軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話 俺の神様、俺のすべて

世界は、ずっと冷たかった。

物心ついた頃から、そうだった。

広すぎる屋敷。

豪華すぎる部屋。

無駄に美しい服。

食卓にはいくらでも並ぶ、公爵家としての豪奢な料理。

けれど、そのどれもが『 自分(レオン) のために用意されたものではない』と、幼い彼は誰に教わるでもなく、ずいぶん早く知ってしまった。

父は、自分を見ない。

継母は、嘲るように笑う。

義弟は、与えられたものをすべて奪う。

使用人たちは、表では恭しく頭を下げても、大人たちの目が離れれば、露骨に侮蔑の色へ態度を変える。

氷のような冷たい視線。

日常に溶け込んだ、小さな悪意。

今日も無事に一日を終えられるか、ただそれだけを気にして息を潜めるだけの毎日。

だから、世界に期待なんてしなかった。

暗闇の中で泣いても、誰かが助けてくれるなど、一秒たりとも思わなかった。

むしろ、期待したほうが後でひどく痛い目を見るのだと、骨の髄まで身体が覚えていた。

あの地下室の夜までは。

いや。

正確には、あの夜からだ。

暗くて、寒くて、埃の匂いがして、息をしているだけで胸が痛くて。

どれだけ泣いても、どれだけ怯えて声を枯らしても、もう誰も来ないのだと思っていた。

自分はここで、誰にも必要とされないまま終わるのだと。

けれど、来た。

彼女(クロエ) が。

古びたランプのあたたかな灯りをともして、汚れた床で怯える自分の前へ、ためらいなくしゃがみ込んで。

泣きそうにやわらかい声で、もう大丈夫だと言って。

信じられないくらい温かい腕で、自分を強く、強く抱きしめてくれた。

――私は、あなたの絶対的な味方です。

その言葉を、その時の彼女の熱を、レオンは忘れられなかった。

忘れられるわけがない。

あの時、確かに世界は裏返ったのだ。

自分の命を縛り付けていた真っ黒な暗闇の中へ、たったひとつ、絶対的な『光』が落ちてきた。

それが、クロエだった。

だからきっと、あの時からもう、レオンの魂は決まっていたのだと思う。

自分にとって、クロエだけが世界の例外になると。

クロエだけが、絶対に、何があっても失ってはいけないものになると。

◇ ◇ ◇

「レオン様、今日の訓練はここまでです」

午後の厳しい修練を終えたあと、クロエがぱたんと小さく手を叩いてそう言った。

木剣を握っていた手をゆるめる。

額に滲んだ汗が、こめかみを伝って首筋へ落ちた。

最近、訓練量が格段に増えている。

あの偏屈な剣聖に教わるようになってから、レオンは毎日、自分の身体が驚くべき速度で変わっていくのを実感していた。

木剣の重み。

踏み込みの深さ。

息の続き方。

以前は数回振っただけで痛んだ細い腕も、今はいくらでも振れる。

強くなっている。

少しずつ、でも確実に。

そしてその変化を、まるで自分のことのように誰よりも嬉しそうに見つめるのが、クロエだった。

「お疲れさまでした。今日も本当にお見事でしたよ、レオン様!」

そう言って、彼女は冷たい水差しと清潔な布を持ってくる。

黒に近い焦げ茶の髪を揺らしながら、ぱたぱたとこちらへ駆け寄ってくる姿は、どうしてあんなに目を引くのだろう。

着ているメイド服は質素だ。

顔立ちだって、彼女自身はよく“私はただのモブですから”なんてよくわからない謙遜をする。

けれどレオンには、彼女が背景の 一部(モブ) に見えたことなんて、一度もなかった。

誰よりも綺麗で。

誰よりもやさしくて。

誰よりも、圧倒的に眩しい。

彼女が自分に向けてふわりと笑うだけで、胸の奥の冷たかった場所へ、じわりと甘い熱が広がる。

クロエは濡らしたやわらかな布を差し出した。

「汗、お拭きになりますか?」

「……うん」

「今日は足運びがとても安定していらっしゃいましたね。剣聖様も、きっと内心ではすごく褒めてくださっていますよ」

「クロエが、そう思う?」

「もちろんです」

一秒の迷いもない、即答だった。

その迷いのないまっすぐな返事に、レオンは少しだけ視線を伏せた。

胸のあたりが、くすぐったいように、けれどやけどしそうに熱くなる。

クロエはいつもそうだ。

少しも迷わない。

まるで、“レオンが誰より強くなれる”ことを、最初から世界の真理として知っているみたいに言う。

誰かにそんなふうに絶対の肯定をされたことなんて、これまで一度もなかった。

だからたまに、本当に信じていいのか、自分がこんなに満たされていいのか戸惑うくらいだ。

「……クロエ」

「はい?」

「なんで、そんなに……」

そこで、言葉が止まる。

なんでそんなに、自分を信じられるのか。

なんでそんなに、無防備にやさしくできるのか。

なんで何度も、どんな理不尽を前にしても「大丈夫だ」と言い切れるのか。

訊きたいことはいくらでもあるのに、うまく形にならない。

クロエはきょとんとして、それからふっと、花が咲くように笑った。

「推しの成長は、私の健康にすこぶるいいので」

「……おし」

「いえ、こちらの話です」

まただ。

たまにクロエは、よくわからない単語を口にする。

でもそのたびに、レオンは思うのだ。

たとえ意味がわからなくても、クロエの言葉は不思議と嫌じゃない。

むしろ、その意味不明さごと、すべてが愛おしいと感じる自分がいる。

愛おしい。

その感情の輪郭を、八歳のレオンはまだ正確には知らない。

けれど、“誰にも触れさせたくない”“誰にも渡したくない”という黒い衝動と、とても近い場所にあることだけは、本能でなんとなくわかっていた。

◇ ◇ ◇

最初は、ただの『感謝』だと思っていた。

誰も見向きもしなかった自分を助けてくれた。

寒い夜に寄り添ってくれた。

あたたかくて信じられないくらい美味しいごはんをくれた。

結界に守られた、安全できれいな部屋をくれた。

剣を握る理由も、強くなる意味も、少しずつ教えてくれた。

だから、恩人として深く感謝しているのだと、そう思っていた。

けれど、それだけでは説明できない熱いものが、日を追うごとに胸の底へどろりと溜まっていく。

たとえば、クロエが自分以外の誰かに笑いかけているのを見ると、妙に落ち着かない。胸がざわざわする。

たとえば、彼女のやさしい手が自分以外のものへ伸びるのを見ると、喉の奥がざらついて、それを払いのけたくなる。

たとえば、夜、自室へ戻って彼女の姿が見えなくなると、今すぐ呼び戻して、扉の鍵を閉めてしまいたくなる。

いなくならない、と約束してくれた。

絶対に、と。

だから離れていても大丈夫なはずなのに。それでも時々、どうしようもなく不安で息が詰まりそうになる。

もし、明日気が変わったら。

もし、自分より強くて、もっと大事なものを見つけたら。

もし、何の価値もない自分のそばにいることが嫌になったら。

そんなこと、彼女に限ってあるはずがないと頭では思う。

けれど心は、まるで飢えた獣みたいに、何度でも最悪の喪失を想像して暴れそうになる。

その不安の暴走を打ち消すのは、たいてい簡単だった。

クロエが笑って、「レオン様」とやさしく呼んでくれるだけでいい。

ただ、それだけで、胸をギリギリと締めつけていた暗い呪いが少しゆるむ。

だからレオンは、気づいてしまった。

自分はもう、クロエがいない状態では一秒も満たされないのだと。

自分の名前を呼ばれたい。

自分だけを見ていてほしい。

自分だけを褒めてほしい。

自分にだけ笑ってほしい。

自分にだけ触れてほしい。

――自分のことだけを、考えていてほしい。

それは、感謝よりずっと重い。

恩や信頼より、もっと深くて、暗くて、逃げ場のない感情。

知らない感情だった。

けれど、ひどく甘美で、心地よい縛りでもあった。

◇ ◇ ◇

その日の夜、レオンは自室の机に向かっていた。

窓辺には、以前沼地で摘んだあのエリクサーの花が活けられている。

ふわりと漂う清浄でやさしい香りは、どこかクロエを思い出させた。

胸の奥が、じわりと熱を帯びる。

ふと、机の上の飾りに指先が触れた。

小さな木彫りの星だ。

以前、クロエが「手作りで不器用ですが、お守り代わりに」と言って照れくさそうに渡してくれたものだった。

木片を削って作られた、簡素な星の形。

ひどく上等な品ではない。魔力もこもっていない。

けれどレオンにとっては、王家の宝物庫にあるどんな宝石より、命に代えても守るべき価値があった。

彼はそれを、壊さないようにそっと両手で握りしめた。

“私は、あなたの絶対的な味方です”

“絶対にいなくなりません”

“強くなってください”

“誰よりもかっこよかったです”

クロエがくれた言葉は、ひとつひとつが『呪い』みたいだった。

やさしい、甘い呪いだ。

逃げ出すことすら許さない、光の呪い。

一度かけられたら、もう二度と、彼女のいない元の暗闇へは戻れない。

だから思う。

もし彼女がいなくなれば、自分はきっと完全に壊れる。

あの地下室の夜なんかより、ずっとひどく、跡形もなく。

だってもう、知ってしまったからだ。

あたたかいものを。

信じてもいいと、世界を肯定してくれる声を。

知らなければ、ただ諦めて死を待つだけで済んだのに。

「……ずるい」

ぽつりと漏れた声は、誰にも届かない。

クロエは本当にずるい。

勝手に自分の閉ざされた世界へ入り込んできて、勝手に光をくれて、勝手に救っておいて、そのくせ本人はたぶん、俺のこの感情の重さを何もわかっていない。

彼女にとってはただの“メイドとしての世話”なのかもしれない。

ただの“生来の優しさ”なのかもしれない。

でもレオンにとっては、まったく違う。

それは完全なる救済で。

絶対の信仰で。

生きる意味そのものだった。

どうして彼女は、そんな自分の命より大事なものを、あんなにも無防備に与えられるのだろう。

「レオン様」

不意に、扉の向こうから声がした。

レオンははっと顔を上げる。

「……どうぞ」

扉が開く。

そこにいたのは、もちろん彼のすべてであるクロエだった。

夜着の上に薄いカーディガンを羽織り、手にはやさしい湯気の立つカップを持っている。

「夜分に失礼します。少し冷えてきましたので。特製の蜂蜜入りホットミルクをお持ちしました」

「……クロエ」

「眠る前に、あたたかくて甘いものを召し上がると落ち着きますよ」

彼女はいつものようにやわらかく笑って、机へカップを置いた。

甘い香りがふわりと広がる。

その瞬間、胸が、どうしようもなく苦しくなった。

どうしてそんなふうに、当たり前みたいにやさしくできるのか。

どうしてそんな無防備な顔で、何でもないことみたいに自分のそばへ来るのか。

「……クロエ」

「はい?」

「俺のところに、ずっと来るの、嫌じゃないの?」

気づけば、そう訊いていた。

クロエが目を丸くする。

それから、少し困ったように、でも呆れたように眉を下げて笑った。

「嫌なわけがありません」

「……ほんとに?」

「はい」

「……毎日でも?」

「毎日でも」

「ずっとでも?」

「ずっとでも、です」

一秒の迷いもない返事だった。

その言葉に、レオンの中の何かが、ひどく静かに、深い底へと沈んでいく。

嬉しい。

安心する。

それなのに、まだ足りないとも思う。

“ずっと”

その言葉を、本当にそのまま信じたい。

信じて、囲って、外の世界から完全に隔離して閉じ込めて、何もかもから遠ざけてしまいたい。

自分だけのものにしたい。

その発想が浮かんだ瞬間、レオンは自分の感情の形をはっきり理解した。

ああ。

これが、『執着』だ。

ただの感謝ではない。

尊敬でも、純粋な信頼でもない。

もっと重くて、もっと暗くて、もっとどうしようもなく自分勝手なもの。

でも、それでもいいと、彼は八歳にして思ってしまった。

だってクロエは、自分のすべてなのだから。

◇ ◇ ◇

「どうかなさいましたか?」

クロエが不思議そうに首を傾げる。

レオンは少しだけ考えて、それから静かに言った。

「……クロエは、誰の味方なの」

「レオン様の味方です」

間を置かずに返ってくる。

その言葉に、胸が焼けるように熱くなる。

「……それだけ?」

「え?」

「俺だけ、見てくれる?」

自分でも、ずいぶん幼くてわがままなことを言っていると思った。

けれど、止められなかった。

クロエはぱちぱちと瞬きをして、それから少しだけ笑った。

「今も見ておりますよ?」

「そうじゃなくて……」

言葉が見つからない。

うまく言えない。

もっとはっきり、絶対に逃げられない『確証』が欲しいはずなのに。

するとクロエは、レオンの前へしゃがみ込み、いつか地下室でしてくれたみたいに、やさしく目線を合わせた。

「レオン様」

「……うん」

「私は、あなたの味方です」

「……」

「何があっても。誰が敵に回っても」

「……」

「それは、これからも絶対に変わりません」

やさしい声だった。

穏やかで、あたたかくて、揺るぎない声。

その言葉を聞くだけで満たされる自分がいる。

でも同時に、もっと、もっと欲しいと思ってしまう自分もいる。

変わらないでほしい。

永遠に。

誰にも、何にも奪われずに。俺のそばで。

「……じゃあ」

レオンは小さく息を吸った。

「俺も、クロエの味方になる」

「え?」

クロエがきょとんとする。

レオンは、誓いを立てるように続けた。

「何があっても」

「……」

「誰が相手でも」

「……」

「俺が、守る」

それは、八歳の子どもの言葉としては、あまりにも不釣り合いだったかもしれない。

実際、今の自分にできることはまだ少ない。

この間の夜だって、暗殺者を退けたのはクロエの得体の知れない魔法だ。

守られたのは自分の方だ。

それでも、言わずにはいられなかった。

クロエは、自分のすべてだ。

なら、自分のすべてもまた、彼女へ捧げるしかない。

クロエは少し黙ってから、ふわりと、心底嬉しそうに笑った。

「……ありがとうございます」

その声は、やさしくて、少しだけくすぐったそうだった。

「とても心強いです。私の推しは最高です」

「……ほんと?」

「ええ。本当に」

それから、クロエはそっと手を伸ばし、レオンの銀髪を撫でた。

やわらかい指先。

あたたかい手のひら。

その瞬間、レオンは目を細めた。

好きだ、と思う。

でもそのありふれた言葉では、到底足りない。

そんな軽いひとことで片づけられるものじゃない。

彼女に救われたあの夜から、ずっと。

自分の世界の中心にはクロエがいる。

泣きたくなるほどあたたかくて、眩しくて、失えば何も残らない唯一の光。

だったら、もう。

答えは最初から決まっていた。

この先、誰が何を言おうと。

誰が自分へ近づこうと。

誰がクロエを奪おうと。

絶対に、誰にも渡さない。

この人だけは、自分の手の届く場所に置く。

何があっても。

何をしてでも。

それがたとえ、ひどく醜くて、暗い感情だったとしても。

レオンはもう、その光を手放すつもりは一ミリもなかった。

◇ ◇ ◇

その夜、クロエが「おやすみなさい」と部屋を出ていったあとも、レオンはしばらく扉を見つめていた。

静かな夜だった。

北棟の結界が、外の冷気や暗殺者のような悪意を、やわらかく完璧に弾いている。

守られている。

そう思う。

でも同時に、守られるだけでは足りないとも思う。

クロエはやさしい。

だから、たぶん自分が誰かのために傷つくことをためらわない。

無茶もする。

無防備に、平気な顔をして危険へ踏み込む。

そういうところまで含めて、どうしようもなく好きで、どうしようもなく怖い。

だから俺は、強くなければいけない。

もっと。

もっと、ずっと。

誰にも手が届かないところまで。

誰にも彼女を奪えないくらいに。

剣も。

魔法の力も。

公爵という立場も。

全部、俺の掌にいる。

クロエを守るために。

クロエのそばにいるために。

クロエを、永遠に自分の世界へつなぎとめておくために。

レオンは窓辺へ歩み寄り、夜空を見上げた。

暗い空の向こうに、淡い月が浮かんでいる。

あの夜、地下室へ来てくれた時。

クロエはまるで、本当に降臨した神様みたいだった。

暗闇の底へ降りてきて。

名前を呼んで。

抱きしめて。

もう大丈夫だと、言ってくれた。

だからレオンにとって、クロエは神様だ。

でも、神様をただ見上げて、拝んでいるだけでは足りない。

手を伸ばしたい。

触れたい。

欲しい。

自分のそばにだけ置きたい。

二度と離れないよう、離れられないよう、何もかもで囲い込みたい。

その甘くドス黒い欲望が、自分の中で静かに、けれど確実に根を張っていくのを、レオンは感じていた。

けれど不思議と、嫌ではなかった。

むしろ、ようやく腑に落ちた気がしたのだ。

ああ、そうか。

俺は、この人のためなら、なんだってできる。

この命も。

このエルグランという名前も。

この先手に入れる圧倒的な力も、地位も、全部。

最初から、クロエのためだけに使うべきものなのだと。

「……俺の神様」

小さく呟く。

その言葉は、夜の静寂へ溶けていった。

けれど、胸の奥に深く刻まれた熱だけは、決して消えなかった。

――そして、この頃から。

レオンの中で、クロエへの感情は“救ってくれた大切な恩人”というだけでは収まらなくなっていく。

彼女に近づくものが気に入らない。

彼女が自分以外へ向ける笑顔に、妙な苛立ちと殺意を覚える。

彼女のためならもっと強くなりたいと願い、その一方で、彼女を自分の手の届く安全な箱庭へ閉じ込めてしまいたい衝動も、静かに育っていく。

まだ幼いその執着は、誰の目にもはっきり見える形ではなかった。

けれど確かに、底なしの深さと暗さを秘めたまま、レオンの内側で強固に根を張り始めていたのだ。

この時のクロエは、もちろんそんなこと少しも気づいていない。

きっと次の日も、

「今日も推しが元気で尊い……! しかも最近ちょっと頼もしい! 成長速度、控えめに言って神では!?」

などと、たいへん平和に胸をときめかせていたのだろう。

けれどレオンの中ではもう、とっくに決まっていた。

クロエは、自分の光だ。

自分を救った、唯一の神様だ。

そしていつか――

その神様のすべてを、自分のものにしたいと。

静かで、甘くて、どうしようもなく重たい願いが。

この夜、確かに形を持ち始めていた。