軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

#. 悪い夢、あるいは遠い記憶 (2)

「起きなさい。プリシラ・ライデン」

「……」

もう少し休んでいたいのに、一体誰が眠りを妨げるのか。苛立ちながら身を起こすと、見知らぬ天井が……いいえ、見知らぬ世界が視界いっぱいに広がっていた。

清々しいほどに青い空の下、広大な野原には、どこが終わりかも分からぬほど多くの本棚が続いていた。ぎっしりと詰まった本の中には、虚空にまで積み上げられているものもあった。本棚の周囲には、座るだけで眠りに落ちそうなほどふかふかのソファやベッドが置かれ、テーブルごとに菓子と淹れたての茶が用意されていた。

「あれ? うわっ」

羽の生えた子犬がプリシラに降り立ち、頬をこれでもかと舐めまわした。可愛いけれど、状況が掴めない。何? ここはどこ?

(私、死んだんじゃないの?)

死んだにしては、子犬の毛並みが相当に鮮明だ。頬に舌が触れる感覚もはっきりしている。ぶんぶんと振られる尻尾から、小さな風が起きた。プリシラが当惑して目をぱちくりさせていると、彼女を起こした声が続いた。

「これ、パイノン」

声のした方へ顔を向けると、そこには幼い子供が立っていた。五、六歳ほどだろうか? 短く切りそろえられた銀灰色の髪と、黄金色の瞳。

一見すると男の子のようだったが、子供特有の高い音色と中性的な外貌を見ると、女の子のようでもあった。子供は彼女に近づき、子犬を引き離しながら言葉を継いだ。

「急に飛びかかったら、彼女が困るじゃないか」

いや、子犬が飛びかかって困ったわけではないのだけれど。

「そう? 度胸があるね。まあ、そのくらいでなければ、あの獣を管理することはできないか。でも、今回は詰めが甘かった。猛獣を放したのなら、一挙手一投足を監視していなければならなかったのに」

子供の答えに、プリシラは目を丸くした。

私、今何も口に出していないはずなのに、どうして……。

「人の心を読むことなど造作もないさ。けれど面倒だから、できれば言葉にしてくれるかな?」

「……あなた、誰?」

「私はただの人間だよ。ただ、他人より少し知識を好むだけのね」

「少し?」

プリシラの視線が果てしなく続く本棚へと向けられ、そして子供へと戻った。黄金の瞳が三日月のように細められた。

「少し、ね」

「あなたのことを、何て呼べばいいの?」

「さあね。私自身に名前はない。けれど、ある者は私を『塔の賢者』と呼ぶよ」

塔……?

「ここはあの世じゃないの? 塔って、リベリアのあの塔のこと?」

「塔ではないよ。より正確に言うなら、ここは君の夢と私の現実の境界だ」

「夢と現実の境界?」

「そう。私が君を呼んだんだ」

「どうして?」

「君は、塔に入った獣の飼い主だからね」

塔に入った獣の……飼い主?

プリシラが説明を求めるような表情で子供を見つめると、彼はため息をつきながら言葉を継いだ。

「そう。君が解き放ったあの獣だ。塔に足を踏み入れる者はどいつもこいつも面白いが、あの獣と異物どもは面白くも何ともない、ただ煩わしいだけだ。だから君を呼んだんだよ。君が飼い主なんだからね」

話がうまく呑み込めなかった。ただ、「飼い主」という言葉と、意識を失う前に聞いたミラベルやエルフリーデとの会話から、その「獣」がリュエンのことであることくらいは察しがついた。

「私は死にかけている身だわ。彼を連れて行くなんて無理よ」

「心配しないで。君は死なないから」

「最善を尽くしたけれど、敗北したのよ」

「あれは惜しかったね。でも、当然のことだよ。人間である君が、あの獣に勝つことなんて不可能なんだから」

「それなら、どうやって連れ戻せというの? 連れ出してほしいのでしょう?」

「力が足りないのなら、補強すればいいじゃないか」

「どうやって?」

「そんなの簡単だよ」

子供がプリシラの瞳を指差した。リュエンによって失われた左目だった。

「私にはもう、魔力だのスキルだのといった煩わしく面倒なものは必要ないんだ。必要なくなったものは、分け与えてやるのが得策だろう?」

存在しないはずの眼球に、淡い熱が宿った。

「そんな能力があるのなら、あなたが追い出せば済む話じゃない?」

「ペットが粗相をしたなら始末をつけ、迷子になったなら探し出し、過ちを犯したなら躾ける。それが飼い主の役目だろう?」

なるほど。一理ある。

プリシラが納得していると、子供はきゃらきゃらと笑って言葉を継いだ。

「今度は防ぎ切れるだろう? 早く塔から連れ出してほしいな」

「ありがたいけれど……それで報酬になるの?」

「もちろん。私は塔が以前のように活気を取り戻すことを願っているんだ。数多の冒険者たちがもたらす記憶と能力、そして知識こそが、私にとって最高の報酬だからね」

たったそれだけで? 私の方は何もしてあげられないのに?

「ああ。たったそれだけでいい。君がすべきことは私に恩を返すことではなく、あの獣の首輪をその手に握り、世界を守ることだ」

「あなたの言っていること、よく分からないわ」

「そう? もっと簡単に言うならこういうことだ。君が解き放った獣は、近いうちにこの世界を滅ぼすよ」

「滅ぼすなんて、一体……」

「本当さ。あの獣は本当に面白みがないけれど、無駄に強いからね。一度現れた塔は、攻略が完了するまで現世に縛り付けられる。たとえその世界が滅びたとしてもね」

想像するだけでも嫌だというように、子供が眉をひそめた。

「そうなれば、塔は何もない虚無の中で永遠に存在し続けることになる。私は知識の探求者だ。そんな無様な姿、死んでも見たくないね」

内容があまりに壮大すぎて、いまいち実感が湧かない。プリシラが呆然とした表情を浮かべると、子供が彼女の額を指先で弾いた。

「塔に閉じ込められた王女を救う物語なんて世の中に溢れ返っているだろう? 性別が入れ替わるくらいでなければ、物語として面白くないじゃないか。さあ、お姫様。早く王子様を救い出さないと、世界が滅びてしまうよ?」

「私はお姫様じゃないわ」

「なら騎士様。早くペットを連れ出して。邪魔くさいのでね」

「ここからどうやって出るの?」

「そんなの簡単さ。こうしてね」

子供が言い終えると同時に、プリシラは目を開けた。先ほどとは違う、豪華な天井が、微妙に遮られた視界に入ってきた。見慣れているようでいて、どこか見知らぬ天井。

「ここは……」

口から漏れ出た声が、自分のものではないように感じられた。カサカサに乾いた自らの声に驚くのも束の間。

「プリシラ? 気がついたのですか?!」

彼女の声に導かれるように、誰かがベッドに身を寄せるのが見えた。涙をいっぱいに溜めて彼女を見つめるのは、見覚えのある人物だった。

「ライディス卿……」

「ああ……神よ、感謝いたします」

プリシラの手を握りしめ、祈るようにうなだれるライディスの姿に、プリシラがゆっくりと身を起こすと、彼は慌てて彼女を支えた。

「ライディス卿。ここは……」

「皇城です、プリシラ。もしや、宴の時のことを覚えていらっしゃいますか?」

「……」

覚えている。それ以前のことも、その後のことも。名もなき誰かの願いも。プリシラの瞳に生気が戻り始めると、ライディスは安堵しながらも、重苦しい表情を浮かべた。プリシラが尋ねた。

「あれから、どれくらい時間が経ったの?」

「十日です」

「その後の動きは?」

「今のところは……。しかし、最近、塔の気配が尋常ではありません」

「そうですか。まだ時間はある、ということね」

プリシラが自分の左目に巻かれた包帯を解き始めると、ライディスは慌てて彼女を止めた。

「プリシラ、いけません! 傷口に魔力障害がかかっており、まだ治療が……」

「大丈夫よ。もう治ったわ」

包帯を解いたプリシラがライディスを見上げると、彼の瞳が大きく見開かれた。

「どうして……」

「まあ、ちょっと……助けを借りたというか?」

「一体、誰にですか?」

「さあ、誰でしょうね」

「……はい?」

ライディスは理解できないという表情を浮かべたが、プリシラ自身も完全には理解できていないので、ただ笑って誤魔化した。

「そんなことがあったの。助けてもらったからには、頼まれたことをしなくちゃね」

「頼まれたこと……ですか?」

「ええ。リュエンを、探しに行くわ」

「プリシラ? 正気ですか?!」

「残念ながら、正気よ。彼が粗相をしたら私が始末をつけると、約束したでしょう?」

「しかし……」

「心配しないで。これでも、かなり怒っているの。痛かった分、倍にして返してあげるわ」

たっぷりとお灸を据えて、厳重に警告して、それからまた帰ることにしよう。

私たちの家に。