軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第215話 甘い日

ピピピ! ピピピ!

タイマーが鳴り、穂乃香は緊張した様子でオーブンを開ける。

「熱いから気をつけてね」

「え、ええ」

恐る恐る手を伸ばす彼女に釣られたのか、横で見ている陽斗もどこかハラハラした様子で注意を促す。

ミトンを両手に着け、オーブンから天板を引き出して、慎重に作業台に置くと、周囲に甘く香ばしい匂いが立ちこめた。

「ど、どうでしょうか」

穂乃香が落ち着きなく訊ねる声に、陽斗はすぐには答えず天板の中央に置かれた直径30cmほどの皿から、クッキングシートごと中身を持ち上げるとカッティングボードに移す。

そして長めのナイフでピザのように放射状に切り分けた。

「えっと、うん! ちゃんとできてるよ。とっても美味しそう!」

切り口から見える中身を見て、金串で内側の火の通りを確認してから笑顔を向けた陽斗の言葉に、穂乃香はホッと胸をなで下ろした。

「はい、味見をしてみて。あ~ん!」

「え、あ、あ~ん……美味しい。美味しいですわ!」

無意識なのだろう。

陽斗は一口大に切り分けたパイをフォークに刺すと、照れる様子も無く穂乃香に差し出した。

そのあまりに自然な仕草に穂乃香は顔を赤くしながらも口を開けてそれを迎え入れる。

途端に口内に広がる香ばしさと栗の濃厚な甘み、そしてレモンピールの爽やかな香りが後味をスッキリとさせる。

「僕も一口もらうね。……うん! とっても美味しい! 穂乃香さん、凄いよ」

陽斗の手放しの賛辞に、穂乃香は恥ずかしそうに、それでいて誇らしげに笑みを浮かべる。

「あ~、甘い。もう食べる前から甘々な空気が厨房を覆ってるわ」

少し離れたところで見ていたメイド服姿の彩音がわざとらしい苦笑と、大げさに顔を仰ぎながらツッコミを入れると、穂乃香は顔をさらに赤くする。

「お菓子作っていると匂いがすごいからね」

「そういう意味じゃないんですけどねぇ。それはそれとして、もちろん私たちの分もあるんですよね? ね?」

「私も毒味、いえ、味見をさせていただきたいですね」

食い気味に顔を寄せる彩音と、何故か穂乃香と一緒に来ていた穂乃香の世話係の 瓜(うりゅ) 生(う) 千(ち) 夏(なつ) が興味津々の表情でパイを取り囲む。

この日穂乃香が作っていたのは国産の栗を使ったマロンパイ。

栗を使ったお菓子を作りたいと聞いたどこぞの爺馬鹿が取り寄せた最高級の丹波栗を渋皮煮にしてから手作りのパイ生地を使って焼いた物だ。

通常マロンパイは栗を包み込んだ小ぶりな物が多いが、今回はアップルパイのようにパイ生地の上に渋皮煮を敷き詰め、レモンピールを散らして格子状にしたパイ生地を被せてから焼き上げるという手間の掛かった物。

これを穂乃香が陽斗に教わりながら先週から準備して作ったのだ。

陽斗が教えたと言っても手伝うことはせず、全て穂乃香が手作りしている。

いつも陽斗がお菓子を作る時は屋敷で働く人たちの分まで作っているので、彩音は今回もご相伴に与ろうとしているわけである。

「わたくしの作った物でよろしければ大丈夫ですわよ。陽斗さんほど上手ではありませんけれど」

そう返した穂乃香の顔は少し照れくさそうで、そして誇らしげでもある。

「ゆで卵を作ると言って電子レンジで爆発させたお嬢様が、まさかお菓子を作れるようになる姿を生きているうちに見られるなんて」

「千夏さん!」

穂乃香の黒歴史を暴露しつつかなり失礼なことを言ってのける千夏に穂乃香が怒るが、そのやり取りに陽斗が思わず吹き出してしまう。

その後、陽斗も手伝ってマロンパイを4枚焼き上げ、陽斗と穂乃香、千夏や皇家のメイドたちはリビングの外にあるテラスに移動する。

季節は12月に入り、屋外はかなり寒いかと思いきや、そこは植物園のようなガラス張りのハウスになっていて、降り注ぐ日差しのおかげでかなり暖かい。

屋外で日向ぼっこをしながら本を読むのが好きな陽斗のために増築された場所で、季節や気温に応じて全面が開閉式になっている。

「おお、陽斗と穂乃香さん、待っていたぞ」

テラスにはすでに重斗が寛いでいて、和田や比佐子も穏やかな笑みで陽斗たちを迎える。

「お待たせいたしました。重斗様にお出しするのはお恥ずかしいのですけれど」

穂乃香がそう言って、一番綺麗な焼き色のパイを重斗の前に置いた。

「うむ、美味しそうだな。さぁ、陽斗たちも座れ。一緒にいただこう」

「うん!」

「はい。失礼いたします」

20畳ほどの広さのテラスにはいくつかのデッキテーブルが置かれ、陽斗と穂乃香は重斗と同じテーブルに、他の者達は適当にばらけながら着席する。

「貴女たちがお客様になってどうするのですか。ほら、お茶の用意をしなさい」

……何人かは比佐子に叱り飛ばされていたようだ。

「ほう! 甘すぎず、なかなかの腕前ではないか」

「美味しいよね。全部穂乃香さんが頑張って作ったんだよ」

「あ、いえ、陽斗さんが丁寧に教えてくれたので。まだひとりではとても」

普段は陽斗の作った以外の甘い物は滅多に口にしない重斗だが、そんな彼の好みを考えて甘さを控えめにして栗本来の風味を生かした仕上がりになっている。

もちろん一流のパティシエならもっと美味しく作るだろうが、食べる相手のことを思って作った料理は高級レストランのそれとは比較にならないのだ。

それに千夏や彩音、他のメイドたちも争うように、というか、実際奪い合いの様相を呈してがっついているのだから、客観的に見ても十分なできばえだろう。

「ところで、あれからどうなったんですの?」

それなりの量があったはずのマロンパイはすっかり空になり、そのせいで食べ損ねた他の使用人たちの怒りに触れて引っ張って行かれた彩音とメイドたちが居なくなり静かになったテラスで、穂乃香がふと思い出したように訊ねる。

何のことかというと、もちろん、先日の襲撃騒動と呂と名乗る男の件である。

「陽斗を襲おうとしたふたりは起訴された。元同級生もすでに成人しているから刑務所行きは間違いないだろうな。計画的な殺人未遂ということでそれなりの期間は出てこられんが、出所しても監視は怠らんよ」

「当然ですわね」

「うん、残念だけど、仕方ない、よね」

ホテルの廊下でナイフを振りかざして襲ってきた元同級生の藤堂と、元教師の青山は、陽斗まで辿り着くこと無く待機していた警備班の人たちに手荒く拘束され、警察に引き渡された。

藤堂が雄叫びを上げ、その声の方に陽斗が顔を向けた時には警備班員の跳び蹴りで数m吹っ飛ばされていたので脅威を感じる暇さえなかった。

ほぼ同時に青山の方も床に叩きつけられて、結局大仰な計画の割にあっさりと襲撃が失敗したわけだ。

それからほどなく、呂と名乗る男から重斗に直接連絡があり、謝罪したいということで、会場となったホテルの一室を借りて対面した。

「あの男の言うとおり、国内主要企業に潜り込んでいた数百人の産業スパイと工作員は本国に帰ったようだ。油断できる相手ではないが、当面は問題無いだろう」

「相当陽斗さんを警戒していたようですしね」

重斗の説明に穂乃香が納得したように頷く。

「天眼か。あの手の連中は妙に迷信深いところがあるからな。少なくとも数年は大人しくしているだろう。陽斗はあの男と会ってどう思った?」

重斗がそう水を向けると、陽斗は少し考えてから口を開く。

「恐かった、かな? それに、すごい心が強いと思った。でも、一度も嘘は言っていない感じだったよ」

華僑として異国で頭角を現し、確固たる地位を築いた人物だ。

汚いことも当然してきただろうが、卑怯なだけで上り詰めることのできる地位では無い。相応の実力が伴っていないわけがない。

陽斗がこれまであった人たちとはまったく異なるタイプの人物であるのは間違いない。

「そうそう、あの場に居た経営者たちだけでなく、連中にスパイや工作員を送り込まれていた企業の上層部も陽斗に感謝しているそうだ。また改めて礼をしたいと言ってきているぞ」

「うふふ、陽斗さんの人脈もすごい勢いで広がっていきますわね。錦小路先輩も、先日はゆっくり話ができなかったからと食事に誘われていますし」

順調に人脈を広げていることを褒められ、陽斗は照れ笑いを浮かべる。

重斗の後継者を目指すと決めてから、陽斗はやたらと謙遜するのをやめて素直に喜ぶようになっているようだ。

「そういえば、まだ陽斗たちの大学合格祝いをしていなかったな」

まったりとした雰囲気の中、重斗がそうこぼすと和田と比佐子の目から笑みが消える。

実際、陽斗たちが付属の大学進学が決まってそれなりに経つが、色々とあったために落ち着いてお祝いどころでは無かった。

が、この天井知らずの爺馬鹿のことだ。

普通のご家庭でも子供の大学合格となれば少々無理してでも盛大にお祝いしようとするのに、重斗に任せていてはどんなとんでもない物を買ってくるかわかったものではない。

「え、えっと、お祖父ちゃんと桜子さん、穂乃香さんのご家族と一緒に食事に行けたら嬉しいな」

「そうですわね。わたくしも普段は離れて暮らしているので、皆で食事ができれば十分です」

陽斗が絡むと金銭感覚が暴発する悪癖に和田と比佐子が怒声を上げるより先に、穏当な提案をする。

とはいえ、陽斗としては本当にそれが一番嬉しいことでもある。

「むぅ、陽斗と穂乃香さんがそう言うのなら」

少々不満そうにしながらも頷く重斗。……諦めてはいないようだが。

ちなみに桜子だが、写真家は引退してもその頃に知り合った人との交流は続いているらしく、時折海外に出かけては会ったりしている。

陽斗の周辺が落ち着いたのを見計らって今もオーストラリアまで海外旅行中だ。

なので、食事会は彼女が帰ってきてからになるだろう。

「陽斗様は大学もここから通われるのでしょうか」

これまで黙って控えていた千夏が不意にそんな質問を口にした。

「うん。黎星学園とそれほど通学時間は変わらないみたいだし。穂乃香さんは?」

「父が大学近くのマンションを探していますわ。今のところは学園を挟んで反対側になりますから少し遠いですし」

陽斗の邸宅は黎星学園と大学の中間地点に近い場所にあるので車だと通学時間はほとんど変わらないのだが、穂乃香の暮らすマンションは黎星学園から反対側に車で15分ほどの場所だ。

大学までは40~50分ほどの距離になり、通えないわけではないが少々遠い。

元々穂乃香や兄の晃が学園に通うために借りた賃貸マンションのため、そこは解約して大学近くに移るつもりらしい。

ただ、溺愛する娘の住む場所ということで、なかなか彰彦のお眼鏡に適うところが見つからず苦戦しているようだ。

いっそのこと土地を買って建てるかなどと言っているらしく、ある意味重斗と良い勝負だったりする。

「……いっそのこと、この家に住まわせてもらったらどうでしょう」

「「えっ!?」」

千夏の言葉に、陽斗と穂乃香は顔を見合わせ、一瞬で真っ赤になるのだった。