作品タイトル不明
第185話 留学狂騒曲
その日、皇邸で働くすべての者達に激震が走った。
「どういうことですか!」
バンッ!
重斗の書斎、そのデスクに居る重斗の前で鬼のような形相で机を叩いて詰め寄っているのは残念美人弁護士メイドの彩音だ。
「……度々思うのだが、お前は雇い主が誰だか忘れているのではないか?」
苦虫を噛みつぶしたような表情で溜め息を吐きつつ重斗が言うと、彩音はフンッと鼻を鳴らして言い返す。
「旦那様から 馘首(クビ) になったら、その時は陽斗さまに3食昼寝付き時給5千円(夜伽有)で雇ってもらうから大丈夫です。そ・ん・な・こ・と・よ・り!」
バンバンバンッ!
思いっきり何度もデスクを叩き、勢いよすぎて痛さでプルプル手を振る。
「貴様は何をしているんだか。というか、随分と都合の良すぎる雇用条件だな。最後のは絶対に許さんが」
「じゃかぁしい! 今はそのことより! 陽斗さまが留学ってどういうことですか! あ、いや、1万歩くらい譲って留学は将来のことを考えて仕方がないとして、どうして私が同行できないんですか!?」
口角泡を飛ばすとはどういう情景かを体現しながら激高する妙齢の娘をジロリと睨む重斗。
「貴様は顧問弁護士だろうが! 仕事をしろ、仕事を!」
実にもっともな台詞である。
彩音は重斗が重斗の事業や屋敷に関わる法的な問題を処理するために雇っている皇家の顧問弁護士だ。
もちろん重斗の事業は投資だけでなく多岐にわたるため契約している弁護士事務所は専門分野別にいくつもあるのだが、事案を整理してそれぞれの事務所に割り振るのも彩音の役割であり、その他にも家内事務手続きや雑務はある。
とはいえ、実際にはそこまで忙しいわけではないのでヒマなときはメイドの作業を手伝ったりもしているのだが、あくまで本業は弁護士なのだ。
普通に考えて、陽斗の留学先についていけるわけがない。
「陽斗さまは旦那様の大切な後継者でしょう。身の安全はもちろんのこと、滞在中のお世話や何かあったときのために法律や制度に詳しい者がサポートする必要があります。もちろん大勢だと陽斗さまの勉強の妨げになりますから、着いていくのはひとりかふたりで、そうなると全てをこなせるのはこのスーパー有能弁護士メイドの私、渋沢彩音は外せません!」
「結局それが言いたいだけだろうが! どちらにせよ、貴様が何を言おうが今回はメイドたちの誰も同行させられんぞ。陽斗の要望だからな」
重斗がキッパリと言い切ると、彩音が頬を膨らませてブーブー言う。
「儂としても陽斗には常に快適に過ごして欲しいという気持ちはある。だが、見知った者が近くに居ては甘えてしまうかもしれないという陽斗の考えも理解できる。だから、できる限り希望に添う形で、それでも陽斗の安全を最優先にした留学にするつもりだ」
最初の陽斗の希望では、留学先を自分なりに考えた上で一般的な民間留学支援業者に申し込むつもりだったらしい。
移動はもちろん民間の航空会社と公共交通機関。
その上、現地の人とできるだけ交流するためにアルバイトもしたいと。
陽斗もこの家に引き取られて早2年半弱。
重斗の教育? の甲斐あって? 金銭感覚が少し緩くなったのか、費用に関しては毎月与えられた お(・) 小(・) 遣(・) い(・) から払うことを考えていたようだ。
といっても、普通の短期留学程度の金額は増え続けるお小遣い用口座残高からすれば誤差レベルなのだが。
ともかく、陽斗が重斗と桜子に語った内容はというと、当たり前だがその大部分がとても容認できないものだった。
陽斗としては、ごく普通の留学をしたいという希望を持っていたようだったのだが、今回の最も重要な目的は英語のスキルを高めることだ。
そのために質の高い教育を受けられることと、人との交流がしっかりとできれば良い。
公共交通機関を利用したりアルバイトをすることは手段であって目的ではなく、安全かつ充実した留学を送るのならある程度の妥協は必要だ。
重斗と桜子のふたりがかりでそう説得し、なんとか陽斗を納得させることができたのである。
結果、留学先の選定は重斗が決めること。日本と比較して海外はスリや強盗のリスクが高いため、移動手段は重斗が用意する。滞在先は信頼できる人物の家にホームステイし、身の回りの世話は基本的に自分ですること。
そして、護衛はごく少数が警備班から同行するが、可能な限り距離を取り、代わりに現地のボディーガードを数人配置することを決めた。
陽斗も、少し考えた上で英語の習得に影響しないと考えて頷いたのだった。
そのことを重斗が伝えると、不満そうな表情をありありと浮かべながらも彩音も引き下がるを得なかった。
「むぅ~、じゃ、じゃあ、途中で陽斗さまに会いに行く許可をください! 一度で良いので。そうでもしないと陽斗さま欠乏症で屋敷のメンバーが死にます」
諦めきれない様子の彩音がそんなことを要望するが、言われた重斗も言葉に詰まる。
実際、屋敷で働く皆の陽斗に対する可愛がり方は尋常なものではない。と同時に、不在の時の落ち込み方も。
学園に通っている間や陽斗が自室に居て姿が見えない程度なら普段どおり優秀な者達なのだが、旅行などで数日家を空けることになると日に日に屋敷の雰囲気が暗くなっていく。
口数が減り、溜め息が多くなり、中には体調を崩す者まで出る始末。
わずか1週間程度の不在でこの状態になってしまうのだから短期間とはいえ1ヶ月もの間陽斗が居ないとなればどうなるか想像もつかない。
そのことは真っ先にメイドを取り纏めている比佐子から指摘されていて、重斗の頭を悩ませていた。
「仕方がないな。希望者には交代で一度ずつ滞在先への訪問を許可しよう。それから数日に一度はリモートで陽斗にWeb通話をさせる。それで良いか?」
「絶対ですよ! あとになって陽斗さまの教育のために、とか言って反故にするのは無しですからね!」
「……本当に大丈夫なのか? この屋敷は」
将来に不安を覚えながら重斗は彩音に頷いた。
ちなみに、この後、彩音だけでなく屋敷で働く者達から詰め寄られ、重斗がさらにいくつかの妥協を強いられることになったのは別のお話。
「留学? 夏休みにか?」
重斗が彩音から鬼詰めされていた頃。
陽斗も食堂に併設されたカフェでいつものメンバーに華音を加えた友人たちに留学のことを話していた。
「えぇ!? それじゃ今年はみんなで遊べないじゃん」
残念そうに言うセラに陽斗は申し訳なさそうに謝る。
だがそれを壮史朗が溜め息交じりに窘めた。
「普通に考えて高校3年生が夏休みにそうそう遊べるわけがないだろう。僕は外部の大学を受験するつもりだし、都津葉もそう言ってなかったか?」
「あ、あはは、まぁ、そうなんだけど。けど、少しくらいは息抜きに遊びたいじゃない」
「気持ちはわかりますけれど、陽斗さんが将来を見据えて決めたことですから応援しましょう。それに、何も夏休み期間全てを留学に充てるわけでもないのですから、その前後に予定を組めば良いのではないですか?」
穂乃香がそう取りなすと、セラだけでなく壮史朗までもが意外そうに彼女に目を向けた。
「穂乃香さんは反対しないの? せっかく正式にお付き合いを始めて最初の夏休みだっていうのに。あっ、それとも一緒に行くとか?」
「いいえ、今回は陽斗さんが周囲に知らない人ばかりの環境で英語を学ぶためなのですからわたくしはついていけませんわ。もちろん一緒に過ごしたい気持ちはありますが、わたくしもしなければならないことがありますし」
聖夜祭でのダンス、そして年末年始を家族ぐるみで過ごし、春休みには一緒に渡米と、陽斗と穂乃香が一緒に居るのは最早恒例となっていて、さすがに今さら揶揄う者も居なくなっている。
なので、穂乃香もいちいち恥ずかしがったりすることはなくなり、ごく自然に陽斗のパートナーとしての態度で応じるようになっていた。
「それで? 留学先はもう決めたのか?」
「あ、うん。イギリスのオックスフォードにしようかなって。お祖父ちゃんが勧めてくれて」
黙って聞いていた賢弥が、脱線しかけた話を元に戻して訊ねたので陽斗が答える。
「アメリカじゃないの?」
華音がコテンと顔を傾けて疑問を口にする。
英語圏での陽斗の知り合いと言えばつい先日訪問していたフォレッド家の人々なので予想外なのだろう。
「あっちはまだお家騒動も片付いてないだろうから安全を考えたら皇氏が許可しないだろうさ。それに、西蓮寺の志望を考えればアメリカやオーストラリアよりイギリスのほうが良いだろうからな」
壮史朗は当然といった感じで頷いてみせる。
「あ~、確かにそうかもね」
イギリスに留学経験のあるセラもそれには同意する。
実は一口に英語と言っても、地域によってかなりのバリエーションがある。
よく言われるジョークに「世界で最も話されている英語は片言英語だ」というものがあるほどで、地域によっては別の英語圏出身者の話す英語があまり通じないなんてことすらある。
そして、ことビジネスの世界ではイギリス英語のほうが”正統”とみなされている。
ビジネス、特にある程度以上の立場の人と会う場合、相手は自分の貴重な時間を割くに値する人物なのかを常に値踏みされることになる。
そういった場面で、英語の発音が質の高い教育を受けているかを表すバロメーターの役割を果たすことも多いらしい。
余談になるが、イギリス英語とアメリカ英語の違いでもっとも顕著なのが母音のaと子音のtとdの発音だ。
特に欧米の上流階級の人はこの発音で相手の教育水準を量っていると言われている。
「とにかく、夏休みまではまだ時間があるからな。せっかく行ってロクに人と話せなかったなんてことにならないように練習しておくと良い」
「確かに。一年以上留学して、まったく英語を覚えなかったなんて話も聞くな」
「が、頑張る!」
男友達からの揶揄い交じりの激励に、陽斗は小さな拳を握りしめて決意を表明した。
「ところで、華音ちゃんは何調べてるの?」
陽斗たちのやり取りを横目に、スマホで何か検索していた華音にセラが顔を寄せる。
「ん。ピアノ留学の費用とイギリスの物価」
いつもと変わらない平坦な口調でサラリと言った華音だが、当然聞き逃す穂乃香ではない。
「一応、念のために聞きますが、まさか陽斗さんの留学に付いていくつもりではないでしょうね」
「のかちゃんの考えすぎ。たまたま偶然行き先が同じなだけ。……むぅ、結構高い。スポンサーを募るしかない」
「偶然なわけがないでしょう! な、なんですの、その目は? 留学費用なんて貸しませんわよ!」
いけしゃあしゃあととしか表現のしようのない言葉に穂乃香が目を吊り上げるが、華音は気にするどころか、おねだりするかのようにわざとらしい上目遣いをしながら両手を突き出すのだった。