちは。ジャック君ですか?あなたに手紙を預かったので、届けに来ました」

私の腰ほどの背の高さの、茶髪に同じ瞳の色をした少年。驚きと少しの不安が混ざった表情は、私の差し出した手紙を見て、嬉し気なものへと変わる。

「ミハイルから!?読んでいい?」

「もちろん。彼も―――ミハイルも、あなたに会いたがっていました」

あの日孤児院の子供から預かった、離れてしまった故郷の友人に向けた手紙。その届け先が、彼だった。

小さな手が封筒を破り、丸い瞳が文字を追う。目線が一番下まで下がった後、彼は嬉しそうに手紙をいちど天にかざして、こちらを見る。

「お姉ちゃん、グランヌスの王城?って、どこにあるの?いっぱい玩具があって、のぞき箱も、人形の兵隊もあるんでしょう。お城の人たちは肩車してくれるし、今度屋敷のお庭にブランコを作るの?僕も遊びに行ってみたい!」

「遊びに、ですか?」

「うん!あ、もちろん今すぐじゃないよ?留守番中だし、僕が急にいなくなったら父さんと母さんがびっくりしちゃうからね。ちょっと待ってて、いまミハイルへの手紙の返事を書くから!」

扉を閉めすらせず、背を向けて跳ねるように少年は廊下の奥へと消えていく。不用心だなとクヴァルが隣でつぶやいた。仕方なく扉を閉めてから、家の壁に背を付けて道行く人を眺める。

ところどころうすく罅の入った露店の壁、こちらを気にもせず道行く人々。まばらに生えた草と砂煙、草を気ままにはみながら荷を運ぶ1頭のロバ。

かつては何度もはしゃいで、駆け回った場所だ。

「懐かしいか?」

「ええ。―――孤児院から一番近い村ですから、何度もここに来ました。買い出しでも、ちょっとした手伝いでの、お小遣い稼ぎでも」

子供だった頃は、小遣い稼ぎのために麻すきでも草むしりでも、何でもやった。

出店に並べられた、旅人の道行きの幸いを願う組み紐づくりは寒い季節でもできることと、出店の主人が給金のほかにお菓子をくれるから、人気の仕事だった。

知識は自分を助けるからと、シスターはすべての子供に読み書きと、その子に合わせた難易度の計算を教えてくれていた。あそこの孤児院の子供は読み書きと計算ができるし礼儀も教わっていると評判だったから、働けるようになり孤児院を出たときに歓迎されて、そのままこの村で暮らす兄姉は多かった。

だからレベッカ以外の、共に過ごし遊び、笑った兄妹たちが、今もこの村で暮らしている。

そうして私も、辺境伯に引き取られることがなければ、いつでも実家に戻れるからと院を出たらここで暮らしていただろう。

同じ時を過ごした人達と、たまたますれ違う、なんて奇跡は起きないけれど。それでもこの場所で、この国のどこかで、家族が暮らしている。

雑踏の中、女の子が母親に手を引かれ、通り過ぎていく。向かいの店先では老夫婦が商品の果物を片手に何かを話し合い、店主は笑顔でそれに応えていた。

ロバを引いた一人の青年が、角を曲がる時に、ふいにその鬣をなでた。

ーーーこの国の人間のままではできないことがあったから、かつて、ライワールトを離れた。

王家や辺境伯を憎むなら、亡ぼすだけなら簡単だった。けれど孤児院のあったこの国が、私の為に泣いてくれた友や、かつて共に過ごした兄妹達がいるこの国が。

この国にいる顔も名前も知らない、それでも優しい人達の日々も、穏やかであって欲しいと願っている。

グランヌスとライワールト、2国が長く共にある道を。

数十年前まで殺し合いをしていた相手だ。遺恨も憎しみも、まだ根深く残っている。グランヌスからだって、ライワールトを滅ぼすべきという声は未だ根深い。

けれど、一人ではないことも、知った。

お待たせ!と勢いよく扉を開けた少年が、ミハイルへ、と書かれた封筒を、私に差し出す。

慌てて書いたのであろう殴り書きの文字が、ミハイルから預かった封筒とおなじ右肩上がりで、思わず笑ってしまった。

ミハイルについてや孤児院の場所など、多くのことをジャックに伝えた。何度も手を振られて、またね、という言葉に頷いてから馬車に乗る。

騒がしい子供だったな、とクヴァルはぽつりとつぶやいた。赤い瞳は、移り変わる風景を眺めている。

最近グランヌスの領土になった国境の山脈に入り、兵士に出迎えの挨拶をされて。代わり映えのない森を抜けて、外は一面緑の丘になる。

行きとは違う道だった。クヴァルに視線を向けると、彼はうっすらと口角を上げる。

「お前が寄り道したのだから、俺だっていいだろう」

「……どこに、行かれるおつもりですか?」

「あの時は遠くから眺めるだけだったからな。もう誰もいないが、懐かしいものもあるだろう」

里帰りだ、と、長い指が私のほおに触れる。遠い緑の視界の先、懐かしい孤児院が、そこにあった。

隙間風のふく玄関、歩くたびにぎぃと音のなる廊下。かつては毎日拭いていたテーブルは、今はうっすら埃が積もっている。

彼らを宮殿まで連れてきたあの賭けの夜、シスター達はほとんど着の身着のままだったらしい。レベッカもあれから何度も、兵士とともに必要なものを取りに行ったと話していた。

誰もいない、物も少ない、古い屋敷。

けれど小さい子が興味本位で使わないように、と物入れの高いところに保管されていた火打石とそれを入れる花の刺繍の巾着など、ぽつぽつと懐かしいものが残っていた。

身長を比べるのに使ったせいで、何本も横に筋のような傷がついた柱を、そっとなぞる。

宮殿につくられた屋敷に、不満は一度も聞いていない。美しく、真新しく、冬は寒すぎて1人1枚の布団を重ねて1つのベッドで狭い狭いと言いながら2.3人で眠ることもない。時間がたてば、あの院も彼らや私になじんで、思い出が生まれる場所になるのだろう。

けれど。シスターや兄妹の幸福を、この世の何よりも願っているけれど。

彼らの日常が穏やかに続き、そのうえで、もしも願いがもう一つ、叶うのならば。

なんにもいらないから。

私はずっと、ここに帰りたかった。

「クヴァル様、あなたは」

どうしてここまでしてくださるのですか、とは、もう、聞けなかった。

愛していると、その為なら何でもすると、言われた。

ならこの人に、なにをいうべきなのか。いいたいのか。言葉を詰まらせた私に、彼はまた、薄く笑った。

「ネレイス。そういえば前に、何でも言うことを聞く、といったな?」

「……ええ。私にできる事なら、なんでも」

「断っても良い。けれど、したい事がある。しばらくはできなさそうだからな。―――式を挙げないか」

「あの男と同じように指輪一つきりで妃にしてしまった事を、これでも悔いているんだ。できる事なら今すぐに正妃になってほしいし、国中の贅を凝らして式を挙げたい。けれどネレイスが振り向くかもしれないなどと思わせた直後だから、堂々と式を挙げて、あの男を招待するわけにもいかないだろう?」

小さな式でいい。その代わり、最前列にお前の家族全員を招待しよう。

穏やかな、愛しいものを見るような瞳。

そうして彼の言葉があまりにも魅力的だったから、思わず、小さく頷いていた。