作品タイトル不明
幕間 明るい未来計画
「レオンハルト様、私にはどうしても理解できないのです」
小川で血を洗い流すレオンハルトの背に、アンドレアは静かに投げかけた。
レオンハルトは一瞬動きを止めたが、すっと立ち上がりアンドレアに向き直った。
「理解ができない、とは?」
「柵に囚われず、伯爵家の当主として切り捨てる判断はできないのでしょうか?」
午後の日差しの中、アンドレアの視線は真っ直ぐとレオンハルトを射抜いていた。
レオンハルトはアンドレアの視線を受け、ゆったりと口を開いた。
「……私の家は歴史が浅い。騎士として武功を立てた曾祖父の代からです。当時の側近は、殆どが血縁でした。貴族としての慣習も礼儀も知らない中、それでもなんとか体面を保ってきたようです」
そこまで言うと、彼は口を閉ざし視線をアンドレアの後ろに向けた。
子爵家の従者がバスケットを抱えて向かってきていた。
「軽食を届けてくれたようですね。こちらのスペースに用意して貰いましょうか」
水で濡れた手をハンカチで拭いたレオンハルトは、そっとアンドレアに手を差し出した。
清流で清められた指先は、まだ冷たいままだった。
♦♦♦
従者が持って来た熱い紅茶を飲んでいるレオンハルトに、アンドレアは呟いた。
「……初対面で聞くべきではないかもしれません。けれど、私は貴方と結婚すると決めました。いつか聞くなら、今聞きたい。貴方の口から、貴方の言葉を聞きたいのです」
アンドレアの言葉に、レオンハルトは目線を己の指先に向けた。
「やはり、まだ水は冷たかったのですね。すっかり冷えてしまっていました。……冷えていることに、気付かないままであれば柵とすら思わなかったでしょう」
「指がかじかむと、動かし辛いでしょうね」
「その通りです。気付かないまま、固まった指を放置して、いざ動かそうとすると酷く痛む。一本だけであれば、その指を擦ればいいだけ。簡単な話です」
レオンハルトはカップを置くと、向かいに座るアンドレアに掌を差し出した。
「この手は貴女の手より大きい。幼い頃の私は、父の手はとても大きいと思っていた。実際は、父の指は、小指以外が固まっていたんです」
アンドレアはレオンハルトの掌を見た後、己の掌を見詰めた。
レオンハルトの手より大分小さいが、その指は伯爵家の誰よりも自由に動くだろう。
「両親は珍しく恋愛結婚です。父は側近達が推していた相手を跳ね除けて母を選びました。一族の反対を押し切るのは容易ではなかったでしょう。……一族会議は紛糾したそうですが、祖父が親戚一同に根回しをしたと聞いています」
レオンハルトは大きな溜息を吐いて一度固く目を閉じた。
「曾祖父の側近たちは、祖父の上になったと勘違いしてしまったのでしょう。歴史が浅い分、血族の繋がりも強かったのも理由でしょうか。彼らが両親の結婚を認める代わりとして送り込んできた使用人達は、当主家族を親しい友人だと思っていた節があります」
「……それは、使用人とは言えません」
アンドレアは声を低くして呟き、レオンハルトは疲れた顔で笑った。
「その通りです。両親は彼らの傲慢さを逆手にとり、金品を盗んだ証拠や、鉄鉱石の売上を誤魔化した証拠を集め、対外的に見ても追放は止む無し、という状況を揃えました。父が伯爵位を継いで二十年、やっと大部分を減らすことができました。残りは、恐らく最も弱く狡猾な者が残っています」
「弱い者が残りますか?」
アンドレアは眉を寄せて口元に指を当てて考えている。
通常は強い者が生き残るのではないか、と砦の生活を思い出していた。
「横領に手を染める度胸も、伸し上げる才覚もない者、それが厄介だと思いませんか?追放するほどの瑕瑾はなく、ちょっと仕事ができないだけで、それも注意程度で済むんです。けれど、血縁であることは最大限に押しつけてくる。どうやら、その家系の娘を私の婚約者にしようとしていたらしいんですが、想像するだけで虫唾が走る……」
レオンハルトの笑みが消え、瞳の奥に怒りが揺らめいていた。
彼は諦めていたのではなく、機会を伺っていただけだ、とアンドレアは理解した。
誰が見ても伯爵家に一切の非がない状況で、伯爵家の柵を断ち切ろうとしているのだろう。
「その方をご存知なのですか?」
「……母の侍女としてねじ込まれていますよ。私は今離れに暮らしていますが、結婚後は私が本邸に移り、両親が離れに暮らすことになります。年が近い者を貴女の侍女に、と言い張る気でしょう。母の元ではそれなりに真面目に働いているようですが、母の後ろに控える彼女達の目線が、……居心地が悪くなるんですよ」
レオンハルトは言葉を選んでいたが、滲む嫌悪感は隠せていなかった。
「……なるほど。では、彼女たちが尻尾をだせば貴方の指は動くようになるのでしょうか」
「恐らくは、今より動かしやすくなるのでしょうね。……貴女を巻き込む訳にはいかないので早く片を付けたいのですが」
温い風がアンドレアの頬を撫で、彼女はその穏やかな風とは正反対の戦場に漂う空気を思い出した。
ヒリヒリとして緊張感がある戦場での暮らしは、今もアンドレアを呼び戻そうとする陰があった。
「……レオンハルト様、私は、二年間砦にいました。ご存知ですね?」
「はい、父からそう聞いています」
アンドレアの纏う雰囲気が変わったと、レオンハルトは肌で感じた。
「……面白いじゃないか。弱者を甚振るのは趣味じゃあないが、相手の力量を見誤る無能ならば切り捨てる理由になる。戦場とどちらが手強いか、比べてやろう」
口調の変わったアンドレアに、レオンハルトは父伯爵の忠告を思い出した。
『お嬢を見た目で判断するな。――喰い殺されるぞ』
「……貴女は……」
「隠すのは止めだ。どう取り繕ってもいつかボロがでる。すまんが、これが私だ。まぁ、時と場所は弁えるようにするが」
にやりと笑うアンドレアは更に続けた。
「結婚するまでに私達が会う日は少ない。手紙は危険だからな、計画を練るのに一秒たりとも無駄にはできん。――先ずは結婚式当日、貴方には一族を引き連れて家を空けて貰おうか。なぁ未来の旦那様。家政は女の仕事だと思わんか?さぁ、大掃除の準備を考えようじゃないか」
獰猛な光にレオンハルトの口角が持ち上がった。
「っはは!やはり貴女に選ばれてよかった!貴女を巻き込むつもりはなかったが――」
「巻き込む?違うだろ?夫婦になるのだから、家の大掃除は私の仕事だ」
「……ありがとう。改めて、俺と共に、伯爵家を綺麗にしてくれないか?」
レオンハルトが差し出した手を、アンドレアはしっかりと握り締めた。
レオンハルトの指は、微かに熱を帯びていた。
そして、レオンハルトはアンドレアの華奢な手の熱さに心臓が激しく震えていた。
お互いに剣ダコのある手が、同志を見つけたような心持ちにさせていた。
「言っただろ?家政のことは私の仕事だ。貴方は何も知らずに家を空けてくれればいい。……そうだな、準備として、私達が住む予定の屋敷内の地図が必要だ。井戸の場所、厩舎の場所至るまで全部だ。それと、使用人達の名前、家柄の情報が欲しいんだ」
「ああ、次来る時までに用意しておこう。しかし、結婚式当日に全員連れてどこかに行く、というのは難しいかもしれないな……」
レオンハルトが難しい顔をして考え込む横で、アンドレアは目を伏せた。
「……貴方たちは、根っからの騎士なんだろうな」
「それは、どのような……?」
「どんな戦い方でも、生き残れば勝ちという意味だ」
アンドレアは立ち上がり、座ったままのレオンハルトを見下ろした。
好戦的な光を宿す瞳に、レオンハルトはアンドレアから目を逸らせなかった。
「伯爵家は騎士なんだろうが、子爵家の根本は傭兵ということだ」
アンドレアの声は低く、嘲笑うように言葉を紡いでいく。
「弱い奴らはプライドだけは高いと思わないか?無駄なプライドをへし折ってから叩き出してやろうじゃないか。騎士のプライドなんざ通す必要はない奴らなんだろう?方法は私に任せてくれ」
レオンハルトの心臓が強く脈を刻んだ。
彼はゆっくりと立ち上がり、アンドレアと視線を合わせた。
「……俺が、足手纏いにならないといいが」
「だから、留守にしてくれ、ということさ。貴方の騎士道や柵を今更否定する気はない。特に、柵は納得はしないが理解はしたからな。柵のない私がやればいい。もちろん、貴方の手も必要だが」
アンドレアの口元に浮かんだ笑みは、獰猛で、しかしどこか楽しそうだった。
アンドレアが伯爵家に嫁ぐ日まで、子爵家の狩場では密やかな語らいが続いていく。
続