軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

【5】騎士の告白と、賄い婦の決意

翌日の昼下がり。私は寝所に押し込まれたまま、団長夫人に着替えさせられた、肌に馴染む布の服の袖を指先でいじっていた。

厨房へ戻りたいという訴えは、朝のうちに三度却下されている。

「今日は休むこと」と夫人に念押しされ、扉の前には見張りが一人ついた。

働く気力がないわけではない。むしろ身体を動かしたほうが落ち着く。

だが、誰一人として私に働かせる気がない。

昼食も夫人が作ったものが部屋の机に置かれ、私はスプーンを三回使ったところで満腹になった。

酷使したせいか、足にうまく力が入らない。

夢中で走っていた私は気づかなかったが相当な距離を走ったようだ。

窓の外では騎士団の訓練の音が遠くで響いていた。

打ち鳴らされる木剣の衝撃が、空気を細かく震わせる。

体を横にしたまま耳を澄ますと、廊下のほうから人の声が漏れ聞こえた。

低い声と、もう一つは女のくぐもった泣き声。

少し気になり、扉の前に立つ団員に声をかけた。

「どなたが来ているのですか?」

「…………リディアさんの誘拐を依頼した女です」団員は言いにくそうに続ける。「副団長が事情を直々に確認するそうです」

私を誘拐するように依頼した、前任の賄い婦のようだ。

こちらの問いが続く前に、廊下の向こうからまた声が落ちてきた。

「あの子ばっかりずるい!! なんで!? ねえ、私だって──!!」

女の声は涙で割れていた。

体が強張り、肩が上がる。

誘拐犯たちの会話で分かっていた内容が、泣き声で現実になった。

しかし、踏み込む気にはなれない。

私は指先を握り、薄い布団の上に置き直した。

息を吸うたびに脇腹のあたりがじわりと重くなる。

逃げる間際に塗りつぶされた景色がまだ頭に残っていた。

草の匂い、湿った土、足裏の石畳、遠くの狼声。

けれど、詰め所の灯りと、グレイが私を呼ぶ声──あの声を思い出すだけで緊張が緩む。

胸元を押さえる。

布越しに、昨日抱きしめられたときの体温がまだ残っている気がした。

気づかないうちに意識が沈んでいたらしい。

まばたきを一度したつもりだったのに、目を開けたら夕方だった。深く眠り込んでいた自覚は、今になってようやく追いつく。

なんとなく布団の上で指をグーパーと開閉する。昨日までの痛みは薄れているが、指の関節が遅れてついてきた。

そのとき、扉を軽く叩く音がした──ノックの音とほぼ同時に扉が開いた。

そこへ立つ姿が目に入る。

グレイだ。

「まあ、返事を待たないなんて。ノックした意味がありませんわね」

嫌味が出てしまったのは仕方ないと思う。

寝ていたら見られていたかもという考えが、反射的に口を滑らせた。

「……すまん」

リディアへ告げてから、扉のほうへ視線を向ける。

「もう下がれ。ここは俺が見る」

「は、はい! 了解しました!」

見張りは背筋を伸ばし、緊張した顔で早足に去っていった。

扉が閉まり、室内に二人きりになる。

グレイは私の隣の椅子に腰を下ろした。

その動きに張りつめたものが混じっていたが、座った瞬間に、ふっと肩が落ちた。

安堵と呼ぶしかない変化だった。

「誘拐犯は、依頼者の証言で名前と潜伏場所が割れた。今夜、捕り物になる」

報告のような声音だった。

だが、その中に潜んでいるものは報告よりずっと重い。

「さすがですわ、我が国の平和は騎士団のおかげですね」

軽い調子で返したつもりだったが、グレイはうつむくように視線を落とした。

「……そんなことは、ない……俺の判断のせいで、君が危険な目に遭った」

言い淀むような低さだった。

彼の視線が、私の頬に貼られたガーゼへ移る。

その瞬間、彼の眉間に皺が寄った。

「あ、これですか? 大げさなのです。ただの小さな切り傷ですのに……」

「すまない。俺が一緒に買い物に行くべきだった」

「そんな──」

言いかけて、口をつぐんだ。

グレイの顔つきが、こちらの言葉を拒むように硬かったからだ。

責任だけを自分へ寄せようとしている、それが一目で分かった。

だから私は、元気だと示すために、布団の上で腕をふんふんと上下させた。肩も回し、ほら元気! と言わんばかりに。

「見てくださいませ! 腕も上がりますよ? ね?」

わざとらしい仕草だった。グレイのためにやっている自覚はある。

「それにしても、お間抜けさんな誘拐犯でしたわ。自力で抜け出しましたし。うふふ」

おちゃらけた口調にもグレイは笑わない。

それどころか、ますます沈んでいくように見える。

私は内心焦っていた。

その焦りが胸の中で膨らんで、彼がまた自分を責め始めるのを止めたくて、何でもいいから責任の話題から引き離す言葉を探して……。

なのに、うまく言葉を選べなくて頭が空回りし、結局、つい、本当のことを口走ってしまった。

「誘拐されていたとき、このまま大人しくしていたら売られて終わる、と思いました。逃げるしかないと判断したとき、どこへ戻れば状況を覆せるのかを選ばなければならなくて……その折、考えより先にグレイ様の顔が浮かんだのです。ここに戻ったときも、『この人に会うために走って来た』と、思っ、て……あ……」

言いながら、しまった、と思った。

なんてことを話しているのだ、私は……。

この騎士団では恋愛禁止だ。

団員に不必要な接触はするな、と彼自身から聞いた。

そして、これが前任者が辞めさせられた理由でもある。

「あ、あの、これ、は、違っ──」

「リディア」

名を呼ばれた瞬間、言い訳を並べる余地はなかった。次の呼吸が来る前に、体が強く引き寄せられたからだ。

胸元へ押し込まれるように腕の中へ収まり、視界は彼の騎士服の黒一色になった。

体勢を直す余裕もない。ただ、背中へ回された腕の力が想像より強く、息が詰まりそうになった。

突然の距離に頭が追いつかず、抗議も拒絶も冗談も浮かばない。

「君は最高だ。強くて、可愛くて、頭が良い」

今まで聞いたことのない甘さを含んだ音だった。

褒め言葉より、抱き締める圧のほうが本音に近いと分かる。

普段の彼とまったく違う。もはや別人だ。

距離に厳しく、礼節に固く、団員の前では表情も崩さない男のはずが、今、私を腕の中から離そうとしない。

「な、なんですか、急に……」

「君がいなくなったと聞いたとき、肝が冷えた。二度とあんな思いは味わいたくない」

「……」

「本当に、怖かった」

喉奥の息がかすれ、抑え込んだ衝動が皮膚越しに伝わる。

獲物へ手を伸ばす直前の獣のような緊張があった。

「……グレイ様?」

「好きだ」

低く落ちた声の余韻が残るあいだ、腕の力が少しずつ変わっていくのが分かった。

抱き寄せたままなのに、押しつけるものではない。生きて戻ってきたと確かめるような、数を数えるみたいな微調整のような……。

その手つきに、ようやく理解が追いついた。

彼は、私を失うのが怖かったのだ。

「……わ、私も、た、たぶん……」

「『たぶん』?」

「だ、だって……こ、恋は、初めてなので、判断しきれません。けれど、あなたを見ると、胸が高鳴るのは事実で──」

言葉を続けるより先に距離が消えた。

状況が追いつかないまま、唇が触れる。

唇が離れたとき、私は息の仕方を一瞬忘れていた。

「な、なんで……」

「すまん、可愛くて」

「か、か、わ……?」

「可愛いからした」

二回言わないでほしい。

そして腕が離れる気配が一つもない。

彼の手はまだ私の頬に触れ、親指が位置を確かめるように動く。

「……リディア」

呼ばれた名は、先ほどより落ち着いていた。

それでも奥底に、まだ燃え残った熱があるのが分かる。

「俺と結婚してくれ」

「……は、い?」

間抜けな声が出た。

いや、間抜けというより、処理が追いつかなかった声が出た。

「は、早くないですか……? というか、今、その流れでした? そ、それに、騎士団内での恋愛は禁止では……?」

『恋愛』という単語を自分で言い、顔から火が噴き出しそうになる。

「流れなど関係ない。君を失うかもしれないと思ったら……もう、待つ理由がなくなった。それと、恋愛そのものは禁じられていない。問題なのは職務に支障が出るような接触だけだ。規律で禁じられているのは、節度を欠いた行いだ」

「え、あ、でも、そんな、急に言われましても……」

声が震える。

「それもそうだな……」

「…………え?」

彼は椅子から立ち上がり、外套の前をぴんっと張る。

その動きには、ようやく視線を外すための意図が透けていた。

「仕事に行く」

「……は、はい、いってらっしゃいませ」

「戻ったら、続きを話す」

「つ、続き……?」

「そうだ」

抗議しかけたところで、グレイは振り返った。

いつもの端正な表情のまま、目だけが少しだけ柔らぎ……いや、あれは反則だ。

「行ってくる」

私は返事の代わりに、小さく頷くのが精一杯だった。

返事になっていないはずなのに、『よし』と受け取られたことが分かり、落ち着かない。

頬が赤いなどという生易しいものではなく、私が熱そのものになっている。

扉が閉まる直前、彼は一度だけ振り返り、視線だけで何かを確かめるように私を見た。その後ろ姿が廊下へ消えていく。

心臓が落ち着かないまま、私は布団を握りしめた。

──結婚?

熱はしばらく引きそうにない。

帰ってきたときのことを考えなかったと言えば嘘になる。

ただし、それを期待と呼ぶかどうかは別の話だ。余計な希望は判断を鈍らせると知っている。だから深追いせずに寝ることにした。

翌朝になってもグレイとは顔を合わせなかった私は、やはり期待しなくてよかったと思った。

捕り物は無事に終わったらしいと団員から聞いたのは、さらにその翌日の昼過ぎで、安堵より先に力が抜けた。

あの夜の勢いのまま何かが続くと思っていたのに、急ぎの仕事に追われているらしく、それから五日間、姿を見ていない。

六日目にようやく顔を合わせたが、求婚の続きを切り出すような雰囲気ではなく、互いに距離を測るような会話だけが重なっていった。

そう、勢いが削がれたのだ。私は、『盛り上がり』とは、大事なのだなと一つ学んだ。

求婚の話が宙ぶらりんになっていることを忘れた日のほうが少ないが、騎士団の仕事に差し挟める類の話ではない。

つまり、考えても結論が出ないまま、熱だけが始末のつかない形で残っているのが現状だ。

事がうまく運ばないのが私の人生である。

……これは、私が生きる上での醍醐味なので同情は無用だ。

◇◇◇

そうして、事件から二ヵ月経った。

私は今日も台所を牛耳って、騎士たちの夕食を仕上げている。

本日の揚げ鳥は好評だった。皿が空になるたび、新しい一枚を差し出す。その繰り返し。

揚げ油の火を落としたとき、あの騒動が全部片づいたことを思い出した。

事件関係の処理は、とっくに終わっている。

前任の賄い婦は事件翌日には捕えられた。取調べで共犯の名を次々と挙げたせいで自分の刑が重くなり、今は拘留所で雑務を続けているが、来月には十年の鉱山送りが決まっている。

生還率は低い。仮に戻れても戸籍に犯罪刻印が残るため、住居も職も自由には選べない。

誘拐犯たちは逃走中に互いを罵り合い、取調べでは責任を突き返し合った。供述の矛盾が増えた分だけ虚偽として扱われ、全員が長期拘留になった。

このあと裁判を経て流刑地送りとなる。今後、王都への再入域は禁止。さらに前科の証として顔に墨が刻まれ、小指も切り落とされる。

さて今回の件は人攫い対策の材料になったとされ、騎士団の働きは王都でも評判になった。その影響でグレイはさらに忙しくなっている。

そして、功績が広まったせいで、彼の名前まで街で口にされるようになった。あの容姿なら女性人気が増えるのも当然だろう。

事件のあと、騎士団で過ごす時間にも慣れた。

台所にいると、皿を運ぶ団員や報告に来る者が入れ替わり立ち替わり顔を出す。

誰かと同じ場所で働いても乱されない日が続くと、ここでの生活が自分の手の届く範囲に収まってきたのが分かる。

この程度の距離感なら、誰かと並んでも息苦しくならない──と判断する場面が増えた。

……あの日、彼から告げられた求婚は、あれきり話題に上らないまま止まっている。

止まっている理由は、続きの話を切り出す機会がどちらにも起きなかったからだ。

それとは別に、私には返事を簡単に出せない事情がある。

私はやっと『自分の人生』を歩きはじめたばかり。自分の足がどこまで使えるのか測りたい。

と、いうのは建前……いや、嘘ではないし、そういう気持ちは本当にある。

だけど、結婚には慎重になりたかった。なんせ私にはあの両親の血が流れているのだから。

あれほど女性に人気のある男の妻を務められるのか、という不安もある。

彼もきっと、私が悩んでいることを察して言い出さないのだろうと思う。

ただ、時間の問題な気もしている。

なぜって、外堀が埋められているからである。

つい先日も、皿洗いを手伝う騎士見習いに「もう時間の問題ですよね」と言われてしまった。

実際、私とグレイが恋人であることは間違いない。

夕食後の日課になった散歩──騎士団の庭を歩く際に、彼の手が私の手を攫うのはいつものことだし、帰り際に髪へ触れる癖もついた。

最近は、彼の外套の肩についた埃を払ったり、前髪を気にしたりする自分がいる。

些細な動作なのに、触れた指先を引こうとしないのは、もう恋人として並んで歩いている証拠だと思う。

というか、人目がないとどこでも口づけてくる。

最初の頃は距離の詰め方に身構えていたが、彼は必ず私の反応を確かめてから触れた。拒めばすぐに手を引く。その積み重ねが、気づけば不安を薄れさせていた。

こんなストイックで禁欲的な印象のくせに、スキンシップを好む男に、私は 絆(ほだ) されかけつつある。

というか、もう絆された。

……だって、仕方ないではないか。

私だって彼が好きなのだから。

今日の夜の散歩の時間に、返事をしようか。

求婚がなあなあになってしまい、少し臆病になってしまった彼に。

……あの日からずっと急かすことなく距離を保ち続けて、待っていてくれているのだから。

なんて、考えるふりをする。

私が帰還した夜の抱擁の際、グレイの手は震えていた。

強さで押し倒すのではなく、失うことを恐れてしがみついていたと分かった瞬間から、答えはずっと決まっていたのだ。

私はこっそりと重大な決意を固め、いつもの散歩の時間に、いつものように彼が迎えに来るのを待った。

【完】