曇らせ義弟を懐柔したい
作者: 志熊みゅう
本文
侯爵令嬢アリス・オランドには、生まれた時からこの世のものではない記憶があった。
『にほん』
『だいがく』
『あるばいと』
そんな断片的な記憶が一つにつながったのは、ある雨の日の夕暮れだった。
「エドモン、アリス、両親が亡くなって当家で引き取ることになったレミだ。仲良くしてやってくれ」
「はい、お父さま」
アリスはその瞬間、稲妻に撃たれたような衝撃を受けた。前世の記憶が蘇ったのだ。
アリスは『 藤代有栖(ふじしろありす) 』という名の、ごくごく平凡な大学生だった。猫がトラックに轢かれそうになっているのを助けて……そこで前世の記憶は途絶えている。おそらくそのまま死んだのだろう。
そして同時に――妹に借りて読みかけだったライトノベル『不幸令嬢なのに逆ハーレムだなんて聞いてません!』の世界に転生したことにも気づいた。
このライトノベルは玉の輿もの。実家が貧乏で借金まみれの男爵令嬢・クラリスが、持ち前の愛嬌と賢さで高位貴族たちを射止め、最後はこの国の第一王子であるラファエル殿下と身分の差を超え真実の愛で結ばれる。
ちなみに原作の『アリス・オランド』はラファエル殿下の婚約者である。さらに、クラリスを恋い慕うレミ・オランドの義姉でもある。
――つまりは『悪役令嬢』だ。
原作の『アリス・オランド』は、婚約者であるラファエル殿下とヒロイン・クラリスの仲を引き裂こうと、あの手この手で嫌がらせをし、最終的にクラリスの暗殺を企てたところ、ヤンデレ属性の義弟・レミに、計画を暴かれ、逆に殺されてしまう。そこから先の話をアリスは知らない。前世のアリスは大学の課題に追われて、読みかけのまま死んだのだ。
それにしても、目の前のかわいらしい黒髪の少年がレミだなんて。アリスはまじまじと男の子を見つめた。
レミは遠戚で隣領のシェロン伯爵家の一人息子。本来ならシェロン伯爵家を継ぐ人間だが、八歳の少年がいきなり当主として伯爵領を治められるはずもない。ひとまずレミは、領地ごとオランド家に引き取られることになった。
「レミ、ご挨拶は?」
「……よろしくお願いします」
レミが不安げにその紫色の瞳を揺らした。
――このいたいけな少年がいつか自分を殺すなんて。
アリスは部屋に戻った後、前世で読んだあの小説を思い出して日記にメモとしてまとめた。
小説の舞台は、貴族学園に入ってから。アリスはまだ九歳で、ラファエル殿下との婚約もまだである。なるべくヒロインや、彼女と恋仲になる高位貴族の令息たちと関わりを持たなければ、あの惨劇は避けられるはずだ。
それとレミとの関係改善も大事である。原作のアリスは陰気なレミのことをひどく嫌っており、ことあるごとに罵倒し、いじめていた。なんとしても、あの少年を『曇らせヤンデレ男』にしてはならない。
こうしてアリスの『レミ溺愛大作戦』は始動した。
まずアリスは来る日も来る日もレミを構い倒した。
初めこそ両親を亡くしてふさぎ込んでいたレミも、段々とアリスに心を開いていった。晴れの日は庭で追いかけっこをし、雨の日は一緒に楽器の練習をしたり、読書をしたりして二人で遊んだ。
「エドモン、アリス、レミ、今日は孤児院に視察に行きますよ」
アリスたちの母であるオランド侯爵夫人は社会奉仕に熱心だ。ある春の日、アリスたちは、彼女に連れられて、領地の外れの孤児院に向かった。
「レミは孤児院は初めてかしら?身寄りのない子どもたちが住んでいるお家ですよ」
「身寄りがない子……」
馬車の中でオランド侯爵夫人が孤児院について説明する。その言葉にレミが表情を曇らせた。
もしかしてレミは、彼自身が孤児院に預けられると思ったのだろうか。侯爵家に引き取られた時みたいに、不安げな表情を浮かべる。
アリスはその曇りをぬぐうように言った。
「お母さま、孤児院のみんなに、レミのことを私の弟だって紹介するの」
「そうね。アリスがお姉さんになったって聞いたら、みんなびっくりするでしょうね」
「孤児院には私たちと同い年くらいのお友達がたくさんいるのよ。レミもきっと楽しいと思うわ」
「うん、姉さま」
レミがアリスの腕をギュッと掴んだ。レミは八歳。まだ親の愛情が欲しい年だ。さぞかし辛かっただろう。アリスはレミを思いっきり抱きしめた。
孤児院に着いてからも、レミはアリスの手を離さなかった。
「私の弟のレミよ。みんな仲良くしてね」
「アリスさまの弟?全然似てないな」
「黒髪だしな」
「ずっとくっついていて赤ちゃんみたい」
実はアリスたちの父であるオランド侯爵は黒髪なのだが、エドモンとアリスは母である夫人に似て銀髪だ。孤児院の子たちからすれば、レミは異質に見えるらしい。
「レミは誰がなんと言おうと私の弟よ。ほら、レミも挨拶をして」
「……レミ・オランドです。よろしくお願いします」
レミがか細い声で挨拶をした。
それから孤児院の子たちと歌を歌ったり、ボードゲームで遊んだり、その間もずっとレミはアリスから離れなかった。帰りの馬車でやっと安心したのか、レミはアリスの腕を離した。
「今日はたくさんお友達ができたわね。レミも楽しかった?」
「……僕にお友達はいらないです。姉さまだけでいいです」
「ははは。アリスは随分とレミに気に入られているな。俺ももっと弟に好かれるように努力するよ」
と、アリスたちの向かいに座ったエドモンが笑った。
確か原作のエドモンは、アリスと一緒になって、レミのことをいじめていた。でも今はアリスの行動が変わったからか、エドモンもレミのことをかわいがってくれている。レミに殺される未来が少し遠くなったと、アリスは胸をなでおろした。
その晩、レミがアリスの寝室を訪ねてきた。
「どうしたの?レミ」
「姉さま、眠れないんです」
紫色の瞳が潤み、微かに震えている。
「仕方ないわね。レミ、一緒に寝ましょうか」
アリスはレミを自分のベッドに招き入れる。たちまちレミの瞳から涙が溢れ出し、声を押し殺すようにして泣いた。
「ど、どうして、父さま、母さま……僕を置いて逝ってしまったの?ねえ、どうして」
「レミ、落ち着いて。私がいるわ」
「……アリス姉さま」
レミはやっと落ち着いたのか、アリスの腕の中で眠りについた。それから毎晩のようにレミは「眠れない」と言って、アリスの寝室を訪れるようになった。
アリスはレミを大事に大事にかわいがる一方で、これから起こりうる出来事を整理し、一つ一つ対策を取っていった。
まずラファエル殿下の婚約者を決める茶会は体調が悪いと言って欠席した。原作通りなら、殿下はいくらアリスが努力をしても、最後に「真実の愛」を選び、ヒロインである男爵令嬢を優先する男だ。
レミを懐柔し、ヒロインに嫌がらせをしなければ、もしかしたら正妃としての地位は守られるかもしれない。でもこの国では側妃が制度上認められている。もしヒロインが側妃になったら最悪だと、アリスは思った。
アリスが茶会を欠席したことで、ラファエル殿下の婚約者は別の令嬢に決まった。その後、国中の貴族令息たちから、アリスに縁談が寄せられた。
中には小説で見たことがある名前――将来クラリスに好意を寄せる取り巻きの令息たちもいた。あの逆ハーレムに巻き込まれたくない。相手を傷つけないように丁重に断りを入れた。
ある晩、縁談を片っ端から断る娘を呼び出し、オランド侯爵が苦言を呈した。
「アリス、結婚は本人たちの意志もあるが、貴族同士の結婚は家と家との結びつきも大きい。お前も分かっているだろう?」
「これから学園に通いますし、将来添い遂げるお相手は自分で見定めたいです。ダメでしょうか?」
「それもそうだが……。条件のいい令息はすぐに売り切れてしまうぞ」
「最悪、誰も貰い手がいなかったら、レミに貰ってもらいますわ」
「はぁ~、お前たちときたら」
アリスは冗談のつもりだったが、オランド侯爵は妙に困惑した顔つきで頭を抱えた。嫡男である兄・エドモンの婚約者は既に決まっているから、「お前たち」というのは、おそらくアリスとレミのことだろう。そういえばレミも全ての縁談を断っていると聞いた。
寝室に戻ると、長い黒髪を横結びにしたレミが、アリスのベッドに腰掛けていた。
アリスは十五歳、レミは十四歳。レミは思春期に差し掛かり、声変わりもした。この年齢の姉弟が同じベッドで寝るというのは、この世界でも一般的ではない気がした。それでも夜半、レミが「眠れない」と言って訪れると、アリスは快く部屋に迎え入れた。もちろん他の家族には内緒だ。
「あら、またかしら?」
「雷が特に嫌なんです。両親が亡くなった日が、雷雨だったので」
「あなた、私が学園に入学したら一人よ?本当にそれで大丈夫?」
「そうですね……一年間は姉さまに気軽に会えませんからね。頑張ります」
アリスはもうすぐ貴族学園に入学するが、一つ年が違うレミは翌年の入学だ。
「うふふ。よかったわ。ちゃんと一年で姉離れしてよね」
「……はい」
こうして夜な夜なアリスの部屋を訪ねてくる以外は、レミは文武両道、品行方正に育った。少し彼との接し方を間違えた気もするが、ここまでレミと親しければ、彼に殺される心配はしなくてよいだろう。
けれどレミも思春期だ。今は「姉さま、姉さま」と慕ってくれているが、会わない間に姉離れをして、反抗期を迎えたらと思うと、アリスは少し寂しかった。
春の訪れとともに、アリスはエトワール貴族学園に入学した。学園は王都の外れにあり、全寮制である。レミともしばしの別れだ。
「お父さま、お母さま、エドモン兄さま、そしてレミ。行ってまいります」
「……姉さま、やっぱり寂しいです」
「まあレミったら。たくさん手紙を書くから安心して」
学園入学、それはこの物語の始まりでもある。アリスはラファエル殿下の婚約者ではないし、レミとの関係も良好だ。ヒロイン・クラリスとは絡まず、彼女と縁がなさそうな令息と婚約できれば、とアリスは考えていた。
入学式の代表挨拶は、ラファエル殿下だった。サラサラの金髪に、意志の強そうな碧眼。アリスは、いかにもライトノベルのヒーローらしい見目だと感心した。彼の婚約者であるドローヌ公爵令嬢も茶髪に翠眼の美しい人だった。
ヒロイン・クラリスもすぐにどの令嬢か分かった。成績優秀で特待生らしい。生徒会にも入り、いつも高位貴族の令息たちを侍らせ、親しげに話している。小説の通り、ピンクブロンドの髪をツインテールにして、人好きのする笑みを浮かべている。
アリスはなるべくクラリスに近寄らないようにした。だがすぐに彼女のよくない噂を聞いた。必要以上に婚約者がいる令息とも親しくし、そのせいで婚約者たちがないがしろにされているそうだ。
「クラリスさまとお話をするのをやめてほしいと言ったら、それでは生徒会の仕事にならないって怒鳴られましたわ」
「ランチに誘っても生徒会で食べると言って、クラリスさまたちとお食事をするの」
「私なんてクラリスさまと勉強するからって、お茶会をすっぽかされましたわ」
いずれも一流の教育を受けてきたはずの令息たちだ。どうしていとも簡単にクラリスに絆されるのかアリスには分からなかった。しかし、ここはライトノベル『不幸令嬢なのに逆ハーレムだなんて聞いてません!』の世界だ。彼女こそヒロインであり、主人公なのだとアリスは悟った。
やがて、クラリスはラファエル殿下に照準を合わせた。運命の糸に手繰り寄せられるかのように、殿下とクラリスは急激に親しくなり、学園が休みの日には二人で王都や王宮に遊びに出かけていると聞いた。
そしてそのころから、クラリスを狙ったいじめが始まった。
――教科書を破られる
――通りがかりに足を引っかけられる
――机に動物の死骸を置かれる
おそらく、いじめの首謀者は、彼女を妬む令嬢たち。嫌がらせは日に日に過激さを増した。クラリスはいじめられる度に、殿下や令息たちに泣きついた。令息とその婚約者の溝は深まるばかりだった。
面倒ごとには近寄らない――アリスはできる限り、見て見ぬふりをして学業に集中した。
「きゃあ!」
そんなある日、アリスが廊下を歩いていると、思いっきり水をかけられた。アリスが水をかけられた方向を睨むと、ギョッとした顔をして一人の令嬢が逃げていった。
アリスはその顔に見覚えがあった。伯爵令嬢のカサンドルだ。以前、彼女も婚約者とクラリスの関係に愚痴をこぼしていた。
「すまない。君、大丈夫か?君に水をかけたのは私の婚約者だ。迷惑をかけた」
彼女の婚約者、宰相の息子・アロイスがアリスに話しかけてきた。
「拭くものがないから、とりあえず、保健室に行こう」
保健室では、ずぶ濡れのアリスに毛布と温かいお茶を出してくれた。毛布に包まりながら、アロイスの話を聞く。
「制服のクリーニング代は私が出す。カサンドルにも強く言い聞かせる」
「これ、人違いですよね?――クラリスさまを狙ったんでしょう?」
「おそらくそうだ。最近ドローヌ公爵令嬢を中心にクラリス嬢へのいじめがエスカレートしている。なんとかやめさせたいのだが」
「私はくわしくないのですけど、それ、ラファエル殿下や生徒会の皆さまがいけないのでは?婚約者がいるのに、みんなでピンク髪の男爵令嬢を、ちやほやしていて気持ち悪いって、関係ない令嬢たちまで言っていますよ」
「き、気持ち悪い!?」
「ええ。だってそうでしょう?ランチに誘っても、お茶会に誘っても、生徒会があるからって婚約者の誘いを断って。でも実際やっているのは、クラリスさまを取り囲んで、ちやほやしているだけじゃないですか?どう見ても、男子学生と女子学生の適切な距離感ではないですし」
「生徒会の仕事を馬鹿にするな!それにクラリスは男爵令嬢で、少し高位貴族の常識やマナーに疎いだけだ」
「平民でも恋人以外の男性の腕を握ったり、抱きついたりなんてしないと思いますけど」
「……っ」
「そういえば、カサンドルさまがアロイスさまとの婚約を破棄したいけど、相手が格上でこちらから申し出るのが難しいと、泣いていましたよ。クラリスさまがよいなら、アロイスさまから婚約を解消されたらいかがですか?」
「おい、それは本当か?カサンドルが私との婚約を破棄したいなんて」
「ええ。むしろなぜ私が嘘をつかなきゃいけないんですか?」
アロイスの顔面からみるみる血の気が引いた。
「クラリスはカサンドルと違って、男心をくすぐるというか、うまく持ち上げて満たしてくれる。でも彼女とは、学園にいる間だけの気安い付き合いのつもりだ」
アリスは疑いに満ちた視線をアロイスに向けた。
「し、信じてくれ。決して私とクラリスは深い関係ではない。君だって同じ侯爵家の人間であれば分かるだろう?クラリスはかわいらしいが、男爵令嬢を嫁に迎えたいなんて言ったら、父上になんと罵られるか」
「……」
「両親もカサンドルのことを気に入っているし、結婚はもちろん彼女とするつもりだ。どうしたら、カサンドルとの婚約を解消しなくて済むか教えてほしい」
「それを私に聞きます?」
アロイスは食い下がらなかった。クラリスは最近、殿下とばかりいちゃいちゃしているし、彼自身もさっさとあの逆ハーレムから抜けたかったのかもしれない。アリスは仕方なく答えた。
「まずカサンドルさまにちゃんと謝ってください。あと生徒会を辞めるのが一番ですが、あなたは殿下の側近になりたいのでしょう?今後は必要以上に生徒会のメンバーとつるまず、カサンドルさまとの時間を取ってあげてください」
アロイスが深くうなずく。
「……あなただってカサンドルさまとやり直したいと思ったから、今日彼女の様子を陰から見ていたのでしょう?」
「その通りだ。よく分かったな」
「頑張ってください、アロイスさま。うまくいくかはあなた次第ですよ」
その後、アロイスとカサンドルはなんとか仲直りできたらしい。後日アリスは、カサンドルからも、間違って水をかけたことを謝罪され、仲を取り持ってくれたことを深く感謝された。
二人が仲直りしたという噂は、令息たちの間で瞬く間に広がった。そしてなぜか「オランド侯爵令嬢が婚約者との仲を取り持ってくれる」という妙な噂になってしまった。クラリスの取り巻きの令息たちが次々とアリスの元に訪れた。
――王都のカフェに行きたいと言われ、クラリスとデートしてしまった
――ガゼボで抱きつかれ、思わずクラリスを抱き寄せてしまった
――誰もいない教室でクラリスとキスしてしまった
アリスは、何を考えているんだと思いつつも、令息たちの話を親身に聞いた。皆、婚約者から愛想を尽かされる前にクラリスとの縁を切りたいと必死だった。
アリスは前世の経験や、時にあのライトノベルの知識を活かし、令息たちに的確な恋愛アドバイスを与えた。紆余曲折はあったものの、最終的に婚約者の元に戻り、アリスはその婚約者である令嬢たちからも感謝された。そして一年が終わるころには、クラリスの逆ハーレムは解散し、ラファエル殿下だけが残った。
「姉さま!お久しぶりです」
「レミ!」
休みで自領に戻ると、少し背が伸びたレミがうれしそうに駆け寄ってきた。
「学園生活はいかがですか?」
「そうね。概ね楽しくやっているわ」
「アリス、いい人はいたか?」
オランド侯爵が少し焦った様子でアリスに尋ねた。アリスは首を横に振った。
「まあ焦らなくても、かわいいアリスなら、いつまでもここにいていいぞ」
アリスの兄・エドモンも声をかけてきた。彼はアリスの入学と入れ違いに、学園を卒業した。もうすぐ結婚を控えて、生き生きしている。
「エドモン兄さま、ご結婚おめでとうございます。学園は色々大変で、なぜか他人の恋愛相談ばかり受けているんです」
「ふふ、姉さまらしいですね」
レミがニコリと笑った。
休み中に開かれたエドモンの結婚式は侯爵家の嫡男らしく、盛大なものだった。式では婚約者がいない者同士、義弟のレミがアリスをエスコートした。久しぶりに見るレミの正装姿はとても大人びていて、弟のはずなのに、アリスは思わず彼に見惚れてしまった。
結婚式が終わるとともに、再びアリスは学園に向かう。今度はレミと一緒だ。
「姉さまと一緒に学園に通えるなんてうれしいです」
馬車の車窓から田園地帯を眺めながら、レミが言った。
「あら。でも寮は男女で別れているのよ」
「知ってます。でも勉強の分からないところを教えてもらいたいから、ちょくちょく姉さまに会いに行ってもいいですか?」
「別にいいけど、ちゃんとお友達も作るのよ。貴族は社交が大切なんだから」
「はい、姉さま」
レミは学園入学後も、「姉さま、姉さま」とアリスに話しかけてきた。
「姉さま、歴史の授業なんだけど」
「姉さま、古文の課題が分からなくて」
「姉さま、薬草の配合を教えて」
毎日毎日「姉さま」だ。さすがのアリスもレミを叱った。
「姉さまは姉さまのお友達がいて、社交も必要なの。レミもちゃんとお友達を作りなさい。あと、お互い婚約者も探さないとね」
「ごめんなさい、姉さま」
それから、レミは同級生の友達を作ったようで、アリスに話しかけてこなくなった。弟の姉離れに安堵する一方、アリスはどこか胸騒ぎがした。
夕暮れ時、アリスは図書館に向かい、渡り廊下を急いでいた。そして思わぬ光景を見かけて絶句した。
「レミさま、今度王都に観劇に行きませんか?」
「え、観劇ですか?僕、そういうのは……」
クラリスがレミの腕に自分の細腕を絡めている。彼女はラファエル殿下に狙いを定め、その妃の座を狙っていると令嬢たちの間で噂されていたが、違うのだろうか。柱の陰に隠れ、そっと様子を窺った。
「ではレミさま、カフェはどうでしょう?新作のケーキがおいしいらしいの」
初々しいが、いい雰囲気だ。そういえば原作のレミは、クラリスの太陽のような明るさに惹かれ、彼女に恋焦がれる。
そしてもし原作と相違が無ければ、クラリスも実家の借金のカタに好色な老伯爵の元に嫁ぐことを迫られている。
レミはもともとシェロン伯爵家の嫡男だ。レミが成人したら、シェロン家の領地を返し、爵位も継がせる予定だと、アリスの父であるオランド侯爵は公言している。
殿下でなくても、借金を返済してくれるお相手との玉の輿婚ならクラリスも御の字のはずだ。
けれど考えれば考えるほど、アリスの胸騒ぎは収まらなかった。たとえここでレミとクラリスが恋仲になっても、巻き込まれて殺される心配はないはずだ。
でもレミに腕を絡め、上目遣いを向けるクラリスが憎い。弟離れできていないのは、むしろ自分の方かもしれないとアリスは痛感した。
その時だった。
「――君、オランド侯爵令嬢だね?これから少し話をする時間をもらえないか?」
アリスはビクっと肩を震わせた。アリスはクラリスとレミの観察に夢中で、自分の背後に近づいてくる人影に全く気づいていなかった。
「ラ、ラファエル殿下?」
「私も他の令息たちと一緒でね。君に折り入って相談がしたい。生徒会室で話せるだろうか?」
「分かりました」
このままレミとクラリスを二人きりにするのは心配だったが、王族の命令だ。行くしかない。アリスは仕方なく、彼のあとを追った。
「殿下、ご用件は何でございましょうか?」
「実は私も、クラリスとは縁を切ろうと思ってな」
「あら?どういう風の吹き回しですの?てっきり妃にお迎えになるのかと」
「もともと我が婚約者であるドローヌ公爵令嬢、いやセレストが、自分一人では王子妃、そして王妃としての務めを果たすことができないと、かねてから訴えていてな。クラリスのことを側妃にどうかと考えていたのだ」
「そうだったんですね」
「彼女は特待生で頭も良い。愛嬌もあって私は話していて楽しいのだが、いかんせん女性陣に言わせると男勝りで品性に欠ける部分があって……」
「皆さま、そうおっしゃいますね」
「王宮に連れて行ったが、見事に母上を怒らせた」
「まあ」
確かにクラリスは女性全般に嫌われるタイプの令嬢である。
「それにことあるごとにクラリスが、セレストから嫌がらせを受けていると訴えるので調べさせたが、全て他の令嬢の仕業だった」
「なるほど」
「おかげでセレストとクラリスの仲も最悪でね。とてもとても側妃に迎えられる状況ではない。私も周りの者が離れていって、現実に引き戻されたよ」
「それでご相談というのは……?」
「クラリスの件で、セレストと仲違いしてしまって、なかなか以前のように会話が続かぬのだ。何かいい助言はもらえないだろうか?」
「殿下に助言ですか……?」
「忌憚のない客観的な意見を聞きたい」
「まずこれは皆さまにお伝えしておりますが、ご自身の行いを詫びることからでしょうか。クラリスさまは、セレストさまに教科書を破られた、動物の死骸を机に置かれたと騒いでいました。彼女がつけあがったのは殿下のせいでもありますよね?」
「そうだな……」
「あとセレストさまは外見こそ気が強そうに見えますが、その実のんびりした性格だと伺っております。自ら側妃を迎えてほしいと訴えるなんて、おそらく妃教育で大変な苦労をなさっているんだろうと思います。それでも不満をこぼさず、学園生活と妃教育を両立する彼女を労われてみては?」
「ありがとう!試してみよう。また君に相談してもよいか」
「ええ、私でよろしければ」
アリスは厄介なことに巻き込まれたなと思いつつ、一方で、レミたちの様子が気になって仕方なかった。
殿下はアリスの助言に従い、クラリスと距離を置いた。その後もアリスは定期的に生徒会室に呼び出され、殿下の恋愛相談にのった。
殿下はアリスのことが気に入ったのか、とても上機嫌で楽しそうだった。どこで調べてきたのか、毎回アリスの好きな紅茶やお菓子が振る舞われ、世間話の延長で、昨今の社会情勢についても意見を交わすようになった。婚約者であるドローヌ公爵令嬢とも仲直りできたようで、いつの間にか彼女もその場に同席するようになった。
その日も放課後、アリスは殿下に呼び出され、生徒会室に立ち寄った。話が終わって、部屋の外に出ると、すっかり日が暮れていた。寮の自室に戻ろうと足早に歩いていると、ピンクブロンドの女子生徒に声をかけられた。
「アリスさま、ですよね?クラリス・ティロルと申します。少しお時間よろしいでしょうか?」
「すみません。これから寮に帰って課題を……」
アリスが言い終わらないうちに、クラリスは強引にアリスの手を掴み歩き出した。
「いいから来て」
「離してください。無礼ですよ」
「貴族令嬢ぶらないでよ。あなたも『テンセイシャ』でしょ」
「えっ?!」
そのままアリスは空き教室に連れ込まれた。
「私ね、ずっと考えていたの。ここは小説『不幸令嬢なのに逆ハーレムだなんて聞いてません!』の世界で、私が主人公のはずなのに、どうして何もうまくいかないんだろうって」
クラリスが不満そうに言った。
「何をおっしゃっているのか、よく分かりませんが」
「とぼけないで!私以外にも『テンセイシャ』がいるって気づいたの。だから原作と違う動きをしている人物を探した」
「……」
「おかしな出来事の裏に必ずあなたがいたわ。アロイスもあなたに何か相談していたと聞くし、他の令息もそう。そしてレミと話して確信したわ。どうして彼があなたのことを慕っているわけ?」
「レミは私の弟です。仲がいいのは普通のことでは?」
「弟?本当の弟じゃないでしょ?どうしていじめなかったの?」
「いじめる?誰がなんと言おうとレミは私の弟です」
「あなた、私と同じ『テンセイシャ』かと思ったけど、もしかして原作を知らないの?いいわ、私が本当のシナリオを教えてあげる」
「本当のシナリオ?」
「あなたはラファエル殿下の婚約者でね。性悪すぎて、愛想を尽かされるの。義弟のレミも、あなたのせいで性格が歪んじゃって。私はラファエル殿下と『真実の愛』で結ばれるんだけど、それに横恋慕しているレミが、あなたや、私の父親、それに借金取り――邪魔者たちをみんな始末してくれるの。最期はラファエル殿下に捕らえられて、牢獄で自害しちゃうんだけどね」
あの小説の続きってそんなむごかったのか、アリスは目を見開いた。
「……あなたまさか、自分の父親たちを始末してもらいたくて、レミに近づいたの?」
「ええ、そうよ。だって彼、陰気で私の推しじゃないもの」
「ひどい、ひどすぎる」
「ひどいのはどっち?あなた、ラファエル殿下になんて吹き込んだの?この間、側妃にすら召し上げられないって言われたのよ。どうして私の邪魔ばかりするのよ」
「この世界にシナリオなんてないわ!一人一人ちゃんと意思を持って、ここで生きているの」
「あなたに私の何が分かるの?前世はずっと病気で入院していて、恋も結婚もできなかった。せっかく大好きなライトノベルの主人公に転生できたのに、どうして推しのラファエル殿下の寵妃になれないの?……もうこれ以上私の邪魔をしないでよ」
クラリスが制服のポケットから小刀を取り出した。刺される、とアリスが思った瞬間、何者かに抱き寄せられた。
「……レミ?」
長い黒髪に紫色の瞳――レミだ。レミの腕の中でアリスが見上げると、レミはもう片方の腕でクラリスが振り上げた腕を掴んでいた。
ガシャンと、刃物が床に落ちる音がした。
「くっ!なぜあなたがここにいるのよ」
「クラリス嬢。一部始終、話は聞かせてもらいました。何か勘違いしているようですが、あなたみたいな『アバズレ』を、僕が愛するわけがありません。姉さまを傷つけようとする人間は誰であっても許さない」
「どうしてよ!あなたがシスコンなんて絶対におかしい」
「……クラリス嬢、あなたは特待生として学費を免除されていると聞きました。しかしその素行に関して、学園に多くの苦情が寄せられている。主に令息たちとの距離感についてです。心当たりがたくさんあるでしょう?教授会で取り上げられ、特待生の取り消しも含めて、処分が検討されるはずです」
「特待生じゃなくなったら、学園に通えなくなるじゃない。このままじゃエロ伯爵のところに売られちゃう」
「今回、姉さまに刃物を向けたことについても学園長に報告します。二度と僕たちに近づかないでください」
「……ちょっと待って!レミさま」
クラリスを空き教室に残し、レミとアリスは中庭のガゼボに向かった。
「ありがとう、レミ。助かったわ」
レミはアリスをすっと抱き寄せた。
「レミ、近いわよ」
「――それでラファエル殿下とは何の話をしていたんですか?」
「え、レミ知っていたの?」
「何度も生徒会室で会っていることくらい知っています」
「ラファエル殿下は、クラリスさまと縁を切って、婚約者のドローヌ公爵令嬢と仲良くしたいそうで、その相談にのっていただけよ」
「ならいいですけど、おかしなことに巻き込まれないように気を付けてくださいね」
「分かっているわよ」
「それと、姉さまはずっとあの女のことを怖がっていたんですよね?」
「――え?」
「姉さまの部屋で日記を見たんです。だから姉さまに前世の記憶があるのも知っています」
自領に住んでいたころ、レミがアリスの寝室で寝るのが当たり前になりすぎて、先に寝室に来ていたこともあった。まさか机の中に隠していた秘密の日記を見られているとは。アリスにとって寝耳に水だった。
「え、隠しておいたのに!それに他人の日記は見ちゃダメなのよ」
「ごめんなさい。でも姉さまがたまに不思議なことを言うから気になって……。姉さまはあの女が言う『シナリオ』に僕が巻き込まれないようにずっと守ってくれていたんですよね?」
「えっ、ええ」
レミの言うことは半分正しくて、半分間違っている。レミのためというよりは自分のために始めたことだから。
「姉さまに言われて他の令嬢とも話してみたけど、やっぱり姉さま以上に興味を持てる女性なんてこの世にいない。それに姉さまが他の男と話しているのだって見たくない。たとえ相手が王族であっても殺してやりたいと思うほど憎い。ごめんなさい。いきなりそんなことを言われたら、びっくりしますよね。でもそのくらい僕は姉さまが大好きです。本当に大好き」
「レミ、私もレミのことは好きよ。それは姉弟として……」
アリスもまたレミを特別に思っていることはとっくに気づいている。けれど、義理とはいえアリスとレミが姉弟であることに変わりはない。自分が突き放さなければとアリスは思った。
「姉さま、そんなことを言ってもお顔が真っ赤です。それに前、僕がクラリスに話しかけられた時、姉さまだって辛そうな顔してこちらを見ていたじゃないですか?父さまたちのことは僕に任せて。絶対にうまくいくから大丈夫」
アリスには何が大丈夫なのか、さっぱり分からなかったが、レミは自信ありげに、にこっと笑った。
クラリスはその後、学内で刃物を振り回したことが問題になり、停学処分になった。もちろん特待生も取り消しになり、彼女は静かに学園を去った。噂で聞いた話では、あの老伯爵の元に後妻として嫁ぐという。
あの事件の後、レミは再びアリスにべったりになった。お昼休みや授業の後にも「姉さま、姉さま」と必ず迎えにくる。アリスもそんなレミのことを突き放せなかった。
「オランド侯爵令嬢、今日の放課後また話す時間をもらえないだろうか」
ラファエル殿下に声をかけられ、隣にいたレミが殿下を睨みつけた。
「弟君だね。良かったら君も一緒に来たまえ」
殿下に言われた通り、アリスたちは放課後、生徒会室を訪ねた。殿下とドローヌ公爵令嬢が並んでソファに腰掛けていた。
「オランド侯爵令嬢、君のおかげでセレストの素晴らしさに気づき、再び仲を深めることができた。改めて感謝する」
殿下の隣に腰掛けていたドローヌ公爵令嬢も立ち上がり、深々と頭を下げた。
「アリスさまのおかげです。殿下との仲を取り持って頂き、私への悪評も消し去ることができました。深く感謝いたします」
「いえいえ、お二人があるべき姿に戻られてよかったです」
「実はオランド侯爵令嬢に折り入って相談がある。君はまだ婚約者が決まっていないと聞くが、本当か?」
「ええ。他人の相談を受けてばかりで」
「では君さえよければ、私の側妃になってもらえないだろうか?」
「はい?」
この文脈で、殿下から求婚されると思わなかったアリスは思わず聞き返した。
「もともと君に関心を持っていたんだ。その洞察力の高さ、助言の的確さが、令息たちの間でも評判でな。実際、君と話してみて、彼らの言っていることがよく分かった。その上、君は素晴らしい教養まで兼ね備えている。国際情勢から国内貴族間の力関係まで、よく理解している。――私はそんな君に『運命』を感じた」
殿下の発した『運命』という言葉を聞いて、もともと原作ではあなたの婚約者ですからねと、アリスは思った。
側妃といえど、王家と縁を結べることを喜ぶ家は多い。しかし、前世日本人であるアリスにとって、複数の妃を迎えることができる王族との結婚はどうしても受け入れがたかった。
「王家に嫁ぐなんて、今まで考えたこともなくて……」
「アリスさまを側妃にというのは、私の願いでもあるのです。今回の件も私一人ではどうにも解決できませんでした。アリスさまがいてくだされば私も心強いのです」
そういえばドローヌ公爵令嬢は、妃教育に時間がかかっていると噂されている。王族からの申し出を無下にもできないし、どう断ろうかとアリスが考えあぐねていると、レミが割って入った。
「ラファエル殿下、ドローヌ公爵令嬢。姉さま、いえアリスの婚約者は、もう内々に決まっております」
そのままアリスの肩を抱き寄せた。
「僕が成人したら、自分の家、シェロン家を継ぐ予定です。今は義姉ですが、それに合わせて僕の貴族籍を戻し、アリスを伴侶として迎えるつもりです。既に義父の了承も得ています。ですから、アリスを側妃に迎えるなど二度と考えないでください」
え、レミと婚約?お父さまも了承?――アリスは驚いて、目をぱちくりさせた。
「はは。なんだ、あの噂は本当だったのか。すまない。確かにオランド侯爵令嬢のように美しく聡明な令嬢に、婚約者がいないなどありえないな。今の話は忘れてくれ。君たちを祝福するよ」
アリスはキョトンとした顔でレミを見上げた。殿下とドローヌ公爵令嬢がニコニコしながらこちらを見つめている。
「では失礼します」
生徒会室から出ると、アリスはすかさずレミに尋ねた。
「ちょっとレミ!私とレミが婚約ってどういうこと?」
「ずっと、ずっと、ずーっと父さまに頼みこんで、クラリスの事件の後、ようやく認められたんです。僕は姉さまのことが好きです。もちろん女性として。姉さま以外と結婚なんてありえない!」
「レ、レミ!」
「姉さまもずっと婚約者を作らなかったのは、僕のことを考えてなんでしょう?」
アリスは顔を真っ赤にして小さくうなずいた。
「ちゃんとプロポーズしたかったんですが、今後もああいうことが起こったら、たまらないから、先に言います。姉さま、いえアリス。僕と結婚してください。あなたのことを本当に愛しています」
結局義弟を懐柔しようとしたけど、いつの間にか懐柔されていたのは自分の方かもしれない――アリスは思った。
「……私はずっとあなたの姉でいなくちゃと思っていたけど、やっぱり無理ね。私もあなたのことが好きみたい。レミ、私も愛してるわ」
言い終わらないうちにレミがアリスを抱き寄せ、二人は唇を重ね合わせた。
――アリスがレミの重すぎる愛に悩まされるのは、また少し先のお話。