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その力、本当にあなたのものですか?

作者: 百鬼清風

本文

王城の応接間は、いつもと同じはずなのに、今日は音が少なかった。足音も衣擦れも控えめで、誰もが息を潜めているように見えたのは、きっと私がこの場に呼ばれた理由を、全員が知っていたからなのだと思う。

「セラフィーネ、急に呼び出してしまってすまないね」

ルシアン殿下はいつもと変わらない穏やかな声でそう言い、向かいの椅子に腰を下ろしたまま、私に座るよう促したが、その仕草があまりにも丁寧で、逆に距離を感じさせるものだったので、黙って一礼だけ返し、言われた通りに席に着いた。

「今日は、大切な話があるんだ」

「ええ、そうでしょうね」

そう答えると、殿下は一瞬だけ言葉を探すように視線を揺らし、それから周囲に控えていた侍女や近衛に目を向け、誰もが静かに頭を下げるのを確認してから、改めて私の方を見た。

「最近、城で話題になっていることは、君も耳にしていると思う」

「噂というものは、放っておいても届くものですから」

「そうだね、特に今回は、多くの人が希望を感じている」

希望という言葉が、あまりにも自然に口から出てきたことに、小さく息を吸ったが、それを指摘することはしなかった。

「イリヤという少女のことだ」

「聖女だと呼ばれている方ですね」

「うん、彼女が起こしたとされる出来事は、多くの人の心を明るくした」

殿下の語り口は終始柔らかく、誰かを説得しようとしているというより、すでに共有されている前提をなぞっているように聞こえたので、頷きも否定もせず、続きを待った。

「彼女の存在が、今の城には必要だと感じている者が多い、私もその一人だ」

「殿下ご自身も、そう思われたのですね」

「もちろんだよ、彼女は控えめで、誰かを押しのけるようなこともしないし、何より……」

そこで一瞬言葉が途切れたので、自然な調子で続きを促した。

「何より、何でしょうか」

「何より、人々が彼女を信じている」

その言葉で十分だった。

「それで、今日の話というのは」

そう尋ねると、殿下は少しだけ背筋を伸ばし、決意を固めたような表情でこちらを見た。

「君との婚約を、解消したい」

その言葉は、想像していなかったわけではないのに、やはり空気を重くした。

「理由を、伺っても?」

「君が悪いわけではない、ただ、今の状況では……」

「今の状況では、私がふさわしくない、と」

「そういう言い方をしたいわけではないんだ」

殿下は慌てたように首を振ったが、その動きは否定というより、訂正に近かった。

「君は立派だし、これまで多くのことをしてきた、ただ、それとは別に、人々が求めている象徴が、今は別のところにある」

「象徴、ですか。同じ力を持っているなら若くて美しい方がいいと正直におっしゃればいいのに」

「皆が同じ方向を向いている時に、無理に逆らう必要はないだろう」

しばらく黙ったまま殿下の顔を見ていたが、その視線が少しずつ落ち着かなくなっていくのを感じ取り、ようやく一つだけ質問を投げかけた。

「殿下は、その力を、いつご覧になったのですか?私の力が劣るとでも?」

「え?」

「イリヤ様が起こしたとされる出来事を、殿下ご自身の目で見たことがあるのかと、そう伺っています」

「それは……詳しい場面には立ち会っていないが」

「では、誰かから聞いたのですね」

「多くの者が語っていた、信頼できる話だったよ」

「信頼できる、とは」

殿下は一瞬言葉に詰まり、それから苦笑いを浮かべた。

「皆がそう言っていた、という意味だ」

「皆、とは」

「城にいる者たちだ」

「全員ですか」

「少なくとも、大勢が」

そのやり取りの中で、初めて、この話が私と殿下の間だけの話ではないと、はっきり理解した。

「殿下」

「なんだい」

「私がこれまで行ってきたことについて、何か一つでも、殿下ご自身の言葉で説明していただけますか」

「それは……」

殿下は少し考える素振りを見せたが、すぐに言葉を継がなかった。

「多くの人が助けられた、と聞いている」

「それも、誰かからですか」

「……そうだね」

その答えを聞いて、ようやく結論に辿り着いた。

「では、私のことは見てはいなかったのですね」

「そんなつもりは」

「ええ、分かっています、悪意ではないのでしょう。若くて美しい、話題の女を確かめもせず信用しているだけ。殿下は、その方が好みなのでしょうね」

そう言ってから、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

「婚約解消の件、承知しました」

「セラフィーネ」

「ただ一つだけ、覚えておいてください」

殿下が顔を上げたのを見て、最後まで声の調子を変えなかった。

「一度くらい、ご自分の目で見て考えて下さい」

それだけを告げて、一礼し、その場を後にした。

廊下に出ると、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだが、胸の奥に残ったものは、軽くなる気配を見せなかった。

「お嬢様……お嬢様は永らく王国の為に尽くしてきたというのに」

控えていたクレールが、私の顔色を窺いながら声をかけてきた。

「大丈夫よ、女性としての魅力で負けているのは認めるわ」

「ですが、本当にお力をお持ちなのは」

「終わっただけだから」

それ以上の言葉は必要ないと伝えるように歩き出すと、彼女は黙って後ろについてきた。

振り返らなかったが、応接間の扉の向こうで、殿下がどんな顔をしているのかは、想像しないことにした。

イリヤという名は、婚約が終わった直後から不思議な速度で城に満ちていき、誰かが口にするたびに「優しい」「奇跡を起こした」「そばにいるだけで救われた気がする」といった言葉が自然に添えられていくのを、廊下や庭で何度も耳にしながら、それらが事実ではなく話の勢いだけで出来た噂話だと、次第に感じるようになっていた。

その日、中庭に人が集まっていると聞いた時、見に行くべきかどうかを迷うことなく決めたわけではなかったが、見ないままでいると、また誰かの言葉だけが先に完成してしまう気がして、結果として噂の中心に自分から近づく選択をした。

中庭に足を踏み入れると、明るい声と期待を含んだ笑いが幾重にも重なり、その中心に小柄な少女が立っているのが見えたが、彼女の存在以上に、彼女に向けられる視線が一方向に揃っていることが印象的で、その揃い方に、少しだけ息苦しさを覚えた。

「聖女様、本当にありがとうございます、あなたがいらしてくださっただけで、皆が安心できたのです」

「こんな奇跡を見せていただけるなんて、私たちは幸運です」

そうした声が次々と投げかけられる中で、少女は困ったように微笑み、何度も同じ仕草で首を振りながら、控えめな声で応じていた。

「いえ、本当に何もしていませんから、皆さんがそう言ってくださるのはありがたいのですが、何か特別なことをした覚えはないのです」

その否定ははっきりとした言葉だったにもかかわらず、周囲の反応はそれを否定として受け取らず、「謙虚だ」「慎ましい」「だからこそ本物だ」という解釈へと流れていき、少女の言葉は称賛を強める燃料のように扱われているように見えた。

輪の外側からその様子を見つめ、誰も彼女の言葉を、その意味通りに聞いていなかった。皆が自分勝手に解釈している。

「あなたが、イリヤ様ですか」

そう声をかけると、少女は少し驚いたようにこちらを向き、すぐに姿勢を正して丁寧に頭を下げた。

「はい、そう呼ばれています」

「セラフィーネ・ヴァルブランです」

名を告げた瞬間、周囲の数人が小さく息を呑むのが分かり、少女の視線もわずかに揺れたが、その反応に触れず、あくまで目の前の本人だけを見るように意識した。

「噂については、驚くほどよく耳にしていますが、あなた自身は、今こうして聖女と呼ばれている状況を、どのように受け止めていますか」

「正直に言えば、戸惑っています」

イリヤは少し間を置いてから答え、指先を落ち着かなさそうに重ね合わせた。

「誰かを助けようとして何かをしたというより、ただその場にいただけで、皆さんが安心したと言ってくださる理由も、はっきりとは分かっていません」

「それでも、否定はしないのですね」

そう返すと、彼女は困ったように視線を伏せた。

「否定したら、皆さんの喜びを壊してしまう気がして」

「では、確認させてください」

声の調子を変えずに続けた。

「あなたは、ご自分が何かを成し遂げたと、心の中で思っていますか」

「いいえ」

「では、奇跡を起こしたと」

「それも、思っていません」

その答えに、周囲がざわめいたが、誰も輪から離れようとはしなかった。

「それなのに、なぜ、今ここに立っているのですか」

イリヤはその問いにすぐ答えられず、しばらく唇を噛んだあと、小さな声で言った。

「皆さんが、そう望んでいるからです」

嘘ではなさそうだった。だが、自分の言葉にも聞こえなかった。

「あなたは、皆の言葉を否定しないことで、皆の期待を引き受けているのですね」

「そうかもしれません」

「それは、とても重いことです」

そう告げると、彼女は驚いたように目を見開いた。

「重い、ですか」

「ええ、なぜなら、その期待が間違っていたと気づいた時、責められるのは、言葉を足した人ではなく、

そこに立っていたあなたになるからです」

周囲の空気が、ほんのわずかに揺れた。

誰かが「結果が良かったのだから」と言いかけたが、それを遮らず、ただ一歩後ろに下がった。

「まだ何も見ていません」

それだけを告げて輪から離れると、背中に向けられる視線が増えていくのを感じたが、振り返ることはしなかった。

実演の場だと告げられて中庭に集められた時、ようやく、何が起きると期待されているのかをはっきり理解した。人の輪の中心には担架が置かれ、その上には青白い顔をした人物が横たわっており、呼吸はしているものの自力で身動きが取れない状態だと、近づかなくても分かるほどだった。

倒れている人物のそばには、すでに何人かが控えていて、「前もこうして触れただけで楽になった」「手をかざした瞬間に顔色が変わった」という言葉が、事実の確認ではなく、これから起きるはずの光景をなぞるように繰り返されており、誰も異論を挟まなかった。

「イリヤ様、前と同じで構いませんから、この方に触れてください、ほんの少しでいいのです、あなたがそばにいてくださるだけで変わると、皆がそう言っていますから」

促されるまま、イリヤはゆっくりと担架の横に進み、戸惑いながらも跪くようにして身を屈め、その人物の胸元に手を伸ばしたが、その指先は一度止まり、触れる前に小さく震えた。

「……前も、こんなふうに触れたのでしょうか」

その問いは誰に向けられたものか分からなかったが、すぐに「そうだ」「そのままでいい」「目を閉じて祈るように」といった声が重なり、具体的な説明は何一つないまま、彼女の動作だけが正解へ導かれているかのように扱われた。

イリヤは言われるままに目を閉じ、両手で倒れている人物の手を包み込むように触れ、呼吸を整えながらしばらくその姿勢を保ったが、その間、周囲は固唾を呑んで見守り、誰もが「次の瞬間」を待ち続けていた。

しかし、時間が流れても、担架の上の人物に変化はなく、呼吸の間隔も顔色もそのままで、周囲の誰かが期待していたであろう動きは一切見られなかった。

「……まだ、ですか」

小さな声が上がったが、誰もそれに答えず、沈黙が不自然なほど長く伸びていき、その沈黙自体が、何も起きていないという事実を強調していた。

イリヤは不安そうに目を開け、自分の手元と倒れている人物の顔を交互に見比べ、助けを求めるように周囲を見回したが、返ってくるのは「もう少し」「焦らなくていい」という曖昧な言葉だけだった。

「もう一度、触れてみてください」

そう言われて、彼女は再び手を握り直し、先ほどよりも強く、確かめるように触れたが、その動作は変化を生むためというより、変化が起きていないことを否定しようとする必死さを帯びていて、その姿を輪の外から静かに見ていた。

それでも結果は変わらなかった。担架の上の人物は動かず、苦しげな息遣いも改善せず、期待だけが宙に浮いたまま、場の空気が次第に重く沈んでいった。

「……私、やっぱり、何も」

イリヤが声を震わせながら言いかけた瞬間、一歩前に出た。

「少し、止めましょう」

私の声は大きくなかったが、誰もがこちらを向いたのは、ここまで誰も止めるという選択をしてこなかったからだろう。

「今ここで確認できるのは、回復が起きなかったという事実だけですし、それ以上でもそれ以下でもありません」

倒れている人物を一度だけ見てから、イリヤに視線を戻した。

「あなたは、触れれば必ず回復すると言ったことはありませんし、誰かを治すと約束したこともありません、それでも周囲が勝手に期待を積み重ね、この場を用意しただけです」

その言葉に、イリヤは唇を噛み、小さく頷いた。

誰も反論せず、誰も肯定せず、ただ「何も起きなかった」という結果だけが残り、実演と呼ばれていた時間は、曖昧な沈黙の中で終わった。

実演が終わったと告げられても、誰一人としてその場を離れようとせず、担架の上に横たわる人物と、手を引いたまま動けなくなっているイリヤと、そして期待の行き場を失った視線だけが中庭に残り、沈黙が長く引き延ばされていく中で、この場がまだ終わっていないことを、言葉ではなく空気の重さとして感じ取っていた。

「……この方は、このままでは危険なのでは?」

そう口にしたのは、誰かを責めるためでも、判断を迫るためでもなく、担架の上の人物が今も苦しそうに息をしているという事実を、希望や期待ではなく、現実として全員に見せるためのものだった。

「少し休めば」

「きっと落ち着くはずです」

返ってきた声はいずれも、これまで何度も聞いてきた形をしていて、今この瞬間の様子を確かめようとするものではなかったので、それ以上言葉を重ねず、一歩前に出て担架の横にしゃがみ込んだ。

近くで見ると、その人物の顔色は先ほどよりもさらに青く、唇は乾き、呼吸は浅く不規則で、触れなくても体の力が抜けているのが分かる状態だった。

「触れても、構いませんか」

私のその言葉に、周囲がざわめき、誰かが驚いたように声を上げ、誰かが止めようとしたが、その声が形になる前に、倒れている人物の手をそっと取った。

その手は冷たく、力なく、指先に反応はなかったが、強く握ることも、急かすこともせず、ただ呼吸に合わせるように静かに触れ続け、その様子を周囲にも隠さず見せるように姿勢を整えた。

「……同じことを、しているだけです」

誰に向けたわけでもなく、そう告げたが、その言葉に反応したのはイリヤだった。

「同じ、ことですか」

「ええ、あなたが先ほどされたのと同じように、触れて、待っているだけです」

その会話の間にも、倒れている人物の呼吸から目を離さず、胸の上下がわずかに深くなった瞬間を逃さないよう意識していた。

しばらくして、担架の上の人物が小さく喉を鳴らし、先ほどまで止まりがちだった呼吸が一定の間隔を取り始めたのを、一番近くで感じ取った。

顔色は明らかに良くなっていく。

「……息が」

誰かがそう言いかけたが、視線を上げなかった。

次の瞬間、その人物の指が、私の手の中でわずかに動き、反射的にではなく、自分の意思で力を入れたのがはっきり分かった。

「目を」

その声が重なった時、倒れていた人物はゆっくりと目を開き、焦点の合わない視線で周囲を見回しながら、確かに意識を取り戻していた。

ざわめきが一気に広がり、驚きの声が上がりかけたが、それを制するように、静かな声で続けた。

「今起きたことだけを、見てください」

その言葉に、声は次第に収まり、視線が再び担架へと集まった。

「今まで通り人を助けただけ。若くもなく美しくもなく、もう飽きられてしまった女です」

イリヤは呆然とした様子でこちらを見つめ、自分の手と、今意識を取り戻した人物とを、交互に見比べていた。

「……違う」

小さな声だったが、その一言には、はっきりとした戸惑いが含まれていた。

「同じことをしたはずなのに」

「ええ」

頷いた。

「同じことをしました」

それ以上、説明はしなかった。

この場で必要なのは、理由でも言葉でもなく、目の前で起きた違いを、各自がどう受け取るかだけだったからだ。

中庭には再び沈黙が落ちたが、それは先ほどまでの期待に満ちた沈黙ではなく、誰も口を開かなかった。

立ち上がり、倒れていた人物がしっかりと呼吸をしているのを最後に確認してから、一歩下がり、イリヤと視線を合わせた。

「あなたが悪いわけではありません」

その言葉に、彼女は驚いたように目を見開いた。

「ただ、同じことをしても、同じ結果になるとは限らないというだけです。この力は、誰にでもあるものではありません」

それ以上は何も言わず、その場を離れずに立ち位置を戻し、次に誰かが何かを言い出すのを待つことにした。

皆、若くて美しい女が聖女である事を望んだ。新しい象徴が必要だったのだ。それを否定する事実が、突きつけられた。

目の前で起きた違いを見た直後にもかかわらず、場の空気はすぐに結論へ向かわなかった。誰もが何かを理解したようでいて、それを口に出すことを避け、視線だけが担架とイリヤと私の間を行き来し、言葉を持たない沈黙が中庭に重く落ちていた。

「……今のは」

誰かがそう言いかけて口を閉じ、その続きを別の誰かが引き取ろうとしてやはり止めたのは、今ここで起きたことが、これまで信じてきた話と矛盾していると、誰もが薄々気づいていたからだろう。

「同じことをしたのに」

イリヤの声は小さく、しかしはっきりと中庭に響き、彼女は自分の両手を見つめながら、先ほどまでと同じように触れたはずなのに、なぜ結果が違ったのかという疑問を、誰かに投げるというより、自分自身に確認するように繰り返していた。

「あなたは、何をしたと思っていますか」

そう尋ねると、その問いは責める響きを持たず、ただ整理のために置かれたものだったが、イリヤは一瞬だけ顔を強張らせ、それから視線を伏せた。

「……何も、していません」

「では、私がしたことと、あなたがしたことの違いは」

その問いに、彼女は答えられなかった。

周囲からざわめきが広がり、「では、今までの話は」「聖女と呼ばれていたのは」といった断片的な言葉が漏れ始め、それらは誰かを責める刃になる前に、まず自分たちが信じてきたものの形を確かめるための問いとして浮かび上がっていた。

「皆さんの言葉を借りていただけです」

イリヤは意を決したようにそう口にし、顔を上げた。

「私が何かをしたと言ったことは一度もなくて、ただ『助かった』『楽になった』と言われるたびに否定できず、そのまま受け取ってしまっただけで、その言葉が重なって、いつの間にか私の力だと呼ばれるようになっていました」

その告白に、場が静まり返ったのは、彼女の言葉が初めて「誰かの期待」ではなく「自分の立場」を指していたからだろう。

「では、その話を止めなかったのは、なぜですか」

誰かが問いかけた。

「止め方が、分からなかったからです」

イリヤは即答した。

「否定すれば、喜んでくれた人たちの顔が浮かび、肯定すれば、また別の期待が積み重なっていき、そのどちらも選べないまま、曖昧な言葉だけを繰り返していました」

そのやり取りを聞きながら、ここで初めて、話の中心が「何が起きたか」から「誰の言葉だったのか」へ移っていくのを感じていた。

「では、これまで語られてきた奇跡は」

別の声が続ける。

「誰のものだったのか」

その問いに、イリヤは視線をこちらに向けたが、答えなかった。答えるべきは私ではないからだ。

「……セラフィーネ様が癒された後に、その人達の手を取っただけ」

彼女は小さく息を吸い、言葉を続けた。

「私が癒したように見える様に」

その瞬間、ざわめきははっきりと形を変え、驚きや怒りというよりも、納得と困惑が入り混じった空気が広がった。

「では、聖女とは」

「誰が、そう呼んだのか」

問いが重なり、誰もが互いの顔を見合わせる中で、一歩前に出た。

「今、必要なのは犯人探しですか?」

私の声は静かだったが、全員に届いた。

「ここまでに起きたことは、目の前で確認できる事実だけですし、それ以外の話は、誰かの言葉が重なって作られたものです」

そう告げると、視線が私に集まったが、続けた。

「誰が悪かったのかを決める前に、まず、彼女の行いが、事実と違う形で軽々しく語られた事を、それぞれが考える必要があります」

イリヤは小さく頭を下げ、その姿を見た誰かが息を吐き、誰かが目を伏せ、誰かが初めて、信じていた話を手放した表情を浮かべた。

中庭に残った空気がようやく動き始めたのは、イリヤが自分の行為では回復が起きていなかったこと、そして目の前で回復したのは私が触れた時だったという事実を、誰も否定できなくなってからしばらく経った後のことだ。

「つまり、今まで聖女の力だと呼ばれていたものは、イリヤ様ご自身の力ではなかった、という理解でよろしいのですね」

誰かがそう口にした瞬間、その問いは確認という形を取りながらも、場にいる全員の共通認識を言葉にする役割を果たし、周囲から否定の声が上がらなかったことで、話は次の段階へ進んだ。

「はい」

イリヤは小さく、しかしはっきりと答えた。

「私が触れたから回復したのではありませんし、私自身も回復させたという実感を持ったことは一度もありません。最初は偶然にセラフィーネ様の後に手を取ったのです。それでも皆さんの言葉を否定できずにいました。その期待に応えたくて、セラフィーネ様の功績を盗んでおりました」

その言葉で、聖女という呼び名は完全に役割を終えた。誰かが取り消しを宣言したわけではなく、もはやその呼び名を続ける理由が消えただけだった。

「では、実際に回復したのは」

視線が一斉に私へ向けられたが、誇ることも遠慮することもなく、ただ事実として言った。

「倒れていた方に触れました。それだけです。いつも通り、病人を癒しただけ。」

そう説明すると、数人が頷き、事実の整理がようやく終わった空気が流れた。

その直後、私の名を呼ぶ声があった。

「セラフィーネ」

ルシアンだった。

彼は周囲の視線を気にしながらも一歩前に出て、迷いを含んだ表情のまま、しかし逃げずに口を開いた。

「今回の件について、私の判断が誤っていたことは認める」

「噂を確かめず、目の前で起きていることを見ようとしなかった」

「イリヤを庇ったのも、城の空気に流された結果だ」

そこまでは、事実の整理だった。

「……だからこそ」

彼は一度言葉を切り、私をまっすぐ見た。

「婚約を、元に戻してほしい。君の力が王室に必要だ」

その言葉は曖昧ではなかった。

「今回の誤解が解けた以上、君が不当に外された理由はなくなった。君が正しかったことも、皆が理解した。王太子妃として、ふさわしいのは、今でも君だ」

周囲からも、同意する声が上がった。

「再婚約が最も穏当だ」

「今なら、混乱も収まる」

「正しい形に戻すべきだ」

それらはすべて、私にとって聞き覚えのある論調だった。

すぐには答えず、一呼吸置いてから、はっきりと口を開いた。

「お断りします」

その言葉で、空気が止まった。

「理由を、聞かせてほしい」

ルシアンがそう言ったので、逃げずに答えることにした。

「目の前で起きていたことよりも、皆が語る話を優先した、その姿勢は、今回の件が解消されたからといって消えるものではありません」

彼は反論しようとしたが、続けた。

「正しさが証明されても戻りたいとは思いません。あなたは、王室の権威を守りたいだけ。若くて美しい女、好みの女なら、そちらの方が良いのでしょう?そのまま彼女と結婚すればよい」

周囲が静まり返る中で、さらに言葉を重ねた。

「再婚約は、問題を解決するための手段としては便利かもしれませんが、私の信頼を回復する理由にはなりません。もう前の関係には戻りません。」

ルシアンは何も言えなくなり、視線を落とした。

その姿を見て、最後に一つだけ、はっきり告げた。

「私はそこが許せませんでした。見かけの良さを選んだ時点で、元の形に戻ることはありません。他国に嫁ぐことにいたします」

一歩下がり、場の中心から外れた。誰も引き留めなかった。それで十分だった。

価値を本当に認めてくれる、自分が納得できる場所に立つために、その場を後にした。

完。